「/(スラッシュ)」

ナニワのオッサン 怒りのエッセイ!!

/209.「朝食抜き」の罪と罰(年末年始を有意義に)

2008-12-28 05:47:53 | Weblog
 往年の歌手「ニールセダカ・恋の片道切符」のナニワ版、「♪チュー、チュー、チューウ、タコ(多幸)かいな」のささやかな願いで始まった僕の「ネズミ年・2008年」も間もなく終わる。都会人が故里へ帰る帰省ラッシュも始まった。そして、泣いても笑っても後4日だ。クリスマスが終わった我が街寝屋川も、いよいよ正月モードのファイナルカウントダウン体制に入った。今ではもう口癖になっている僕の「早い、速い」の感慨に象徴されるように、改めて「光陰矢のごとし」の思いを強くしている。

 僕の今年は、決して有終の美を飾れたとは言えない。でも、あれやこれやと不満を口にしつつも、こうやって大過なく無事「おおつごもり」を迎えられるということ自体、今の僕の身の丈に合う有終であった、と思いたい気持がどこかにある。そういう意味で、今年の鼠君には何となく感謝、感謝だ。

 紅葉の後の落葉で我々の目を楽しませてくれた葉っぱ君も、無事土に還った。近くの公園や家々の植え込みにある冬の花も、決して華やかさはないが、さんさんと降り注ぐ太陽の木漏れ日を浴びて、控え目に、かつ質素に、インディアンサマー(小春日和)の自然界に溶け込んでいる。その花の名は、椿、サザンカ、柊、枇杷などなど。それらの花の蜜を求める愛らしいメジロが、樹上で軽快なメロディーを奏でている。一緒に戯れるのはシジュウカラだ。傍らでスズメも遊んでいる。「我と来て遊べや親のない雀」 

 その風景の中に居て、ふと僕は思った。我は今、独り身だ。この先、天涯孤独になるかも知れないけれど、こんな世知辛い世の中、こうして人の世のしがらみを忘れてささやかな自然を楽しむ、ことを今後の我が喜び、として生きて行こうと。そんな気持を強く抱かせるこんな都会の中の小さな自然は、心の安らぎを与えてくれる何物にも代え難い癒しの場だ。僕はこの心温まる風景に、寒さなんか一つも感じない。

 なので、僕は決めた。してその心は、「来年は、丑(牛)のようにゆっくりと歩んで行こう。そして、ゆっくりともの言わぬ自然を楽しもう」である。そこで思い出すのが「牛に引かれて善光寺参り」の「善光寺」だ。善光寺は、長野市街の北の高地に南面する位置にある。大きな仁王門をくぐると、山門を望む仲見世通りがある。ここの雰囲気は良い。7世紀後半の建立と伝えられるこの名刹は、古来いずれの宗派にも属さずあらゆる人々に開かれた大寺だ。また、女人禁制の寺が多い中で、女人往生を説いた寺としても知られていて、誰もが極楽往生出来るとする寺の教えは広く大衆に支持されている。以来、全国に200以上も「ゆかりの寺」が誕生するまでになった。

 民衆の心をとらえたこの寺を、源頼朝や北条氏、徳川家康などの歴史上の人物が厚く庇護したという。僕は、またここにお参りに行きたくなった。個人的に言えば、ここの「戒壇巡り」が僕は好きだ。御堂の下が暗くて周囲が見えないことをいいことにして、あわよくば隣のカワイコちゃんに軽くタッチ出来る、という楽しみがある。でも、何と言ってもこの寺の良さは、「牛に引かれて」の伝説と、まるで「みすずかる信濃の国」の「善光寺平」を包み込むかのような器の広さを感じさせるところにある、と僕は思う。言わば、善光寺は信濃の国のお母さんだ。

 では、ここでクイズだ。信濃の国のお母さん、善光寺の近くには昔、「善光寺宿」があった。現在の長野市中央通り界隈だ。ここには、「春風や牛に引かれて善光寺」の句碑がある。さて、この句はいったい誰の句か? ・・・・・。正解は「小林一茶」だ。彼も信濃出身の俳人で、句集「おらが春」はあまりにも有名。冒頭に書いた「雀の句」も、実は彼の作品だ。彼は「田舎者」を自負し、それゆえの反骨心で数々の名句が生まれたという。この因縁を背負い、大阪人の僕も、来年の干支である牛に引かれる思いで生きて行こう。と、またまた決意した次第だ。

 現世の日本を俯瞰すると、それにしてもジリ貧の年の瀬になったもんだ、と痛感する。自動車業界の一瞬の転落、建設業界の倒産多発、医師不足の悲劇など暗いニュースが連日報道されている。一番深刻なのは「雇用情勢」だ。この突然の大不況で、街には身寄りのない失業者が激増している。12月24日、クリスマスイブの朝日新聞「天声人語」には、こう記されていた。「誰にでも公平にめぐる季節は、時に残酷だ。どこのきずなにもつながらぬ不安、明日への絶望が路傍にあふれ始めた。そうしたものを包み込む社会の深さが試されている」と。

 そうではないか。企業の無責任さもあるが、今この国の政治家に問われているのは、ボランティアの炊き出しに集まるホームレスなど、社会からこぼれ落ちそうになっている貧困者を、一刻も早く救済すること、なのだ。にもかかわらず、小手先、口先だけの策に終始して、与野党とも未だ迅速な対応をしていない。ばかりか、相変わらず党利党略にこだわって、何一つ具体的な行動を示していない。こんな窮地の時こそ、国の司が一丸となり、牛歩ではなく猪突猛進して、弱者救済という大目標に向かって努力するのが本筋だろう。また、それが政治家の役目だ。なのに彼らは、遅々として動きが鈍く旧態依然とした姿からの脱却を図れていない。

 国や企業の人災の被害者と言えるこれらの人々にとって、これから迎える年末年始は、助け舟のない長い休日で仕事が見つからないという「絶望の淵」の期間だ。その実情を知っていて知らん顔する、とはなにごとぞ。けしからん。「義を見てせざるは勇なきなり」だ。僕は、政治家や企業トップにこう叫びたい。もう一度言う。「おい君ら、彼らは無事年を越せるのか!? 君らこそ正月休みを返上して、素早くことに当たれ!!」

 今日も嫌味な巷のしがらみ(飯島愛さんの孤独死だけはビックリした)は、これだけにしたい。が、もう一つ是非これだけは書いておきたい、という思いで記す。イラクでブッシュ米大統領が「靴投げ」の洗礼を受けた。記者会見での出来事だ。イラク戦争や歪んだ経済で、世界に混乱と怨念を撒き散らしたのは、他でもないブッシュ本人。イラク記者のこんな感情的な行動も、当然と言えば当然だろう。僕はそう思う。

 僕の大好きなスキーでは、「ブッシュ」とは「草や木、岩や地肌などの障害物」を指す。なので、スキーヤーはここを避けて滑る。つまり邪魔者だ。こんな危険な「障害物競走」を世界の国々に強いたブッシュは、文字通り自業自得の嫌われ者、そのものだ。幸いにも彼は、昔鍛えたさすがの反射神経(僕並み?)で靴の因縁弾をかわし難を逃れたが、これはある意味、今のアメリカを象徴する姿だろう。日本の中にも、あのテレビの場面を痛快感を持って眺めた人は多い筈だ。そんな心境になって、今年最後のブログをスタートさせる。テーマは、今日も「食」だ。

 今年も「変」と「偽」という漢字に代表される「食」にまつわる不祥事が多かった。なので、食害が多い今年の干支、鼠に因んだこの話題で締めくくりたいと思う。高度経済成長期以降の日本の食を振り返ってみると、大量生産、大量消費を美徳とするアメリカ一辺倒の「市場原理至上主義社会」を、ただ闇雲に、しかも足早に歩んで来たように僕は感じる。来年の干支である牛のように、どうしてもっとゆっくり歩めなかったものか、とも思う。

 それはともかく、日本はこの間いくつかのショックを乗り越えたところで、バブル崩壊という壁にぶち当たり、それをやっとこさ脱出したと思いきや、今度は100年に1度と言われる世界金融危機の大津波をモロに被っている状態だ。この発端は、米国発のサブプライム問題という、言わば「バクチまがい」のリスクを伴う証券化商品だった。これは極めて馬鹿馬鹿しく腹立たしい悪銭のネタで、僕は呆れ果ててものも言えない気持ちになる。このような経済の大波小波を受けながら、「化けの皮が剥がれた日本の食」も落ちるところまで落ちた、という印象が僕にはある。

 こうした状況の中で迎えた年の瀬。日本人は今、食の面でも、それが我が道だと認識していたアメリカ型の生き方に、大きな不信感を持つようになった。そして今後は、アメリカの道以外の新しい我が道に「チェンジ」する術(すべ)を早く見つけなければならない、という感情が徐々に高まりつつあるのだ。これは、当然の成り行き、ではないだろうか。なぜなら、英語と日本語の違いでも分かる通り、食に関しても、弱肉強食の狩猟民族であるアメリカと、古来から慈悲の人徳を育んで来た農耕民族の日本人とでは考え方(世界観)が根底から大きく違う。勿論、国のキャパも月とスッポンだ。だから、何から何までアメリカに追随すること自体、初めから無理があったのだ。こんな認識が僕にはあるし、今や日本中に蔓延する食の崩壊現象も、その延長線上の出来事ではないだろうか。

