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ナニワのオッサン 怒りのエッセイ!!

/174.企業の発想転換期(大量消費から質の時代へ)

2008-04-26 10:12:05 | Weblog
 すったもんだの中で、今日、いよいよ長野市の聖火リレーがスタートする。さて、どうなるか? 北京オリンピックの不吉な前触れを象徴するかのような寒の戻りが続いた後、突然、気温25度以上の夏日が現れた。早くも地球温暖化を思わせる出来事だ。近所の里山のオタマジャクシも、さぞかし対応に苦労しているのだろう。桜前線は、もうみちのくを越え北の大地まで上陸しただろうか。

 朝日を浴びて、若葉がつやつやと光る雨上がりの朝は気持がいい。野面ではタンポポの綿坊主、田面ではネギ坊主が、過ぎ行く春の風情を惜しんでいるかのようにそよ風に揺れている。すぐ近くの公園では、房状の花をつけた藤棚が濃艶だ。この花は、春の汗ばむ頃の気分にピッタリ合う。街頭では、子供達の潮干狩りの頼りが届く。諸人こぞりて楽しむ花の春は、そろそろ終焉に近い。

 色々気になるニュースがあるが、それには一切触れずに今日も僕の小さい呟きから。1つ目。 ゴールデンウィークは若葉と新緑の候。朝日新聞のこの頃「訪ねてみたい森林浴の森アンケート」で、ダントツ1位は、やはり「屋久杉林」だった。2位は「八幡平」、3位は「熊野古道」 屋久島には、推定樹齢7200年の縄文杉を含める森の巨人達が集まる。神秘的で「もののけ姫」の精霊が宿る孤高の島は、それだけ魅力的だということだろう。だけど、「春の海、ひねもすのたりのたりかな」の海の良さも忘れてもらっては困る。

 2つ目。そのゴールデンウィーク。今年は休みの巡り会わせが悪く、海外旅行は激減しているらしい。特に、中国は人気がない。勿論、その原因は一連の悪態だ。代わって、韓国の人気が急上昇だ。当然の成り行きとも言えるが、考えてみれば、僕もアジアではベトナムと韓国が一番良かった。韓国に限って言えば、その理由は、キムチと冷麺が美味かったうえに、パッチもん(バッタもん)と言われる偽造品の土産物でさえ、いまだに長持ちしている。行く価値は十分ある。

 3つ目。横丁の風呂屋さんでのオッサンの会話。「一日中テレビを見てたら時間たつの早いな。なんかせんと、カンオケまでこのまま一直線やで。そうちゃうけ」「隠とくゆうてな。隠すことは、ホンマに女の18番なんや。うちの嫁ハンもそうや。だからな。携帯メールもインターネットの裏サイトも、本来は女に一番ピッタリなんや」 この下下の話し。どう思う?

 4つ目。会社にしがみつく「パラサイトミドル」が、若手成長のさまたげになっているらしい。僕は、大いに感じるものがある。自分の経験だけで、教えなくてもいい邪見を若手に押しつける、嫌味な処世術信仰者が中高年には多い。これじゃ、会社の改革もままならない。話し変わって、日本は食の「自給」も「製造」も外国人頼みだ。情けない。これじゃ当分、食の改善どころか、食の独り立ちも無理だ。

 5つ目。東京ディズニーランド25周年だが、待ち合わせで、「ここで会ったが100年目」とばかりに、「いつも会っている友人」に会った途端、小躍りして大感激する若い女性。ありゃ、いったい何だ? 評論家いわく「あれはまだ子供で、人間の弱さの証明だ。腰が据わった外国人ならああはならない」 全く同感。

 6つ目。経済は金。文化は心。この両立は難しいが、この両立こそ、日本民族の道だ。ところが今は、文化を忘れて、経済、経済で物事を評価する風潮が目立つ。日本人は経済がなければ不満なのか? あまりにも味気ない。あまりにも浅い。

 次の話題。人には好みの人がいる。僕で言えば、例えば写真家の「浅井慎平」さんだ。「生理的に好きな人」と言った方がいいかも知れない。ファッション感覚も考え方も共感するところが多い。タレントのタモリさんが、東京に出て来て最初に「居候」したのが浅井さん宅だというから、これは大いなるサプライズだ。

 同じ写真家でも、ちょっと毛色が違うのが、サブカルチャーの先駆者の雰囲気を色濃く残す「荒木経惟(のぶよし)」さん。ではここで、クイズ番組によく出題される「やさしいクイズ」だ。荒木さんの愛称は何だろう? ・・・・・。正解は「アラーキー」 そのまんまだ。アラーキーは、映画監督もやるユニークな性風俗の達人、というイメージも僕にはある。そのアラーキーがこう言っている。取材でベトナムのホーチミン市を初めて訪ねて、「レンズの中にさ、幸せが飛び込んでくるんだよ。舗装されていない道路も多いし、みすぼらしく汚れた服装の人もいる。それでも、不幸なんてちっとも感じさせない。何でだろう」

 与謝野前官房長官は、「私は最近、安い食料の時代は終わったという認識を強くしている。量の確保、安全な食料の確保の面からも、もう一度、夢のある日本の農業をよみがえらせなければならない」 民主党代表代行の菅直人氏は、「モノやエネルギーを贅沢に消費する生活が幸せなのか。省エネ型の生き方というか、『幸せの品格』とでも呼ぶべきことも問われる時代になった。多少手間はかかっても、新しい『幸福の質』をいかにつくっていくかが、大切だと思います」 三人三様、何かを感じさせる発言だ。でもこれは、正直な本音の呟きだろう。この貴重な呟きを参考にして、僕も企業人などに向けて、自分なりの意見をランダムに大きく呟きたい。

 高度経済成長期、バブル崩壊、失われた10年を経て、グローバル化という大波をかぶる日本。混沌とした先行き不透明な時代を迎えて、我々の周辺には今、「夏草や、つわものどもが夢のあと」を思わせる事象が充満している。それはどういうことなのか? では言おう。これをズバリ一言で語れば、日本の「体質」が変わったということなのだ。変わった体質は、メタボリックシンドローム克服のように人間の努力で元に戻せるか、と言えば決してそうではない。これもズバリ言えば、もう古き良き時代に戻ることがほぼ不可能な状態なのだ。だから当然、日本は今の時代に見合った「体質改善」を図らなければならない。

 夏草や、つわものどもが夢のあと・・・・・。もはや日本は、この名句に懐かしさやロマンを抱いている余地はない。ばかりか、そんな感情や未練をきっぱりと捨て、次の夢を暗中模索する時代に突入しているのだ。かつて隆盛を極めた大手スーパーや百貨店の低迷に見られるように、平成時代の名に欺くかのごとく、日本企業の置かれた立場は非情に厳しい。特に、内需に係わる国内の商売は手詰まり感がある。一方、なりふり構わずグローバル化の波に乗って海外へ進出した大企業は、外需で儲けている。しかし、資本のない中小企業は、大半がその恩恵を受けられず、止むを得ず日本国内に留まりながら死闘を繰り返すも、弱肉強食に自然淘汰されて、今なお倒産が後を絶たない状態だ。中小企業は、日本全体では圧倒的多数を占める。それだけに、これが内需拡大出来ない要因になっているのだ。でも、今日はこっちの話しはしない。僕にとっては大事な、主に企業にまつわるあっちの話しがあるからだ。

