「/(スラッシュ)」

ナニワのオッサン 怒りのエッセイ!!

/161.野生鳥獣被害(エサを与える行為)

2008-01-26 17:10:59 | Weblog
 今冬も寒暖の差が激しい。今朝の大阪の最低気温は氷点下に近い。さあ、明日は注目の大阪府知事選開投票だ。静かに結果を待とう。強い「西高東低」で、各地で波の花が舞っている。そんな中、極寒をものともせず、スキーで南極点に到達した日本人女性のニュースが飛び込んできた。快挙だ。地元寝屋川の大阪電気通信大学では、コンピューターの「原田ウィルス」が、流行っている。この生徒、大人しいがタダモノではない。

 大寒前日の日曜日。待望の雪は、河内平野に積もらなかった。雪国の人には悪いが、僕は相当ショックだ。前夜に、あれだけ降る、降ると言っていたNHKの美人気象予報士「なからい」さん。降雪確率が「半」分「位」だと最初から言っといてよ。それで半位(なからい)やろ。青菜に塩の我が想い。せっかく、都会の白黒モノトーンの雪景色を期待していたのに。お陰でその日は、あまり気が乗らなかった少年野球のコーチ業が中止にならなかった。サルバトーレ・アダモの名曲も歌えず僕は残念無念。

 僕にとって、雪と言えばスキーだ。アフタースキーで、仲間達と撮る降雪の夜の1コマは、すごくロマンチックだ。淡雪が見事な演出をしてくれる。ウソだと思うなら、一度試してみるといい。たとえスキーでなくても、見映えのいい写真になる。撮影には、華やかさがあるギャルがいるのが好ましい。が、しっとりとした和服美人がいれば、もっと引き立つ。

 寒雀がやかましい。ヒヨドリの声は迷惑だ。メジロの鳴き声は、さながらモーツアルト。彼らには、もうすぐ梅の芳香が彩りを添えるだろう。街を歩けば、関東炊き、湯豆腐の匂い。これも芳香だ。もう一つ芳香がある。気温が10度を割ると真っ先に跳びつく「鍋物」だ。門真市のお好み焼き屋のオバチャンは、「薬味やタレを工夫すると、普通の寄せ鍋が一味変わるんよ」と言う。ゴマダレや梅干を加えた醤油ダレも美味い。薬味は山椒、柚子の皮、さらしネギ、七味、もみじおろし。たまらないね。「美味しさ」の構成要素、旨味、苦味、塩味、甘み、渋みと「コク」や「キレ」の感じ方は、それこそ人それぞれだ。もう一言、オバチャンの忠言。「食べる時は『ズルズル』と『音を立てず』にね。でないと、女の子に捨てられるよ」 なるほど。王理恵さんにまつわる芸能ニュースの教訓か。

 僕は、自称「鍋通」 昔は、女の多い宴会に限って、「鍋奉行」だった。チゲ(キムチ)鍋、すき焼き、おでん、カレー鍋、北国の石狩鍋、きりたんぽ鍋、色々とある中で、僕の好みはポン酢で頂く「カワハギ」の鍋だ。ではここでクイズ。このカワハギ、関西では独特の呼び方をする。さて何だろう。・・・・・。正解は「ハゲ」だ。これを知っていた人は、ハゲが気になる人か鍋通の人だろう。ハゲを使ったハゲ鍋は、僕の定番だ。この時季、魚へんに雪の鍋も美味い。鱈だ。さて何と読む? 答えは「タラ」だ。ハゲと同じく、切り身は白く艶やか。寒い夜の鍋物として欠かせない。ちなみに、干し鱈は「棒ダラ」と呼ぶ。これをエビ芋(里芋の一種)と一緒に煮た「いもぼう」は、京風料理の一つ。京都円山公園内にある「平野屋」が有名だ。ちょっと高いが、間違いなく京の味だろう。以上を以て、今週のクローズアップニュースに変身させる。

 日本だけ一人負けと思いきや、世界同時株安だ。憎っくきサブプライムショック。頼みの中国も危ない。スタグフレーションが一層加速する予感。大丈夫か、春闘。非正規雇用者にも暗雲。僕には生活防衛しかない。 そんな中、福田総理が「環境立国宣言」をした。そして、当分、生活者消費者本意の政治に専念すると言う。僕は嬉しい。でも本当か? ダボスで何を言うの。日本の実態は最悪、ホンダの燃料電池車並みに先行きが見えてこないというのに。「明るいナショナル」は消えたが、「明るい福田」のイメージは全くない。でも、ああいうタイプって、民間の課長に多いよね。我が派遣先にも似たような課長がいる。

 見た目スマートな福田さんに、もう一つ注文したいのが、自然環境保護の側に立った環境宣言だ。どうもこれが弱いと僕は感じる。その意味では、製紙大手のエコで騙す「罪深い行為」は許せない。コマーシャルで、悪徳を隠蔽する企業も多い。また、世の中には、野生鳥獣に対して悪徳を隠蔽するかのような「エサを与える行為」をする人も多い。果たして、エサを与えることは、いいことなのか、悪いことなのか、今日はその辺の話しだ。

 今回は身近な話題に専念する。今から3年前の夏にこんなことがあった。僕の近くのマンションに、ハト好きの新入り夫婦がいた。この夫婦、何を勘違いしたのか、自宅マンションのベランダを、野生バトの溜まり場にしてしまったのだ。夫は、趣味の日曜大工で鳥の巣箱とも言える棚を作り、その上に市販のハトのエサを置いた。するとたちまち、付近を縄張りにするハトの群れがベランダめがけて集まって来るようになり、半月も経たない内にそこはハトの住処と化した。「クックー、クックー」と低音でうるさいハト独特のグルービーな鳴き声。鼻をつくフンの臭い。これには、マンションのみならず周辺の住民も迷惑千万だ。苦情を言うも、どうやら主人はヤクザっぽい。その顔相、眼光、荒っぽい言葉に圧倒され、躊躇する住民。この舞台に悠然と立ち向かったのが、何を隠そう「隣のオバチャン」だ。

 ご近所の取締役、苦情処理人のオバチャンの勢いは凄かった。早速、この騒動の一部始終をマンションの管理人に報告。と同時に、持ち前のナニワ魂で、当の本人である無謀な夫婦に「直訴(直談判)」したのだ。するとどうだろう。オバチャンの理詰めの攻勢に、今度は夫婦がたじたじだ。そして、一週間も経たない内に、災いの元であるベランダの巣箱を撤去し始めた。かくして、一件落着だ。おまけにこの夫婦、神妙な顔をして素直に非を認め、マンションの管理人に頭を下げて誤ったという。さすがは遠山の金さん、水戸の黄門様、いや、隣のオバチャンだ。勿論、この勝利はオバチャンだけのものではない、地域のコミュニケーションの賜物。これこそ、「ご近所の底力」と言えるだろう。この事実は、僕も地域の住民として誇りに思ったものだ。

 こんな出来事があったから言うのではないが、最近問題になっている野生の鳥獣被害の発端は、ほとんど心ない人間のエゴ、「エサやり」だ。人間が「かわいそうだから」と野生鳥獣に情けをかけたことが、結果的には仇となっているのだ。人間のエサやりが原因で、仇となったケースは色々ある。あえて詳細は書かない。が、常日頃から我々が「ご近所のもめ事」としてよく見かける、ペットのイヌ、ネコによるフン公害などは、誰でも知るところだ。飼われているイヌ、ネコはまだまし。街頭でそこいらのオバチャン達が、かわいそうだと情けをかけた野良イヌ、野良ネコはもっと悲劇だ。なぜなら、その人達の願いも空しく、これもご近所の苦情によって、行政の手でほとんどが殺戮されているのが実情だろう。これに関しては、元飼い主などに「捨てるなら飼うな」と声を大にして言いたい思いが僕にはある。

 前述のハトの例は、心ない人間が「エサを与える」ことによって、フン公害など、野生鳥獣が人間生活に悪影響を及ぼし、ひいてはそれが、「野生生物の繊細な生態系を崩壊させる」悪循環に陥る元になっているのだということを示している。これに対して、森や山に棲む野生鳥獣が食べるエサがなくなり、止むを得ず民家に侵入して人間に被害を与えるケースも、近年激増している。これの原因は、かつて人間が手をかけてきた森や里山が荒廃したことだ。荒廃させたのは、間違いなく人間だ。人間が行政(国策)の失敗などによって、森や里山を放置したことが、野生鳥獣の被害を増加させているのだ。でも、決して人間が野生鳥獣を責められない。彼らは、人間と違って、本能の思うがままに動いているからだ。

 このように、人間がエサを与えても、エサを与えなくても、今の日本は、野生鳥獣の被害を受ける下地があるのだ。そして、この構図がある限り人間への被害は避けられない。特に、地球温暖化による異常気象など、自然の生態系に大激変があった時は、今後も大きな問題になるのは必至だ。 この流れを堰き止めるのは、明らかに人間の役目だろう。ではどうするか。簡単に言えば、その答えは次の二つだ。一つは、人間の勝手気ままなエゴ活動を規正すること。もう一つは、人間が野生鳥獣の生息環境に適度に手を加えること。これしかないだろう。人間活動が、いい意味でも悪い意味でも野生鳥獣の生息環境を破壊する。そして、究極的に言えば、これが大自然の生態系を崩すきっかけになるのだ。

