今冬も寒暖の差が激しい。今朝の大阪の最低気温は氷点下に近い。さあ、明日は注目の大阪府知事選開投票だ。静かに結果を待とう。強い「西高東低」で、各地で波の花が舞っている。そんな中、極寒をものともせず、スキーで南極点に到達した日本人女性のニュースが飛び込んできた。快挙だ。地元寝屋川の大阪電気通信大学では、コンピューターの「原田ウィルス」が、流行っている。この生徒、大人しいがタダモノではない。
大寒前日の日曜日。待望の雪は、河内平野に積もらなかった。雪国の人には悪いが、僕は相当ショックだ。前夜に、あれだけ降る、降ると言っていたNHKの美人気象予報士「なからい」さん。降雪確率が「半」分「位」だと最初から言っといてよ。それで半位(なからい)やろ。青菜に塩の我が想い。せっかく、都会の白黒モノトーンの雪景色を期待していたのに。お陰でその日は、あまり気が乗らなかった少年野球のコーチ業が中止にならなかった。サルバトーレ・アダモの名曲も歌えず僕は残念無念。
僕にとって、雪と言えばスキーだ。アフタースキーで、仲間達と撮る降雪の夜の1コマは、すごくロマンチックだ。淡雪が見事な演出をしてくれる。ウソだと思うなら、一度試してみるといい。たとえスキーでなくても、見映えのいい写真になる。撮影には、華やかさがあるギャルがいるのが好ましい。が、しっとりとした和服美人がいれば、もっと引き立つ。
寒雀がやかましい。ヒヨドリの声は迷惑だ。メジロの鳴き声は、さながらモーツアルト。彼らには、もうすぐ梅の芳香が彩りを添えるだろう。街を歩けば、関東炊き、湯豆腐の匂い。これも芳香だ。もう一つ芳香がある。気温が10度を割ると真っ先に跳びつく「鍋物」だ。門真市のお好み焼き屋のオバチャンは、「薬味やタレを工夫すると、普通の寄せ鍋が一味変わるんよ」と言う。ゴマダレや梅干を加えた醤油ダレも美味い。薬味は山椒、柚子の皮、さらしネギ、七味、もみじおろし。たまらないね。「美味しさ」の構成要素、旨味、苦味、塩味、甘み、渋みと「コク」や「キレ」の感じ方は、それこそ人それぞれだ。もう一言、オバチャンの忠言。「食べる時は『ズルズル』と『音を立てず』にね。でないと、女の子に捨てられるよ」 なるほど。王理恵さんにまつわる芸能ニュースの教訓か。
僕は、自称「鍋通」 昔は、女の多い宴会に限って、「鍋奉行」だった。チゲ(キムチ)鍋、すき焼き、おでん、カレー鍋、北国の石狩鍋、きりたんぽ鍋、色々とある中で、僕の好みはポン酢で頂く「カワハギ」の鍋だ。ではここでクイズ。このカワハギ、関西では独特の呼び方をする。さて何だろう。・・・・・。正解は「ハゲ」だ。これを知っていた人は、ハゲが気になる人か鍋通の人だろう。ハゲを使ったハゲ鍋は、僕の定番だ。この時季、魚へんに雪の鍋も美味い。鱈だ。さて何と読む? 答えは「タラ」だ。ハゲと同じく、切り身は白く艶やか。寒い夜の鍋物として欠かせない。ちなみに、干し鱈は「棒ダラ」と呼ぶ。これをエビ芋(里芋の一種)と一緒に煮た「いもぼう」は、京風料理の一つ。京都円山公園内にある「平野屋」が有名だ。ちょっと高いが、間違いなく京の味だろう。以上を以て、今週のクローズアップニュースに変身させる。
日本だけ一人負けと思いきや、世界同時株安だ。憎っくきサブプライムショック。頼みの中国も危ない。スタグフレーションが一層加速する予感。大丈夫か、春闘。非正規雇用者にも暗雲。僕には生活防衛しかない。 そんな中、福田総理が「環境立国宣言」をした。そして、当分、生活者消費者本意の政治に専念すると言う。僕は嬉しい。でも本当か? ダボスで何を言うの。日本の実態は最悪、ホンダの燃料電池車並みに先行きが見えてこないというのに。「明るいナショナル」は消えたが、「明るい福田」のイメージは全くない。でも、ああいうタイプって、民間の課長に多いよね。我が派遣先にも似たような課長がいる。