 あっちの話しをする。このような日本国内の情勢の中で、健全経営をし業績を上げている企業は、本当の意味で力のある企業だろう。それが中小企業であればなお更だ。尊敬に値する。なぜなら、それらの会社は、今の時代に合った企業体質の改善を図ったから今がある、と思われるからだ。そして、そのキーワードは、旧態依然を捨てた「量より質」への「発想の転換」と、良いものは良いとする「付加価値の追求」にあったと僕は想像する。また、それ以外にはあまり考えられない。

 思えば、相次ぐ偽装や製品事故は、半ば日常化するマスコミなどの公務員バッシングの陰で、蔓延する民間企業の隠蔽体質、放漫経営を浮き彫りにした。これらの不正は、今のところ内部告発によって発覚するケースが多いが、厳密に言えば、どこの大企業でも、中小企業でも、社員が自覚する表に出ない小さな不正が山ほどあるに違いない。でも、この不正が表に出ないからと言って、企業は己の慢心にあぐらを掻いてはいけない。今の時代、消費者も体質が変わって、それを見抜く賢い購入者になっているからだ。特に、中国製などの安い商品には、相当警戒心が強くなっていると認識した方がいいだろう。

 それでも、飽くなき市場原理に翻弄される庶民は、安いものに走らざるを得ず、結果として、貧困などの経済的弱者が不正の犠牲者になっている。ここにも格差社会の歪が露呈しているのだ。だからこそ、企業は、あらゆる目を持って、社会を真摯に見つめる姿勢が問われている。優良企業とはそういうものだ。

 企業が置かれた社会的環境を考えてみれば、高度経済成長期を中心とする従来型の大量生産、大量消費の商売は、日本国内ではもう既に終わっている。それこそ夢のまた夢だ。そこで、これからの商売には、大胆な発想の転換が必要なのだ。例えば、売れればいい、ただただ便利だと言う視点などで消費者の好みを独断する儲け主義的発想の商売は、今となっては時代おくれだろう。今は、そんな視点を引っ込めて、環境への配慮、社会的貢献度、安全安心などの付加価値が求められているのだ。そして、そんな会社が優良企業として生き残って行くことを、消費者も期待しているのではないだろうか。

 その客観的事実として、先頃トヨタや任天堂、ソニーが日本の優良企業として、世界企業の上位にランクされた。トヨタは、ハイブリッド車「プリウス」の環境に優しい車造りが、任天堂は、「ニンテンドーDS」「Wii」の頭や体に悪いゲーム機といったイメージを覆し、人々の生活に深く入り込んだ商品戦略が高く評価された。ソニーは、世界に技術が認められている。3社とも大企業で、企業活動と環境の両立が困難な中、国、世界、地球の明日を見つめる企業ビジョンを示したのは、その評価に値するものだろう。

 このように、世界でも、日本でも、消費者の企業を見つめる目が、一段とランクアップしている。ただ単に、売り上げ実績だけで企業を評価する時代ではなくなったという証明だ。全ての企業がこのような明日を考える優しい目を持った時、「偽」は、行ったきりスズメになって飛んで行くのだろう。ブーメランのように戻って来ないことを祈りたいものだ。

 これからは、企業自らが希望の星を創る時代だと僕は思いたい。例えば、温室効果ガスの排出削減だ。僕が好きな本当に美しい国、ニュージーランドでは、約4千万頭もいる羊の「げっぷ」が、国全体の排出量の半分を占めているという話しはあまりにも有名だが、この国は、まさに環境立国だ。人々が企業を見つめる目も相当厳しい筈。軋轢はあっても、双方が幸作用して国一つが希望の星だ。ドイツしかり、カナダしかり。同じように美しい自然を持ちながら、人々の思いが生かされていない日本も、右に習うべきではないだろうか。企業の環境対策は、言葉やイメージだけではない、これからの大事な視点だ。日本企業も、大いなるビジョンを世界に示してもらいたい。

 今の時代に合った優良企業の商売の特長の一つに、「既成概念を破る」と「アイデア重視」の姿勢がある。例えば、大方の企業は、戦略として、普通は「交通機関がない、人がいない、金がかかる」とリスクの「ダメだし」から入る。でも、お客さんが「何に価値を求めるか」を基準に考えると、また別の判断が出来るのだ。詳しくは書かないが、僕の身近にそんな企業やお店が確実にあるし、僕自身もよく足を運ぶ。

 大阪に本社がある「コクヨ」だって、環境配慮が不足した商品に「エコ×マーク」を付けて他の商品と差別化している。これはある意味、冒険だ。だが、この会社は、環境配慮は付加価値が高いと言うだけではなく、「当たり前」と言う意識が社員に浸透しているのだろう。コクヨは、「エコ名刺」など、エコの理念が会社のウリとなるような工夫をしている。他にも「謙虚」な付加価値を、新たな方針にしている会社は全国にいっぱいあるだろう。最近になって認知度が上った「メセナ」なども、もっと拡がりを見せて欲しいと僕は思っている。

 我々も価値観の転換を求められている。ゴールデンウィーク、心ウキウキ状態の非日常体験組には、環境を守る観光、「エコツーリズム」はどうだろうか。この考えを踏襲する旅行会社が増えれば、今までのような「使い切り」から「持続的な旅」への移行も可能だ。要は、魅惑的な言葉が踊るパンフレットに騙されないことだ。たとえ、日本一の景色や珍しい動植物が存在しなくても、見方を変えれば、魅力的な旅は自分で作れる。これが一番、これが旅の付加価値だ。我々も賢い旅人になろう。

 企業もそうだが、国や行政も発想の転換が欲しい。例えば、金をかけない地域ブランド商品の開発、バイオマスの利用やバイオマスタウンの創設、都会と田舎を結ぶ「カーボンオフセットモデル」の構築、などなど。地域ブランドには、ヘルシーでクールな体に優しい地場の食材を選べばいい。それを生かす商品の取り組みが「地方活性化の誘因」になる。カーボンオフセットは、東京都新宿区と長野県伊那市が進める「温室効果ガス排出量取引」がマスコミの注目を浴びている。企業人ばかりでなく、頭の固いお役人も、人や地球の明日を考える未来の目が必要だ。まだまだあるが僕の時間がない。この辺まで。

 再び企業の話しに戻る。偽装や製品事故の場合、企業は、お決まり文句で「お詫び」を通知するだけで、何となく事務的に事を進めているといった印象が僕にはある。テレビなどでただ朗読するアナウンサーの言葉を聞いていると、何かしら、企業の冷たい視線が感じられてならない。それどころか、返ってそれが耳障りだ。この際、詫び状や侘び言葉も、もっと付加価値を付けて、発想を転換する方法がないものだろうか。と、僕はいつも思う。