 人的被害だけでなく、野生鳥獣による「農作物などの被害」の程度も僕は気になる。いったいどんな被害だろうか。昨年の12月に「鳥獣被害防止特措法」が国会で成立した。鳥獣駆除の許可権限を都道府県から市町村に移し、防護柵設置などに自衛隊の協力を求めることが出来るようになった。 朝日新聞によれば、06年度の農作物への鳥獣被害額は約196億円。被害面積は約11万ヘクタール。被害額は、北海道がダントツでほとんどがエゾシカによるものだ。年間7万から8万頭が捕獲され、道庁はジビエ(野生鳥獣)料理への活用を進めている。 果樹の里山形県は、サル被害が全国最悪だ。福岡県は、暖かい気候を好むイノシシ被害が深刻だ。鳥獣別の被害額は、イノシシ、シカ、カラス、サルの4種で7割超。アライグマやヌートリア、台湾リスなどの外来種の被害もある。

 国のスケールになると、どうも我が寝屋川市には縁のない話しになりそうなので、再び身近な野生鳥獣の話しに戻る。僕の今の生活で言えば、国のスケールでは、有害野生鳥獣は「カラス」だけ。被害の多い都道府県の人には申し訳ないが、「何だつまらない」という隣のオバチャンの声が聞こえそうだ。でも、イヌ、ネコ、ハトもイノシシも、かつての古き良き時代は、よっぽどでない限り憎まれっ子ではなかった気がする。僕の中では、イヌは忠犬ハチ公のような「ワンコウ」だったし、ネコは親しみを込めた「ミーコ」だったし、カラスは「カンタロウ」、ハトは「ポッポチャン」、スズメは「スッチャン」、今年の干支のネズミに至っては「チュウコウ(忠公)」だった。それが今や、大半が悪役だ。人間の飼い方が悪いのか、それとも、こんな住みにくい世でも人間がヒマなのか、人間と巧く距離をとっている畜生が賢いのか、それは僕にも分からないが、一つ言えることは、「人間様もここらでよーく考えてみよう」「畜生に翻弄されてはいませんか?」

 身近でエサを与えることは小さな行為だが、それが大きなことに繋がると、さっき僕は言った。少し話しが発展するけれど、大した思慮なしにエサを与えると言う意味では、野生鳥獣以外の身近な例がある。的外れかも、でも書こう。それは、例えば、郊外の野っ原に私利私欲で郊外型店舗というエサを与えて、街の中心をシャッター通りにさせた企業のことだ。僕はこれに、人間のエゴを感じる。

 郊外型店舗というのは、聞こえはいいが、日本列島津々浦々を歩いて、僕が痛切に感じるのは、あれは間違いなく自然破壊だろう。企業が「悪いエサ」を与えたために、街の旧商店街が疲弊しお年寄りが取り残されてしまった。人間様の生態系の異変だ。また、そのために、街に残る貴重な小さな自然が消滅した。ナカヲトリモツのは、言わずと知れた「金」だ。言い換えれば、金が自然を壊しているのだ。特に日本はこれの汚染地域が多い。皆さんはアメリカに行ったことがあるだろうか。確かに、アメリカにも悪いエサはある。しかし、アメリカは国土が広大だ。郊外型の店舗がなければ、地域の生活が成り立たないといった印象を僕は受けた。まさにアメリカでは「いいエサ」だ。日本は狭い。なのに、どこの地域も同じコンセプトで、町の小さな自然、農地を開発してバケモノをこしらえた。日本に関して言えば、この開発は破壊だ。自然との調和を考えずに悪いエサを造ったのだ。だから、どこへ行っても、文化のかけらもない、美的感覚もない均質的な風景が展開されるのだ。

 ここらはセンスの問題だろう。質の深い文化に裏打ちされたヨーロッパの国々ならば、こうはならないだろう。日本は、企業同士の縄張り争いで、フン公害にも似た悪いエサに様変わりしたのだ。このままでは、美しい国の景観が益々悪化するばかりだろう。僕のこの指摘が、必ずしも今日のテーマに適合していないかも知れない。しかし、企業の姿勢を問う意味では、一番分かりやすい例だと僕は思っている。世は環境年だ。企業も、野生のササユリが心に染み渡る芳香を放つように、人々の心に訴えるエサの与え方を模索して欲しいものだ。そうすることによって、自然の生態系も蘇る。

 東京湾の「三番瀬」の保護活動に当たった千葉県知事の堂本暁子さんは、新聞紙上でこう言っていた。「自然を守りたい気持は一緒でも、行政の長として、運動家と同じ立場でないことはある。悩むところだ」と。確かにそうだろう。これは野生有害鳥獣にも言えることだ。いくら被害が激増したからと言って、ただ駆除すればいいという訳にはいかない。大事なのは、野生鳥獣を守るノウハウだ。だが、時として、殺戮が肯定される場合もあるのだ。

 季節がら、渡り鳥の越冬地でも同じ悩みがあるだろう。大自然の生態系を守るという立場と人間生活を守るという立場は、必ずしも一致しない。でも、その一方で、こんな声もある。鹿児島県出水(いずみ)平野の絶滅危惧種「ナベヅル」の公数の公式記録を作る、出水市立荘(しょう)中学校の生徒は、「僕達が数え、その情報が世界に発信されていると思うと、なんだか誇らしい気がします」 寒い冬の朝、かじかむ手でナベヅルをチェックする生徒達は、野生鳥獣にとっては、宝物には違いない。彼ら達のお陰で、自分達が守られているのだから。

 そのナベヅルにエサを与える、助っ人のおじいさんはこう言う。「エサを与えるということは、ワシにとってはごく自然な行為。でもむやみやたらにエサを与えてはいない。ちゃんと自然と野生のナベヅルのことを思いやりながら、与えている」と。そんな姿勢が一番大事なのだ。

 翻って、目先の野良イヌ、野良ネコ、ハトにムクドリ。「憎っくき畜生」と怒ることなかれ。彼らに決して責任はない。たまには、人間様にも怒ることだ。時として、彼ら野生鳥獣も癒しの種、我が同胞だ。それに、彼らはあくまで人間語を知らない野生だ。野生には野生の道がある。ここはやはり、考える葦がある人間様が彼らとの共存を図るべきだろう。そうすれば何とかなる。隣のオバチャンにも、そう言っておこ。彼女は地域の鏡、失くしたくない女神だから。

/160.豊かさの雑感(美しい自然と農業)

2008-01-19 01:18:48 | Weblog
 雪やこんこん、霰やこんこん、霜柱を踏みながら、どんど焼きの書き初めは空高く舞い上がっただろうか。そんな雪国の夕暮れを思い浮かべている。そう言えば、朝起きるとあたり一面の銀世界に心躍らせながら、オヤジの「二の字二の字の下駄の跡」を追いかけたガキの頃もあったっけ。今から考えると、大はしゃぎしていたのは僕だけではなかった。あの恐かったオヤジもはしゃいでいたのだ。そんな思い出も、今は追憶の光景、やがては、忘却の彼方。

 気温の低い日々が続いている。北国は零下の果てで凍り付いているのだろう。冬場は、目ざとい自然の移ろいに乏しい。なので、ついつい見逃しがちだが、よく見ると、梅や桜のつぼみは、来るべき芽生えの季節に備えて、はよ咲きたいとスタンバイしている。樹木にとって、この季節は大事だ。人間も同じ。この我慢の季節こそ、より重要。目に見えない門出への第一歩なのだ。本当の門出の前に始まるものがある。春のセンバツ高校野球だ。さてここでクイズ。今年のセンバツの入場行進曲が決まった。歌うのはコブクロ。では、曲名は? ・・・・・。正解は「蕾(つぼみ)」だ。

 今日は問題を厳選した。恐らく、このクイズは、この季節の定番として、「アタック25」などで出題されるだろう。自信がある。そしてこれは、言わば正統派の「引っ掛け問題」だ。なぜなら、話しの前後を読み取れば、自ずと答えが出て来る。これに対して、クイズマニアの間では、「悪質な引っ掛け問題」というのがある。僕は、ものの見事にこれに引っ掛かった。お陰で、「アタック25」で24のパネルを取ったにもかかわらず、「花のパリ旅行」の大漁を逸してしまった。お見知りおきを。いや、知りおきを。このように、クイズはあくまでも直感。意外に、後で考えると「なあーんだ」と言うのが多い。これも、お知りおきを。