見た目スマートな福田さんに、もう一つ注文したいのが、自然環境保護の側に立った環境宣言だ。どうもこれが弱いと僕は感じる。その意味では、製紙大手のエコで騙す「罪深い行為」は許せない。コマーシャルで、悪徳を隠蔽する企業も多い。また、世の中には、野生鳥獣に対して悪徳を隠蔽するかのような「エサを与える行為」をする人も多い。果たして、エサを与えることは、いいことなのか、悪いことなのか、今日はその辺の話しだ。
今回は身近な話題に専念する。今から3年前の夏にこんなことがあった。僕の近くのマンションに、ハト好きの新入り夫婦がいた。この夫婦、何を勘違いしたのか、自宅マンションのベランダを、野生バトの溜まり場にしてしまったのだ。夫は、趣味の日曜大工で鳥の巣箱とも言える棚を作り、その上に市販のハトのエサを置いた。するとたちまち、付近を縄張りにするハトの群れがベランダめがけて集まって来るようになり、半月も経たない内にそこはハトの住処と化した。「クックー、クックー」と低音でうるさいハト独特のグルービーな鳴き声。鼻をつくフンの臭い。これには、マンションのみならず周辺の住民も迷惑千万だ。苦情を言うも、どうやら主人はヤクザっぽい。その顔相、眼光、荒っぽい言葉に圧倒され、躊躇する住民。この舞台に悠然と立ち向かったのが、何を隠そう「隣のオバチャン」だ。
ご近所の取締役、苦情処理人のオバチャンの勢いは凄かった。早速、この騒動の一部始終をマンションの管理人に報告。と同時に、持ち前のナニワ魂で、当の本人である無謀な夫婦に「直訴(直談判)」したのだ。するとどうだろう。オバチャンの理詰めの攻勢に、今度は夫婦がたじたじだ。そして、一週間も経たない内に、災いの元であるベランダの巣箱を撤去し始めた。かくして、一件落着だ。おまけにこの夫婦、神妙な顔をして素直に非を認め、マンションの管理人に頭を下げて誤ったという。さすがは遠山の金さん、水戸の黄門様、いや、隣のオバチャンだ。勿論、この勝利はオバチャンだけのものではない、地域のコミュニケーションの賜物。これこそ、「ご近所の底力」と言えるだろう。この事実は、僕も地域の住民として誇りに思ったものだ。
こんな出来事があったから言うのではないが、最近問題になっている野生の鳥獣被害の発端は、ほとんど心ない人間のエゴ、「エサやり」だ。人間が「かわいそうだから」と野生鳥獣に情けをかけたことが、結果的には仇となっているのだ。人間のエサやりが原因で、仇となったケースは色々ある。あえて詳細は書かない。が、常日頃から我々が「ご近所のもめ事」としてよく見かける、ペットのイヌ、ネコによるフン公害などは、誰でも知るところだ。飼われているイヌ、ネコはまだまし。街頭でそこいらのオバチャン達が、かわいそうだと情けをかけた野良イヌ、野良ネコはもっと悲劇だ。なぜなら、その人達の願いも空しく、これもご近所の苦情によって、行政の手でほとんどが殺戮されているのが実情だろう。これに関しては、元飼い主などに「捨てるなら飼うな」と声を大にして言いたい思いが僕にはある。
前述のハトの例は、心ない人間が「エサを与える」ことによって、フン公害など、野生鳥獣が人間生活に悪影響を及ぼし、ひいてはそれが、「野生生物の繊細な生態系を崩壊させる」悪循環に陥る元になっているのだということを示している。これに対して、森や山に棲む野生鳥獣が食べるエサがなくなり、止むを得ず民家に侵入して人間に被害を与えるケースも、近年激増している。これの原因は、かつて人間が手をかけてきた森や里山が荒廃したことだ。荒廃させたのは、間違いなく人間だ。人間が行政(国策)の失敗などによって、森や里山を放置したことが、野生鳥獣の被害を増加させているのだ。でも、決して人間が野生鳥獣を責められない。彼らは、人間と違って、本能の思うがままに動いているからだ。
このように、人間がエサを与えても、エサを与えなくても、今の日本は、野生鳥獣の被害を受ける下地があるのだ。そして、この構図がある限り人間への被害は避けられない。特に、地球温暖化による異常気象など、自然の生態系に大激変があった時は、今後も大きな問題になるのは必至だ。 この流れを堰き止めるのは、明らかに人間の役目だろう。ではどうするか。簡単に言えば、その答えは次の二つだ。一つは、人間の勝手気ままなエゴ活動を規正すること。もう一つは、人間が野生鳥獣の生息環境に適度に手を加えること。これしかないだろう。人間活動が、いい意味でも悪い意味でも野生鳥獣の生息環境を破壊する。そして、究極的に言えば、これが大自然の生態系を崩すきっかけになるのだ。