 企業にとって、信用失墜は想像を絶するものだ。安全の誓いをして、営業再会したジェットコースター事故の大阪エキスポランドは、再開後のトラブルで、お客が2割に低迷し、再び休園に追い込まれた。さぞかし、お客(消費者)の「仕打ち」を思い知ったことだろう。そこで提案だ。企業は、このお客の仕打ちを付加価値ととらえて、その仕打ちに恥じない詳細な一部始終情報を、万人の前に晒すべきだろう。そうすれば、旧態依然の体質が消え、トップと従業員を含めた企業の明日が見える。当然、国もそうすべきだ。それが真の「発想の転換」だ。

/173.消される火、消える灯(聖火とナニワの看板)

2008-04-20 08:50:02 | Weblog
 雨また雨だ。その間隙を縫って、ミツバチが残り少ない菜の花の蜜を吸う。アゲハチョウが、二つ折りの恋文を羽ばたかせて、次世代の命を育むため、青い葉っぱの裏に卵を産みつける。どちらも、一所懸命に大事な仕事をしているのだ。花吹雪を散らせ、水面に花筏を浮かべ、一所懸命に咲くものの終わりを演出した春の主役は、初々しい葉桜に変身した。その鼓動が聴こえて来るようだ。

 傍らに咲く次の脇役達も元気だ。八重桜、山吹、馬酔木(あしび)、躑躅(つつじ)、姫林檎(りんご)などなど。刻一刻と入れ替わるご近所の花の季節は、まだまだ終わる気配がない。雑木林では筍が伸び出した。遠く笑う山も、若葉へとお色直しだ。その頃、鳥達の恋もいよいよクライマックス。鶯の美声にそれを感じる。

 笑う山の一角、日当たりのいい斜面では、酸っぱい「いったんこ(いたどり)」、蕨、ぜんまいが顔を出している。そんな中、一所懸命に我を主張する一本桜も、よほど花の精が強いのか、長く咲いて、まさに紅一点の様相だ。でも、「花は桜木、人は武士」のいさぎよい「もののふ」のようにも見える。もしそうであるなら、彼らの生き様にあやかりたい。そして、こんな場所で身近な自然を愛でながら、テント生活を送るのもいいだろう。それには、先日2000本安打を達成した、身体が資本の金本選手(阪神タイガース)のような強い意志が必要だ。題して、坂の上の雲が見える人生の裏街道、僕の憧れはこれだ。ひょっとすれば実行するかも。

 続いても僕の呟き。1つ目。イーオン、セブン&アイホールディングス、ローソンなどが軒並み減益だ。もはや日本国内では、大量生産、大量消費は通じない。当然、右肩上がりも「死語」だ。ここも、グローバル化の波に乗る手か? 旧態依然を踏襲する既存の商売は、ほとんど曲がり角に来ている。そうなれば、昔人間も曲がり角だ。

 2つ目。働くことは、仕事以外にもいっぱいある。仕事で働くこと、仕事以外で働くことを同系列で考えない日本人の仕事意識が、心の病を生み出し、やがて最悪の自殺に至る。もっと多面的に、もっと外向きに仕事を考えるべきだと僕は思う。

 3つ目。道路特定財源、血も涙もない、75歳以上の医療保険の「年金天引き」、映画「靖国」、防衛省官舎でのビラ配り、「僕はパパを殺すことに決めた」、学校裏サイト、再生飛鳥美人などなどの言葉が何かを訴える新聞紙面。人間とは不思議なもので、同じ言葉を何度も目にすることによって、覚えようとする気持が高まる。ことの良し悪しは別として、案外単純なようでも、こんなことって必要だと思う。体の動きも一緒だ。例えば、ゲレンデで仲間から外れて、ただ一人同じ動作を繰り返すスキー上達法は僕の真骨頂だった。そのお陰で、SAJの1級保持者になった。何度も何度も頭で覚えることと体で覚えることは、まさに同系列だ。悪いことは別として。

 4つ目。本四架橋は、使用前は「夢の架け橋」だった筈が、使用後は「重荷の架け橋」となり地方は悲鳴を上げている。道路という「商品」のデタラメを示す代表例だ。建設当時の成り行きから、僕自身は本当に必要な道だと思いたいが、費用対効果で言えば、現時点では答えは明らかだ。これは、悪徳健康食品会社の手口に似ている。

 5つ目。傷ついた猛禽類のタカ、ワシ、ハヤブサなどを保護し、自然に返すには「鷹匠」の手法が生きてくるという。人に慣れ過ぎると、自力での生活には返れない。そこで、彼らの野性を保ったまま、狩りが出来るように仕立てるために、「鷹匠」の力が必要になるのだ。僕は思う。子供に限らず、大人の育成にも、「鷹匠」が必要だ。何が言いたいかは、その人なりの判断に任せる。

 さて、遅まきながらこの辺でクイズだ。冒頭にも登場した花がスズランのような「あしび」は、馬が酔う木と書く。だから当然、馬は食べない。この「あしび」の宝庫の公園が関西にある。この木は、花が可憐だから「○」だ。では、次の文章の○に適当な言葉を入れてもらおう。「怪奇なマスコットキャラクター『せんとくん』で話題を呼ぶ○○公園では、キャラクターに使われた○○が馬酔木を食べないので、観光の目玉である『飛び火野』一帯にこの木が多く残り、藤原氏の性を思わせる藤の花と共に春日大社のシンボルになっている」 さあ、この○に入る文字は? ・・・・・。正解は「奈良」と「鹿」だ。ちょっと簡単過ぎたかも知れない。

 奈良には鹿がお似合いだ。この時季、若草山から遠望する「あおによし奈良の都」は美しいし、八重桜が咲く仏の庭は趣がある。是非行って見て欲しい。しかし、こんな地での「花見の焼肉」は決して褒められたものではない。(ちなみに奈良公園内では禁止) この行為は、桜にとっては迷惑千万で、そのうえ、木の根や幹を痛めるため、立ち枯れする恐れがあるからだ。奈良に限らず、日本人が本当に桜の木を愛するのなら、どこにでもある焼肉の「火」と夜遅くまでの宴会の「灯」は慎むべきだろう。今日のテーマはここからスタートだ。

 今回はふたつの「火と灯」に注目した。ひとつは、チベット人や人権団体の妨害によって、消される災いに遭っている北京五輪の聖火。もうひとつは、時代の流れによって、消え行く運命にあるナニワの看板「くいだおれ」の灯だ。この世界の火と日本ローカル、お笑いの街の灯は、スケールの違いはあっても、いずれも人々の心にディープインパクトを与えている。共通しているのは、消してはいけないという切ない願いだ。

 まず、今や資本主義経済大国を目指して世界の生産工場と化す、偽共産国家・中国の威信がかかっている、北京オリンピックの聖火リレーの「火」だ。チベット騒乱をきっかけに、表面化した中国の民族弾圧政策。中国のチベット自治区に住む人々は、漢民族の支配の下、長きに渡って人権を侵害されて来たのだ。これに反発する国際社会の風当たりは強く、北京オリンピックの開催を盛り上げる聖火リレーに対する妨害が、激しさを増している。