 戦後日本人は「夢を持って生きていれば、自分は何をすべきかが見えて来る」と思っていたかどうかは別として、そう思わせる方向に、アメリカ様に無理やり先導させられたのだ。その結果、あまりに深みにはまり過ぎて我が人徳を忘れ、金の値打ちが人生を豊かにするという間違った幸福感を植え付けられた。この歪んだ心の持ち方の問題が致命傷となり、真の豊かさを追求する姿勢を失わせた、とも言えるだろう。だが、その姿勢から距離を置きつつある今、日本人全ての心の中に、いったい真の豊かさとは何ぞや、という冷めた冷静な目が芽生えて来たのはいいことだ。それはすなわち、未来に向けて一歩前進した姿と言うべきで、そういう時代感覚こそ、日本人には一番相応しい価値観ではないだろうか。

 例えばこんな目で、今日のテーマである食を見つめることは最良だ、と僕は感じている。それに、今はもう「消費は美徳だ」と言われる時代ではない。また、こんな不景気な時代は、今までの無駄、贅沢といった飽食の負の遺産を削ぎ落とす「再出発のいい好機」だ。と、ここまで少々抽象的でピントがずれた余計なことを書き過ぎたキライはあるが、日本の質の良い食を見直すためには、我々自身が生きた過去をこうして振り返ることが重要なこと、なのだ。

 作家の五木寛之さんは、ある著書の中で、「おい、地獄さ行(え)ぐんだで」で始まる小林多喜二の「蟹工船」が若者の間で読まれていることを例に挙げ、「(今の時代は)本当に地獄が近づいて来たことが実感としてあるのかも知れない」と述べている。我が尊敬する五木さんのこの言葉に反発する訳ではないが、僕はここまでの悲愴感はない。むしろ、さっき書いた通りこんな地獄のような闇の時代だからこそ、はっきりと見えて来るものがあるのだ、とそう信じたい。

 若者がこんな感覚にさいなまれるのも、この国のアメリカ迎合主義の弊害だろう。また、こうやって日本の食の過去を振り返ってみても、企業、国、社会がアメリカとの蜜月関係の中で、私益の追求に走り過ぎた。と、思う。特にここ数年は、その歪みが目立ち過ぎだ。解決策として、この混沌とした閉塞感漂う日本を俯瞰した時、その僅かな隙間から希望の星を見つけて懸命に漕ぎ出すことが寛容だ。これが、日本丸の採るべき近未来の針路。だから、そういう意味で今の日本人の冷めた目は、ごく自然な帰結現象かも知れない。

 そんな冷めた目で日本の食を見た場合、数々の「偽」もさることながら、ごく身近にある「失われた食の生活習慣」に、僕は深い疑問を持っている。何か? それは、「朝食」だ。この朝食を抜きにしている家庭が増えていると聞く。しかも、それだけではない。最近の調査で、朝食抜きの功罪の罪の部分が大きくクローズアップされた。その罪とは何か? それは「学力」だ。大阪府が実施した全国学力調査と生活習慣調査の結果、朝食を毎日とる子供の割合が多いほど「平均正答率が高い」傾向がうかがえたという。つまり、朝食抜きの子供は、腹ペコで授業に集中出来ない、ことが明らかになった。ということは、大阪流に言えば「朝食抜きの子供はアホ」なのだ。

 これは困ったことだ。またまた、大阪から発信するアホな情報が発覚した。この原因については、様々なウワサがある。親が忙しい、家庭生活が多様化した、外食が増えたなどなど。また、貧富の格差もあるだろう。でも、僕に言わせれば、これもアメリカ型の社会にたっぷり浸り過ぎ、日本家庭の朝の一手間が便利さの中に葬り去られたことがその根源にある、ということだと思う。もっと分かりやすく言えば、日本家庭の柱である親がみんな「なまくら」になってしまった、ズバリこれしかない。と、思う。

 子供は、何時の世も親の行動、親の言葉を見聞きしながら、己の生きる術を学ぶ。つまり「親の後姿」を子供は常に彼らなりの視線で観察し、小さな生活の参考にしているのだ。手っ取り早い結論としては、これは「なまくらになった親を子供が見て、自分自身もなまくら坊主になった」ということではないだろうか。

 評論家の意表をついてもう少し違った見方をすれば、例えば今の子供は柔軟性のない「デジタル思考」の線の細いガキが多い。そのデジタルは、究極的に言えば0か1しかない世界だ。ゲーム機、ケータイ、コンピューター。これらデジタル特有の世界は、大抵AかBかの選択肢、もしくは勝者か敗者の選択肢、しかない。これを、子供は指一本で巧みに操る。こんなゲーム感覚しか持っていない子供が、お母さん(あるいはお父さん)のなまくらな後姿を見た場合、ただ単純にAかBの評価に陥りやすい。こうしていとも簡単に一面的なデジタル思考した子供は、即座に「朝食を作らない僕の親はダメ」と決め付ける。僕は、現実としてこんな子供の思考回路を想定している。一方で、もしも子供にアナログの思考回路があれば、この短絡的思考は弱められる可能性がある、とも思う。

 いずれにしてもこんな問題あり、の家庭では、その理由はともかく、きっと親は寝ていたり、グータラ、グータラしているのだろう。そして、親のこんな姿を見た柔軟性のない子供は、益々反発心が募る。その結果、勉強への意欲が低下するのだ。そんな気持に不都合なプラスアルファーがある。それが、前述した授業中にお腹が空くという生理現象だ。お腹が空けば当然集中力や記憶力も低下する。大人と違って、子供の頭脳は単純明快だ。そして、ついに「勉強なんかもうエエわ」となるのでは? このような親のアホが子供のアホを呼び込む構図が、あるのではないだろうか。

 このことは、正論でないかも知れないし、アホになった全ての子供に当てはまる訳ではないが、これに関して僕は思い当たるフシがある。それは、いつかのブログに書いた通り僕自身の経験で言えば、現在のような飽食の時代ではなく、国民全体がひもじい思いをした昭和30年代の朝食を作る「お袋の後姿」だ。あの時代、家庭に便利なものはほとんどなかった。一言で表現するなら風景は全てアナログだ。朝食は、精一杯手間隙かけたお袋の手作り。まだ薄暗い早朝から起きて、たっぷり時間をかけて、一所懸命に朝食を作るお袋の後姿に、僕は子供心に感動した。それだけではない。その努力にその都度、感謝の気持を忘れなかったものだ。今思えば、あの後姿は「僕の生きる手本」になったと言い切れる。お陰で、少々のサバイバル生活でもビクともしない自分が今ここにいる、のだ。

 僕は思う。今のお母さんは、本当に朝食を作る時間がないのだろうか。あの時代のお袋の苦労を考えれば、今は何もかも便利天国ではないのかとさえ、反発したくなる。ただ、そうではない家庭のお母さんもいることはいる、だろう。なにせこんな社会情勢だ。家計を助ける深夜勤務や早朝出勤などで、朝食を用意する余裕のない家庭も多い筈。しかしそれでも、あのアナログ時代の感覚で言えば、今の方がまし、ではないだろうか。だからこそ僕は、お袋がそうであったように、少々無理してでも子供のために朝食を作って欲しいのだ。

 ではこの辺で、今時の「なまくらオカン」の実態を探ってみよう。例えば、いちゃもんの多いテレビの「罪」だ。今の時代、朝食を作っても作らなくても、家事の後には休憩と称するテレビタイムの存在がある。これは便利さの極めつけだ。と同時に、なまくらの極めつけの媒体でもある。その前でゴロゴロし、ことによっては主人が帰る深夜にまで無為な時間を過ごそう、と思えば誰にでも可能だ。それを正当化する言い訳もたくさんある。身体が疲れている、友達との付き合い、などなど都合のいい言い訳で、お母さん自身がテレビの虜になってはいないだろうか? 