 今週のクローズアップニュースは、星新一ではないが、もっとスピードを速めて(本当は長いだけの鈍行だが)、N700系並みの超ショートショートのごちゃ混ぜニュースに切り替える。色々あった1週間を、僕なりにランダムに。それではスタート。 思い出したくはない「阪神大震災」から13年。千の風は、今でも吹き続けていると僕は信じたい。今も学べ、あの教訓。 11人のサッカーは、十一の心で「志」だと。なるほど。 厚労省から「C型肝炎検査を受けて下さい」だと。「そんなの関係ない」が、「年金のお知らせ」はどうした? 「朝ごはんを食べないと、腸が蠕動(ぜんどう)運動を始めないのでお通じが悪くなる」とは、派遣仕事先のギャルの弁。なるほど。もう一言あった。「私、今、フィリピンのミンダナオ島とサマール島のノニジュース飲んでるの。これって、お通じに最高!!」だって。聞くだけで、ニガーイ話しだ。 NHK職員のインサイダー取引。また信頼落とす。 僕が自転車エアロビクスでよく通る「京阪滝井駅」付近で、生まれたばかりの男児が何者かに殺害された。物騒だ。

 まだ続ける。 うさんくさい朝青龍に僕は語らず。代わりに、やくみつるさんが苦言を呈している。 ナポリのゴミ。ありゃなんだ? 左耳が聴こえない浜崎あゆちゃん、頑張れ!! モナリザのモデルは、商人の妻「リザ」らしい。リザーブしとこ。 世界で1600羽しかいない「クロツラヘラサギ」の長いくちばしにからまっていた「釣り糸」が取れた。全滅せずに生きてくれよ。 「内足重視」のカービングスキーは、曲がる方向に体を傾ければいいらしい。僕も一度試そうかな。でもなあ、外足重視の1級者だしな。 沖縄宮古島では、小さな「イワサキクサゼミ」がもう鳴き始めた。彼はクマゼミの親戚? 「シャオ、シャオ、シャオ」がまた夢に出て来そうだ。 今年の芥川賞は、ナニワのサバイバル娘、兼歌手の川上末映子ちゃんだ。彼女も言っていたが、僕も「めっちゃ嬉しい」 自転車の教則改正で、幼児前後2人乗せ、自転車用傘立てが禁止されそう。これは、大阪の一大事。隣のオバチャンも大反対だ。なんてたってアイドル、ナニワの街頭風物詩である「母は強し」が消滅してしまう。 最新の週刊「日本百名山」が今発売中。行ったとこだけ買おうーっと。

 あと少し真面目に。 医師不足、お産の脱公平は、医師のハイリスクの産物でもある。貴方任せ、あわよくば訴訟の患者側にも問題があるのではないか。 テレビなどが扇動する瞬間的に沸騰する世論「ポピュリズム」は、大衆迎合主義。大阪府知事選は、特にこれが恐い。 最後に二つ。 一つ目は、僕の地方の人のためのビジネス提案。これに目を付けた人は覚えておいて欲しい。心に染み渡る芳香と旨味がある「野生三つ葉」の栽培だ。栽培と言っても、実質は野生している場所での現地管理で根は抜かない。徳島上勝町が「葉っぱビジネス」なら、こちらも同じ。 もう一つ。テレビ朝日系列「サンデープロジェクト」の「福島県矢祭(やまつり)町」で繰り広げられた官民一体、官民協働の地域再生には泣かされた。この二つ、いずれこのブログで書きたい。以上。

 ここまで書いたら、もう疲れてしまった。明らかに僕の企画倒れだ。ジキルとハイドのせめぎあい。分かったよ、来週から改めます。よって今日は、ちょっとヤケクソになって、テーマがありそうでない僕の雑感を聞いてもらおう。 

 日本は間違いなく自然の美しい国だ。僕のつたない海外旅行の経験から言っても、日本は、世界の国々の中でも、潜在的な自然環境の良さでは「比較優位性」を持っている国だと思っている。ここで言う自然とは、いわゆる「山、海、川」だ。特に山は美しい。それゆえ日本人は、このことを誇りにすべきなのだ。だが、日本人が本当にこの国の自然を愛しているかどうか。これについては、僕は常日頃から大いに疑問を感じている。その辺の話しは後述することにして、じゃあ、日本の美しい国の根源の一つは、いったい何だろう。この問いに対し、話しの流れから言って、すかさず「自然」と答えたいところだが、それではあまりにも単純過ぎる。もったいぶらずに言おう。それは、広義な意味で「農業」だ。(農林水産業と言った方がいいかも知れないが)

 なぜなら、日本人のルーツは農耕民族だ。古来から田や畑を耕し、里山や森を守りながら、美しい自然と一体化して生き続けて来た輝かしい歴史がある。明確な四季に育まれた美しい国で農業に携わることによって、日本人は絶えず大自然と深い係わりを持ち得たのだ。そして、日本全国津々浦々で見られる農家の田や畑の原風景が、世界の人々に絶賛される日本の「美しい国の大部分」を形作っているのだ。美しい国は「豊かな国」でもある。翻って、こんな世界でも類稀な美しく豊かな国で生きる日本人は、この国に相応しい本当の豊かさを持っているのだろうか。

 ここでいい人に登場してもらおう。その人は、東京生まれの元TBS記者で、90年に旧ソ連の宇宙船に搭乗し、日本人初の宇宙飛行士になった、現ジャーナリストの「秋山豊寛さん(65歳)」だ。秋山さんの興味深い記事が、1月13日付けの朝日新聞に掲載されている。タイトルは、「病む地球の役に立ちたい」だ。まずはこれを紹介しよう。

 「(福島県田村市で)農の暮らしを始めて12年になります。農薬と化学肥料を使わず、米、野菜は自給しています。『なぜ農業を』とよく聞かれますが、ジャーナリストとして世の中をきちっと見るには、農業を知ることは欠かせません。世界を見れば自分で作物を作る人は極めて多い。先進国の住民の方が少数派なんです。宇宙に行ったことも一つの契機になりました。暗黒の宇宙に青く輝く地球は本当に美しかった。その地球が環境破壊で病んでいる。その修復に少しでも役立つライフスタイルを探りたい思いもありました。暮らしを変え、農の豊かさを実感しました。大地から顔を出す芽、群れをなして飛ぶトンボ、草刈の後のにおい。人生は、心がさざめく喜びや発見、悲しみなどが織りなしたものだと思いますが、それらにたくさん出会えました」

 「農を産業という側面だけで見ると判断を誤ります。農は日本人の感性を育んだ源であり、文化のベースとも言える。農という形で人間が自然に手を入れてきたからこそ、豊かな森も景観も守られてきた。『美しい国』は唱えたからできるものではなく、そこで暮らす人が自然とどうかかわっているかで決まると思います。本当の豊かさとは何か。経済発展優先のあり方に『それは違う』と言い続けていきたいですね」

 こう語る写真の中の秋山さんは、自家農園で収穫されたばかりの農産物を手に持って、得意満面だ。宇宙空間から、美しい地球と病む地球の両方を見た、秋山さんならではの感慨だろう。僕も全く同感だ。「本当の豊かさ」という表現は、抽象的で定義づけが非常に難しい。しかし、「感性のある人」ならば、秋山さんの言う意味がよく理解出来るのではないだろうか。そう、美しい国は唱えたから出来るものではなく、そこで暮らす人が、「自然とどう係っているかどうか」で決まるのだ。当然、豊かな国も、そこで暮らす人々の「心が豊かであるかどうか」で決まる。

 では、今の日本はどうだろう。先の見えない混沌とした中での格差社会。目を覆いたくなるような人間性のない短絡的な「デジタル犯罪」の数々。「偽」で彩られた官民の不正。グローバル化の名の下、非正規雇用者をこき使う名立たる企業。医療、教育問題。ワーキングプア、ホームレス。果ての果て、もっと深刻なのは、自殺3万人以上の病む国家だ。更には、美しい国の源である農業を切り捨て、冬景色にも似た過疎の限界集落を生み出す張本人の政治家達。こんな国が、美しい国、豊かな国だと言えるだろうか。秋山さんは、病む地球の役に立ちたいと言ったが、僕はまず、この国の病む心を持つ民を、政治家を筆頭に皆の力で救うことが先決だと言いたい。

 色んな「病み」を持つ日本だが、人々は今、あまりにも目先のことに固執しこだわり過ぎてはいないだろうか。「周囲に気を配る心の余裕」がないように僕には感じられる。いや、夜郎自大、大きなことは言えない。ひょっとすれば、僕自身もそうかも知れないからだ。それでも僕は、僅かながらも心に余裕がある。だから、僕よりもっと心に余裕がある人に、あえて提言したい。おい、君達よ。君達こそ、少しは視角を変えて、世の中を見渡して見ないかと。 例えば、秋山さんよりスケールが少し小さいが、地球温暖化に伴う日本の「自然破壊」や「農業問題」だ。

 京都大学のある学者はこう言っている。「現在世界は、極めて困難ないくつかの問題に直面しており、それが容易に解決されそうもないことを、私達はごく一般的な知識としてはよく知っている」と。そして、彼はこう言う。「社会的格差や貧困などと違って、異常気象などは、平凡な生活者にとって身近なものになることがあるが、しかし私達は、その圧倒的大部分を日常的関心事から排除することによって、安楽と安全で自分達を囲い込もうとしている」 さもあらん。第三者的立場が、人間一番楽なのだ。でもある意味、これは当たり前。誰でも、時間はそうないと考える。考える葦はあるが、行動する足は知れている。文句を言う口はあるが、口以上がない。そして、切羽詰った状況でないと立ち上がれないのだ。つまり、「でもしか先生」で終わる。

