輪廻の沼 3

釣り記事は削除します

なぜ戦争で命を捧げたのかを忘れた日本人

2019年02月07日 12時46分47秒 | 心理学
人生とは一度きりだ
泣いても笑っても人生は一度きり。

勝つために戦うと言っても、
それが自分の本懐にならない
戦いならしない。

自然界でもライオンから草食動物でも
無意味な戦いはしない。

明らかに自分の生きる目的に
合致した場合にのみ戦う。


当時、太平洋戦争で、命を捧げた。
たった一度しかない人生を捧げた。
これを現代人が聞くと
「いたたまれない」や、
「逃げれば良かったのに」
と思ってる人が多い。

が、それはその時代を生きなかった者の
結果論である。
戦争に行けば殺し合い。
生きて逃れる方法など太平洋の
銃弾、爆風、豪火の中で
であるはずもない。

が、こういう見方もないだろうか?
たった一度しかないから
自分に正直に生きようという芯である。

つまり、自分が作り上げた。
あるいは育ててもらった環境を守るがため
戦うという本懐だ。

人間、産まれながらに誰しもが
時の神、クロノスから1発の銃弾を
額めがけて撃ち込まれている。

長生きせよ、短命にせよ、
その1発の銃弾は、今、この記事を書く私も。
この記事を見ているアナタでさえも
必ず貫く。

そこに長かっただの、短かっただの。
長き地球の歴史の中では、
人間の文化にのかった自分の価値など
あって無いようなもの。

考え方によっては、地球にとっては
岩も一生命体も地球の一部に過ぎない。
死ねば、全ての生物は水にも砂にもなろう。
だから、地球にとってはどんな人間も
地球の一部に過ぎない。

そんな地球の一部同士が
「やれ俺の方が長生きだ、
お前は短命だ。」と競い合う。
ついには、競い合う事が人生となり
目的を失った人生になりかねない。

結果が同じ死であるなら、
自分の意見、本懐を遂げて死ぬ事にこそ
意味があるのではなかろうか?

どんな立派な人でも死は訪れる。
貧富、身分、宗教、国、医療
人間の作り上げた社会の壁など
クロノスの銃弾を防げるものなど
何一つない。

必ず貫くのであれば、他人に放たれた
クロノスの銃弾より、自分に放たれた
クロノスの銃弾を考えた方が遥かに
生きる意味を感じれるのではないだろうか?

戦争で命を捧げると言えば
戦争もした事ない団塊世代は、
手を挙げて子供を送り出す。

本懐は自分が戦争に行きたくないからだ。

しかし、それで自分は守れど
送り出した子供や孫は戦死し、
自分は最後に捕まって捕虜にされたり
人体実験にされたり、あらゆる可能性が
未来には横たわっているとは考えられない。

死と言うものの感じ方も
今と昔の日本人は違っていたのだろう。

千葉県野田市10才女児の虐待殺人

SOSを出していながら救えなかった。

結果は、ころほど社会の無力さと、一家庭において実親の愛は真実の愛だのという日本的な偏った価値観が、実は嘘偽だった。

児童が殺されなければ明るみにすら出なかった。

死して初めて少女は人として扱われた。
この国は、死ななければ人ととして
扱われないような文化があるが
結果から言えば、まさに典型例ではないか。

学校でのイジメ、
DV、
ブラック企業、
モラハラ、
児童虐待・・・、

WGIPの毒による日本人の心の汚点同士が線で繋がり新たな社会問題を次々と発現しているようにも見える。仮面を被った殺人者が父だった痛ましすぎる事件だ。

昔、日本人の父は戦争に行った。

赤紙が届き、出兵。
明日には命が無いかもしれないのに
嘘などつこうか?

妻も本当に愛していたのだろう。
自分の子供も可愛かったのだろう。
抱きしめた小さな命に、
明日は殺し合わねばならない現実がある。

そうして、自分の家を背中に
軍服を着て後髪引かれる思いで
戦地に立った男がたくさん
居たのではないだろうか?


今の日本人は違う。
我が子や妻が自分の思い通りでなければ、
最悪は殺してしまう。

テレビに映れば
「事故です、人として許せないですよ」
等と能書き垂れ流しながら
実は浴槽で殺してましたが
今回の事件ではなかろうか?

まるで、妻も子供も自分が望んだものでも
無かったかのような文化。

確かに、日本の社会、文化の構造では
そのような父の仮面を被った殺人者も
それを傍観する母親も、離婚をして
シングルマザーになり非行に走りやすい
機能不全家族だらけになるだろう。

だからこそ、戦争に行く勇気や
なぜ男は戦うのか?を今一度、
考えてみる必要があるのではないだろうか?

でなければ、家の中に一頭の
人の皮を被ったライオンと
一緒に住む人間のような家庭が
今後も増え続けるだろう。

教育を変える事は悪いことではない

ゆとり教育の記事を読み返すと
何か私が教育を変える事が悪い事のような
印象を与えかねない事に気付いた。

何も考えなく教育をその時代の流行色に
染めるのが愚かな政策であると指摘して
いるのであり、教育を変えること自体は
愚策ではない。

一つは、現代の社会問題という点と
その社会問題を起こした人々が学生時代は
どういう教育を受けてきたかという点。

この点と点の因果関係を調べ、
教育に反映させるのは正論だ。

社会問題だけでなく、経済や政治でも良い。
それら世界の問題を取り上げ
教育と結びつけて政策や教育改革を
作り上げる事は有益だ。

でなければ、社会は変わらないし
良くもならない。
事態は深刻になるばかりだ。
つまり、日本の教育に
無かったのはスピードだ。


教育は天才も、犯罪も、家庭も、社会さえも作る。

しかし、それが花開くのは15年ぐらい
先の教育である。
と考えると現代の社会問題は
団塊世代が適当に作り上げた教育。

それを現世の人間が四苦八苦するのだから
スピーディな評価および変革が教育の世界に
こそ必要ではないだろうか?

ところが、この教育の変革には政治の力が
関与したり天皇制やら、WGIPやらが加わり
腰が重くなりすぎて
鈍い、重い、疎(うと)い
の三拍子なのである。

だから、学校でのイジメもなくならないし、
児童虐待も終わらない、守れない。

あちこちで精神的な恫喝だらけの社会。
時が経てば経つほど事態は深刻さを
増すばかり、問題が起きても他人事。

口先だけの社会。
そうした戯言を述べている間にも、
すでに第3、第4の救ってほしい
小さな命がたくさんあることには鈍感。
自分の保護だけで精一杯。

現場はスピードが要求されているのに
15年後の事など知った事かでは
自分も団塊世代と同類ではなかろうか。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。