 そのテレビも、例えば「お馬鹿キャラ」を売りものにしたウケ狙い、視聴率優先の安易な番組が多過ぎる。そんな無知を正当化する価値観を植え付ける番組を見ているから、それこそ自分も己のなまくらを正当化する生活習慣に陥ってしまうのだ。そんな乱れた親の習性を、子供は常に小さな目で観察している。このことを、お母さんは想起すべきだ。このような親の怠慢は、子供に悪影響を及ぼすのは確実だ。

 そして、結論としてもう一つこういうことが言える。子供が朝食をとって登校するには、お母さんの早寝早起きが必要。朝食を食べればすぐに学力は向上しないが、これを継続すると、相対的に見て双方ともこの生活リズムが習慣になり、子供の学習意欲も増す。こういうことだ。まさに、朝食作りは(お母さんも含めて)学力向上の柱なのだ。その土台となるのが、朝食を作るお母さんの姿だ。それにお母さんは、朝食を作ることによって自分の健康も守れる。つまり、朝食作りは一石二鳥の効果がある、ということなのだ。

 子供だけでなく、朝食をとる大学生は、そうでない大学生よりも英語の成績が良い、という研究成果をまとめた岐阜大の教授がいる。この教授は、朝食をとる子供は学業が優れているという教育関係者の指摘を確かめようと、学生とともに調査したらしい。こんな成果が出れば、僕はもう「朝食効果」を疑う余地はない。これからは、グローバルな世の中に対応出来る若い人材が是非とも必要だ。その登竜門として、語学堪能なバイリンガルがもっと育って欲しいものだと思う。そして、朝食で培われた英語力で、もっともっと世界へ旅をして欲しいと僕は願う。

 「朝食作りで生きる姿を我が子に示せ」 これを合言葉に「失われた朝食」が日本全体に復活すればそれで僕は満腹、いや、満足だ。それにこれは、かつてあった日本家庭の原風景。その意味でも、僕は熱が入る。もっと言えば、僕は安全・安心な日本の食材を使った朝食が絶対ベスト、だと思う。あの篤姫に成り代わって僕は言いたい。「日本のお母さん達よ、美味しい朝食作りをどうか頼みますぞ!!」 子供達もケータイで、器が小さくなるミジメなKY君になっている時ではない。これだけ物騒な世の中、家で朝食を食べられるだけでも幸せだと思って、思う存分お袋の味を楽しもうではないか。

 もうすぐお正月だ。皆さん、大掃除、年賀状はもうお済みだろうか。明けて、一年の計は元旦にあり。家族、親戚が揃う団らんの場で、子供達とともに朝食の良さも是非語り合ってもらいたい。僕もそうだが、人によってはこの年末年始は長い長い連休だ。このお休みこそ、日頃の生活習慣を見直すまたとない絶好の機会だ、と認識してグータラ、グータラ、食っちゃ寝ー、食っちゃ寝ーせずに、有意義に過ごされることを僕は願っている。また、このような生活の根源を成す食の話題で、今年のこのブログを無事終えられたことに、僕自身一抹の喜びを感じてもいる。この際、ベートーベンの第九でも歌おうか。でも僕のブログは悪いことだらけの「/」だしなあ。

 さあ、いよいよ最後になった。「朝食」のような「食」に思いを馳せる年末年始も良いが、アナログを再発見する年末年始もまた、それ以上に良い。僕に関して言えば、年末には黒門市場でお節の具を買い込み、実家でお餅を搗(つ)いて、玄関を門松としめ縄で飾る。大晦日には、除夜の鐘を聴きながら、年越し蕎麦を食べ、「NHK紅白歌合戦」を見て、その後の「行く年来る年」で時報が「プッ、プッ、プウー」と鳴ったその瞬間、両手を合わせて「明けましておめでとう、今年もいいことがありますように」と天に向かって祈る。

 正月三が日は、お雑煮を食べ、テレビで駅伝を見る。中でも「箱根駅伝」は一番の楽しみだ。それが終わると、伏見稲荷に初詣。その合間には戸外で駒回し、羽根つき、凧揚げなどで汗を流す。ミカンとセットになっている温かい炬燵では、人生ゲーム、野球盤、カルタとり、双六ゲームなどを楽しむ。という「かつてあった定番の年末年始」もサイコーにいいのではないか、とつくづく思う。

 そんなアナログの良さを今回も大事にしたい。 実はこの期間、僕は今書いたことを極力実行しようと決めている。これは「時代遅れだ」とデジタル信仰者に言われそうだが、この気概こそ、日本の「チェンジ」に通ずる行動の一端なのだ、と僕は心底そう感じている。再度宣言する。来年は「夢をかなえるゾウ」とばかりあまり気張らずに、新生真弓阪神タイガースの来季のスローガンである「一瞬に集中」して、「身の丈に合った生活」に専念したい。勿論、今日書いた朝食抜きの罪と罰も十分意識して。

 僕の好きな歌に谷村新司さんの「昴」がある。その谷村さんが、同名のエッセイを書き上げた。内容はともかく、僕の好きなこの曲は、「生きる無駄、生きた無駄が一つもない歌」だ。「人生万事塞翁が馬」 この馬を牛に乗り換えて、上を向いてゆっくり歩む。これも強いて言えば、僕の来年の目標だ。今年の紅白歌合戦の赤組のトリは、僕と同い年の和田アキ子さんの「夢」 みんな夢を持って生きよう。そうすればいつか夢はかなう。これを第二のメッセージとしておこう。

 ところでこのブログ、次週は都合で「お休み」としたい。なので、読者との再会は来年の1月10日以降だ。よろしくお願いする。さあ、さあ、ついに今年ともお別れだ。皆さん、ノロマの牛のようにグータラ、グータラせず、年末年始をどうか有意義に。そして、良いお年を。来年またお会いしよう。お元気で。

/208.今年は「変」な年だった(再び食の安全を問う)

2008-12-19 16:49:39 | Weblog
 ボーナス・忘年会シーズンに入った今月上旬あたりから、新聞チラシの求人広告がピタッと止まった。景気のいい頃ならば、必ずと言っていいほど酔客の天下だった最終電車も活気がない。我が街の商店街も、クリスマスソングだけが空しく響いている。キタやミナミの歓楽街は軒並み閑散とした状態だ、とテレビのニュースキャスターが伝えていた。アメリカのビッグ3、ギリシャの若者、日本のマック、モスも世界同時不況の余波を受けてあえいでいる。

 そして、連日メディアで報道される企業の派遣切り、内定取り消し、正社員のリストラ。これは間違いなく景気後退の証しだ。よりによって年の瀬に、世界金融危機の大津波がこれほど凄まじいスピードで押し寄せて来ようとは。大事な一年の締めくくりだというのに、僕は何だか変な気分になる。そんな中、フィギュアスケートGPファイナル優勝者「浅田真央ちゃん」の笑顔だけが唯一の救いだった。

 12月14日夜、いつも期待の眼で見ていたNHK大河ドラマ「篤姫」が終わった。残念無念。激動の時代を生き抜いた篤姫は49歳でその生涯を閉じた、とナレーションで語られていた。そう言えば、本能寺の炎の中に消えた僕の好きな織田信長も、確か49歳の命だった。これは何かの因縁だろうか。奇しくも同じ日、自然界に放たれた佐渡のトキ1羽が死んだ。こちらも残念だとしか言いようがない。ただただ残念ではあるが、篤姫、信長同様雌のトキも、死して名を残すには十分な生き様だった、と僕は思いたい。

 変な気分になる年の瀬不況の小さな鬱憤を晴らすには、冬至の「ゆず湯」に入るのがお手頃だろう。それとも、家でゆっくり冬至にカボチャ、だろうか。京都・嵐山の松尾大社の境内では、来年の「えと」にちなんだ「赤ベコ」の大絵馬が掲げられているという。赤ベコと言えば、首を振った仕草が可愛い「みちのく福島」の郷土玩具だ。僕は、これを数個持っている。いずれも昔の彼女から貰ったものだ。なので、僕にとっては思い出の赤ベコだ。

 兵庫県豊岡市の山間にある「たんたん温泉・福寿の湯」では、「鼻血ブー」「アサー!」など数々の流行語を生んだ漫画家「(故)谷岡ヤスジ」さんのポスターが飾られ、入浴客が温泉に入ると「ヨーきたのー、ワレー」と大歓迎してくれるらしい。谷岡ヤスジさんの漫画は、僕も昔よく読んだ。この温泉のゆず湯は、かなりスリルがありそうだ。

 今週も、年の瀬なのであまり変な話しはしたくない。不況も忘れたい。自分の歳も忘れたい。と言うことで、何と言っても「この話し」だ。この話しとは何だ? 前夫との確執で「落とし前」をつけ、「プロレス」にチャレンジしたタレント「泰葉(やすは)」の話し? それとも、「しっつれいしました」というギャグを残して逝った漫才師「若井ボン・はやと」のはやとさんの話し? ちゃう、ちゃう。もう分かってるやろ。この話しとは、さっき書いた篤姫の話しや。

 という訳で、今年一年「もう十分」と言えるほど、僕がハマッテシマッタ、篤姫の話しをする。実を言うと、このドラマを抜きにして、僕の日曜の夜はなかった、と言ってもいいくらいだ。それほど篤姫に惚れてしまった。篤姫の墓は、東京・上野の寛永寺に、夫である家定と並んで建てられている。今思えば、この大河ドラマのクライマックスは、家定と篤姫の「変なかけあい」にあった、と僕は思っている。変という言葉が適当でなければ、「夫婦の真のかけあい」とでも表現しておこう。覚えておられるだろうか、あの場面を。あの場面こそ、篤姫の人生の中で最高の瞬間だった。

 なぜなら、それまでひょうきん、ふざけた野郎、無愛想というウソの自分を装っていた家定が、突然篤姫にだけ本当の自分を見せたあの場面に、このドラマの真骨頂、つまり真の愛、夫婦の値打ちとも言うべきインパクトがあったのだ。それが、世の女性の琴線に触れたのは間違いない。と、僕は思う。