 ロンドンでは、聖火リレーを阻止しようとする人達が、沿道から次々と飛び出した。それをかわしながらランナーや警備員が走る姿は、まるでラグビーの試合を見ているようだ。パリでも、厳重な警戒の中、相次ぐ妨害で、聖火をバスに乗せて移動せざるを得なかった。これは、テレビで見る限り、滑稽で質の悪いマジックまがいの映像だった。このように、世界の火を守ろうとする人達もなりふり構わず必死なら、火を消そうと妨害する人達も同じように必死だ。

 オリンピック聖火リレーの長い歴史の中で、妨害や自然災害などで火が消えたことは何度もあったらしい。けれど、火種(種火)は常に用意されていて、その都度再点火されたということだ。消されたこの事実が、世界の人々の目にあまり晒されなかったのは、幸運と言うより、ここにこそ、開催国家やIOCの威信がかかっていたからだろう。特に、妨害で聖火が消された場合は、その威信に恥じない既成事実を作って、その場逃れをして来た歴史があるに違いないと僕は思う。こう考えると、聖火は絶対に消されてはならない「けがれ無き存在」なのだ。だから、これを消す行動も絶対許されない。

 この行為に対して、中国共産党が政敵扱いしているチベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世は、チベット人にも世界にも、聖火の妨害を慎むように呼びかける一方、これ以上中国がチベット人への暴力を拡大させるなら、私は辞任すると双方に釘を刺している。チベット騒乱では、中国当局の軍事介入によって多くの死者が出たというのに、何とも寛容な態度だ。にもかかわらず、中国当局は死者の数も公表せず、今回の一連の騒動はダライ・ラマの策動と切って捨てている。この現実に向かい合わない行為こそ、大問題だろう。両者は一刻も早く話し合わねばならない。でないと、妨害や弾圧は今後もまだ続くだろう。現に、聖火の行く先々で今も抗議行動が頻発している。北南米、アフリカ、中東、オーストラリアを経て、やがてやって来る日本の長野市も既にイベントが中止され、善光寺も聖火リレー出発地を辞退している。火を巡る混乱、決して他人事ではない。

 もう一度聖火の歴史を振り返れば、世界初の聖火リレーは「ベルリンオリンピック」にあり、ギリシャのオリンピアからべルリンまで、3千キロを3千人がつないだと言われている。時のドイツの総統は、あのナチスドイツのヒトラーだ。ヒトラーは、ハーケンクロイツの旗の下、国威発揚の場として、オリンピックを最大限に利用した。図らずも、聖火混乱の火種は、近代歴史上最悪の冷血人間で独裁者であるヒトラーにあったのだ。この因果は、何かを語っているような気がしてならない。

 それにも増して僕がいつも思うことは、オリンピックと政治の嫌味な係わりだ。それによって、勝負の純粋さが「消える」からだ。今回も、かつてあったように、その絡みが、国や選手の出場辞退などとなって、人々の失望を呼び起こす誘因になってはならない。オリンピックで競うのは、スポーツ選手の闘魂だ。決して、土俵外の醜く歪んだ戦いではない。妨害で消される火種が、不透明な国の政策にあるだけに、先行きが不安視されているが、この際、張本人中国は、開催国のありのままの姿を世界に試されている、と腹をくくって事に当たるべきだろう。

 言い換えれば、中国はせめて「体面を保て」ということだ。しかし、中国ではこの体面も、共産党の「見た目重視」だという。例えば、オリンピック警備員の採用基準には、「身長174センチ以上、見てくれが良く、顔の傷跡はダメ」とか、「旅客機の客室乗務員と同じ。かっこ良さなど見た目が大事」とかがある。また、ボランティアも表彰式を手伝う女性も「スタイルが良く、年齢は18~25歳、身長168~178センチ」の見た目重視だ。更に、「スタイルが悪い女性は選ばれない」らしい。これで、メンツが保たれると言うのだ。身長は別として、これじゃまるで飲み屋のホステス、ホストの採用基準だ。

 まあ、中国はこれだけ人が多いのだから、一筋縄では行かないことは分からないでもない。でも、この採用基準でさえ、あまりにもアラが見え過ぎているとは思わないだろうか。そんなことより、既に中国はメンツ丸つぶれの「このブタ野郎!!」の状態だ。ギョーザ事件で日本にたたかれ、男子マラソンの世界記録保持者、ゲブラシラシエ(エチオピア)には、大気汚染を理由に不参加を表明され、しかもIOCには、「耐久競技にはリスクがある」と批判されている。こんな様々な情勢で、いくら強がりを言っても、聖火リレーを含めて、開かれた国のメンツはもうどこにもない。ここはせめて、火を消す人を煽らない、言動を慎むことが寛容だ。それが、ダライ・ラマと世界への残された唯一のメンツだ。

 次の「灯」は、大阪人には悲しいトンボリ人情が宿る「くいだおれの灯」の消滅だ。このままでは、看板が消える7月8日は、60年の歴史に幕を引く「Xデー」になるのではないかと心配したくもなる出来事だ。特に、看板息子の「くいだおれ太郎」には、大阪人でなくてもかなりの思い出があるに違いないと思う。彼は、年17億円の貢献度があると言われているだけに、まだまだナニワの灯として輝いて欲しい気がする。

 思えばトンボリ界隈は、江戸時代以降、文楽などの芸能が栄え、料亭がひしめき合う大阪商人の社交場だった。そして今でも、関西では京都の祇園界隈に匹敵するほど人々に愛されて来た。だが、80年代からバブル崩壊期を経て、「浪花五座」を含む芝居小屋の廃止が相次ぎ、一番情緒があった法善寺横丁も火災で姿を変え、老舗の高級料亭も多くが閉鎖された。入れ替わりに、風俗店やパチンコ店が進出し、今は昔の面影が微塵もない、単なるピッカピカの風紀、あるいは風鬼地帯だ。これを、時代の流れという言葉一つで片付けてしまうのは忍びない気もする。皆に惜しまれて姿を消す前に、もっと古い名店を残す方法はなかったのか。僕は悔しい思いだ。

 それはともかく、大阪人の僕にとっては、聖火の「火」以上に、この「くいだおれの灯」が消えることの方が切実だ。作家の藤本義一さんは、「ファミリーレストランのように気軽に入れる店が好まれる時代。店に頑張れ、とはとても言えない。惜しいけど仕方がない」と語っている。また、「寂しいが、街が変われば店も変わらざるを得ない」とも。1893年(明治26年)に法善寺横丁に創業した有名な「正弁丹吾亭(しょうべんたんごてい)」のオーナーは、「また古い名店が消えると思うと寂しい限りです」

 どこの街、どこの田舎にも、懐かしさを感じる明治、大正、昭和の灯はあるだろう。僕も、最近次々と消えて行く昭和の人の灯や街の灯には、一抹の無念さみたいなものを感じている。そんな「くいだおれ界隈」には、僕なりの深い思い入れがあり、夜の社交場、酔狂の場として、若さ=馬鹿さを爆発させた数々の自分史が残っている。それを今でも忘れることはない。あの時の上司、あの時の遊び仲間、そして、あの時の女。くいだおれの灯と共に、次々に浮かんで来る懐かしい人達の顔は、不思議と皆笑っている。僕にとって、トンボリは夜の街だ。

