旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

安藤昌益

2011年10月23日 08時44分01秒 | Weblog
             狩野亨吉

「忘れられた思想家 安藤昌益のこと」の上巻を読み終えた。カナダの歴史学者による英文著作の翻訳であるにしても、随分と内容が粗雑だ。さまざまな文献をつなぎ合せて、かろうじて江戸時代の封建制や安藤昌益の思想に迫りかけている。しかし、日本の学者の研究に遠く及ばない。しかも、昌益の発掘という意味では狩野亨吉というかなりエキセントリックな先駆者がいる。私は狩野亨吉の方に興味を覚え始めた。


以下ウィキペディア(フリー辞書から引用

狩野亨吉
久保田藩(大館支藩)(現秋田県大館市)の藩士で代々学者の狩野家に生まれた。父、狩野良知。明治7年(1874年)父が上京(内務省へ)、明治9年(1876年)、母と共に上京。番町小学校を経て、明治11年(1878年)東京府第一中学(現在の都立日比谷高校)変則科に入学。同級に親友の澤柳政太郎、松崎蔵之助、岡田良平、上田萬年、幸田露伴、尾崎紅葉がいた。のち、教育令改正のため、第一中学から新制 大学予備門(のちの一高)に繰上げ入学した。明治17年(1884年)大学予備門を卒業し東京大学(後の帝国大学、東京帝国大学)理学部に入学。明治21年(1888年)帝国大学理科大学数学科を卒業し、翌年に帝国大学文科大学哲学科2年へ編入。明治24年(1891年)同哲学科卒業。在学中、英文科在学中の夏目漱石と親しくなる。その後、大学院入学。教育者の道を歩み、明治25年(1892年)金沢の第四高等中学校教授となる。明治27年(1894年)退職。明治29年(1896年)漱石の招きで熊本の第五高等学校に赴任。

明治31年(1898年)34歳の若さで第一高等学校の校長(1898-1906)となる。夏目漱石が英国留学後、一高講師になったのは狩野の推薦による。また、理科から文科哲学へと若かりし日の狩野と類似の軌跡を辿った田邊元なども教え子。名校長の誉れが高く、一高の校風はこの時期に確立したといわれている。後任の校長(1906-1913)は、新渡戸稲造であった。

明治39年(1906年)京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)。内藤湖南、幸田露伴ら正規の学歴がない民間学者を京大に招き、波紋を呼んだ。英文科に夏目漱石を招くことも強く望んでいたが、漱石は拒絶し朝日新聞社に入社した。ただ、その後も交友関係は続き、漱石の葬儀にあたり友人代表として弔辞を読んでいる。

明治40年(1907年)文学博士。翌年、先述の人事などでの文部省との軋轢や健康の悪化などから神経衰弱を理由に辞職、東京に戻る。以後、学校関係の定職にはつかなかった。大正12年(1923年)東京市小石川区大塚坂下町の長屋に「書画鑑定並びに著述業」の看板を掲げ、書画や刀剣の鑑定などで生計を立てた。浮世絵や春画の蒐集家としても有名で、改造社社長の山本実彦からは「春画蒐集にかけては日本一」と折り紙をつけられた。また、浮世絵研究家の金子孚水は「浮世絵の秘画の収集は世界最大のもの」と評している。自ら絵筆を執って描いたあぶな絵も数百枚に及ぶ。これらの自筆の絵に合わせる形で、ノート30冊のポルノ小説を遺したことも知られている。

狩野の学識を惜しむ沢柳政太郎から東北帝国大学総長に推されたこともあるが拒絶。山縣有朋や浜尾新の意向で、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)の教育掛に推されたこともあるが、「自分は危険思想の持ち主である」として拒否した(安藤昌益の思想に共鳴しており、将来の共産主義実現を予測、そのため内心では天皇制に反対していたらしい)。

一高在任中の明治32年(1899年)江戸時代の思想家安藤昌益の著書『自然真営道』を見出し、昭和3年(1928年)『岩波講座 世界思潮』第三冊誌上に「安藤昌益」を発表し紹介。また、天津教古文書のいわゆる竹内文書について文献批判を行い、昭和11年(1936年)6月、岩波書店『思想』誌上で「天津教古文書の批判」を発表し偽書であることを証明した。なお、昭和17年(1942年)天津教の裁判に検察の証人として言語学者の橋本進吉とともに出廷している。

明治45年(1912年)から大正2年(1913年)にかけて、10万点以上の貴重な蔵書を東北帝国大学に売却。この蔵書は、同大学図書館に狩野文庫として所蔵されている[1]。また、東京大学駒場図書館にも、狩野文庫として亨吉の日記・来翰が所蔵されている[2]。

生涯独身で、童貞だったとする説もある。生前には一冊の著書も刊行しなかった。多磨霊園に葬られている。



文献 [編集]

安倍能成編 『狩野亨吉遺文集』 岩波書店、1958年。
青江舜二郎 『狩野亨吉の生涯』 明治書院、1974年。のち中公文庫、1987年。
鈴木正 『狩野亨吉の思想』 第三文明社〈レグルス文庫〉、1981年。のち増補版、平凡社ライブラリー、2002年。

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