 確かに僕達は、よく知らないことには無関心を装い「君子、危うきに近寄らず」だ。彼が言うように、僕達の今日の知識や関心は、不愉快で、困難な、諸問題の根源を見ようとしないで、表面的・状況的・身辺的になっているのだ。だが、そこでもし、僕達が民衆意識・民衆運動などの様々な動向にもっと素直に耳を傾け、目を凝らすことが出来るなら、僕達は、今日の窮状から脱出する「手がかり」を掴みうるのではないだろうか。そうだ。その意味では、今日のテーマに近い地球温暖化や食をつかさどる農業問題は、身近な手がかりだと僕は思う。

 なぜなら、農業を日本の自然の一部だと考えれば、どちらも自然を見るという、我々にとっては、非日常の仕事から開放された体験の中で、実感出来るからだ。具体的に言えば、一番手っ取り早いのは、例えば「旅」だろう。旅に出るという行為の中で、これらのことを知り得るチャンスがあるのだ。これは、我々にとって好都合だろう。旅には不愉快さもないし、特別の場合を除き、さして困難さもない。より開放された気分であれば、日本の自然環境破壊や農業の実態に正直に関心が持てる筈だ。少なくても、僕がかつて体験したホームレスとの遭遇で、切ない気分になるのよりはましだろう。是非皆旅に出て、この問題を知る手がかりとして欲しい。

 美しい国に関して、僕がもう一つ気になっているのが、いつかのグログで書いた日刊スポーツの小西記者が、夏の北アルプスで、はるばる北欧ラトビアから日本にやって来た若い女性に「こんな美しい山があるのに、日本の若者はなぜここにいないの?」と逆質問された時の1コマだ。その時彼は、現実に目をつぶって「いずれ日本の若者もここにどんどん来ます」ととっさに返答した。僕は、彼の気持を察すると同時に、せっかくこんな美しい山があるのに、なぜか登らない日本の若者に失望した。若者は、本当に美しい国に無関心なのだろうか。僕の経験で言えば、日本の地上(低地)にも色々素晴らしい景勝地はあるが、いずれも、日本アルプスなど山上(高山)から見た絶景には及ばない。3000メートル級の山に登ったという苦労が、言いようのないより強い感動を呼び起こすのだ。若者よ、アルプスでなくてもいい。豊かな山は、自然を知る最高の舞台だ。是非足を伸ばして欲しい。

 日本人は、ドイツ人などのように森の民として生きた歴史が浅いからだろうか。中高年を除いて、どうも森以上に関心がないようだ。でも日本人は、里山の民としては相当のものだ。江戸時代が全盛だったと言われる人と自然の調和。この時代を経て、明治以来の急速な国の発展と戦争で、里山から森に行く機会を失ってしまったと考えるのは僕だけだろうか。山そのものに関心があるヨーロッパの国々の人に比べて、そんな文化がなかった日本人の悲しい性だろうか。かつてあったあの旅ブームと山ブームは、娯楽がなかった時代の一過性の盛り上がりだった、とは決して思いたくないという気持もある。

 ともあれ、暗黒の宇宙から青く輝く地球を見た秋山さんが考える「本当の豊かさ」とはいったい何だろう。それは、壮大なクイズだ。いや、もしかして、永遠に続くクイズかも知れない。それを突き詰めていけば、宇宙の彼方から、病んだ日本人の心の闇が、現実社会に投影されて来るのだろう。その闇の源が、暗黒の世界でないことを僕は祈るばかりだ。 ちょっと待てよ。本当の豊かさを唱える秋山さんの名前に「豊」があるぞ。量より質の時代、やはりこの答えは、病む地球をこの目で確かめた、秋山さんが一番よく知っているのだろう。そうに違いない。

/159.二重ハケン女性の快挙(「疑問」が行政動かす)

2008-01-12 13:49:09 | Weblog
 平成20年の睦月も早初旬が過ぎた。小寒、七草、十日戎、鏡開き。新年の夢を乗せて時節は移ろう。7日、京都の祇園甲部、先斗町、宮川町、祇園東の四花街では、稲穂のかんざしに黒紋付き姿の舞妓や芸妓さんが、今年の精進を誓い合う「始業式」が開かれた。「おめでとうさんどす」「今年もええ年に」と新年の挨拶は華やかで艶っぽい。さてここでクイズだ。京都には上の花街を含めて、あと一つ花街がある。さてどこだろう? ・・・・・。正解は、北野天満宮がある「上七軒」だ。これを称して「京の五花街」という。「北野はん」を北に見て、ランドマークの八坂の塔の下、三寧坂から二年坂、石塀小路や花見小路を歩けば、花街情緒満点で、舞妓はん、芸妓はんに出逢えるのは必至。そして、これが京の雅、色艶の極致、「清水の裾舞台」だ。ただし、ここでは飛び降りることは出来ない。ちなみに、花魁道中で有名な「島原」は五花街ではない。その辺が、京の色艶話しの盲点だ。

 その一方で、去年の顔、ハニカミ王子が、史上最年少の16歳でプロ宣言をした。14日には、日本の明るい未来を目指す新成人がスタートする。どちらも「おめでとうさんどす」 地元では、経営の神様「幸之助さん」の松下電器が、驚きの「社名変更」だ。その名は「パナソニック」 グローバルな生き残りの戦いの勝利者を目指す。テレビ世界では、超薄大型化を目指し各メーカーが競演し、次世代DVDは、ブルー(BD)が本命。また、ゲーム世界では、アナログ人間も楽しめる、使い勝手の良いニンテンドーDSとWiiが独走している模様だ。競演はいいが、競争は、時として軋轢が生じる。

 その意味では、グローバル化の大波をかぶった「日本丸」の行く末は、難行苦行の茨の道だ。 この道は、いつか来た道? 原油高、円高、株安と年初から暗雲が立ち込めるこの修羅場を、どうやって漕ぎ出すのか。果たして、真面目に働く人が不幸にならない社会になるのだろうか。「どうどすか、政治家と企業のお方はん?」 薬害肝炎患者は救われた。舛添さん、よくやった!! でもインド洋での給油新法は成立した。自民党にとっては、まさに「ねじれ国会」の賜物だろう。これでいいのか。なぜ? このように、僕も清水の裾舞台から「よう眺めさしてもらいまひょ」

 今週のディープインパクトニュースは、雪の季節に相応しい話題だ。オーストラリアの富裕層が「極上の雪質」を求めて、ピンポイントで、北海道、ニセコアンヌプリの麓にあるニセコ最大のスキー場「グラン・ヒラフ」に押し寄せている。彼らにここの魅力を尋ねると、「幻想を誘うような眺望や温泉があり、地元の人達は温かくもてなしてくれる。未知の体験ばかりでした」という。この発言、意外なようだが本当なのだ。オーストラリアは、大きな国に相応しい大自然が売りで、日本のそれに比べればスケールは桁違いだ。だが現実は、一言で言えば、あまりにも大き過ぎていかにも平凡なのだ。これは、たとえ梅雨がない北の大地でも、日本の明確な四季に育まれた大自然の「深み」が決め手だと僕は解釈したい。その深みと日本人の優しさが、見事にマッチングしたのだ。

 勿論、リッチゆえの他の要素もあるだろう。しかし、彼らのお目当ては、あくまでも世界最高の雪質と賞賛を惜しまない「パウダースノー」だ。90年代前半に、地元の倶知安(くっちゃん)町に住みついたオーストラリア人が雪の評判を伝えると、いつの間にか口コミでスキー愛好家に知れ渡ったという。オーストラリア、ニュージーランドは、オセアニアの中では僕の大好きな国だ。そう言えば、あの長野冬季オリンピックの開催前に、八方尾根スキー場のゲレンデで知り合ったニュージーランドの娘さんも、吸い込まれるようなブルーアイズを輝かせて「日本の自然は美しい」と言っていた。オーストラリアとニュージーランドの人達は、質素だが、親切で人間性が良く、自分の意見を主張し、しっかりしている。それでいて、とっつきやすい。一番の強調点は、自然愛好家が多いということだ。自然を見る目を持っている、そんな豊かな心の国の人に、最大限の評価をされた「ニセコ」は幸せ者ではないだろうか。ただ単に、リッチ感覚の物見遊山で押しかけたのではないと、僕は信じたい。リッチなのは、あくまでもニセコの大自然なのだから。