 トンボリの灯、ナニワの灯消滅のニュースが巷に流れた途端、看板息子「くいだおれ太郎」の引き取り手のオファーはあまただ。その中でも目立つのは、我が阪神タイガース、サッカーのセレッソ大阪、大阪のシンボル通天閣。くいだおれの創業者の出身地、兵庫県の香美町。残された時間の中で、果たしてあの看板がどちらに転ぶのか。僕は、今後の成り行きを見守りたい。

 やっとのことで今日も時間だ。こうして世界の火とナニワの灯について、思いつくままにコメントをしたが、身近な話しとして、ナニワの灯は、やはり大阪人で守って行かなければならないものだとつくづく感じる。キタもミナミも最近は、無味乾燥した高層ビルばかりが新築され、その陰で、情緒あるナニワの灯が次々に取り壊されている。行政は、もっと深い思い入れを持って、そんな遺産を残す努力をすべきだろう。そうしないと、いつかは本当にナニワの灯が消え去り、ナニワの灯を愛する人達が、ミステリーのように「そして誰もいなくなった」になるかも知れない。心配だ。

 昔「大大阪」と言われたナニワの最盛期に、「♪赤い灯、青い灯、道頓堀のー♪」と唄われた、あの賑わいを全て取り戻せとは僕は言わない。でも、あの時のナニワ人の心意気を感じ取り、それを現実に友好の場として実現し生かすのが、経済ばかりではない、もう一つのナニワ再生の道ではないだろうか。いわゆる「温故知新」の考え方だ。目立ち過ぎる安っぽい吉本の芸はもう少し引っ込めて、本物の大阪を、あらゆる媒体で発信することがナニワの看板の復活に繋がる。僕は、心底そう想う。

 そうでないと、落ち着きのない、ただのギンギラギンの「ヒカリモノ」の街として、益々大阪は無法地帯化して行く。この僕の呟き、藤本義一さんは同感だと思う。じゃあ、大阪の改革者を自負して、古いものを切りに切ろうとしている橋下知事は、これをどう考える? それとも、そんな灯を消すことの良し悪しは、火を消すことで悩みながら、今のところ冷静な判断をしているダライ・ラマさんに聞こうか? 

/172.偽装社会あれこれ(真実は、自転車3人乗り)

2008-04-12 00:10:28 | Weblog
 山が笑っている。「♪菜の花畠に入日薄れ、見渡す山の端霞深し♪」 遠望する河内平野の夕暮れは、そこはかとない感傷を誘う、まさに「春宵一刻値千金」だ。と、賛美の言葉を送りたいところだが、そうもいかない。菜種梅雨というにはちょっと荒々し過ぎる雨が、花散らしとなって、宴の余韻を無常にも洗い流してしまった。スローに蠢(うごめ)く春はいい。でも、急激に騒(ざわ)めく春はいただけない。

 自然がつむぐ春のドラマも、ここに来てやっと落ち着いた感じ。残す関西の「花の宴」の主なる標的は、華麗な八重桜、造幣局の通り抜けと質素な山桜、吉野山の上千本、奥千本などなど。中でも、西行が「花の下にて春死なん」と詠った吉野山のシロヤマザクラは、素朴さと華やかさを兼ね備えた名桜中の名桜だと僕は思う。緑陰からの木漏れ日に輝いて咲くその様は、さながら、この地縁(ゆかり)の静御前のピクシー(妖精)かと思わせるものがある。そんな気分で散策すれば、路傍の風景が急に華やぐから不思議だ。何はともあれ、関西のトリを飾るに相応しい桜花には違いない。

 吉野のシロヤマザクラ以外にも、山桜は数多い。例えば、かつて訪ねたことがある隠れ里、遠山郷や秋山郷の山桜もシロヤマザクラだろうか。隠れ里の緑陰には、桜の端役「シャガ」の花がよく似合う。この花には「うれい」があり、誰かの性を偲んで、ひっそりと咲いているかのように見える。「一人静か」もそうだ。一人静かに、誰かを偲びながら、山桜の微かな芳香を楽しみたいものだ。

 偲ぶ人が多く逝った。「ベンハー」「十戒」「猿の惑星」の主演男優、チャールトン・へストンさん。「おふくろさん」「月光仮面」の作詞者、川内康範さんなどなど。いずれも希望時代の立役者だ。夢を有難う。 ついに「偲ぶ店」となりそうなのが、大阪名物「くいだおれ」だ。トンボリの灯が消えたようで、僕は淋しい。せめて、「くいだおれ人形」だけでも残して欲しい。7月8日は、ナニワの終焉(終演)、Xデーになるかも知れない。そんな気もする。

 アユの稚魚が遡上していると聞く。生まれた庭に戻るのだ。そんなスポーツ人もいる。 テニスの伊達公子選手。彼女は我が庭に復帰だ。 世界のヒノキ舞台に復帰ならず、の野村選手。ついに五輪4連覇は幻となった。が、彼は柔道で僕らに夢をくれた。それで十分だ。 夢を希望へとつなげた人は、巨人の上原投手。彼は今オフ、メジャーを目指す。地元枚方の雄、もう若くはない。

 メジャーを諦め、今後は日本野球界に骨を埋めると宣言したのは、バブル期の小さな大投手、桑田真澄君だ。彼の「桑田ロード」は、今や伝説。倒壊寸前のあばら屋から出発し、持ち前のハングリー精神を持続させて、一度は巨人軍の頂点に立った。そんな彼に終焉はないだろう。僕は思う。彼は本当の巨人だったかも。彼には、人並み以上の思い入れがある。今後も良き指導者として、もう一花咲かせて欲しい。

 帰る(戻る)、行く、この時季。桜前線の北上に比例して、心は北国を向いているが、いざ行くとなると、帰りがおっくうになる。なので、どうしても、京阪電車ですぐ、の京都に足が向いてしまうことが多い。女が似合う、京都好きの僕の本性だろうか。でも、考えてみれば、これは幸せなことだ。なぜなら、客観的に見て、僕は随分といい位置に居るのだ。京都好きの他人にとっては、羨ましいと映ることだろう。灯台下暗しにならないように気をつけたい。

 京都の良さはオフシーズンにこそある、と思いつつも、遠路はるばるの人には、こんな話しは一切無用、だろう。この時季、京都と聞いただけでいても立ってもいられない人も多い筈。桜が終わっても、京都には、飛鳥のようなレンゲ、タンポポ、スミレなど、春の野の花が似合う里がある。例えば「大原」だ。ここは、たとえ名所旧跡を見なくても、ただ歩くだけで雰囲気があるところだ。そんな気分になったところで、女人縁(ゆかり)の京都クイズだ。

 花街と言えば女、町家と言えば女、まさに女は、京都には欠かせない「枕詞」だ。このような「と言えば問題」を出す。よく聞いて欲しい。淀城と言えば「淀君」、東福寺と言えば「小野小町」、五条河原と言えば「出雲阿国」、大原寂光院と言えば「建礼門院」、高台寺と言えば「ねね」、では、寺田屋と言えば誰? ・・・・・。正解は「お竜」だ。「お登勢」でも可。お登勢は寺田屋の女将で、その養女「お竜」は、後の坂本竜馬の妻だ。有名な寺田屋騒動では、入浴中のお竜が異変に気付き、裏階段を駆け上がって竜馬に知らせたエピソードがある。

