地蔵盆の釣提灯の淡いオレンジ色、ヒマワリの太陽色がまだまだ眩しいが、今の心境は早く秋が来て欲しい、ただその一言だ。 盆明けの年間最大需要に耐え切れず、東京電力がついに電力カット要請に踏み切った。今までの色んなツケが回った感じだ。 せこい話、老人介護のグッドウィルに、派遣労働者が不当なピンハネ分返還要求。妥当な判断だろう。ワーキングプアに勝利を!! ウィシャルオーバーカム、サムデイ。 シャープ液晶大型テレビ、ついに幅2センチの最薄。これも驚異の世界だ。 ファミコン言葉があるという。「~でよろしかったでしょうか」「~になります」 ファミレスやコンビニ店員のあの不愉快な迷惑語を指すらしい。何でもかんでも造語になる昨今、造語の数なら僕も負けない。
人は、思っている以上にネットワークが狭い。何時も同じ様な人と話をしていても、新しい発想はなかなか生まれて来ない。また、似た様な境遇の人達と話をしていたのでは、生きるヒントも得られないし学ぶことも少ない。これ、今の僕の実感。 太田大阪府知事は、世界陸上が始まった大阪を世界的観光地にすると言うが、気になるのは、あの外国人旅行者の玄関口、関西空港から大阪市内に向かう湾岸道路周辺の醜い風景だ。あれを見れば、第一印象はきっと悪い。この点、太田さん、早く気付いて欲しい。観光地も、人は見た目が9割だ。 僕の大好きな我々世代の青春の巨匠、森田健作さんは、「青春の勲章は、くじけない心だ」と自信満々に謳(うた)った。 あれから40年、今の僕の勲章はいったい何だろう。一つ年上の健作さんの様に、何時までも若い心を持ちたいものだ。今日はそんなくじけない若い心を持った、オジサン2人の青春旅行記だ。
2人のオジサンとは、僕と競馬の調教師になり損ねたという手先の器用な僕の友人だ。その2人が、盆休みの平凡な生活パターンを変えようと、日本列島が猛暑に襲われた14~16日にかけて、危ない車で木曽路を訪ねた。
今回巡ったのは、木曽路はすべて山の中、木曽十一宿の中でも北から2番目にあたる奈良井宿から木曽福島、そして、蕎麦畑の向こうに雄大な御嶽山が望まれる開田高原だ。奈良井宿は、山深いところにあり標高は1000メートル足らず。開田高原は、1200~1300メートルで本来は涼しい筈なのに、想像通り猛暑の影響で日中は暑かった。だけど、木曽路を巡る僕の心は熱かった。
京と江戸を結ぶ中山道69宿の要所奈良井は、江戸時代、旅籠や問屋などが軒を並べ、「奈良井千軒」と呼ばれたほど賑わいをみせた。宿場町の面影を残す旧街道沿いには、酒屋の杉玉(酒林)、旅籠の軒灯、千本格子、くぐり戸などの由緒ある家並みが続く。豊富な木材を利用した伝統工芸品も多く、特に木櫛(きぐし)に漆をほどこした美しい「塗り櫛」は女性に人気がある土産物だ。
奈良井の町も、南木曽の妻籠や馬籠と同じく国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、その歴史的風土に触れるだけでも大きな価値がある。旧街道をぶらり歩いていると、よくありがちな観光用に整備された町ではなく、派手さはないが、今も人々がじっくりと質素に生きている町といった生活感があり、かつ町自体に言い様のない風格がある。イタリアの芸術の都フィレンツェから取材スタッフが来て、長期間滞在したというエピソードもうなづける。