 これは、スキー好きの僕にとっては、本当に心から喜べる嬉しいニュースだ。蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山が望めるこのニセコには、かつて3度僕も行ったことがある。当時格安だったANA(全日空)のスキーツアーだ。でもなぜか、僕の中では、「パウダースノー」「アスピリンスノー」の評価が良くない。と言うより、訪ねた折は、全て耳たぶも凍りつく大吹雪に見舞われ、「なまら、すんばれるねぇー」のしばれる状態で滑っていたからだろう。まさにこの感覚だった。しばれる吹雪は、ゲレンデ表面のパウダースノーを遠くへ運び去り、所々にムラのあるアイスバーンを出現させ、その一方で不規則な雪溜まりを形成する。おまけに視界不良。これが極上(?)のスキーテクニックを撹乱させる犯人だ。ちなみにこのツアーバスは、僕と生年月日が全く一緒の歌手「細川たかしさん」が生まれた「真狩村(まっかりむら)」を通る。今は町村合併で村はなくなったのだろうが、彼の故郷はスキーのメッカだ。当の細川さんもスキーが上手い。ガイドさんがそう説明してくれた。しばれる吹雪を考慮せず、「僕もあんな所で生まれたかった」と当時つくづく思ったものだ。

 ところで、オーストラリアとニュージーランドがあるオセアニアの最高峰は、ニューギニアにある「カルステンツ(4884メートル)」だ。行って見て分かったが、オーストラリアは意外と高山が少ない。恐らく、最高峰は2千メートル級だろう。ニュージーランドは、ブルーアイズの彼女の印象もあって、あまりにも素晴らしい国だと感じた。愛の国は、先日亡くなったエドモンド・ヒラリー卿の生まれ故郷でもある。彼は、世界最初のエベレスト登頂者だ。この国は、北島、南島ともオーストラリアより高い山が多い。

 余談だが、欧州の最高峰はどこだろうか。モンブラン? いや、違う。ロシアの「エルブルース(5642メートル)」だ。黒海とカスピ海に囲まれたカフカス(コーカサス)山脈の西側にある。ロシア初の冬季オリンピックが既に決まっている「ソチ」に近い。何を隠そう、このエルブルースに、シベリア鉄道を利用して、僕は行って見たかった。たとえ登れなくても、眺めて見たかった。しかし、当時は地域紛争などで治安に問題があり、残念せざるを得なかった事情がある。でも、この「ソチ」のように、海岸線があるところでの冬季オリンピックも珍しい。 話しがとんだ方向に飛び火したが、ともあれ、ニセコのオーストラリア旋風は、今後の地方の進む道を示唆していることは確かだろう。この快挙は、日本の美しい自然が認められた証拠だ。僕は気持がいい。 すっかり前置きが長くなってしまった。(決して今日からこのブログが「週一回」になったからではない。悪しからず) でも今日は、派遣社員の僕にとっては、もう一つ気持のいい話題がある。それを書きたい。

 厚労省は、佐川急便グループで物流大手の「佐川グローバルロジスティクス(SGL)」に対し、労働者派遣法に基づく事業改善命令を出す方針を固めた。SGLが、悪名高い日雇い派遣大手「グッドウィルグループ」から労働者を受け入れ、別の企業に送り込む違法な二重派遣をしていたからだ。グッドウィルも既に、SGLに絡む二重派遣を含む違法派遣の多発で、事業停止命令の通知を受けていたが、11日になって、改めて厚労省から最大4ヶ月の停止命令処分が下された。この行政処分に繋がったのは、一人の女性派遣労働者の「行動」だった。彼女(20歳)の上げた声が、企業行動の適正化を促すきっかけになったのだ。

 彼女は、04年にグッドウィルの派遣スタッフに登録した。派遣先は、静岡県浜松市内の大手通信販売会社だ。06年から、この会社の倉庫で仕分けや箱詰め作業をしていた。ここで仕事をするうちに、彼女は「何かおかしい」と思うようになった。なぜだろう? それは、グッドウィルの担当者から「佐川の仕事だが、実際に行くのは『別の会社』」と説明されていたからだ。 倉庫で仕事の全体的な指示を出すのは、佐川でなく、通販会社の作業員。1日働いて、交通費コミで6000円。1日200円の不透明な天引きも行われていた。その天引きが批判されると、グッドウィルは、一度は天引き分の返還を表明したが、全額返そうとはしない。この姿勢に「疑問」を感じた彼女は、インターネットの大型掲示板「2ちゃんねる」で情報を集め、自分の働いた状況が違法な二重派遣だと初めて理解した。その「2ちゃんねる」には、こう書いてあったという。「労働者をモノのように扱う『人身売買』なんだよ」

 彼女は、目が覚めた気がした。静岡労働局に実情を話し、供与明細書も提出した。その結果、労働局は昨年8月下旬、グッドウィルの浜松支店などを立ち入り調査し、今回の処分に繋がる証拠を得たのだ。これに対し、厚労省幹部はこう言ったという。「二重派遣といった違法行為は、労働局の担当者不足もあり、なかなか発覚しない。彼女のような『派遣労働者の申告』がないと動きにくい」 これに対しグッドウィルは、二重派遣の関与を否定する。しかし、彼女は「グッドウィルも状況は知っていた」と憤る。通販会社の現場では、人手が足りない時、グッドウィルの支店従業員が、たまに応援に来ているのを目撃していたからだ。そして、彼女は力強くこう言い放った。「事実は現場で働いていた私達が一番よく知っている。おかしいことはちゃんと言わないと、いつまでも企業は変わらない!!」と。

 以上が、1月7日の朝日新聞の記事を参考にした今回の事の顛末だ。その記事のタイトルは、「派遣の疑問、行政動かす」 ・・・・・。僕は思った。同じ派遣労働者として、彼女のとった行動は、まさに「しばれる劣悪労働環境」の中から立ち上がった「女木枯し紋次郎」ではないだろうか。それ位の「楊枝」を飛ばしたのだ。いや、彼女は派遣労働者のジャンヌダルクと言ってもいい。それほどの、賛美の言葉と拍手喝采を送りたい思いだ。彼女のような「正当な思い切った行動」が、派遣の現状を変える大きな原動力になり得るのだ。僕も彼女を見習いたい。

 今回の出来事は、また別の意味で僕にはサプライズだった。それは、このような違法行為に対する労働者の申告が、僕が日頃派遣先で感じている『モノ言わない、労働者意識が低い、会社に従順過ぎる、利用価値の高い派遣女性』の手によって成されたという事実だ。一般的に言って、不安定雇用という「虚像」を容認しているか、もしくは黙認している女性は数多い。その理由は、恐らく労働という現実の深みにはまりたくない、それによってストレスを感じたくない、という女性特有の自己保身に走る傾向が、男性より強いからだろう。言わば、女性は派遣先でも「労働とは何ぞや?」という疑問に対して、なるべく負荷がかからない「第三者的立場」でいたいと考える人が大半なのだ。

 事実、女性パートの8割以上、また、派遣の4人に3人が現状満足しているという意識調査結果もある。こんな女性は、企業にとっては、使い勝手の良い「鴨ネギ」だろう。実際、パラサイトシングルの女性などは、給料は安くても生活貧困感をあまり感じず、派遣先でも「居心地がいいのが一番」と言うのが本音だろう。しかし、よく考えて欲しい。今は、一昔前の雇用情勢が大きく変わって、働く人の約半分が非正規雇用者だ、と言ってもおかしくはない状況だ。あの頃のような結婚資金を稼げ、OL独身貴族を謳歌し、なお好都合だった「寿退社」は夢のまた夢だ。不安定雇用者の増加は、当然、女性の結婚年齢の高齢化を誘発する。このことは、男性についても言えることだ。男性が経済力がないということは、女性には悪いが、現代は、待てども待てども、甘いハネムーンは遥かに遠い現実となりつつあるということでもある。にもかかわらず、大多数の女性は今でも男性依存症だろう。

 これを抜きにして、「じゃあ、私は一人で生きて行く」と高らかに宣言する女性は、いったい何人いるだろうか。このように、働く男性の懐状態は、女の幸せにも即響いてくる。そして、男と女は、お互いに働く以上「裏腹」の関係なのだ。だから女性も、現状に満足せず、今の世こそ、男と一体になって働くことの意義を深慮すべきなのだと僕は考えている。労働者意識を高めることは、大げさに言えば、女性解放の礎だ。少なくても、女性が企業の思うがままに酷使され利用されている、派遣先の現状には僕は疑問を感じている。こんな現状を、「仕方ない」と黙認するのではなく、身近な疑問を行動に変えて欲しいものだ。

 ともかく、思いもしなかった派遣女性の一言から、行政が動き出したのは非常にいいニュースだ。古い言い方をすれば、僕はこの女性に「品格」を感じる。派遣社員は色々軋轢がある。そして、ほとんどの人が企業に翻弄される肩身の狭い身分だ。給料が上がらなければ、必然的に「面従腹背」にならざるを得ない。しかし、企業のなすがままでは絶対ダメだ。仕事が劣悪、過酷になればなるほど、不正に対して、それを告白する権利は誰にでもあると思うぐらいの「強気の姿勢」を持って労働環境改善に取り組んで欲しい。たとえ組合はなくても。そうすれば、派遣労働者は救われる。今後も派遣世界に、木枯し紋次郎とジャンヌダルクが出現して、数々の不正を摘発して欲しいと僕は願う。