 ところで、竜馬はいつも正々堂々としていて、正義感が強く、自分を表にさらけ出す男らしい性格の人だったと伝えられている。そんないいイメージがある竜馬が、今の「偽装社会」を見ればどう思うだろうか。きっと、下らないこととして、一笑に付すだろうと僕は思う。今日は「偽」の話しを再度ぶり返す。

 偽装に始まり偽装に終わった去年のことは、もう思い出したくもないと思っていたが、ここに来て、また「偽」のことが大きくクローズアップされて来ている。どうやらこの国は、「偽」抜きでは語れない存在のようだ。同じ「偽」でも、正義の「義」で溢れる国であって欲しい、と願うのは僕だけだろうか。ねじれのない「まほろばの国」である日本は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。

 こんな偽装社会について、国際日本文化研究センタ-准教授の山田奨治さんは、朝日新聞紙上でこう述べている。「食品会社などによる偽装事件が起きるのは、消費者を軽んじているからだという意見がよくある。たしかに偽装をしたほうが利益は高まるうえに、インチキをしても消費者は気がつくはずがないと高をくくっている。だが、生産者が消費者を無視していることが偽装の原因だとは言い切れない。むしろ、現代の消費者のことを彼らはよく知っているのではないだろうか。賞味期限が切れていてはいけない、製造日はとにかく新しいほどいい、ブランドイメージをつけたら高い商品でも売れる。わたしたちの好みは、知られ過ぎているのだ。消費者には偽装を暴く力がないことも見透かされている。現に、ほとんどの偽装事件は内部告発でしか発覚しない」

 「消費者の好みを知る努力を生産者は徹底的にやってきた。しかし、消費者は生産者の立場に立とうとしてきたとはいえない。反対に、クレーマーのように、相手の事情を無視して理不尽な要求ばかりする者が増えている。偽装社会を変えていくには、消費者が生産者マインドをもって行動することだ。生産者マインドをもつ消費者とは、作り手の事情を意識し、まじめな思いのこもった商品であるかをうわさに頼らず自ら吟味し、本当にいいものを積極的に買うひとのことだ。消費者が生産者マインドをもてば、作り手はその心意気を取り戻さざるをえなくなる。うわべを取りつくろった商品に手を出すのはもうやめよう。生産者の思いが感じられる商品をみんなが買えば、いい作り手が育ち、わたしたちの社会を偽装から救うことができる」

 「生産者マインドをもとう」というこの主張。僕は大いに感じるところがある。だが、待てよ。この「くだり」で、他にも適用出来そうな「偽」がまだまだありそうだ。例えば、僕が日頃から痛烈に批判している「テレビ」にだって当てはまる。

 テレビは、古き良き時代の草創期は、「真実」をそっくりそのまま映していたが、制作者が視聴率という悪魔を気にしだすと、じわじわと偽装がはびこり、今はそれが見えにくくなっている。制作者が視聴者の好みを知る努力を徹底的にやって来たかどうかは疑問だが、視聴者が制作者の立場に立とうとして来たとは言い難い面がある。テレビも食品のようにただ与えるだけ、タレ流すだけのものだけに、双方向性に極めて乏しい。ここに落とし穴があり、数々の偽装が発覚するのだ。

 この責任は、制作者マインドを持たない視聴者にもあるだろう。勿論、一番悪いのは制作者だ。しかし、テレビ局も今は安上がりの人材、安上がりの給料で、僕に言わすれば「ワーキングプア制作番組」を作る時代に突入している。経費を削減して、うわべだけを取り繕った虚構番組が台頭するのも、テレビ偽装化オンパレードに相応しいと言ってしまえばそれまでだ。だが、いくらジリ貧になろうとも、彼らのマインドは、視聴者をその気にさせる「究極のマインドコントローラー」だということだけは、今さら隠しようがない。

 同じような偽装の構図は、サラリーマン社会にもある。例えば、偽装請負は言う及ばず。それ以外の製造現場などで連日連夜、立場の弱い非正社員に集団の中での心理的圧力をかけ、文句を言えば解雇や契約解除だと言わんばかりに、好きなだけこき使う正社員。挙句の果てに、非正社員が正社員と同じ仕事をしているにもかかわらず、それに見合った給料を払わない会社は、まさに偽装会社と言われても仕方がないだろう。このように、企業も非正規雇用者の弱みを知り尽くし、法律すれすれの線上で、我が社の利益ばかりを追求しているのだ。派遣社員の僕だって、そんな偽装会社の犠牲者。これは日常茶飯事だけに腹が立つ。それだけに、我々の立場に立て、と企業トップに主張したい思いだ。これでいいと思っているのか、少しは引け目を感じているのか、彼らのマインドは未だに分からない。

 値打ちのない商品を、騙しのテクニックを駆使して、高く売る、悪徳訪問販売会社も、全てウソで固めた偽装会社の代表だろう。おまけにこんな会社は、社会的弱者であるお年寄りを食い物にしている。許せないことだ。これなどは、高齢化社会に暗躍する憎まれっ子と言えるだろう。世にはばかる悪徳会社は、全てのマインドが堕落している。お話しにならない。

 もう少し大きな目で見れば、日本一の憎まれっ子は、自立出来ない「偽装国家、日本丸」ではないか。こんなに世界にモノを頼っていては、いずれ転覆するのは確実だ。それさえ気付かないこの国は、ノーテンキ、ノーマインドだ。偽装国家の頂点にドンと居座っているのが、うわべだけを取り繕った偽装政治家だ。まともであれば、ねじれない。まともであれば、民意に逆らわない。これと同系列で、どこにでも天下る偽装官僚がいる。この官僚も真の姿が全く見えない。彼らが真面目な思いのこもった商品かどうか、いったい誰が吟味しているのだろうか。

 もっと目線を変えれば、身近な巷に居る、居る。偽装のスパイラル、若い女どもだ。彼女らは、偽装とまではいかなくても、偽装に近い化粧で秋波を送る。そして、男性の好みを知る努力を人一倍している。その努力は、勿論買う。でも、彼女らは、男性の側に立ったマインドを持っているのかどうか、僕は疑問だ。反対に、クレーマーのように、相手の事情を無視して、理不尽な要求ばかりするのが常套手段だ。彼女らのうわべしか見ず、吟味に失敗した男どもが、しばしば犠牲者になる例は後を絶たない。女の「よたれそつね」に男の「はひふへほ」 この結末は「さ行」だ。おっと、これはいやらしいので言わない。それでも、彼女らには救いがある。「若さ」というブランドイメージが自らを救うのだ。こんな女を尻目に、僕はいつも痛感する。「男って馬鹿だなあ」