奈良井宿が賑わったのは、南に木曽路最大の難所とされた標高1200メートルに近いある峠があったからだ。ここでクイズだ。その峠の名前は何か? ・・・・・。正解は「鳥居峠」 この峠は、太平洋に流れる木曽川と日本海に流れる日本一の大河、信濃川の支流である奈良井川、梓川、犀川、千曲川などの分水嶺にあたるところだ。それを想うと、中山道の石畳が一部復元された峠道も僕には癒しの道だった。急坂も全く気にならない。僕はこの峠に昔から興味があったが、何故か訪れたことがなかったので、往時の旅人を偲びながら感動もひとしおだった。峠から次の宿、薮原まではすぐだ。再度奈良井宿に引き返し、辛うじて泊まれた旅籠の木曽の檜風呂は、臭いも雰囲気も最高だった。これが一日目。
先を急ごう。二日目は、R19で「入り鉄砲に出女」の福島関所跡へ。木曽福島も宿場町として栄えたが、どちらかと言えば木曽路の行政の中心としての役割が大きい。木曽川に張り出す様に建てられた、生々しい崖屋(がけや)造りの家々は未だ健在で懐かしかった。この後、R361で開田高原に向かった。
開田高原は、白い可憐な花をつけた蕎麦畑の清涼感を運んでくれる風景もステキだが、何といっても圧巻は、遠望する標高3067メートルの霊峰御嶽山だ。中央に主峰・剣ヶ峰、周囲には摩利支天(まりしてん)山などの外輪山を従え、堂々たる存在感で眼前に迫ってくる。この摩利支天山のネーミングに僕は興味があった。それは、北アルプス剣岳の三の窓付近の「クレオパトラニードル」という岩峰と同じく、印象に残る女性的な名前だったからだ。摩利支天よ永遠なれ!! この開田高原で「一泊」して、翌日木曽川沿いを寄り道しながら、猛暑の中を大阪に帰った。
この二泊三日の「思いつき速実行旅」の中で、面白いことが二つあった。と言うより、自ら演出したという方が正しいのかも知れない。一つは、開田高原付近の王滝川支流のまた支流、名もなき清流での「そうめん流し」だ。僕の好きなブランド「揖保の糸」を中央アルプスの冷たい清流で流そうと、適当なところで車を止め、予め用意した約1メートルの青竹の半筒2本を手に、いいオジサン2人が名もなき清流を遡るが、いい場所がなかなか見つからない。やっと見つけた絶好のそうめん流しポイント。だが、好きなヤツは必ずいるものだ。そこには、先着の若者、アベックがいた。でも、腹がもう限界。ここをそうめん昼食の場所と決め、川の片隅に竹筒をセット。出来た!! 見事な約2メートルの段差付きそうめん流し台だ。
次は、携帯ガスコンロに平鍋をセット、川水を沸騰させ揖保の糸をゆでる。そうめんをザルに入れ、清流で冷やす。そうめんつゆも。さあ、スタンバイ完了だ。この2メートルのそうめん流し、自然の風景に見事にマッチングして、雰囲気にピッタリの本格味だ。そうめんをワンサカ持参したので、若者にもアベックにも賞味してもらったが、これがまた大好評だった。
もう一つは、開田高原付近(あまり声を大にして言えないので、付近とする)での、星空見物と野宿だ。怪しかった雲行きも夜半前になると万事休す。ここにも先人がいたが、闇夜のこと、いちいち気にしていられない。路上にテントシートを広げ、敷きパットをしいて、枕を頭に「見あげてごらん夜の星を」 おっと、その前に中年線香花火大会だ。目立たずそれでいて雰囲気抜群と思いきや、あまりの優雅さにまたまた人が集まって来た。これも大好評で、特に女の子は大絶賛の嵐だ。
夜のしじまの星空もロマンチックだった。場所柄、満天の星とミルキーウェイとは行かないまでも、この路上泊、手を変え、品を替え、酒も混じって、女も混じって、永遠御来光まで盛り上がってしまった。皆さんもひそみに隠れて一度やってみては。 以上何があるか分からない面白かった出来事だ。
しかし、このまま終わってしまったのでは、今日の「/」は成り立たない。よって、遅ればせながら「/」を書くことにする。今回の旅で、気になったことが一つある。それは、旅籠宿の主人が、夕食中にはからずもしみじみと語った次の言葉だ。「奈良井の宿も、妻籠や馬籠の宿も伝統的な木曽路の風景、風土を守りながら、誠心誠意お客さんと接しているつもりですが、一部の観光客の心ない発言には何時も失望感を覚えます」