 すっかり長くなってしまったが、最後に言いたいのは、やはり企業のことだ。企業の社会的責任、社会貢献はある一面、正当な雇用下における給与の支給であり、社会に個人消費という潤いをもたらすことだろう。このまま一人勝ちした大企業などが、不安定雇用という虚像を誘導して行けば、労働環境は今よりずっと劣悪になるのは目に見えている。企業トップは、もっと現実を直視すべきだろう。身近なガソリン、灯油、食料品、生活用品の値上げラッシュで、個人の家計は火の車だ。いくらグローバル化で外需を拡大しても、肝心の内需が火の車では、何にもならない。このままでは、日本の庶民は、いつまで経ってもしばれる生活から開放されない。

 ここで一念発起して、せめて企業は、社員だけでなく非正社員にも雪解けに繋がる「CSR」を宣言して、現状打破してもらいたい。何度も言うが、人件費節約で企業に最大貢献した非正規雇用者は、日本企業にとっては、非常に感謝されるべき立場の人間だ。その人達を利用して、「モノのように扱う人身売買」だけは止めて欲しい。企業が社会貢献宣言したその先に、極上の「パウダースノー」が見える。これは「本物」だろう。

/158.環境技術で生きる(日本の誇れる紅一点)

2008-01-06 13:35:11 | Weblog
 朝日新聞元旦の天声人語によれば、ベートーベンの「運命」の「ダダダダーン」は、異論もあるが、「運命が戸をたたく音」らしい。だとすれば、今年の僕の「ダダダダーン」は、いったいどこから来るのだろう。運命の年明けと思いたい初春の空は澄んでいた。人間活動がストップしたからだ。その初春に僕が最初に見たものは、初日の出の薄明かりと同居人のスズメの夫婦だった。スズメの夫婦は「チュウ、チュウ」とは鳴かず、あくまで「チュン、チュン」だったが、この日だけは「チュウ、チュウ」と鳴いて欲しかった。忘れてはいけない。今年の僕のおまじないは「♪チュウ、チュウ、チューウ、タコ(多幸)かいな」だ。このおまじないをしながら、テッチリ(フグ=福)を食べれば幸せも増すだろう。

 隣のオバチャンは、どうやら年末に宣言していた海外旅行から帰ったようだ。三が日の「駅伝ごもり」の話をすると、「あんたらしくないね」だって。余計なお世話だ。でも、3日とも恒例の「自転車エアロビクス」は欠かさなかった。これが僕のささやかな行動力だ。それにしても今年の年明けは、例年になく寒かった。表層雪崩による北アルプスの悲しい事故はあったが、僕はこれくらいの冬がちょうどいい。皆さんの正月はどうだったろうか。

 今週のクローズアップニュース2は、正月のテレビを見ていての僕の「ちょっと雑感」だ。 年末、福田首相は「福」を求めて、「日中蜜月演出」の旅に出た。この旅は、過去の氷を溶かし春が来る旅なのか。その一方で、パキスタンのブット元首相がイスラム過激派の凶弾に倒れた。アメリカはサブプライムローン地獄。世界は悲喜こもごもだ。 ロシア、EU、インド、どっちが本物? 夢とロマンの08年の門出に相応しいのは、万能細胞の出現だ。癌(ガン)は、宇宙の彼方に飛んで行けるのか。 歌は世につれ世は歌につれ。今流行のCD「R35」は選曲はいいが、僕はもう少し後戻りして、同世代には懐かしい「R55」の発売を希望する。

 NHKの来る年を祝う、山梨県根羽村の「ネバーギブアップ」宣言は良かった。この根羽村、僕は昔行ったことがある。富士五湖と霊峰富士探訪の真っ只中だ。 姉からのおすそ分けの「おせち」、見事な腕前で気持は嬉しいが、僕はあまり好みではない。カズノコと酢ごぼうと黒い椎茸があればそれで十分だ。来年はそう言っておこ。 正月用の、いかにも作ってある風のテレビ番組はしらける。もっとしらけたのは、某お笑いタレントが言った「日本は均質化された縦社会、だから、KY君になって、常識人になれ」との発言。均質化もある程度まではいい。でも、全て均質化された社会もまた気持悪いよなあ。

 そんなことより、全て均質化された民放のバラエティー番組を「何とかせえよ」 その点、おんなじ民放でも、箱根駅伝スタッフのカメラワークは抜群だった。選手を追いかける上で、ある程度の失敗はあっても、バックの風景がそれを補ってくれる。何度も言うが、早稲田大学、残念至極。 3日間の「餅腹」は長持ちするが、それが「メタボ」の元だ。たまに食べる「エースコックのワンタンメン」は最高だ。値上げ? 止めてよ!! 

 申し訳ないが、もう少し雑感だ。中小企業はグローバル化に対応できない、と評論家が言っていた。当たり前だ、今更。対応しているのはおおむね大企業だけ。アホこけ。 また何か言っている。「正社員にゴマする非正社員は嫌い」だって。当たり前だ。自分の立場が分かっていない大多数の女どもならともかく、男がゴマするのはもっと許せない。企業の思うがままに個人が潰されるのは、見るに堪えない。その点、僕は無能の正社員には高飛車だ。この人は変わっていると正社員は思っているのだろうが、そうは問屋は卸せない。僕は公務員の現役時代、あまりにも役人の域を逸脱し過ぎていて、初めて会った人には、公務員と思われたことがない人間だった。そんな頃、僕はよく言っていた。「俺は変わっていない。日本人が変わっているんだ」と。今の世の中、正々堂々がきしんでいる。奥歯にものが挟まったような言い方をせず、正しいことは正しいと言った方がいい。ひょっとすれば僕のルーツは欧米人? 以上、年始のテレビを見ての「ボヤキ」だ。

 さて、この辺で新年に相応しいクイズだ。僕が、かつて新しい気持で元旦を迎えた場所のひとつに、妙高山の麓の「赤倉温泉」がある。この赤倉温泉はいったい何県にあるだろうか? ・・・・・。正解は、信濃(長野県)だと思われがちだが、実は「越後(新潟県)」だ。信越本線が延びる北方には、戦国時代に武田信玄と戦った上杉謙信の巨城、「春日山城址」がある。この町は、昔は「高田」、今は「上越市」だ。この赤倉温泉スキー場の主要ゲレンデ脇にある「杉林の森」が僕は好きだった。吹雪の日はお世辞にも「グー」とは言えないが、ある程度降雪があり風がさほどない日の森の木下闇は、「静けさ」の別世界だ。散るように落ちる細い雪、微かに聞こえる木々のこすれあう音、風のささやき、そして、遠くに聞こえるスキーヤーのざわめき。この中で一人飲む温かい紅茶は絶品だった。まさに、雪国情緒満点のオープンカフェだ。あの時の気分になりたいものだ。

 ※ここでちょっとお知らせだ。このブログ、来週から僕の都合で週1回とすることにした。不本意だが、日曜日の午前にある「少年野球のコーチ業」との両立が非常に難しくなったからだ。よって、週1回だけ今までどおり「/」を続ける予定だが、折をみて、また次のステップを踏むかも知れない。派遣の仕事との兼ね合いもあり話しは流動的だが、よろしくお願いしたいと思っている。


 さあ、今日のテーマは何にしようか? でも、なぜか、今日は嫌味がある。「静けさの森」のことを書いた途端、俗世間に戻りたくない心境になった。が、仕方がない。「/」には「/」の道がある。でなければ、このブログが成り立たない。今日は下書きなしだ。だから、考えよう。・・・・・。あっ、あった。年末年始(と言っても、年末はほとんど見ていないが)のテレビ放送の特徴として、やはり地球温暖化に対する警鐘番組が多かったことが挙げられる。それらの番組の大半は、あのアル・ゴア氏の懸念を取り上げていた。僕は、何時かの折、日本が失われた10年で、失われた自然が僅かながらも蘇ったと指摘した。その原因を突き詰めれば、日本が、行き過ぎた市場原理や大量生産、大量消費の経済最優先の時代が終焉を迎えたという、言わば「不幸中の幸い」があったからだとも指摘した。

 その起点は、言うまでもなく「バブル崩壊」だ。これが、間違いなく自然復活のきっかけだった。図らずもそれ以降、日本は失われた10年を経て経済が十分回復しないまま、アメリカが主導する世界のグローバル化の波に巻き込まれていくことになる。そして、皮肉にも、中国、インド、ロシアなどの人口大国は、いずれも不透明ながら、大筋としては、かつて日本が辿った経済優先の道を歩みつつある。共産主義国中国はその先鋒だ。これは、日本にとっては、一難去ってまた一難だった。世界の食糧や地下資源の需要と供給のバランスが大きく崩れ始めた今、日本は、また大きな難題を抱えたまま、新しい年2008年を迎えたというのが実情だ。このスポットに見事にはまり込んだのが、外貨を稼ぐという、グローベル化の波をうまく利用した大企業だろう。