 ところがどっこい、あの場面に篤姫の真髄を見た男がここにいる。当然ながら、それが僕だ。でも、僕だけでなく、こんな篤姫夫婦に共感を覚えた男性諸氏も多い筈。それに、篤姫を演じた宮崎あおいちゃんも、あの童顔でよく頑張った。ひょっとすれば、今まで作りもののドラマが大嫌いだったこの僕が、珍しくもこんなに夢中になれたのも、彼女の演技力そのものに惚れたからかも知れない。勿論、史実通りの篤姫はあんな人ではなかった、ことは知っている。

 その意味では、我々の心に届くステキな篤姫に仕上げた脚本家の「○○○○○」さんの力は、限りなく大きい。さて、ここでクイズだ。あのステキな「篤姫の生みの親」である彼女の名は? ・・・・・。正解は「田渕久美子」さんだ。彼女は、「篤姫」の全50話を3年という時をかけて書き上げた。そしてこの間、彼女は再婚し、再出発の新しい家族を作ることが出来たが、ついに最終話を書き終えたその2ヵ月後、愛する夫は病気で帰らぬ人になったという。

 この話しを知って、僕はまた感動した。「篤姫」のドラマの裏で、「篤姫」を書き上げた彼女自身の「隠されたドラマ」があったのだ。ともあれ、お二人とも本当に有難う。出来ることならば、このペアの力で、かつて僕が惚れた昔の恋人「飛鳥美人」を主役にした「旅のドラマ」を再現して欲しいものだ。そして、今まで心の中で温めていたその台本は、彼女を心底知っているこの僕が書く。と、夜空の星に願いを。・・・・・。さあ、名残惜しいがこの辺で暗転して、篤姫を偲びつつ今日の本題に入る。

 京都・清水寺で発表された年末恒例の全国公募による「2008年・今年の漢字」(日本漢字能力検定協会主催)の第1位に選ばれたのは、「変」だった。シャレではないが、こうして「変だった」と書けば、確かに今年は変だった。と、そんな気がする。清水の舞台を背景に、大きな和紙に「変」の字を見事な筆さばきで書き上げた同寺の森清範貫主は、神妙な面持ちと落ち着いた口調でこう語った。「政治、経済、社会を変えて欲しいという皆さんの思いを込めて書きました」

 うーん、なるほど、さもありなん。思えば、世界金融危機という黒船が日本列島を襲うこんな年の瀬になるなんて、年の初めにいったい誰が想像しただろうか。その意味も込めて、大多数の国民の叫びを、貫主に対するオウム返しの如く、ここで僕が代弁絶叫する。「おーい、今の変な世の中、誰か変えてくれー!!」

 ちなみに今年の漢字の第2位は「金」、3位は「落」、4位以下は「食」「乱」「高」「株」「不」「毒」「薬」と続いた。うむ、うむ。ここまで書くと僕は思い当たるフシがある。最大の決め手は、去年の第1位の「偽」 ここまでくれば文句なし、僕はもう記憶が鮮明だ。そればかりか、この「偽」は、未だに世間を揺るがせている。そんな「偽」から「変」へのバトンタッチとは、日本も情けない。もっといい漢字が選ばれて欲しい気がするが、これも現状を見れば仕方のないことかも。それにしても、僕は益々テンションが下がる。世間の人もきっと同じ思いだろう。まさに「変」なバトンタッチだ。

 改めて言う。「変」なことがいっぱいあった今年、いったいどんな「変」なことがあったのだろうか。スポーツ&クイズは大いに自信がある僕も、最近は左脳の働きが鈍っている。ちょっと前なら覚えちゃいるが、アンタあの女(こ)のなんなのさ!? と、ふざけて言いたいくらい何も思い出せない。(本当はそうでもないが)なので、手っ取り早く手元の朝日新聞の「インターネットモニターによる今年の10大ニュース」を参考にしよう。題して、「2008年・変な10大ニュース」

 それによると、1位「中国製輸入食品で農薬混入禍」 2位「オバマ氏が次期米大統領に」 3位「未曾有の世界金融危機」 4位「東京・秋葉原で男が17人無差別殺傷」 5位「原油価格高騰、食品など値上げ」 6位「日本出身4人がノーベル賞」 7位「中国・四川省大地震」 8位「後期高齢者医療制度で混乱」 9位「北京五輪」 10位「福田首相が突然辞任」だった。

 こうして今年を代表しているであろう10大ニュースを、身近に手繰り寄せて振り返ってみると、そのほとんどがこのブログで採り上げた「変」なものばかりだ。「変」じゃないのは、オバマ氏とノーベル賞受賞者のニュースだけ。そして、あの北京五輪でさえ、僕には「変」に感じられた。この中で、注目はやはり「偽」の延長線上にある第1位に選ばれた「中国製輸入食品で農薬混入禍」だろう。これは、「変」の中の最大の「変」とでも言うべき出来事だった、と言える。

 この原因は、なりふり構わぬ大手スーパーなどの量販店が、目先の儲け優先で安価な中国製食品にお近づきになり過ぎたこと、だった。これは確かに、一般庶民の立場から言えばいいことには違いない。安価なことは結構なことだ。ましてや、日本中に貧困層が急拡大するこのご時世、明日の生活もままならない人達にとっては、有り難い助っ人食品的存在だろう。でも結果的には、ここに大きな落とし穴があった。つまり、安いものにはトゲがあったのだ。

 そして、これじゃダメだと右往左往、試行錯誤の末、改心した人々がやっとの思いで辿り着いた先がある。それが、安全・安心な食品・食材を使おうとする、言わば成熟した消費者マインドだ。この考え方は、「食」が命に係わる問題だけに誰も避けては通れなかった。ばかりか、最近では一部の低所得者層も含めて、「少々高くても食の安全への不信感がない、いいものを買おう」という意識が高まり、この考え方が今、世の中に徐々に浸透しつつあるのだ。これはいいことだと僕は思っている。

 さあ、このようにして消費者マインドは高まりをみせた。が、現実的にはまだまだ外国の安い食材を使った「偽」という悪行が日本中に横行している食の世界。そこで、俄然クローズアップされたのが、日本の食の自給率の復活だ。この喧々諤々の論争の中から人々の心に強烈に刻み込まれたのが、「日本の食品・食材は良い」とする認識だ。では、再びの「偽」を生まないために、安全・安心というレッテルを貼られた日本の食品・食材が無事市場に出回るには、いったいどうすればいいのだろうか。今日は、この視点に立って、日本の「変」な流通や食品価格について一考してみたい。

 前述した通り日本人の消費者マインドが高まりをみせているのはいいことだが、これが本物となるには、まだまだ限りなく遠い道のりが必要だ。なぜなら、日本には食の安全・安心は認識しつつも、(外国の)安価なものを求めざるを得ない低所得者層がそこいらにたむろしている。しかし、それ以上に「変」な流通や食品価格の基準が日本にはあるのだ。この点については、僕自身は薄々気付いてはいた。でも、それを解明することは非常に難しい。だから例によって、ここでその道の専門家に登場してもらうことにする。

 専門家の名前は、農産物流通コンサルタントとしてそれの生産・流通・販売の現場に係わってきた山本謙治氏だ。彼は、日本の食品の価格は「あまりにも高過ぎる」と言う。その主因は? 以下彼の主張を要点のみ書く。「例えば、日本農家の米は『高い』と言われてきた。だが、現場の生産者に聞くと、平均的な2ヘクタール程度の田で収穫出来る米を売っても、手元に残るのは僅か150万円程度。今の米価格では儲からないどころか生活も出来ない」というのが、食品の原材料を作る農家の現状だ。

 一方、食品を作るメーカー側の人はこう言ったという。「誰だって好きで偽装なんかしませんよ。きちんと利益が出るなら、偽装が頻発する筈がない。安値を求める消費者や販売業者こそが偽装を生み出しているのではないか」と。僕はあえてコメントしない。しかし、双方にはこういった意見があるのを分かってもらいたいと思う。

 彼の話しを続ける。「長期的なトレンドで言えば、日本の食品価格は昔から大きくは変動していない。(例えば、卵、豆腐、納豆など)物価全体は上がっているから、相対的に見ればむしろ安くなっている」 「この安い食品価格は、中国などからの輸入食材を前提とした『架空の価格』である。消費者が安さを求め続けたため、スーパーや外食産業は安い輸入食材に頼った。その結果、『架空の価格』が消費者の意識にすり込まれ、国内で生産された食材や外国産でも『身元』を保証出来る信頼に足る食材を使った『本当の価格』が不当に高く見えるようになってしまった」 これが、「変」な価格の正体だ。

 だから、現在の相次ぐ食品の値上げも、「架空の価格」に原油や肥料・飼料の高騰分を上乗せしただけのもので、「架空の価格」に本質的にメスが入っている訳ではないらしい。そういう意味では、今の食品の価格はまだまだ安過ぎるのだ。