人的被害だけでなく、野生鳥獣による「農作物などの被害」の程度も僕は気になる。いったいどんな被害だろうか。昨年の12月に「鳥獣被害防止特措法」が国会で成立した。鳥獣駆除の許可権限を都道府県から市町村に移し、防護柵設置などに自衛隊の協力を求めることが出来るようになった。 朝日新聞によれば、06年度の農作物への鳥獣被害額は約196億円。被害面積は約11万ヘクタール。被害額は、北海道がダントツでほとんどがエゾシカによるものだ。年間7万から8万頭が捕獲され、道庁はジビエ(野生鳥獣)料理への活用を進めている。 果樹の里山形県は、サル被害が全国最悪だ。福岡県は、暖かい気候を好むイノシシ被害が深刻だ。鳥獣別の被害額は、イノシシ、シカ、カラス、サルの4種で7割超。アライグマやヌートリア、台湾リスなどの外来種の被害もある。
国のスケールになると、どうも我が寝屋川市には縁のない話しになりそうなので、再び身近な野生鳥獣の話しに戻る。僕の今の生活で言えば、国のスケールでは、有害野生鳥獣は「カラス」だけ。被害の多い都道府県の人には申し訳ないが、「何だつまらない」という隣のオバチャンの声が聞こえそうだ。でも、イヌ、ネコ、ハトもイノシシも、かつての古き良き時代は、よっぽどでない限り憎まれっ子ではなかった気がする。僕の中では、イヌは忠犬ハチ公のような「ワンコウ」だったし、ネコは親しみを込めた「ミーコ」だったし、カラスは「カンタロウ」、ハトは「ポッポチャン」、スズメは「スッチャン」、今年の干支のネズミに至っては「チュウコウ(忠公)」だった。それが今や、大半が悪役だ。人間の飼い方が悪いのか、それとも、こんな住みにくい世でも人間がヒマなのか、人間と巧く距離をとっている畜生が賢いのか、それは僕にも分からないが、一つ言えることは、「人間様もここらでよーく考えてみよう」「畜生に翻弄されてはいませんか?」
身近でエサを与えることは小さな行為だが、それが大きなことに繋がると、さっき僕は言った。少し話しが発展するけれど、大した思慮なしにエサを与えると言う意味では、野生鳥獣以外の身近な例がある。的外れかも、でも書こう。それは、例えば、郊外の野っ原に私利私欲で郊外型店舗というエサを与えて、街の中心をシャッター通りにさせた企業のことだ。僕はこれに、人間のエゴを感じる。
郊外型店舗というのは、聞こえはいいが、日本列島津々浦々を歩いて、僕が痛切に感じるのは、あれは間違いなく自然破壊だろう。企業が「悪いエサ」を与えたために、街の旧商店街が疲弊しお年寄りが取り残されてしまった。人間様の生態系の異変だ。また、そのために、街に残る貴重な小さな自然が消滅した。ナカヲトリモツのは、言わずと知れた「金」だ。言い換えれば、金が自然を壊しているのだ。特に日本はこれの汚染地域が多い。皆さんはアメリカに行ったことがあるだろうか。確かに、アメリカにも悪いエサはある。しかし、アメリカは国土が広大だ。郊外型の店舗がなければ、地域の生活が成り立たないといった印象を僕は受けた。まさにアメリカでは「いいエサ」だ。日本は狭い。なのに、どこの地域も同じコンセプトで、町の小さな自然、農地を開発してバケモノをこしらえた。日本に関して言えば、この開発は破壊だ。自然との調和を考えずに悪いエサを造ったのだ。だから、どこへ行っても、文化のかけらもない、美的感覚もない均質的な風景が展開されるのだ。