 このような中、日本は、「経済を成長」させながら、かつ、現段階では相反する立場にあると思われる、「自然の回復」も同時進行させて行かざるを得ない運命にある。これが、日本の未来に繋がるからだ。そして、国を守るという意味では、今が正念場だ。正念場を乗り越えるには、修羅場がある。この修羅場が、世界のグローバル化という大波だ。大波のボトムは低く、トップは高い。サーフィンならばビッグウェーブなのかも知れないが、今の日本は、まだこの波に立ち向かうパドリングの状態だ。さて、どうする? こんなところが、テレビに登場する日本の近未来像だろう。

 この内、経済の話しは今日は避ける。避けると言うより、全く先が見えない、分からない、と言うのが僕の実感だ。だけど、財政難で自活能力のない日本が、世界の食糧と地下資源争奪戦に勝利して、このグローバル化の大海原を大手を振って漕ぎ出せるかどうかは、たとえ専門家でも予想不可能だろう。その道の達人でさえ分からないのに、ずぶの素人の僕が胸を張って言える訳がない。それどころか、ここで僕が、大げさな発言をすれば、いかにブログでも、それこそイカサマ師だ。よって、経済の話しはしない方がましなのだ。

 だから、必然的、誘導的に僕の話しの対象は「自然」だ。自然に関しての僕の見解は、首尾一貫している。これも、何時かのブログに書いたとおり、地球温暖化を防ごうとすることは、イコール自然を守ることだ。もう少しスケールを大きくすれば、地球を取り巻く大自然を守ると言った方が正しい。もし、このためにだけ日本が邁進すれば、当然経済は停滞すると見る向きも多いだろう。しかし、僕はそうは思わない。経済で言えば、日本は恐らく、グローバル化の大波の負荷を、最小限に抑える潜在能力はきっとある筈だ。何と言っても技術立国日本、根拠はないがそう思う。かたや、僕が強調したい「環境立国日本」も世界から幾多の批判もあるが、その実力は相当のものだ。修羅場を乗り越えるため、世界に「大見得」を切って、「これ一本!!」と宣言して欲しいと僕は思う。

 それが証拠に、中国などは、環境保護に関しては、日本を最大限に評価して、援助を求めている。確かに、中国は大食漢だけに恐い面はある。ロシアも冷戦を思わせるプーチン帝国を目指している。が、中国は、ズバリ言えば「日本の物真似」をしてここまで来た。言わば、日本は中国の先生だ。ODAで手助けもした。近年、戦争責任などで軋轢もあったが、中国が日本のかつて来た道を実体験している以上、生徒が先生を見放す筈はないだろう。そう思いたい。どこの国にも、憎くてどついてやりたい先生はいる。でも大半の生徒は、そう言いながらも先生を慕っているのだ。公害防止など環境の保護は、今や中国の窮余の策、背水の陣で臨まなければならない事ダネだ。省エネ環境分野で世界で強みを持っている日本が、ここで立ち上げるべきではないだろうか。中国に対して、日本がこの約束を守れば、世界のあらゆる国が日本を慕ってくるのだ。そうも思いたい。

 更に、国連の場でも日本の環境技術に対する評価は高い。僕は、日本の失われた自然が回復したなどとは絶対思っていないが、幸か不幸か、世界の有識者がそう思っているのだ。どうやら、自然環境の保護と環境技術の評価は別物のようだが、そんなことはこの際どっちでもいい。日本はこっちに走るべきだろう。このまんま進めば、日本の優れた環境技術が世界を席巻する日がきっと来る。そのためには、国も企業も生き残りを賭けた戦いなどと、血迷ったことを言わず、世界と共存共栄を図る必要がある。世界が不透明なこの時代、少なくても慈悲を名誉としている日本人の底力を見せて欲しい。そして、日本の希望の星は「環境にあり」これが結論だ。

 余談だが、自然環境保護の立場で言えば、大多数の人間が大自然を真に崇拝する国には、本当の平和がある。日本も世界に誇れる美しい自然を持っているのだから、それを以て美徳としなければ。そうでないとせっかくの自然も台無しだ。自然を大切にする国には品格がある。ニュージーランド、カナダ、北欧の国しかりだ。日本も、人が本当に自然を愛しているかどうかは疑問だが、環境技術という分野で世界の中の「紅一点」になれるのなら、僕はそれでも満足だと言っておく。

 よくよく考えてみれば、今日の僕のブログは長過ぎるし、本命の「/」がない。「/」は読者が考える。こんな日もあっていいだろう。決して、来週から週1回になるからこうなったのではないが、雑感並みのブログになってしまった。それでは元に戻って、我々レベルで環境に優しい人間とは、いったいどんな人だろう。それは、環境技術で言えば「エコ人間」だ。そう、「エコ」も技術なのだ。身近な「エコ」は、すぐ傍にある。例えば節電。こまめに電気を消すことだ。水を大切に。分別ゴミ。車を使わない自転車、歩行、電車の利用。堆肥用生ゴミ。合成ではなく天然洗剤の利用などなどだ。ひいてはそれが省エネ、節水、ゴミのリサイクル、森林保護などに繋がる。そして、これらを実行することによって、自然の生態系が回復し、二酸化炭素が減少するのだ。この逆の人は、環境スキルがない人間だ。すなわち、環境破壊人間、環境負荷かけ人間。言い換えれば、「無理をせず」精神的に余裕のある豊かな真の文化生活人間が「環境世界の勝利者」だ。そんな感覚とセンスを磨こうではないか。

 環境に優しい人間を絶賛する曲がある。僕がカラオケでよく歌う河島英五さんの「時代おくれ」だ。「♪ 一日二杯の酒を飲み、さかなは特にこだわらず、マイクが来たなら微笑んで、十八番(おはこ)を一つ歌うだけ♪」「♪ 目立たぬように、はしゃがぬように、似合わぬことは『無理をせず』、人の心を見つめつづける時代おくれの男になりたい♪」 こんな人は、「エコ人間」になれる素質がある。ちなみに僕は、ここまでは「無理」だ。きっと、ガマンできず「酒と泪と男と女」に走るだろう。この「時代おくれ」の作詞者は、あの阿久悠さんだ。この二人が天国で、僕を見つめてくれていると思えば、「/」の僕でも、「良きエコ人間」になれそうな気がする。

/157.目覚めよ、大阪(脱せよ、刹那の知事選)

2008-01-05 12:19:52 | Weblog
 鼠年がスタートして「もう」5日も過ぎた。気分はまずまずだ。元旦には、へっついさん(カマド)育ちの餅が入った雑煮を食べながら、初日の出が射し込んだ部屋の窓に向かって「あんじょう(うまい具合に)育ってや」「あんじょう食べや」と自分に言い聞かせた。ついでに、僕の神経や臓器など体のあらゆる組織に育つ「万能細胞」にも。去年の大晦日には、見事に仕上がった実家の門松の前で、例の「♪チュウ、チュウ、チューウ、タコ(多幸)かいな」を祈願した。初詣にも行った。初め良ければ全て良し。これで、今年僕の身に何か不幸があれば、それは他人のせいだろう。

 今年は何をしようか? 自分なりにマイペース? それとも、疾(はやき)こと風の如く、徐(しずか)なること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し、の心境で、夢に向かって生き抜こうか。なら、夢は「一富士、二鷹、三茄子」だ。この夢は、テレビの壮大な人間ドラマ、箱根駅伝に映し出された東海自然歩道がある富士五湖周辺で見るに限る。この舞台の夢を、我が家の寝床で見た時、それが僕の「初夢」だ。お年玉? ちょっと古いが「そんなの関係ねぇ」 見渡せば、双六、カルタとり、コマ回し、凧揚げ、羽根つきが僅かに残る天と地だ。凧揚げの先には宇宙がある。今年の日本、いや、地球はどっちに進むのだろう。

 3、2、1、「ドーン!!」で始まった三が日のニューイヤー駅伝と箱根駅伝は、僕にとっては、正月の「駅の道」だ。早稲田大学は総合優勝を果たせなかったが、堂々の2位は立派だった。アフリカ勢の外国選手は、今年も度肝を抜く「黒い疾風」だった。彼らが大学チームとして出場すれば、とてつもない大記録が生まれるだろう。対して、日本人選手は、たすき渡しでバンバン倒れる。おまけに、たすきも渡せず途中棄権するチームが3校もあった。いかに精一杯でも、体の性能の違いは明らかだ。しかし、全体としては、今年も旅情を楽しめ、抜きつ抜かれつの、見る側にとっては最高の戦いだった。有難う、学生諸君。

 それに比べて、ただやかましいだけのバラエティー番組は、もうウンザリだ。こんなご時世こそ、日本の美しい自然を生中継して、その風景を映しながら、アナウンサーが飾り気のない真実最小の言葉で語る「癒しの番組」があっていい。そんな正月番組こそ、荒んだ心の人間によって、あの世へ旅立った全ての人達へのレクイエム、千の風に繋がるのではないだろうか。