どこの観光地にも、旅のマナーが不足している観光客はいることは確かだ。僕も国内外を問わず、ありとあらゆるところでそんなシーンを見て来た。が、この奈良井宿に限って言えば、いかにも豪華絢爛な「お祭り騒ぎ的物見遊山」を期待しているお客さんはいない筈だ。また、木曽路はそんなコンセプトの観光地ではない。と理解していたが、あに図らんや、そんなこの場の雰囲気に似合わない、とんでもなく身勝手な客がまだまだ後を絶たないのだそうだ。 僕は思う。誰でも自分の思い描く旅のシナリオはある。しかしそのシナリオは、行く先々の宿のコンセプトによって変わっていくべきものなのだ。また、そうすることが旅のマナーだろう。
例えば、伝統的保存地区を残す奈良井宿に泊まって、巷でよくありがちな酒宴の席にコンパニオンを呼んで、魚などの豪華船盛り料理に舌鼓を打ち、ドンチャン騒ぎをした後、大露天風呂で優雅に過ごすなどというセッティングは、到底不可能なことだ。こんなことは始めから分かり切っている。それを無視して、過剰サービスを求める客や、些細なことにいちいちいちゃもんをつけるご都合主義の客。こんな客は、客として最低ではないだろうか。それに、この様なその場外れの身勝手な客の態度は、見ていても醜いものだ。
あのフィレンツェにも匹敵する風土を持つ奈良井の非日常の中に、普段の日常の悪態をそっくりそのまま持ち込んだかの様な旅人。これは、旅人と言うより、日常そのものの俗世間人の風景だろう。「じゃあ、君達は何故旅に出るんだ」 僕は思わずこう叫びたくなる。非日常の中で、日頃の生活感を出し過ぎるのも考えものだ。これがもし、旅人のマナーに厳しいドイツなどの宿泊地であれば、「ご不満なら、もう帰って下さい」 という結果になるだろう。
宿の主人はこうも言った。「今は奈良井のどこの宿も、木曽路の伝統を守りながら、生き残りを賭けているんです。生活がかかっているんです。よく企業の人が、生き残りを賭けた戦いと言いますが、あれは間違いです。厳密に言えば、あれは勝ち残りというべきです。僕たちはあれとは違う」
僕はドキッとした。この人は賢明な人だ。的を得ている。そう思った。バブル以降、日本の観光地も発想の転換を求められている。その言葉通りの発言だ。こんな立派な宿の主人の話を聞けるとは、想像もしていなかっただけに、僕は今回の旅で奈良井の器の広さを知らされた感じがした。このことだけでも大収穫。猛暑の木曽路での、主人の熱いメッセージだった。
随分とブログが長引いてしまった。僕の趣味の範囲だからかも知れない。もう少し木曽路の話をする。昔、好きだったクイズのファイナルを狙って、もしや? と思い、中山道の木曽十一宿を僕流に丸暗記したことがある。それは、「煮え悩み、気上げ素腹の溝の妻」だ。題して、「我を忘れて悩む妻」 だが、今考えると相当理解に苦しむ。実際の十一宿は、北から、「贄川、奈良井、薮原、宮ノ越、木曽福島、上松、須原、野尻、三留野(みどの)、妻籠、馬籠」だ。丸暗記のお陰で、今もすらすら言えるからまだ大丈夫だ。
僕は何故覚えようとしたのだろうか。それはやはり木曽路が好きだったからだ。そして、今回の鳥居峠で、曲がりなりにも足掛け40年で「木曽路完全踏破」を達成した。(細かく言えば?が付く。旧街道が確認出来なかった場所やバイクでの走破が含まれている)