ここらはセンスの問題だろう。質の深い文化に裏打ちされたヨーロッパの国々ならば、こうはならないだろう。日本は、企業同士の縄張り争いで、フン公害にも似た悪いエサに様変わりしたのだ。このままでは、美しい国の景観が益々悪化するばかりだろう。僕のこの指摘が、必ずしも今日のテーマに適合していないかも知れない。しかし、企業の姿勢を問う意味では、一番分かりやすい例だと僕は思っている。世は環境年だ。企業も、野生のササユリが心に染み渡る芳香を放つように、人々の心に訴えるエサの与え方を模索して欲しいものだ。そうすることによって、自然の生態系も蘇る。
東京湾の「三番瀬」の保護活動に当たった千葉県知事の堂本暁子さんは、新聞紙上でこう言っていた。「自然を守りたい気持は一緒でも、行政の長として、運動家と同じ立場でないことはある。悩むところだ」と。確かにそうだろう。これは野生有害鳥獣にも言えることだ。いくら被害が激増したからと言って、ただ駆除すればいいという訳にはいかない。大事なのは、野生鳥獣を守るノウハウだ。だが、時として、殺戮が肯定される場合もあるのだ。
季節がら、渡り鳥の越冬地でも同じ悩みがあるだろう。大自然の生態系を守るという立場と人間生活を守るという立場は、必ずしも一致しない。でも、その一方で、こんな声もある。鹿児島県出水(いずみ)平野の絶滅危惧種「ナベヅル」の公数の公式記録を作る、出水市立荘(しょう)中学校の生徒は、「僕達が数え、その情報が世界に発信されていると思うと、なんだか誇らしい気がします」 寒い冬の朝、かじかむ手でナベヅルをチェックする生徒達は、野生鳥獣にとっては、宝物には違いない。彼ら達のお陰で、自分達が守られているのだから。
そのナベヅルにエサを与える、助っ人のおじいさんはこう言う。「エサを与えるということは、ワシにとってはごく自然な行為。でもむやみやたらにエサを与えてはいない。ちゃんと自然と野生のナベヅルのことを思いやりながら、与えている」と。そんな姿勢が一番大事なのだ。
翻って、目先の野良イヌ、野良ネコ、ハトにムクドリ。「憎っくき畜生」と怒ることなかれ。彼らに決して責任はない。たまには、人間様にも怒ることだ。時として、彼ら野生鳥獣も癒しの種、我が同胞だ。それに、彼らはあくまで人間語を知らない野生だ。野生には野生の道がある。ここはやはり、考える葦がある人間様が彼らとの共存を図るべきだろう。そうすれば何とかなる。隣のオバチャンにも、そう言っておこ。彼女は地域の鏡、失くしたくない女神だから。
大寒前日の日曜日。待望の雪は、河内平野に積もらなかった。雪国の人には悪いが、僕は相当ショックだ。前夜に、あれだけ降る、降ると言っていたNHKの美人気象予報士「なからい」さん。降雪確率が「半」分「位」だと最初から言っといてよ。それで半位(なからい)やろ。青菜に塩の我が想い。せっかく、都会の白黒モノトーンの雪景色を期待していたのに。お陰でその日は、あまり気が乗らなかった少年野球のコーチ業が中止にならなかった。サルバトーレ・アダモの名曲も歌えず僕は残念無念。
僕にとって、雪と言えばスキーだ。アフタースキーで、仲間達と撮る降雪の夜の1コマは、すごくロマンチックだ。淡雪が見事な演出をしてくれる。ウソだと思うなら、一度試してみるといい。たとえスキーでなくても、見映えのいい写真になる。撮影には、華やかさがあるギャルがいるのが好ましい。が、しっとりとした和服美人がいれば、もっと引き立つ。
寒雀がやかましい。ヒヨドリの声は迷惑だ。メジロの鳴き声は、さながらモーツアルト。彼らには、もうすぐ梅の芳香が彩りを添えるだろう。街を歩けば、関東炊き、湯豆腐の匂い。これも芳香だ。もう一つ芳香がある。気温が10度を割ると真っ先に跳びつく「鍋物」だ。門真市のお好み焼き屋のオバチャンは、「薬味やタレを工夫すると、普通の寄せ鍋が一味変わるんよ」と言う。ゴマダレや梅干を加えた醤油ダレも美味い。薬味は山椒、柚子の皮、さらしネギ、七味、もみじおろし。たまらないね。「美味しさ」の構成要素、旨味、苦味、塩味、甘み、渋みと「コク」や「キレ」の感じ方は、それこそ人それぞれだ。もう一言、オバチャンの忠言。「食べる時は『ズルズル』と『音を立てず』にね。でないと、女の子に捨てられるよ」 なるほど。王理恵さんにまつわる芸能ニュースの教訓か。