 この構造を「変える」には、まず食品価格を適正水準に上げる。少なくても2倍の価格にしなければ、メーカーや流通業者は適正な利益を確保出来ないのではないか。彼はこう断言している。更に「ならいっそ、独禁法などのくびきを一時解いて、業界全体で、生産・製造・流通業者がきちんと利益を得られる価格に一斉に値上げしてはどうか。夢物語に聞こえるだろうが、それくらいしなければ、食品の安全性は益々低くなるだけだ」と、こう力説する。

 そして重要なのは、現在主に高齢者が支えている農林水産業への補助金の見直し。つまり、新規参入者が絶対的に少ないこれからの農林水産業を支えるだけの人材を確保するには、「農業で食って行ける」状況が必要だということだ。そのためには、穀物、青果物、水産物、畜産物などの品目ごとに補助率を定め、所得を直接補償する仕組みを導入する。そうすれば、道は開けるのだ、と彼は言う。これは、いつかのブログで僕も書いた。全く同感だ。

 ここまで言えば、あちこちから消費者の反発の声が聞こえてきそうだ。「(農林水産業者への補助金はいいが)家計が大変なのに、なぜ食品を値上げしろと言うのか」などと。庶民感覚では、この声は当然だろう。しかし、この点について、山本氏はこう強調している。ここのところは大事なので、よく聞いて欲しい。

 「2人以上の世帯の平均エンゲル係数は、ここ15年間25%以下で推移しているのに、その一方で、通信・教養娯楽への支出は上昇している。安全・安心な食を求めながら、食に金を払わないのが日本人の姿だ。消費者も、食品にかかるコストをきちんと理解して欲しい。『新鮮で安全で美味しくて安い食べ物』などどこにも存在しない。『安過ぎる食品はどこかおかしい』と、疑おう。高くても、良い食品を買うことは『未来への投資』と考えるべきだ」

 彼はなおも語気を強める。「国際的な食糧争奪の時代に『日がまた昇るように、食べ物もどこかから手に入るだろう』という考えは、全くの幻想だ。今ならまだ、日本の食の立て直しは十分間に合う。未来の選択は、消費者に委ねられている」

 以上、分かった人も分からんかった人も、「変だ」と思った人も、それぞれの思いを胸に、一考するだけでも大変意味があると僕は感じる。ちなみに僕は、彼の意見に全面的に賛同する。また、彼の意見にまた一つ目からウロコ、だ。そして、またまた成熟した消費者マインドの一端を与えられた思い、がしている。それと共に、かつて自分が主張したこともまんざらでもなかった、との気持が強くする。

 このように、この国の今年を代表する「変な食」の現実に触れれば触れるほど、消費者の思いとは裏腹の農林水産業者の窮状が、はっきりと透けて見えてくる。国や企業は、誠意を持って彼らを救うべきだろう。彼らを翻弄した張本人だからだ。そして、彼らを救うことが、安全で安心な美味しい食を消費者に提供することに繋がり、結果的にはそれが消費者の利益になる、ということを肝に銘じなければならない。僕は、このままいつまでも「変な食」でじれったい思いをしたくはない。いや、もうコリゴリだ。なので、再度確認する。国や企業に翻弄される食の生産者。スーパーなどの儲け主義に翻弄される消費者。この狭間で起こる再びの「偽」 この今年の「変」と、去年の「偽」は、まさに紙一重だ。こう言っておこう。

 「偽」に次ぐ嫌味な「変」が、とぐろを巻いている今年の10大ニュースの中で、いい意味での「変」に通ずる「チェンジ」を主張したオバマ氏の存在は、オリオン座のペテルギウスのように一際新鮮だ。彼の「変」の先の結実を、世界の人が期待し注目している。それに比べてこの国のリーダーは、未曾有(みぞうゆう)の「偽」の数々を併せ持ち、国民に「変」な不信感を募らせている。そんな情けない宰相に引っ張られる日本丸の「変」の先に、新しい「チェンジ」はあるのだろうか。僕はこの答えを、麻生さんでなく「篤姫」に聞きたい。そのほうがましだ。

/207.悪質引き逃げ事件(冷血人間の仕業)

2008-12-13 09:05:45 | Weblog
 三寒四温。年末商戦本格化。街はすっかり冬の装いだ。「おい、今年の冬は順調過ぎてちょっと変だぞ」 そんな声も聞かれる。「当たり前だ、『変』の言葉が今年の顔だったんだから」 僕はそう呟く。郊外では、枯木や枯野が目立ち始めた。その中でただイチョウだけが、今年最後の見納めとばかりに黄葉を競い合っている。頑張れ、モミジの老舗。君たちの歴史は古いんだ。と、こうも呟きたくなる。「♪クリスマスキャロルが流れる頃には♪」 街頭には、稲垣潤一の甘く切ない高音のメロディーが流れている。「待てよ? この曲、確かついこの前に聴いたばかりだぞ。あれからもう一年か。お笑いだな」 こんな感慨が胸をくすぐる。

 大阪の漫才のネタは、頻繁に「なんでや」という言葉を使い、最後には「もうええわ」ジャンジャン、で終わる。その漫才に要した時間は、僅か10分か15分ほどだ。僕の今の気持は、まさにそれ。ここ数年、残すところ後僅かの年末になると、自分の中でそんな「ボケとツッコミ」が交錯している。これはいけないことなのか、それとも齢の進行による必然なのか、はっきりせえ。「時は金なり」を座右銘とする僕はいつも思う。一度でいいから、よくありがちな江戸落語のように「お後がよろしいようで」で終わりたいものだ。

 と、また愚痴ってしまった。ひょっとすれば「沈黙は金」かも知れない。言うから、悲愴感が募るのだ。「言わなきゃ良かった、ヤネ屋のキンタマ」 でも、こう愚痴るご同輩も結構多いことだろう。こんな気分になった時は、ウサ晴らしに関東煮(かんとうだき)で一杯やるのもオツなもの。この関東煮は、江戸では「おでん」だ。おでんは匂いもいい。呼び名のイントネーションには、お袋の優しさにも似た温かみがある。人間の心もこうありたいものだ。

 ナニワの関東煮の老舗「たこ梅」が11月末、大阪・京橋で開業した。実に45年ぶりとなる支店の誕生だ。僕は、かつてナンバのとんぼり本店によく通った。この「たこ梅」、シンジラレナイが、一度は倒産の瀬戸際に追い込まれた、という。老舗ならではの、高コスト体質と大雑把な仕入れ。そして、一見和やかそうな家族的経営が災いしたらしい。これではいけないと、なんやかやとコストパフォーマンスを図り、絶対的苦境から再起を果たしたというから、僕はまた温かいおでんを食べに行ってみたくなった。

 「たこ梅」は、1844年の創業で現存する日本最古のおでん屋さんと言われる。開店以来、多くの文人に愛され続けた玄人好みの名店だ。おでん大鍋を囲むカウンター席で、味わい深い具材に舌鼓を打つと幸せ感も倍増する。ここの名物は、「鯨の舌」を原材料にした「○○○○」と呼ばれる珍味だ。さて、ここでクイズ。今日は超難問だ。作家の開高健さんの作品「新しい天体」にも登場したこの具材の名は? ・・・・・。正解は「さえずり」だ。

 これを知っていた人は、すごいナニワ通だ。オジサン世代の「帰巣本能」をくすぐるおでんは、この時季の食の必須アイテムだろう。この店のもう一つの名物は、熱燗が入った錫(スズ)のとっくり。これも絶品だ。熱燗でほろ酔い気分になって、隣の客と囀(さえず)るのも、ここならではの楽しみ方。上方にお越しの折は是非足を伸ばして欲しい。

 さあ今日も、ちょっとだけ世の中のしがらみを俯瞰してみる。これも、見なきゃ良かった、かも知れない。少し前まで暖かい「我が家の春」を謳歌していた大企業までが、急に冷え込みが厳しくなった。あっと驚くが、これもこの国の現実だ。トヨタ・ショックに続いて、何と世界のソニーが雇用版大ショックだ。他にも目に見えない小さなショックが二重、三重に重なり合って、非正社員削減のみならず、正社員までがリストラの波に巻き込まれている。これが続発すると、益々雇用情勢が深刻になる。

 その結果は、当然ながら大きな負のスパイラルを生むという、日本経済の悪循環。とどのつまりは、日本景気の最悪化現象となって国民生活にドーンと撥ね返るのだ。さあ、さあ、人を切るのがいいことなのか、悪いことなのか、その正念場に立った日本の経営トップ。今こそ、あなた達の意地の見せどころ、ですぞ。今週もこの一言に尽きる。

 しがらみ以外の話題を一つだけ。作曲家の遠藤実さんが亡くなった。我々世代の愛唱歌「高校三年生」は、遠藤さんの作品としてあまりにも有名だ。時は東京オリンピック前後の古き良き時代。僕は、遠藤さんがあの時代にはあった「♪夢が羽ばたく遠い空」に行ったのだと思いたい。それとも、天国の「北国の春」を見に行ったのだろうか。それに比べて今の時代は、青春の夢も希望も随分と極小化した。そして、なかなか羽ばたいてはくれない。