自然を愛する旅人にとって、木曽路はそれこそ山の中という特別の場所だ。僕は他人の旅を干渉する立場にはないが、皆旅のマナーを守って、日本の屋根を貫いて続く、かけがえのない中山道随一の山路を大切にしようではないか。いにしえ人は、山あり谷ありの木曽路を抜けた後、つかの間の開放感を味わったという。僕も今回の旅で、日本海と太平洋の分水嶺の鳥居峠に立って、木曽路完全踏破という開放感を味わった。ただし、名もない清流と御嶽を見渡せる開田高原の自然を少し汚してしまった「そうめん流し」と「輝く星空見物」だけは、「ここだけの話」だ。あれも青春の勲章、僕の「はまり役」だとは思うが。
人は、思っている以上にネットワークが狭い。何時も同じ様な人と話をしていても、新しい発想はなかなか生まれて来ない。また、似た様な境遇の人達と話をしていたのでは、生きるヒントも得られないし学ぶことも少ない。これ、今の僕の実感。 太田大阪府知事は、世界陸上が始まった大阪を世界的観光地にすると言うが、気になるのは、あの外国人旅行者の玄関口、関西空港から大阪市内に向かう湾岸道路周辺の醜い風景だ。あれを見れば、第一印象はきっと悪い。この点、太田さん、早く気付いて欲しい。観光地も、人は見た目が9割だ。 僕の大好きな我々世代の青春の巨匠、森田健作さんは、「青春の勲章は、くじけない心だ」と自信満々に謳(うた)った。 あれから40年、今の僕の勲章はいったい何だろう。一つ年上の健作さんの様に、何時までも若い心を持ちたいものだ。今日はそんなくじけない若い心を持った、オジサン2人の青春旅行記だ。
2人のオジサンとは、僕と競馬の調教師になり損ねたという手先の器用な僕の友人だ。その2人が、盆休みの平凡な生活パターンを変えようと、日本列島が猛暑に襲われた14~16日にかけて、危ない車で木曽路を訪ねた。
今回巡ったのは、木曽路はすべて山の中、木曽十一宿の中でも北から2番目にあたる奈良井宿から木曽福島、そして、蕎麦畑の向こうに雄大な御嶽山が望まれる開田高原だ。奈良井宿は、山深いところにあり標高は1000メートル足らず。開田高原は、1200~1300メートルで本来は涼しい筈なのに、想像通り猛暑の影響で日中は暑かった。だけど、木曽路を巡る僕の心は熱かった。
京と江戸を結ぶ中山道69宿の要所奈良井は、江戸時代、旅籠や問屋などが軒を並べ、「奈良井千軒」と呼ばれたほど賑わいをみせた。宿場町の面影を残す旧街道沿いには、酒屋の杉玉(酒林)、旅籠の軒灯、千本格子、くぐり戸などの由緒ある家並みが続く。豊富な木材を利用した伝統工芸品も多く、特に木櫛(きぐし)に漆をほどこした美しい「塗り櫛」は女性に人気がある土産物だ。
奈良井の町も、南木曽の妻籠や馬籠と同じく国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、その歴史的風土に触れるだけでも大きな価値がある。旧街道をぶらり歩いていると、よくありがちな観光用に整備された町ではなく、派手さはないが、今も人々がじっくりと質素に生きている町といった生活感があり、かつ町自体に言い様のない風格がある。イタリアの芸術の都フィレンツェから取材スタッフが来て、長期間滞在したというエピソードもうなづける。
奈良井宿が賑わったのは、南に木曽路最大の難所とされた標高1200メートルに近いある峠があったからだ。ここでクイズだ。その峠の名前は何か? ・・・・・。正解は「鳥居峠」 この峠は、太平洋に流れる木曽川と日本海に流れる日本一の大河、信濃川の支流である奈良井川、梓川、犀川、千曲川などの分水嶺にあたるところだ。それを想うと、中山道の石畳が一部復元された峠道も僕には癒しの道だった。急坂も全く気にならない。僕はこの峠に昔から興味があったが、何故か訪れたことがなかったので、往時の旅人を偲びながら感動もひとしおだった。峠から次の宿、薮原まではすぐだ。再度奈良井宿に引き返し、辛うじて泊まれた旅籠の木曽の檜風呂は、臭いも雰囲気も最高だった。これが一日目。