僕は、自称「鍋通」 昔は、女の多い宴会に限って、「鍋奉行」だった。チゲ(キムチ)鍋、すき焼き、おでん、カレー鍋、北国の石狩鍋、きりたんぽ鍋、色々とある中で、僕の好みはポン酢で頂く「カワハギ」の鍋だ。ではここでクイズ。このカワハギ、関西では独特の呼び方をする。さて何だろう。・・・・・。正解は「ハゲ」だ。これを知っていた人は、ハゲが気になる人か鍋通の人だろう。ハゲを使ったハゲ鍋は、僕の定番だ。この時季、魚へんに雪の鍋も美味い。鱈だ。さて何と読む? 答えは「タラ」だ。ハゲと同じく、切り身は白く艶やか。寒い夜の鍋物として欠かせない。ちなみに、干し鱈は「棒ダラ」と呼ぶ。これをエビ芋(里芋の一種)と一緒に煮た「いもぼう」は、京風料理の一つ。京都円山公園内にある「平野屋」が有名だ。ちょっと高いが、間違いなく京の味だろう。以上を以て、今週のクローズアップニュースに変身させる。
日本だけ一人負けと思いきや、世界同時株安だ。憎っくきサブプライムショック。頼みの中国も危ない。スタグフレーションが一層加速する予感。大丈夫か、春闘。非正規雇用者にも暗雲。僕には生活防衛しかない。 そんな中、福田総理が「環境立国宣言」をした。そして、当分、生活者消費者本意の政治に専念すると言う。僕は嬉しい。でも本当か? ダボスで何を言うの。日本の実態は最悪、ホンダの燃料電池車並みに先行きが見えてこないというのに。「明るいナショナル」は消えたが、「明るい福田」のイメージは全くない。でも、ああいうタイプって、民間の課長に多いよね。我が派遣先にも似たような課長がいる。
見た目スマートな福田さんに、もう一つ注文したいのが、自然環境保護の側に立った環境宣言だ。どうもこれが弱いと僕は感じる。その意味では、製紙大手のエコで騙す「罪深い行為」は許せない。コマーシャルで、悪徳を隠蔽する企業も多い。また、世の中には、野生鳥獣に対して悪徳を隠蔽するかのような「エサを与える行為」をする人も多い。果たして、エサを与えることは、いいことなのか、悪いことなのか、今日はその辺の話しだ。
今回は身近な話題に専念する。今から3年前の夏にこんなことがあった。僕の近くのマンションに、ハト好きの新入り夫婦がいた。この夫婦、何を勘違いしたのか、自宅マンションのベランダを、野生バトの溜まり場にしてしまったのだ。夫は、趣味の日曜大工で鳥の巣箱とも言える棚を作り、その上に市販のハトのエサを置いた。するとたちまち、付近を縄張りにするハトの群れがベランダめがけて集まって来るようになり、半月も経たない内にそこはハトの住処と化した。「クックー、クックー」と低音でうるさいハト独特のグルービーな鳴き声。鼻をつくフンの臭い。これには、マンションのみならず周辺の住民も迷惑千万だ。苦情を言うも、どうやら主人はヤクザっぽい。その顔相、眼光、荒っぽい言葉に圧倒され、躊躇する住民。この舞台に悠然と立ち向かったのが、何を隠そう「隣のオバチャン」だ。
ご近所の取締役、苦情処理人のオバチャンの勢いは凄かった。早速、この騒動の一部始終をマンションの管理人に報告。と同時に、持ち前のナニワ魂で、当の本人である無謀な夫婦に「直訴(直談判)」したのだ。するとどうだろう。オバチャンの理詰めの攻勢に、今度は夫婦がたじたじだ。そして、一週間も経たない内に、災いの元であるベランダの巣箱を撤去し始めた。かくして、一件落着だ。おまけにこの夫婦、神妙な顔をして素直に非を認め、マンションの管理人に頭を下げて誤ったという。さすがは遠山の金さん、水戸の黄門様、いや、隣のオバチャンだ。勿論、この勝利はオバチャンだけのものではない、地域のコミュニケーションの賜物。これこそ、「ご近所の底力」と言えるだろう。この事実は、僕も地域の住民として誇りに思ったものだ。