 止めどなく続きそうな偽装社会エトセトラ。こう偽装ばかりでは、もうたまらん。何とかしてくれ。この辺で締めなければ、隣のオバチャンに「あんたも馬鹿だ」と罵られそうだ。もしかしたら、近所に「内部告発」されるかも。だから、汚名返上、名誉挽回、最後に、もっともっと熱い、偽装ではない真実の姿を紹介しよう。たとえ優良企業や大会社の商品でも、最近はすぐ偽装がバレルが、これは、誰が見ても嘘偽りのない本物の姿だ。それは、安全が認められれば、復活する可能性が高い、母は強しの「自転車3人乗り」だ。

 この3人乗り、本来ならば危険として日本の街頭から姿を消す筈だった。しかし、我が子を乗せる母親のみならず、多くの女性、男性を巻き込んで大論争の結果、ついに警察が折れ、復活する見通しが立ったのだ。その理由は、表面上は「安全確保出来れば」だが、内部の深層心理には「母親の一生懸命生きる姿」への「憧憬」と「感謝の念」があったと僕は信じたい。それがおまわりさんの心を動かし、子を思う母親を放っては置けないという正直な気持にさせたのだろう。この気持、大切にしたい。これこそ、本物は強いという証明だ。そして、いつの日か、再び街頭に母は強しの姿を確認出来た時、子育てに四苦八苦した隣のオバチャンも、「ええニュースちゃう」と喜んでくれるだろう。

/171.ねじれ、ねじれの連鎖(せめてエコツーリズム)

2008-04-05 23:34:36 | Weblog
 沖縄尚学高校の優勝でセンバツが終わった。桜の開花を促すには十分な熱闘だった。プロ野球セリーグでは、我が阪神タイガースが快進撃だ。パリーグの異変で、ノムさん、しゃべる、しゃべる。めまぐるしい変化の中で、更始一新、の卯月がスタートした。近くの小さな自然、田んぼの畦道では、タンポポ、レンゲ、スミレが咲き乱れ、モンシロチョウが宙に舞う。燕、雲雀が飛び、童が跳ぶ。この田んぼの所有者、大農家の庭先には、モクレンの花の絨毯が鮮やかだ。まさに春。

 街頭では、若駒を思わせる、入社式を終えたばかりの新社会人の姿が凛々しい。彼らの顔は引き締まっている。それを右に見て、左に見て、ふと振り返る。このような新生活の劇的な変化に対応出来ていないのは、のっぺらぼうの僕だけ? 世間のことを分かっていると、高をくくっているのは恐い。この際、自分に叱咤激励しなければ。そして、人には虚心坦懐でありたい。こう思うのだ。

 揺れる北京オリンピックの聖火が北京に到着した。さてどうなる。兵庫県豊岡市では、野生に返った同じペアから産まれた2匹の赤ちゃんが元気だ。僕は嬉しい。周期的に繰り返す花冷えの中、4月1日、雅な京都では祇園甲部歌舞練場で恒例の「都をどり」が始まった。宮川町の「京をどり」、上七軒の「北野をどり」も始まる頃だ。歴史ある花街には、桜と舞妓はんがお似合いだ。絢爛豪華な桜の下では、人それぞれの花見が盛りを迎えている。

 悠久の都、京都ならまだしも、華の都大東京、高架下の花見はいかがなものか。例えば、かつてドンチャン騒ぎをしたことのある、神田川や隅田川河畔の花見。時が過ぎ、歳を経た今なら、僕はまっぴらゴメンだ。もっと気分がおおらかになる、伸び伸びとした場所を探すだろう。さてここでクイズだ。生粋の江戸っ子は口にチャックをして欲しい。「♪あなたはもう、忘れたかしら♪」の神田川に架かる橋で、かつてこの川から江戸の住民の生活用水を「水路」で取り入れていたことから、名付けられた有名な橋は? ・・・・・。正解は「水道橋」だ。個人的にこの橋には思い出があるので、今回問題にした。

 神田川を下ると隅田川。江戸情緒を感じるところではある。僕は中学の修学旅行で、水道橋付近の旅館で泊まったことがある。その時は、ただ嬉しくて胸がドキドキしていた。なぜか? それには理由がある。そう、近くにあの野球界のヒーロー、長嶋茂雄さんがいる後楽園球場があったからだ。外野席の通路で、「おーい、長嶋ー!!」とひたすら叫んでいた。モノクロの夜の東京見物・・・・・。あれから45年以上。ゴールデンウィークの懐かしい記憶が今蘇る。

 関西では桜が満開だというのに、北の大地では先日猛吹雪だった。日本は南北に長い、と思わせる出来事だ。そんなことを知ってか知らずか、このエッセイの主要登場人物、隣のオバチャンは、「今年の桜は白くてキレイ」、お好み焼き屋のママさんは、「今年の桜は匂いがいい」、僕の相棒は、「今年の桜は故郷の色に近い」と3人揃って、桜の評価はおおむね良好だ。でも、こうしゃべる唇の方が満開、な気もする。ともあれ、桜を褒めるのは、日本人の証拠だ。

 よって、今日も再度桜の話し、といきたいところだが、ちょっと趣向を変えて、今回は桜の下で食べる「駅弁」の話しを少々。道路網の発達で鉄路がさびれ、全国の駅弁が売れなくなってきているという。例えば、いかめし(北海道・森駅)、ますのすし(富山駅)、あなごめし(広島・宮島口駅)、びっくりみそかつ(名古屋駅)などなど。美味しい御当地駅弁は数々あれど、我々世代にとって忘れてならないのは、やはりあの「峠の釜めし(群馬・横川駅)」だろう。

 昭和40年代から50年代にかけて、のスローな旅には欠かせないシロモノで、中には、この駅弁を食べることだけが目的で、横川駅に行った旅人もいる。その中の一人が、僕の昔の恋人「飛鳥美人」だ。彼女は凄かった。何と、しこたま買い込んだ釜めしを食べながら、同じ学生の女友達と信越本線沿いに、横川・軽井沢間を歩いたのだ。どこをどうやって歩いたのか、年を経た今は定かではないが、この話しを聞いて、「やったね、スミちゃん!!」と、彼女を褒めたことだけは鮮明に覚えている。あの頃はお互い食い気も色気も、そして何より、若かった。

 この周辺、今は、鉄路の急勾配区間として知られた「アプト式旧線跡のハイキング道」があるという。碓氷峠、薬師温泉、煉瓦造りのめがね橋。桜を愛でながら、ここで食べる「峠の釜めし」には、深い味わいと格別の想いがあるのだろう。僕も、あの頃の彼女との切なく淡い思い出は、永遠に消え去ることがない。たかが駅弁、されど駅弁だ。長野新幹線の開通によって、かつての鉄路はさびれたが、憧れの横川駅よ、有難うと言っておきたい思いだ。 鉄路に比べて、問題が多いのは喧々諤々の「道路」だ。いい加減にしろ!! 今日は道路を皮切りに、押し付けがましいねじれ、ねじれの話しをしたい。

