6月3日の記事『マンダレイ』に、同じ映画を観た方からTBが送られてきた。映画の見方くらい人の多様性を示すものはない。同じ映画でも感動や意見は様々分かれる。送られた記事もまた切り口が異色だった。何しろ副題が「ぬるま湯が好き?」と挑発的であり、冒頭から「フェミニズムの視点で批評してみよう」との意気込みなのだから。記事の全文はこちらを。
改めてフェミニストとは映画評論も、私のような凡庸な者から見れば、考え方が極めて特殊だ。数えてみたら「家父長制」の言葉が何と7回も出てきた。家父長 制=抑圧の象徴、奴隷=女性、マイノリティ、家父長社会=自由や個性、生きがいもないぬるま湯生活、とのステレオタイプの世界観は呆れるほど。これはフェ ミニズムよりも、完全なマルクス史観の焼き直しなのだ。人間の本質に盲目な点も酷似している。
フェミニストが事ある毎に自由や個性を 訴えるのが常だが(語り口は画一的特長)、男女の平等な関係に基づく共同体が自由や個性を尊重する場になると考えているなら、度し難い頑迷さだ。人間は複 雑な生き物で、己の自由は追求するくせに他人は支配下に置きたい欲望も有する一方、安定への願望も併せ持つ。多様な考えを持つ人間社会を曲りなりとも維持 するには、最低限のルール(秩序)は欠かせない。社会が混乱すれば、真っ先にしわ寄せを受けるのが女子供の弱者なのは古今東西変わらないのだ。
自由な社会とは何だろう?人類史には自由や個性、生き甲斐に溢れる時代もある。だが、それが実現されるのは弱肉強食の時代、特に混乱、戦争時代が最大限に 発揮できるのだ。強者は旧体制など簡単に壊滅させ、我が物顔で振舞う。弱者への思いやりなど省みず、自分の欲望のまま生を謳歌できるのは一握りの強者に過 ぎない。強者=男とは限らない。混乱期は機を見るに敏な女も力を発揮し、支配側に収まる者もいる。機会さえあれば女も冷酷な支配者になるのは、歴史が示し ている。映画『マンダレイ』の“ママ”も奴隷制を当然視する白人女だった。女性が常に抑圧されてきたとのマルクス史観は外道な歴史観の見本である。
この映画のヒロイン・グレースは前作『ドッグ・ヴィル』で自分を辱めた村人に復讐するが、これも結局ギャングのパパに庇護を求めたから出来たこと。今回の マンダレイの改革もパパのフンドシで相撲を取ろうとした結果の挫折。理想を並べ立てたところで、所詮は無力な若い女に過ぎず、支持者も賛同者も得られな かったのは彼女の限界を示している。この失敗は家父長制ではない。奴隷たちも誰の下につけば生活が安定できるか、見抜いているのだから。私にはフェミニス トとグレースが重なって仕方がない。前者は否定するだろうが。
フェミニストたちは女たちに自覚、反省を要求し、「ぬるま湯では、女性の状況は百年後も変わらないのです。痛みを伴わないと」との意見までする。“痛み”を要求するとは、彼女らが痛烈に批判していた小泉改革と同じではないか。彼女らは果たして“痛み”を率先して引き受ける覚悟があるのか?私は女ばかりでなく人類全体は、千年前も千年後も基本的な状況は変化ないとさえ思う。
ぬるま湯社会で最も利益を享受してるのが他ならぬフェミニスト。彼女らが存在できるのもゆるま湯社会だから。自分の内面を見ずに、外の世界ばかり見ている のこそ、フェミニストではないか。パパの下でいい暮しを送り、家出したところで適応力がなかったグレースもぬるま湯社会享受者だった。
フェミニ ストが自由を求めるなら、他人の自由な考えも尊重するのが筋である。彼女らがゆるま湯を嫌うのは自由だが、好む自由もまたあるのだ。それを大上段に啓蒙す る姿勢を示せば、必ずや同性からも支持を得られない。他の思想を黙殺するならば、彼女らが非難する家父長的ファシストと同じだ。
「民衆とは、キケロも言った様に無知ではあるけれども、真実を見抜く能力は持っている」―マキアヴェッリ
◆関連記事:「ジェンダー」
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改めてフェミニストとは映画評論も、私のような凡庸な者から見れば、考え方が極めて特殊だ。数えてみたら「家父長制」の言葉が何と7回も出てきた。家父長 制=抑圧の象徴、奴隷=女性、マイノリティ、家父長社会=自由や個性、生きがいもないぬるま湯生活、とのステレオタイプの世界観は呆れるほど。これはフェ ミニズムよりも、完全なマルクス史観の焼き直しなのだ。人間の本質に盲目な点も酷似している。
フェミニストが事ある毎に自由や個性を 訴えるのが常だが(語り口は画一的特長)、男女の平等な関係に基づく共同体が自由や個性を尊重する場になると考えているなら、度し難い頑迷さだ。人間は複 雑な生き物で、己の自由は追求するくせに他人は支配下に置きたい欲望も有する一方、安定への願望も併せ持つ。多様な考えを持つ人間社会を曲りなりとも維持 するには、最低限のルール(秩序)は欠かせない。社会が混乱すれば、真っ先にしわ寄せを受けるのが女子供の弱者なのは古今東西変わらないのだ。