こんな出来事があったから言うのではないが、最近問題になっている野生の鳥獣被害の発端は、ほとんど心ない人間のエゴ、「エサやり」だ。人間が「かわいそうだから」と野生鳥獣に情けをかけたことが、結果的には仇となっているのだ。人間のエサやりが原因で、仇となったケースは色々ある。あえて詳細は書かない。が、常日頃から我々が「ご近所のもめ事」としてよく見かける、ペットのイヌ、ネコによるフン公害などは、誰でも知るところだ。飼われているイヌ、ネコはまだまし。街頭でそこいらのオバチャン達が、かわいそうだと情けをかけた野良イヌ、野良ネコはもっと悲劇だ。なぜなら、その人達の願いも空しく、これもご近所の苦情によって、行政の手でほとんどが殺戮されているのが実情だろう。これに関しては、元飼い主などに「捨てるなら飼うな」と声を大にして言いたい思いが僕にはある。
前述のハトの例は、心ない人間が「エサを与える」ことによって、フン公害など、野生鳥獣が人間生活に悪影響を及ぼし、ひいてはそれが、「野生生物の繊細な生態系を崩壊させる」悪循環に陥る元になっているのだということを示している。これに対して、森や山に棲む野生鳥獣が食べるエサがなくなり、止むを得ず民家に侵入して人間に被害を与えるケースも、近年激増している。これの原因は、かつて人間が手をかけてきた森や里山が荒廃したことだ。荒廃させたのは、間違いなく人間だ。人間が行政(国策)の失敗などによって、森や里山を放置したことが、野生鳥獣の被害を増加させているのだ。でも、決して人間が野生鳥獣を責められない。彼らは、人間と違って、本能の思うがままに動いているからだ。
このように、人間がエサを与えても、エサを与えなくても、今の日本は、野生鳥獣の被害を受ける下地があるのだ。そして、この構図がある限り人間への被害は避けられない。特に、地球温暖化による異常気象など、自然の生態系に大激変があった時は、今後も大きな問題になるのは必至だ。 この流れを堰き止めるのは、明らかに人間の役目だろう。ではどうするか。簡単に言えば、その答えは次の二つだ。一つは、人間の勝手気ままなエゴ活動を規正すること。もう一つは、人間が野生鳥獣の生息環境に適度に手を加えること。これしかないだろう。人間活動が、いい意味でも悪い意味でも野生鳥獣の生息環境を破壊する。そして、究極的に言えば、これが大自然の生態系を崩すきっかけになるのだ。
人的被害だけでなく、野生鳥獣による「農作物などの被害」の程度も僕は気になる。いったいどんな被害だろうか。昨年の12月に「鳥獣被害防止特措法」が国会で成立した。鳥獣駆除の許可権限を都道府県から市町村に移し、防護柵設置などに自衛隊の協力を求めることが出来るようになった。 朝日新聞によれば、06年度の農作物への鳥獣被害額は約196億円。被害面積は約11万ヘクタール。被害額は、北海道がダントツでほとんどがエゾシカによるものだ。年間7万から8万頭が捕獲され、道庁はジビエ(野生鳥獣)料理への活用を進めている。 果樹の里山形県は、サル被害が全国最悪だ。福岡県は、暖かい気候を好むイノシシ被害が深刻だ。鳥獣別の被害額は、イノシシ、シカ、カラス、サルの4種で7割超。アライグマやヌートリア、台湾リスなどの外来種の被害もある。
国のスケールになると、どうも我が寝屋川市には縁のない話しになりそうなので、再び身近な野生鳥獣の話しに戻る。僕の今の生活で言えば、国のスケールでは、有害野生鳥獣は「カラス」だけ。被害の多い都道府県の人には申し訳ないが、「何だつまらない」という隣のオバチャンの声が聞こえそうだ。でも、イヌ、ネコ、ハトもイノシシも、かつての古き良き時代は、よっぽどでない限り憎まれっ子ではなかった気がする。僕の中では、イヌは忠犬ハチ公のような「ワンコウ」だったし、ネコは親しみを込めた「ミーコ」だったし、カラスは「カンタロウ」、ハトは「ポッポチャン」、スズメは「スッチャン」、今年の干支のネズミに至っては「チュウコウ(忠公)」だった。それが今や、大半が悪役だ。人間の飼い方が悪いのか、それとも、こんな住みにくい世でも人間がヒマなのか、人間と巧く距離をとっている畜生が賢いのか、それは僕にも分からないが、一つ言えることは、「人間様もここらでよーく考えてみよう」「畜生に翻弄されてはいませんか?」