 うる覚えで間違っているかも知れないが、遠藤さんが作った曲の歌詞を思い出してみる。 「♪学園広場は青春広場、夢と希望がある広場」 今はこんな感慨があるだろうか。 「♪みんな一緒に離れずに行こうと言った仲間達」 今はこんな人と人とのつながりがあるだろうか。 「♪二度と還らぬ思い出乗せて、クラス友達肩寄せ合えばベルが鳴る鳴るプラットホーム」 こんなほのぼのとした光景も今はなかなか見られない。

 「高校三年生」「学園広場」「仲間達」「修学旅行」 舟木一夫さんが歌ったこれらの名曲に表現された今は無き光景は、古き良き時代の僕の宝物。あるいはこれは、僕の「先生」だ。 「♪先生、先生、それは先生」 今思えば、宝物と先生を共有出来た僕らの世代は幸せだった。それを与えてくれた遠藤先生に感謝しつつ、ご冥福をお祈りしたい。昭和のいい音楽を有難う。

 ところで、あの時代にあって今の時代に無いものの一つは、おでんのような「人の温かい心」だろう。温かい心がないと、世の中は荒ぶ。荒んだ今の世の中には、冷たい木枯しのような悪徳人の仕業が多過ぎる。お笑いの街でもあり、日本一の無法地帯でもある大阪は、この悪徳人が頻繁に出没する。やることがひどい、醜い。今日の「/」は、その一端の出来事を僕なりに追及したい。

 ノンフィクション作家の柳田邦男さんが、悪いことまみれの今の世の中の救世主となるのは、金やモノではなく、詰まるところ「人間の心」だと力説されておられたが、まさにその通りだと僕は思う。そう、みんな心が腐っているのだ。度重なる日本社会の不祥事の数々は、突き詰めれば人間の心の喪失がその根源にある。心はどんな生物でも持っている、と僕は思いたい。が、やはり常識的に考えて、これは霊長類の一番進んだ形である人間にしかない「高度で崇高な魂の叫び」だろう。言ってみれば、人間は心の総家。何者にも代え難い非常に大事な宝物を、誰でもみんな心の中に仕舞い込んでいる。

 だから、人間の心を司る魂の叫びが正常であれば、その人は良き人間性の持ち主だ、と言える。これは、言い換えれば善人だ。反対に、魂の叫びが正常でなければ、その人は悪人となる。この悪人が今、日本には多過ぎる。と、思わないだろうか。偽装、詐欺、窃盗、密売などなど、この悪人の仕業が絡んだニュースが連日メディアを賑わす。更には、人の命を奪うむごい殺人。こんな狂気の沙汰が目に余る現状だ。そしてここまでくれば、ヤツらはとんでもない「冷血人間」だと言えるだろう。その良き人間性のカケラも無い行為には、全く弁解の余地がない。昨今続発するこれらの悲劇を見聞する度に、僕はいつも思う。「こんな冷血人間を、何とかして温血人間に変える処方箋はないものか」と。

 この再生方法はただ一つ、優しい心の復活だ。人間の魂の叫びを司る心を再生して良き人間性を回復させる、これしかない。人間の心が正常になれば、世の中は住みやすくなるのだ、と僕は考えている。これを前提条件として、話しを今回のテーマである心なき人間の仕業に戻す。今回の主役の悪人は、飲酒運転で車を走行中「何かが当たった気がする」とうそぶき、ごく普通の日常生活を送っている人を引き逃げし、しかも「逃げ得」を狙う殺人犯(と言ってもいいだろう)だ。

 彼らの仕業は、冷血人間の名に相応しく極めて悪質だ。人間性が微塵にも感じられない。その極めつけは、例えば日本一の無法地帯、我が大阪で起こった2件の引き逃げ死亡事故。事の詳細は省略する。彼らの事故後の行動は本当にひどい。飲酒運転で意識が朦朧となっているにもかかわらず、「これはいつものこと、自分は大丈夫」と間違った過信をして、フラフラ状態で無謀運転をした。これは、当人にとっては快感だろうが、実はこの時点で既にバッカスの落とし穴にはまっている。自分への「ブレーキ」がかからなくなっているからだ。その挙句の引き逃げ死亡事件となった。しかも、被害者を自転車ごと数キロも引きずって死なせる、というむごたらしさだ。

 僕は思う。あまりにもひどいじゃないか。感情的になって言う。例えヘベレケにご酩酊していても、運転慣れしている人であれば、ある程度(自分の意志で)車をコントロール出来る余力はあった筈。ということは、「何かが当たった」という衝撃が何であるのか「確認出来る」能力が少しは残っていた、ということ。またこのことは、運転者の一般的な知識から言っても、それが常識の範囲だろう。小石や小さなゴミなら、その必要はないかも知れない。だが、人間と自転車の衝撃音は、そんなものとは比べものにならないほど大きい。このことを考えれば、正直言って、彼らがブレーキを踏んで車外に降り、いったい何が当たったのか、自分の車に破損はないか、ぐらいの確認は十分可能だったのではないか。こう思うのだ。

 それでも犯人(容疑者)は逃げた。逃げ得狙いだ。逃げる前に、己の頭で「酒を飲んでいたから後で罰金を取られる」「免許取り消しになる」などと「判断」して、一目散に現場から逃げたのだ。僕は言いたい。こんな判断が即座に出来るなら、衝撃物(人間と自転車)に当たった時点で、それが何かを確認出来る筈ではないか。そんな正しい判断の仕方を彼らは薄々知っていても実行しなかった。そして、「自分さえ良ければそれでいい」という「歪んだとっさの判断」をしたせいで、不幸にも被害者は亡くなったのだ。彼らが、最初の事故現場ですぐに警察などに通報すれば、被害者の命は助かったかも知れない。深い悲しみに暮れる被害者の家族もさぞかし悔しい思いをしていることだろう。

 なぜ彼らは、自分の車の下で人間を引いていることを暗に知りながら、こんな悪意に満ちた行動しか取れなかったのだろうか。この死亡事故の根本は、飲酒という「魔の誘い」もさることながら、罰則金を取られるのがいやだ、などという交通法規の厳罰化を恐れて逃走する前の彼らの心の持ち方、にある。これが非常に重要だ。自分の車の下で、死にかけているかも知れない被害者の命を思いやること、このことがなぜ出来なかったのか、問題はこの一点にある、と言っても決して過言ではない。ここが僕の言う人間の心の喪失だ。例え交通事故遭遇時の気が動転している場面でも、人間なら誰でも少しは相手を思いやる気持が己の心の片隅に存在しているのではないか、と僕は思っている。だが、彼らの心はそこまで及ばなかった。ここが「/」なのだ。

 ここを追及してゆくと、今や日本人の心に蔓延している「人や命に対する価値観の希薄化」というところに行き着く。つまり、今は日本人の心そのものが危うくなってきているのだ。危うくなっているから、より一層日本中が危険度が増す。それは、現状を見ればよく理解出来ることだ。今回採り上げた引き逃げ事件の場合も、事故を起こした当人が「(殺人容疑で)逮捕されるかも知れない」などという己だけの危機を避けるために、他の手段を選ばなかったことが、結果的にはこのような悲劇に繋がったのだ。こんな人間性のない幼稚な心しか持ち合わせていない彼らが、最も危険な存在だと言えるだろう。

 また、大阪で相次いだこの引きずり死亡事件は、(彼らだけでなく)日本人のモラルの低下や日本社会全体が自己保身にシフトし、責任の取り方を知らないまま安易な方向に流れてしまっている、というネガティブな面を映し出している。そんな人間に欠けているのは、他者への優しい想像力。つまり、今回もう何度も書いた「思いやり」だ。そういう意味で、一連の事件で一番分かりやすい大事な観点は、人が死ぬとはどういうことか? ということだ。今回の場合でも、引き逃げで人が死ぬかも知れない、ということにまで想像が及んでいながら、人が死ぬという他人の痛みを微塵も感じられなかった彼らの心の持ち方、ここが大問題なのだ。

 人間が車の下に自転車ごと巻き込まれ、何キロも引きずったらいったいどうなるのか。こんなある意味単純明快な他人の痛みを彼らが感じられたら、今回の悲劇は起きなかった。返す返す言うが、今日言いたいのはこのことだ。と同時に、やはりもう一つの問題点は「飲酒」だ。バッカスは、良くも悪くも百薬の長だ。酒酔いという「魔の誘い」と「魅力」を併せ持つ。いい方向に転がれば人生を変える様々な出会いがあるが、悪い方向に転がればそれこそ人生を破滅させる。

 悪い方向に転がらないようにするために、飲酒運転についての警察の厳罰化は進んだ。しかし、こうした数々の死亡事件をみるとまだまだ甘い、との指摘は多い。有識者が言うように、飲酒運転の免許停止期間をもっと長期にしたり、ことによっては免許永久停止にするぐらいのことを検討する必要もありそうだ。また、「飲酒を感知するとエンジンがかからなくなる装置を実用化」することも考えられているらしい。これはいいことだ。今の日本の技術があれば十分可能だろう。飲酒後という事故の入り口を取り締まる、ことは現状では非常に難しい。だけど、もはや掛け声だけではどうにもならない事態だ。当局の奮起を僕は期待する。また、我々もそのための努力が欠かせない。