 気が付けば、年賀状もなく、今年も一人。去年の「偽」の連鎖も、遥かに遠い昔のことのようだ。きっと、人から見れば寂しい今年のスタートだったろう。こう感じる僕は、疎外感の塊だろうか。しかし、ここで弱気になってはいけない。人生は、生きている限り永遠に続く袋小路。今年も、我が敵は目の先の「ストレス」だ。それを解消するため、遠くにダイヤモンドダストを見据えて、生きて行きたいものだ。そうすれば、何事にも動じない、もやもやのない冴えた年になる。 でも、ちょっぴり心配事もある。「もう」5日も過ぎた「時」のことだ。3日の日に京阪電車に乗っていると、ある中年男性が冗談でこう言っていた。「おい、今年ももう残り362日やぜ。早いなあ」と。この発言、僕はあながち無視出来なかった。確かに、僕に関する時の経過は、新幹線の「N700系並み」だ。これの克服も、今年の課題だろう。

 今週のクローズアップニュース1は、新年に相応しい「初詣」だ。僕の初詣は元旦。今年も気合いを入れるため、酒の神、バッカスの援助を受けて、日本一長い天神橋筋商店街付近にある「大阪天満宮」だった。さてここで、今年最初のクイズだ。大阪市内には、北のお初天神、大阪城にある豊国神社、今宮戎神社、生国魂(いくたま)神社、四天王寺、住吉大社などなどの初詣有名ポイントがある。じゃあ、次の神社は何と読む? 「杭全神社」・・・・・。正解は「くまた神社」だ。杭全神社は、戦国時代には堺にも劣らない商人の町、「平野郷」の中心にあった。今は平野区だ。杭全の難文字を「くいぜん」と読まず「くまた」と読んだ人は、大阪人か、または、かつて大阪に住んだことのある侵入者だろう。ついでに、大阪では有名な地名の「放出」は、さて何と読む? 答えは「はなてん」だ。これは、宴席では必ず話題になる地名だ。ナニワの奇抜なテレビコマーシャル、「放出中古車センター」で知られている。これを知っているだけでも、大阪では得をする。これホンマ。

 どこでもそうだが、初詣に行くと、誰でも神のご加護に包まれたような一種独特の雰囲気になる。そんな霊験新たかな気分を神社が醸し出しているのだ。この感覚は奥が深い。子供らがデジタル遊びをする時の「刹那的ゲーム感覚」とは訳が違う。今年最初の「/」は、今まで大阪人が「刹那的ゲーム感覚」で選んできた注目の大阪府知事選がテーマだ。

 僕は、大阪は今でも庶民の街と思いたい。庶民が助け合う人情ある下町だとも思いたい。しかし、最近は随分と街の姿が変わった。かつては、一緒にいるとなぜか安心感があったナニワの良き庶民が、悪しき庶民に変わったのだ。そして、今や大阪は、日本一の無法地帯と化したと僕は思っている。いや、本当は僕だけじゃなく、自他共に認める無法地帯と言いたかったのだが、それには少々無理があった。なぜか? それは、この街に住む大阪人自体が、悪くなった自分達の街のことを、自分でよく分かっていないからだ。僕は思う。大阪人は、この悪くなった大阪を良くしようと本当に努力しているのだろうか。この地に墜ちたナニワの現実、その未来と真剣に向き合おうとしているのだろうか。 世間の風評も、大阪には明日がないという辛辣なものばかりだ。なおかつ、バブルがはじけた後、大阪は日本一生活保護の多い街になった。ホームレス、ワーキングプアも多過ぎる。おい、これからどうするんだよ!! そんな中であるのが、今度の知事選だ。大阪の有権者は、いったい誰を選択するのだろう。

 色々な見方がある中で、僕は今一つのことが気になっている。勿論それは、お笑い好きの庶民のことだ。例えば、大阪の庶民は、テレビを人一倍お笑いのネタにする。言わば、テレビは大阪人の必須アイテムだ。でも、今回の知事選だけは、庶民はテレビを見るな!! テレビを鵜呑みにするな!! と僕はこう言いたい。そして、この際、思い切って言おう。大阪庶民は今、アホではない、バカだらけなのだ。正月三が日のテレビを見て、なおさらその意を強くした。特に、テレビ局側にとっては、テレビに翻弄されやすい庶民は絶好の「鴨ネギ」だろう。もし、テレビ局側に視聴者を選ぶ権利があるとするならば、今のテレビのレベルから言って、大阪の庶民は「同病、相憐れみ」だ。究極のマインドコントローラーに洗脳されて、なんやかやと大阪流に解釈すれば、大事な選挙に対する冷静な判断を見失うのは目に見えている。大阪庶民よ、少なくても選挙期間中は、知事選に関するテレビを見るな、と再度言いたい。

 もう一つ気になることがある。それは、この庶民の中にいる「貧困層」のことだ。この貧困層は、同情の余地があるが、今の現実から言えば、大阪の「諸悪の根源」だ。そうでなくても質の悪いテレビに、この貧困層が同調すれば、それこそ、今回の選挙も「刹那的ゲーム感覚」になる可能性が高い。この辺も鬼門になるだろう。 よく考えて欲しい。本来、貧困層こそ、弱者救済を究極の使命とする政治家の対象となる人間ではないか。だからこそ、貧困層自身も立ち上がらねばならないのだ。そんな宿命を背負っている貧困層が、大阪を無法地帯に落とし込んでいるのだ。ここが今の大阪の「大欠陥」だ。

 弱い者を利用しようとする国や企業に対して、貧困層は、一致団結して津軽平野に荒れ狂う地吹雪にも似た困難の中から、一筋の光明を見い出さなければ大阪は変わらないという、切羽詰った改革意識を持たなければ何の意味もないのだ。決して大げさではない。これが僕の本音だ。このような貧困層の動向が、今回の大阪府知事選の戦局を左右するという認識を僕は持っている。更にもっと言いたいが、もっともっといい指摘が僕の元にある。それを紹介しよう。 彼女(彼?)は、僕なんかより、大阪を長く長く見つめてきた一人だろう。朝日新聞「声」欄の「愛する大阪よ、早く目覚めて」と題した、京都市西京区の無職「加藤敦美さん(79歳)」の訴えは真実味がある。大阪を愛するゆえの悲痛な叫びを聞いてもらおう。

 「大阪よ。お前はもう十分に傷ついている。大阪は日本中の笑いものになっている。笑われるのを人気だと勘違いしているので、外から見ると、どんどん落ちていくように見える。大阪はお笑いの街である。だが、さげすみ、罵倒、自虐・・・・・。こんなものをお笑いとすることで、大阪から本当のお笑いがなくなってしまったのだ。戦後、大阪に住んでいた私は、開けっぴろげな大阪の人が大好きである。本来のお笑いは私も好きだ。しかし、笑いものにしてはならないもの、真剣に向き合わねばならない場面をも、あざけり、笑いですませてしまうのがいけない。それを品がないという。知性に欠けると本当にさげすまれるのだ。今度の知事選で、またも、大阪は日本中の笑いものになるのか。わが愛する大阪よ。一刻も早く目覚めてほしい。考えて、考え抜いてほしい。大阪よ」

 まさに、加藤さんは僕の代弁者だ。今度の府知事選でこそ、大阪人は目覚めなければならない。僕は、元毎日放送アナウンサーの平松さんが当選した大阪市長選は気になりつつも、しばらくは静観していたが、本当は大いに大阪が気がかりだった。大阪は知事も市長も、時代の流れで、ここ数年以上抜本的な改革を余儀なくされた。だが、実態はまだ、昔の負の遺産を抱えたままだ。その意味では、現知事の太田さん、市長の関さんには、巡り会わせが不味かったなあと同情の余地は十分にある。しかし、現実は衣食住とも相当厳しい。最近で言えば、大阪の恥さらしはいっぱいある。引ったくり、数々の偽装会社、怠慢公務員、日本の都道府県で45番目の低学力、前述した生活保護やホームレスの多さ、高い失業率等々課題は山積みだ。おまけに、府の負の遺産として、多額の「赤字隠し」も発覚した。

 目前に迫った大阪府知事選は、弁護士でテレビタレントの橋下氏も立候補して、喧々諤々の舌戦を展開している。僕はもう大事な人を決めているが、やはり気になるのは、テレビなどに翻弄されて間違った選択をしはしないかという、貧困層を含めた庶民の動向だ。大阪は、庶民抜きには語れない。ゆえに、庶民の冷静な判断が欠かせない。果たして、結果はいかに。注目しよう。

 去年の紅白歌合戦では、女性軍のトリとして、石川さゆりさんが「津軽海峡冬景色」を歌ったと巷の噂で聞いた。あの歌は、僕の近辺のカラオケ屋さんでもよく聴こえてくる曲で、大阪庶民の「愛好歌」だ。今回の選挙では、大阪の冷たい冬景色を、温かい風景に変えられるかどうか、そんな大阪人の姿勢が問われる。我が愛する大阪よ。もう恥は掻くまい。「偽」はもうたくさんだ。「刹那」の風が吹かず、良き選択をして、その結果、温かく、暖かい千の風が庶民の下に吹き交うことを期待したい。