身近でエサを与えることは小さな行為だが、それが大きなことに繋がると、さっき僕は言った。少し話しが発展するけれど、大した思慮なしにエサを与えると言う意味では、野生鳥獣以外の身近な例がある。的外れかも、でも書こう。それは、例えば、郊外の野っ原に私利私欲で郊外型店舗というエサを与えて、街の中心をシャッター通りにさせた企業のことだ。僕はこれに、人間のエゴを感じる。
郊外型店舗というのは、聞こえはいいが、日本列島津々浦々を歩いて、僕が痛切に感じるのは、あれは間違いなく自然破壊だろう。企業が「悪いエサ」を与えたために、街の旧商店街が疲弊しお年寄りが取り残されてしまった。人間様の生態系の異変だ。また、そのために、街に残る貴重な小さな自然が消滅した。ナカヲトリモツのは、言わずと知れた「金」だ。言い換えれば、金が自然を壊しているのだ。特に日本はこれの汚染地域が多い。皆さんはアメリカに行ったことがあるだろうか。確かに、アメリカにも悪いエサはある。しかし、アメリカは国土が広大だ。郊外型の店舗がなければ、地域の生活が成り立たないといった印象を僕は受けた。まさにアメリカでは「いいエサ」だ。日本は狭い。なのに、どこの地域も同じコンセプトで、町の小さな自然、農地を開発してバケモノをこしらえた。日本に関して言えば、この開発は破壊だ。自然との調和を考えずに悪いエサを造ったのだ。だから、どこへ行っても、文化のかけらもない、美的感覚もない均質的な風景が展開されるのだ。
ここらはセンスの問題だろう。質の深い文化に裏打ちされたヨーロッパの国々ならば、こうはならないだろう。日本は、企業同士の縄張り争いで、フン公害にも似た悪いエサに様変わりしたのだ。このままでは、美しい国の景観が益々悪化するばかりだろう。僕のこの指摘が、必ずしも今日のテーマに適合していないかも知れない。しかし、企業の姿勢を問う意味では、一番分かりやすい例だと僕は思っている。世は環境年だ。企業も、野生のササユリが心に染み渡る芳香を放つように、人々の心に訴えるエサの与え方を模索して欲しいものだ。そうすることによって、自然の生態系も蘇る。
東京湾の「三番瀬」の保護活動に当たった千葉県知事の堂本暁子さんは、新聞紙上でこう言っていた。「自然を守りたい気持は一緒でも、行政の長として、運動家と同じ立場でないことはある。悩むところだ」と。確かにそうだろう。これは野生有害鳥獣にも言えることだ。いくら被害が激増したからと言って、ただ駆除すればいいという訳にはいかない。大事なのは、野生鳥獣を守るノウハウだ。だが、時として、殺戮が肯定される場合もあるのだ。
季節がら、渡り鳥の越冬地でも同じ悩みがあるだろう。大自然の生態系を守るという立場と人間生活を守るという立場は、必ずしも一致しない。でも、その一方で、こんな声もある。鹿児島県出水(いずみ)平野の絶滅危惧種「ナベヅル」の公数の公式記録を作る、出水市立荘(しょう)中学校の生徒は、「僕達が数え、その情報が世界に発信されていると思うと、なんだか誇らしい気がします」 寒い冬の朝、かじかむ手でナベヅルをチェックする生徒達は、野生鳥獣にとっては、宝物には違いない。彼ら達のお陰で、自分達が守られているのだから。
そのナベヅルにエサを与える、助っ人のおじいさんはこう言う。「エサを与えるということは、ワシにとってはごく自然な行為。でもむやみやたらにエサを与えてはいない。ちゃんと自然と野生のナベヅルのことを思いやりながら、与えている」と。そんな姿勢が一番大事なのだ。
翻って、目先の野良イヌ、野良ネコ、ハトにムクドリ。「憎っくき畜生」と怒ることなかれ。彼らに決して責任はない。たまには、人間様にも怒ることだ。時として、彼ら野生鳥獣も癒しの種、我が同胞だ。それに、彼らはあくまで人間語を知らない野生だ。野生には野生の道がある。ここはやはり、考える葦がある人間様が彼らとの共存を図るべきだろう。そうすれば何とかなる。隣のオバチャンにも、そう言っておこ。彼女は地域の鏡、失くしたくない女神だから。