自由な社会とは何だろう?人類史には自由や個性、生き甲斐に溢れる時代もある。だが、それが実現されるのは弱肉強食の時代、特に混乱、戦争時代が最大限に 発揮できるのだ。強者は旧体制など簡単に壊滅させ、我が物顔で振舞う。弱者への思いやりなど省みず、自分の欲望のまま生を謳歌できるのは一握りの強者に過 ぎない。強者=男とは限らない。混乱期は機を見るに敏な女も力を発揮し、支配側に収まる者もいる。機会さえあれば女も冷酷な支配者になるのは、歴史が示し ている。映画『マンダレイ』の“ママ”も奴隷制を当然視する白人女だった。女性が常に抑圧されてきたとのマルクス史観は外道な歴史観の見本である。
この映画のヒロイン・グレースは前作『ドッグ・ヴィル』で自分を辱めた村人に復讐するが、これも結局ギャングのパパに庇護を求めたから出来たこと。今回の マンダレイの改革もパパのフンドシで相撲を取ろうとした結果の挫折。理想を並べ立てたところで、所詮は無力な若い女に過ぎず、支持者も賛同者も得られな かったのは彼女の限界を示している。この失敗は家父長制ではない。奴隷たちも誰の下につけば生活が安定できるか、見抜いているのだから。私にはフェミニス トとグレースが重なって仕方がない。前者は否定するだろうが。
フェミニストたちは女たちに自覚、反省を要求し、「ぬるま湯では、女性の状況は百年後も変わらないのです。痛みを伴わないと」との意見までする。“痛み”を要求するとは、彼女らが痛烈に批判していた小泉改革と同じではないか。彼女らは果たして“痛み”を率先して引き受ける覚悟があるのか?私は女ばかりでなく人類全体は、千年前も千年後も基本的な状況は変化ないとさえ思う。
ぬるま湯社会で最も利益を享受してるのが他ならぬフェミニスト。彼女らが存在できるのもゆるま湯社会だから。自分の内面を見ずに、外の世界ばかり見ている のこそ、フェミニストではないか。パパの下でいい暮しを送り、家出したところで適応力がなかったグレースもぬるま湯社会享受者だった。
フェミニ ストが自由を求めるなら、他人の自由な考えも尊重するのが筋である。彼女らがゆるま湯を嫌うのは自由だが、好む自由もまたあるのだ。それを大上段に啓蒙す る姿勢を示せば、必ずや同性からも支持を得られない。他の思想を黙殺するならば、彼女らが非難する家父長的ファシストと同じだ。
「民衆とは、キケロも言った様に無知ではあるけれども、真実を見抜く能力は持っている」―マキアヴェッリ
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コメントありがとうございました。
フェミニストは、「極左」の変種ですね。
ルーツは、1960年代の米国「ウーマンリブ」にあると思います。
ウーマンリブは「女権拡張」運動でしたが、今のフェミニストの運動は、それを通り越して「男女の性差否定」にまで至っています。
もう異常と言ってよいでしょう。
日本におけるフェミニスト運動の端緒は全共闘運動だったと思います。
それまでの、街頭デモに繰り出すのは男子学生、女子学生はその後方支援という役割分担が全共闘運動では否定されました。
1970年ごろでしたか、華青闘という在日中国人の組織から告発された極左の各派は、革マル派を除いて全面的に屈服しました。
「私たちは抑圧民族です。日本人であること自体が抑圧者です」と自己批判しました。
これと同じ現象が、男女間でも起きました。
「男であること自体が抑圧者である」と…
中には、「歴史上、男女の間に最初の階級闘争が起こり、そこで勝利した男性がそれ以来、抑圧者、搾取者として君臨している」という極論さえありました。
こういうジェンダー観、歴史観はまったく異常と言うしかありません。
まさに社会の敵だと思います。
こちらこそ、丁重なコメントをありがとうございました。
>フェミニストは、「極左」の変種ですね。
やはりそうでしたか。
私は政治活動など全くした事の無いノンポリなので、左翼活動に詳しい坂さんに確認した方がいいと思い、上記のサイトを挙げました。
最近『マオ』の上巻を読んだばかりですが、中共の自己批判制は人間の精神を破壊するのに凄まじい効果を上げたようです。
それにしても、「男であること自体が抑圧者である」「歴史上、男女の間に最初の階級闘争が起こり…」などの極論さえあったのは、開いた口がふさがりません。これはカルトに近いのではないでしょうか?
この種のフェミニストを「自由な女性」とばかり持ち上げるマスコミも空恐ろしい気がします。
「左」に感染すると、被害妄想の症状が進むようで、何でも闘争の対象になるのでしょうか。「女権拡張論者」にとっての「男女平等」とは、「男性の隷属化」を意味するのではないかと思われるほどヒステリックで、結局は、自分が支配する側に立ちたいだけなのではないかと思います。
自分が何ものであるかは、男女の違いではなく、「自分自身で決めるもの」ではないでしょうか。
被害妄想とは言いえて妙ですね。フェミニストの深層心理をこれほど明快かつ適格に表現した言葉はありません。
拠って立つのが被害妄想なので、劣等感の裏返しで敵視する対象のやることなすこと全てが気に入らなくなり、結局得るのは少数の賛同者とそれ以上の敵意だけ。
常に闘争を必要とするフェミニストにとって、「自分自身で決める」ことは不得手なのではないでしょうか。家父長制が悪いと糾弾していれば楽ですし、いざ「平等な社会」が実現できたらどんな人生を送るつもりなのか、その青写真もないような気がします。