先を急ごう。二日目は、R19で「入り鉄砲に出女」の福島関所跡へ。木曽福島も宿場町として栄えたが、どちらかと言えば木曽路の行政の中心としての役割が大きい。木曽川に張り出す様に建てられた、生々しい崖屋(がけや)造りの家々は未だ健在で懐かしかった。この後、R361で開田高原に向かった。
開田高原は、白い可憐な花をつけた蕎麦畑の清涼感を運んでくれる風景もステキだが、何といっても圧巻は、遠望する標高3067メートルの霊峰御嶽山だ。中央に主峰・剣ヶ峰、周囲には摩利支天(まりしてん)山などの外輪山を従え、堂々たる存在感で眼前に迫ってくる。この摩利支天山のネーミングに僕は興味があった。それは、北アルプス剣岳の三の窓付近の「クレオパトラニードル」という岩峰と同じく、印象に残る女性的な名前だったからだ。摩利支天よ永遠なれ!! この開田高原で「一泊」して、翌日木曽川沿いを寄り道しながら、猛暑の中を大阪に帰った。
この二泊三日の「思いつき速実行旅」の中で、面白いことが二つあった。と言うより、自ら演出したという方が正しいのかも知れない。一つは、開田高原付近の王滝川支流のまた支流、名もなき清流での「そうめん流し」だ。僕の好きなブランド「揖保の糸」を中央アルプスの冷たい清流で流そうと、適当なところで車を止め、予め用意した約1メートルの青竹の半筒2本を手に、いいオジサン2人が名もなき清流を遡るが、いい場所がなかなか見つからない。やっと見つけた絶好のそうめん流しポイント。だが、好きなヤツは必ずいるものだ。そこには、先着の若者、アベックがいた。でも、腹がもう限界。ここをそうめん昼食の場所と決め、川の片隅に竹筒をセット。出来た!! 見事な約2メートルの段差付きそうめん流し台だ。
次は、携帯ガスコンロに平鍋をセット、川水を沸騰させ揖保の糸をゆでる。そうめんをザルに入れ、清流で冷やす。そうめんつゆも。さあ、スタンバイ完了だ。この2メートルのそうめん流し、自然の風景に見事にマッチングして、雰囲気にピッタリの本格味だ。そうめんをワンサカ持参したので、若者にもアベックにも賞味してもらったが、これがまた大好評だった。
もう一つは、開田高原付近(あまり声を大にして言えないので、付近とする)での、星空見物と野宿だ。怪しかった雲行きも夜半前になると万事休す。ここにも先人がいたが、闇夜のこと、いちいち気にしていられない。路上にテントシートを広げ、敷きパットをしいて、枕を頭に「見あげてごらん夜の星を」 おっと、その前に中年線香花火大会だ。目立たずそれでいて雰囲気抜群と思いきや、あまりの優雅さにまたまた人が集まって来た。これも大好評で、特に女の子は大絶賛の嵐だ。
夜のしじまの星空もロマンチックだった。場所柄、満天の星とミルキーウェイとは行かないまでも、この路上泊、手を変え、品を替え、酒も混じって、女も混じって、永遠御来光まで盛り上がってしまった。皆さんもひそみに隠れて一度やってみては。 以上何があるか分からない面白かった出来事だ。
しかし、このまま終わってしまったのでは、今日の「/」は成り立たない。よって、遅ればせながら「/」を書くことにする。今回の旅で、気になったことが一つある。それは、旅籠宿の主人が、夕食中にはからずもしみじみと語った次の言葉だ。「奈良井の宿も、妻籠や馬籠の宿も伝統的な木曽路の風景、風土を守りながら、誠心誠意お客さんと接しているつもりですが、一部の観光客の心ない発言には何時も失望感を覚えます」