 ところが最近、警視庁の幹部職員である警視が酒酔い運転の疑いで逮捕された、というニュースがあった。この警視は、警察署で交通課長を務めるなど主に交通畑を歩いて来たという。そして彼はまた、この道では有名な飲酒運転撲滅キャンペーンの先頭に立っていた人物だった。ふざけた話しだ。この人物の逮捕劇は、ある面いい加減でふざけた人間が多い大阪では、お笑いのネタになるような話しだ。

 その大阪で、起こった二つの悪質引き逃げ事件。このことでも分かるように、大阪人はお笑いばかりクローズアップされているが、その笑いの裏側では、善悪の区別が完全にマヒしている人間が、街中を闊歩している状態だ。ルールを守らないのが大阪のルール。「ちょっとぐらいええがな」 こんなことを言うエエカゲンな人間が多過ぎる。「そやけど、よう考えてや。エエカゲンな飲酒というその先にあるのは、『悪魔の誘い』やで」 我が尊敬する隣のオバチャンも強い口調でこう言っている。「そうなんや、それではあかんのや」 僕も同調する。「大阪人はお笑いで悪いことをするんか」 こんな声もあちこちで聞かれる。

 この際、僕からの提案だ。それは、大阪の笑いの顔である「吉本興業」が、この不名誉を挽回するために意を決して立ち上る、ということ。笑いの顔の芸人を総動員して、教育機関やテレビ、ラジオなどで、吉本流に「人の命の大切さ」を訴えれば、その効果は抜群だろう。ついでに、交通事故撲滅キャンペーンもする。「大阪のオバチャン」もギンギンギラギラ衣装で応援する。そうすれば、現在必死のパッチで頑張っている橋下知事も喜ぶだろう。言い出しっぺの僕も応援する。

/206.新卒者内定取り消し(社会への入り口をふさぐな)

2008-12-07 03:16:58 | Weblog
 晩秋から初冬へ、小雪から大雪へ、とかく暦ばかりが先行する傾向にあったここ数年来の大阪地方の「季節の変わり目」に、少しだけ変化の兆しがある。こんなことを書くと「どういうこと?」と、思われる向きもあろう。なので、それを一言で説明しよう。それは、今年はなぜか、季節の進みがいつになく順調過ぎるぐらい順調だということ。良い傾向だと思うが、地球温暖化を考えると、これは今年だけの実感かも知れない。しかし、こんな年もたまにあっていい気が僕はする。

 そんな訳で早くも木枯し2号の到来のようだ。大阪地方も昨日辺りから急激に冷え込んで来た。言わずと知れた西高東低の冬型の気圧配置の強まりだ。こうなると、かつて「こうでなくっちゃ」とテレビの降雪情報に一喜一憂した「スキー人間」の血が騒ぐ。この寒さで、庭先の南天、千両、万両の実が心なしか赤みを増したように感じる。近くの公園の水路沿いでは、過ぎ去った秋の名残りを惜しむかのように、紅葉達が最後の力を振り絞って華やかさを競い合っている。

 この姿にしみじみ感じるのは、去り行くものの命のはかなさだ。でも僕は、それ以上のときめきを覚える。彼女達はけなげだ。たとえ水路の水面に落ちたモミジ葉でさえも、死してなお自然の輝きを失わない気高さがある。いや、死んではいない。まだ生きている。だから、彼女達がよりいとおしいのだ。恐らく後一週間の命だろう。この先最後の一葉となろうとも、彼女達の生き様から僕は目が離せない。

 「アラフォー」「グ~!」 流行語が飛び交う師走のざわめきの中で、街角のイルミネーションも人工の輝きを競い合っている。こちらの輝きは、あまりギンギン、ギラギラにならない程度がいい。僕の好きなのは、街の雑踏から少し離れた住宅地にある某氏のイルミネーションだ。この家のイルミは、住人のセンスを感じるシンプル・イズ・ベストの作品。赤、青、白、緑などの電飾に覆われたクリスマスツリーのすぐ横で、可愛らしいピンクのハートマークが踊っている。

 この作品は、僕の若き日のミーハー心をかなり刺激する。あのセンス・オブ・イルミに僕は一声、サンキュー!! 先日、そのイルミネーションの上で、急接近した月と金星と木星が光っていた。このロマンある天空の大競演も投げキッスものだ。再びサンキュー!! 

 先週は、景気の悪化をとことん知らしめられた一週間だった。内情を知れば知るほど、サラリーマンには厳しい世の中になったもんだ、と実感する。サラリーマンばかりではない。今は、巷の商売人にとってもとても辛い世の中、だ。特に大阪は、あの万博当時の狂気乱舞が遠い昔の夢。あれはいったい何だったんだろう、と思う人も多いに違いない。まっ、愚痴はよそう。これも時代の流れ。日本経済が成熟した今、どこへ行っても威勢のいい儲け話はない。でも、これは反面、まともな時代の到来と言えるのではないだろうか。そう考えて、多少の痛みを感じることこそ、身の丈に合った正常なスタンスだ、と僕自身は考えている。

 先週の反省。GⅠ競馬に負けた。書かなきゃ良かった。けど、隣のオバチャンは別だ。あくまで「S」の付く馬にこだわり「スマート」に馬連複を500円でゲットした。ちくしょう、スゴイ、女の感は冴え渡る。後は訂正のお詫びを少し書く。間かんぺいさんの「かん」の字を間違えた。貫平ではなく「寛平」だった。麻生さんほどでもないが、誰にでも思い込みや思い違いがある。特に、人の名前や地名は致命傷だ。気を付けなければ。

 気になったこと。渋い俳優の松方弘樹さんが、山口県沖の日本海で300キロ超のクロマグロを釣り上げた。スゴイ。この大物で、いったい何人分の刺し身になるのか、僕は知りたい。 「十日戎」で知られる、大阪の今宮戎神社の「福娘」45人がお披露目された。これは、年末には欠かせないナニワの大事な行事だ。まずは福娘に神頼みしよう。 何かと議論されている「裁判員候補者」の「当選確率」が、大阪は全国一の「211人に1人」だ。この確率、大阪だけ「年末ジャンボ宝くじ」に適用出来ないか?  昔よく僕の中のクラシック、であった「ポールモーリア」や「レーモンルフェーブル」の軽快音を聴きに行った「大阪フェスティバルホール」が、ひとまず閉館。50年間、いい音楽を有難う。そしてまた、中ノ島で逢いましょう。

 これら気になったニュース以外で、僕が一番印象に残ったのは「0系新幹線『団子っ鼻』の惜しまれての引退」だ。思えば、初代新幹線の衝撃のデビューは、1964年、あの東京オリンピックが開催された年。この年は、僕にとっても忘れられない思い出がある。何よりも強烈なインパクトとして脳裏に焼きついているのは、中学生時の聖火リレーの光景だ。眩しいオレンジ色の光と白い煙を残し、一瞬にして聖火ランナーが僕の目の前を通り過ぎて行った。

 あの時、僕はしみじみ思ったものだ。「あの聖火は、我が憧れの長嶋茂雄がいる東京に行くんだ、新幹線ひかりに乗って東京に行きたい」と。以来、なぜか聖火のともしび、長嶋茂雄の雄姿、新幹線は僕の中でダブっている。その意味も込めて、僕もしばしば利用した初代0系新幹線に、有難うとお礼を言いたい。

 今日も他のしがらみはオミットして、僕の感動の続編を紹介する。前回書いたNHKテレビ「天空から見た紅葉」で、もう一つ印象に残る風景があった。それは、越中富山を流れる代表的河川「○○」の上流にある世界遺産「白川郷」の紅葉と「湯気」だ。日本の原風景の上空から見た紅葉も眩しかったが、白川郷の民家も温かかった。温かい? 誰もそう思うだろう。だけど、僕の心は本当に温かくなったのだ。この感動は恐らく、かつて訪れた地という僕自身の思い出と、日本で有数の「豪雪地帯に佇む合掌造りの民家」の屋根から立ち上る温かい湯気の相乗効果、だとそう思う。

 かの地の朝の厳しい冷え込みが解かれるのは、温かい太陽の陽射しがあってこそ。その陽射しを思う存分浴びて、冷え切った茅葺屋根が温まり、周囲の湿気が湯気となって蒸発上昇する現象は、あの白川郷ならでは、だろう。○○という川は、この白川郷の生みの親だ。○○沿いには、数多くの名湯を擁する北陸でも、秘湯中の秘湯「大牧(おおまき)温泉」がある。この大牧温泉は、今も○○峡を行く船でしか辿り着けない湯宿で、言わば道なき道の最奥にある周囲から孤立した秘湯だ。旅好きの人にとっては、こんな特長があるから○○という川の存在感が増すのだ。ここでの銀世界を愛でる「雪見露天風呂」は、秘境の雰囲気満点だろう。

 さて、遅ればせながらここでクイズだ。白川郷、五箇山などの山里を流れるこの川の名は? ・・・・・。正解は「庄川」だ。庄川は、今も越中人の心の友だ。もう少しこの話しをしたいが、名残惜しさを胸にこの辺で突然現実に戻って、今日も「/」に向けて発進(発信)する。テーマは「内定取り消し」 果たして、取り消した企業の長に心はあるのだろうか。

 「売り手市場」の短い春が終わったとばかりに、またまた学生達の就職が大ピンチだ。その理由は、100年に1度あるかないかと言われる世界金融危機。この影響で業績が急激に悪化した日本企業が、防御策として真っ先に人員削減に走ったからだ。この第一の被害者は、言うまでもなく非正規労働者だ。これは、過去においても企業の常套手段、言わば常道だった。なぜなら企業は、元々これらの人達を雇用調整弁として扱って来た歴史がある。派遣会社などを真ん中に入れて、自らの方針を都合のいいように正当化して、責任逃れして来たいきさつがあるからだ。特にここ数年来の企業の対応をみると、これも到底まともな行為とは言い難い面がある。なので、僕も一派遣社員の立場として、このブログで今まで何度も反対意見を言い続けて来た。しかし、この話しは今日は棚に上げて封印する。

 今回問題にするのは、世界金融危機の第二の被害者とでも言うべき学生達の内定取り消しだ。この関連意見は、確か過去においてもここで採り上げた記憶がある。じゃあなぜ、このことに再度こだわるのかと言えば、現時点で何の自己責任もない彼、彼女らを、企業がいとも簡単に「社会への入り口」で、働くという人生最大の希望の砦を潰してしまうのか、という一種の嫌悪感があるからだ。勿論、この嫌悪の対象は企業トップ。僕は改めて彼らに言いたい。なぜなんだ。一度は採用を決めておきながら、今になって取り消すとは。ケンモホロロのそのやり方、卑怯ではないか。

 確かに、日本主要企業100社の内98社が景気後退局面に入ったという昨今の情勢は厳しいものがある。こんな諸般の事情から、企業を取り巻くグローバルの荒波は深刻で、文字通り危機迫っている。また、国内の景気も戦後最悪の域にまで達している。それは十分理解出来る。しかし、だからと言って目先の儲けばかりを優先して、これからじっくり育成して行かねばならない起業の将来を担う若い人材を、一端採用の意志を示しておいて、今になってたった紙切れ一枚であっさり切ってしまうとは何事か!!  その軽薄さ、度量のなさ。これは社会貢献、社会的責任の観点から言っても、学生達の立場から言っても、言語道断、しかも薄情過ぎる行為だ。それどころか、全く度を越したあるまじき行為ではないだろうか。

 内定を取り消された学生達の心情を察すれば、この行為は、これから新しい第一歩を踏み出す世の中から一瞬にして裏切られたようなもので、当人は大ショックだろう。また、心を感じない極めて事務的な文面で不採用を通知され、目の前が真っ暗になった学生も相当数いることだろう。そしてもう一つ、企業に勘ぐりたいことが僕にはある。それは、本当に企業が彼、彼女らに真剣に(採用に向けて)ギリギリの努力をしたのだろうか、という疑念、疑問だ。このことは、決して目には見えない一番大事なことだ。あくまで邪推の域を出ないが、僕は思う。この一方的な内定取り消しは、客観、相対、合理的な理由なしに、ただ企業のその場凌ぎのご都合主義で、本人を切ってしまった可能性が高いのではないか。

 だとすれば、この労働契約の解除は、法的には違法となる行為だ。学生達は、このまま弱い立場に埋もれて泣き寝入りしてはいけない。法に謳われていることに疑問があるなら、今すぐ立ち上がるべきだ。身近な対応手段としては、学校に行くなり、ハローワークに行くなりして、事の成り行きをしっかり見極め事実を把握した上で、企業側と取り消しを巡る交渉や話し合いの場を設けることが寛容だろう。

 思えば、我々の学生時代はそれこそ「引く手あまた」だった。何も苦労せず希望の職種に就職した人もたくさんいるし、たとえ日本の学生にありがちな「大学に入ってからは遊び人」のヤカラでも、まずまず、まあまあの仕事にありつけたものだ。あんな時代はもう二度と来ないだろう。(それと今の学生を比較するのはちょっと可哀想だが)この問題で僕が一番危惧するのは、まるでバブル崩壊後の失われた10年が甦ったかのような「就職氷河期の再来」の悪夢が、またやって来るのではないかということだ。この逆戻り現象は、人員再編を画策する大多数の企業にとっては頭痛の種かも知れない。が、これは学生達にとっても、それ以上の深刻な問題だ。いい方向に向かってくれればいいが。

 聞くところによれば、インターシップなどの説明会で、ある企業のガイダンスでは今後採用数を10分の1に減らす、というウワサもあるらしい。また、内定を取り消される4回生が相次いでいるとの情報もある。この懸念は高校とて同じだろう。僕は怒る。日本の企業、とりわけ大企業や一部の優良中小企業は、ここ数年の好景気や海外需要で相当懐が潤った筈だ。それを忘れて、ただ闇雲に雁首を揃えて、内定取り消し、人員削減に走ってはならない。

 ただし、全く懐に余裕がない中小零細企業は別だ。それでも、少しは今までのストックがある企業はあるだろう。それらも含めて大事な視点は、企業は社会貢献と社会的責任を全うせよということだ。これは今の時代にあっては、常識の王道。これを忘れてしまっては困る。何度も言うが、企業は消費者があって始めて成り立つ。言わば地域社会が企業を育てているのだ。そのことを知った上で、企業は行動すべきだろうと僕は思う。今回に関して言えば、地域社会の一員である若者の不採用は、企業の未来の損失。これを肝に銘じてしかるべき対処をしてもらいたい。

 幸いにも国も動き出した。厚労省は、企業の内定取り消し策として職業安定法の施行規則を改正し、取り消した企業を指導するという。そして、悪質な場合は企業名を公表出来る規定を設ける方針だ。内定を取り消され就職先が決まらない学生を雇い入れた企業には、1人数十万円から100万円の奨励金を支給し、早期の就職決定を支援する。この動きは今後注目されるだろう。果たしてどうか? 

 もう一つ危惧することがある。それは、このような企業の安易な採用抑制が、ひょっとして今後常態化しないかということだ。不幸にも、世界金融危機がもたらす大不況は後1~2年続く、という専門家の見方もあり、この不況脱出には少なくても後数年かかる、という経済アナリストもいる。このことは、バブル崩壊後不況に見舞われ、新卒者の採用を絞りに絞った90年代の企業姿勢を連想させる。思い起こせばその結果、正社員になれないたくさんの若者が生まれた。いわゆる前述した就職氷河期の若き犠牲者だ。彼らはその後も、口先だけの好景気に翻弄され安定した仕事にありつけないまま、今も貧困層として社会の底辺をさ迷っている。言葉が過ぎるかも知れないが、そんな彼らは悲劇の生き残りだ。

 その人達はロストジェネレーションと呼ばれる。年の瀬に吹きすさぶ木枯の中を歩く身寄りのない孤独者を連想させる、非常に淋しい名前だ。だが皮肉にも、彼(彼女)らは社の人件費削減の最大功労者として、大いに企業貢献しているのだ。しかし、企業の冷たい仕打ちによって、未だに彼らの賃金は低過ぎる。この一種のパラドックスは、混沌として閉塞感漂う日本社会の象徴だ、とは言えないだろうか。僕もワーキングプアに近い派遣労働者。決して他人事には思えない。

 だからこそ企業に伝えたい。「内定取り消し」というひどい仕打ちで、若者を社会の入り口から追い出してしまう卑怯な態度はもう止めよう。未来ある若者に仕事が出来るという希望を捨てさせることは、日本の未来を捨てることにも繋がる。そしてその行為は、再びワーキングプア、ネットカフェ難民などの貧困層を生み出す元になる。ひいてはそれが、少子高齢化に輪をかける結婚出来ない症候群の成人を増殖させ、最終的には社会保障制度の崩壊などとなって撥ね返り、日本社会に心身の貧困をもたらすのだ。要するに若者の社会への入り口が、貧困の出口になってはいけない、ということだ。

 よく考えてみると、今の世の中何でもかんでも負の連鎖だ。そんな負のスパイラル現象が再び出現しないよう、今こそ企業の真価を問いたい。苦しい時には、あらゆるものの真実、人間の真実がよく見える。これは僕のモットーだ。若さは馬鹿さだが、その馬鹿さはいずれ社会で生かされる。これも僕のモットーだ。モットーとは、信条、標語、座右銘。その意味で、今再来しつつある学生の社会の入り口にある危機を、企業の正のモットーで、負のスパイラルを正のスパイラルに変えよう。そうすれば新卒者の心の闇も解消するだろう。この場合、解消の意味は「取り消し」だ。企業の座右銘がぶれないことを祈る。