どこの観光地にも、旅のマナーが不足している観光客はいることは確かだ。僕も国内外を問わず、ありとあらゆるところでそんなシーンを見て来た。が、この奈良井宿に限って言えば、いかにも豪華絢爛な「お祭り騒ぎ的物見遊山」を期待しているお客さんはいない筈だ。また、木曽路はそんなコンセプトの観光地ではない。と理解していたが、あに図らんや、そんなこの場の雰囲気に似合わない、とんでもなく身勝手な客がまだまだ後を絶たないのだそうだ。 僕は思う。誰でも自分の思い描く旅のシナリオはある。しかしそのシナリオは、行く先々の宿のコンセプトによって変わっていくべきものなのだ。また、そうすることが旅のマナーだろう。
例えば、伝統的保存地区を残す奈良井宿に泊まって、巷でよくありがちな酒宴の席にコンパニオンを呼んで、魚などの豪華船盛り料理に舌鼓を打ち、ドンチャン騒ぎをした後、大露天風呂で優雅に過ごすなどというセッティングは、到底不可能なことだ。こんなことは始めから分かり切っている。それを無視して、過剰サービスを求める客や、些細なことにいちいちいちゃもんをつけるご都合主義の客。こんな客は、客として最低ではないだろうか。それに、この様なその場外れの身勝手な客の態度は、見ていても醜いものだ。
あのフィレンツェにも匹敵する風土を持つ奈良井の非日常の中に、普段の日常の悪態をそっくりそのまま持ち込んだかの様な旅人。これは、旅人と言うより、日常そのものの俗世間人の風景だろう。「じゃあ、君達は何故旅に出るんだ」 僕は思わずこう叫びたくなる。非日常の中で、日頃の生活感を出し過ぎるのも考えものだ。これがもし、旅人のマナーに厳しいドイツなどの宿泊地であれば、「ご不満なら、もう帰って下さい」 という結果になるだろう。
宿の主人はこうも言った。「今は奈良井のどこの宿も、木曽路の伝統を守りながら、生き残りを賭けているんです。生活がかかっているんです。よく企業の人が、生き残りを賭けた戦いと言いますが、あれは間違いです。厳密に言えば、あれは勝ち残りというべきです。僕たちはあれとは違う」
僕はドキッとした。この人は賢明な人だ。的を得ている。そう思った。バブル以降、日本の観光地も発想の転換を求められている。その言葉通りの発言だ。こんな立派な宿の主人の話を聞けるとは、想像もしていなかっただけに、僕は今回の旅で奈良井の器の広さを知らされた感じがした。このことだけでも大収穫。猛暑の木曽路での、主人の熱いメッセージだった。
随分とブログが長引いてしまった。僕の趣味の範囲だからかも知れない。もう少し木曽路の話をする。昔、好きだったクイズのファイナルを狙って、もしや? と思い、中山道の木曽十一宿を僕流に丸暗記したことがある。それは、「煮え悩み、気上げ素腹の溝の妻」だ。題して、「我を忘れて悩む妻」 だが、今考えると相当理解に苦しむ。実際の十一宿は、北から、「贄川、奈良井、薮原、宮ノ越、木曽福島、上松、須原、野尻、三留野(みどの)、妻籠、馬籠」だ。丸暗記のお陰で、今もすらすら言えるからまだ大丈夫だ。
僕は何故覚えようとしたのだろうか。それはやはり木曽路が好きだったからだ。そして、今回の鳥居峠で、曲がりなりにも足掛け40年で「木曽路完全踏破」を達成した。(細かく言えば?が付く。旧街道が確認出来なかった場所やバイクでの走破が含まれている)
自然を愛する旅人にとって、木曽路はそれこそ山の中という特別の場所だ。僕は他人の旅を干渉する立場にはないが、皆旅のマナーを守って、日本の屋根を貫いて続く、かけがえのない中山道随一の山路を大切にしようではないか。いにしえ人は、山あり谷ありの木曽路を抜けた後、つかの間の開放感を味わったという。僕も今回の旅で、日本海と太平洋の分水嶺の鳥居峠に立って、木曽路完全踏破という開放感を味わった。ただし、名もない清流と御嶽を見渡せる開田高原の自然を少し汚してしまった「そうめん流し」と「輝く星空見物」だけは、「ここだけの話」だ。あれも青春の勲章、僕の「はまり役」だとは思うが。