 ガソリン税など、道路特定財源の暫定税率の期限が切れ、4月1日以降、ガソリンは、1リッター当たり約25円の値下がりになった。消費者にとって、これは嬉しいことだ。だが、喜んでばかりはいられない。これはあくまで「暫定」で、5月になれば元の値段に戻るかも知れないのだ。命短し、恋せよガソリン。桜の下で、こんな唄が聴こえてきそうだ。値段が下がったからと言って、今度ばかりは、エド・はるみのように「グ、グ、グ、グゥー!!」「そんなの関係ねェー」と言う人はいないだろう。

 福田首相は、暫定税率失効についての記者会見で、「地方財政や国民生活の混乱を防げなかったのは残念。政治のツケを国民に回す結果になった」といつもの他人事でこう謝罪した。国民の側からすれば、この首相の発言は、まさに焼け石に水。「おい、国会はいったい何をしているんだ」「与野党は職場放棄だ。国民をなめるなよ」思わずこう言いたくなる。政治ねじれの急場しのぎで、現場の最前線に立つガソリンスタンドは、様々な思惑が絡んで、店長以下、複雑な心境に違いない。頭が痛い、たかが25円、されど25円だ。

 思えば、あの時の参院選で与野党勢力が逆転して以来、非情な国会のルールで、国民にとって一番肝心なことが何一つ決まっていない。また、民意を無視した政党間バトルも目を覆うばかりだ。僕は思う。金権や利権が渦巻く「道路」以外にも、医療、教育、年金問題等、懸案事項が目白押しだ。なぜ、今、「道路」でなければならないのか。もっと国民にとって大事な問題がある筈だ。例えば、身近な小さな国会、学校の生徒会でも、最も大事なことを優先するではないか。なのに、エエ歳をぶら下げた大のオッサンが、小田原評定の挙句、職場放棄するのは許せない。全く馬鹿げている。こう思うのは僕だけだろうか? このような国民を愚弄するちんぷんかんぷんな政治絵図には、言い様のない憤りを覚える。ねじれ、ねじれの国会は、質の悪い悲劇だ。いや、見ようによっては、笑いのない喜劇にも見える。

 このねじれに呼応するがごとく、巷では、我々に身近な生活必需品の値上げが相次いでいる。怒り、怒りの値上げラッシュだ。お年寄りの年金の手取り額が減る一方で、牛乳、醤油、電気、ガス料金などが一斉に引き上げられる。特に、90%を国外に頼っている小麦粉の売り渡し価格の3割引き上げが、価格上昇の大きな要因になっているのだ。一角のお金持ちならともかく、これらは、庶民の家計と消費生活に深刻な影響を及ぼし、せっかくの好況感に水を差す結果となるのは間違いない。このような国民生活を直撃する生活必需品の値上げも、元はと言えば、経済のグローバル化とカロリーベースの「食料自給率39%」の「自立出来ない日本の食」が主因だ。これもある意味、ねじれ、ねじれだと言えるのではないか。「以前の石油ショックの時よりもひどい」「どう生活防衛したらいいのだ」こう思わせる庶民生活は、本当に痛いのだ。この話題も、桜の下で、酔狂の怒り事として人々に語られるに違いない。

 ねじれ、ねじれはまだまだある。全国の人の心が、またもやねじれているのだ。特に、若者のねじれが深刻だ。岡山の「ホーム突き落とし事件」、茨城の「ホーム殺傷事件」(若者ではないが、仙台の母親による子殺しもあった)この二件、いずれも無差別、身勝手な短絡的犯行だ。かたや、デジタル人間、かたや、冷血人間の仕業。僕は、デジタルが全て悪いとは思わない。しかし、岡山であった、家庭的な事情で大学進学を諦めざるを得なかった、大阪在住人間の犯行の場合、デジタル(ゲーム機による引きこもり)が原因なのは明白だ。

 そして、この二人、どちらも一見普通の真面目な人間に見えるが、犯行は「計画的」だった。ここがミソだ。僕の考えでは、普通の人間であったなら、決して人を殺すという行為は出来ない。いくら自暴自棄になったとしても、他に生きる道がある筈だ。それなのに。彼らは、何かの理由で、人を殺すことを思い詰めるまでに、心がねじれていたのだろう。これについては、今日は深く追及しない。が、自分と全く関係ない人を、「誰でもいいから殺したかった」と淡々と語る人間は、実に不可思議だ。としか、僕は言いようがない。これも、桜の下で大議論して欲しいものだ。

 ねじれ国会で馬鹿にされ、ねじれの値上げラッシュで窮地に追い込まれ、心がねじれた若者に安心安全を脅かされる我々庶民は、一刻も早く、こんなねじれ社会から解放されたいと願う。そのためには、これとは対照的な甲子園球児の活躍をテレビで見て、一喜一憂するのも一つの手段だ。それがまた、出会いと別れの花の季節に相応しい、とも思う。でも、そんなささやかな抵抗には限界があり、心までは開放されない。

 心が開放されるのは、やはり自分自身が日常性を脱出する時間を持つことだ。そして、せめてこれが、我々レベルの国や社会への短絡的抵抗だと考える人もきっといる。その場合、一番手っ取り早いのが非日常を体験する「旅」だ。でも、旧態依然とした物見遊山の旅も飽きたと、そんな旅に抵抗したい向きも多いことだろう。添乗員の持つペナント(旗)に先導されて、お決まりのコースを見学し、宿ではいかにも造られた感じの露天風呂に入り、後は豪華な食事と酒宴。こんなパターンの旅には、便利さ、くつろぎはあっても本当の夢がない。僕の一番嫌いな「旅行」だ。

 そこで推薦したいのが、「環境を壊す物見遊山の観光」ではない「環境を守る観光」 つまり「エコツーリズム」だ。これなら、旅の付加価値があると僕は考える。エコツーリズムとは、「地域固有の自然環境や文化などを壊さないよう、観光に生かしていく考え」で、観光収入が、その地域で活用されることも含まれる。この考えを実践するのが「エコツアー」だ。

 悪い観光はいくらでもある。一言で言えば、人間が原因で、自然の生態系を壊してしまう観光だ。疲弊して行くのは自然だけではない。そもそも、自然を守り観光資源を維持してきたのは、受け入れ側の地域の人々の活動。なのに、それを商品に使用する観光業者は、それに見合うコストを払わずに、そのフィールドで事業をしている。そして、旅行者に飽きられれば次々に場所を変える。こんな「使い切り観光」で、地域の人々も振り回されているのだ。

 この「ねじれ」の現実を打破するのは、分かりやすく言えば、旅行者と受け手側が五分五分の気持で、お互いが納得する旅の形を創ることだと僕は思う。つまり、地域の人々が受け入れ側として汗を掻いたのだから、その分、旅行者も汗を掻く努力をすることが必要だ。だが、それでは楽しい筈の旅行にリスクがかかると、一般的には考えがちだ。しかし、僕の過去の経験によると、これは全く逆だ。旅行者が汗を掻かないと、本当の旅の良さは見えて来ない。ウワベだけを見て通り過ぎる旅は、旅ではないのだ。

 観光客は、旅の楽しさの代償を受け手側に求める傾向が強いが、実はこれが、受け手側の最大のリスクなのだ。このリスクを五分五分にするためには、受け手側の苦労した分だけ、(金を出したからと)楽な立場の観光客が努力すべきだ。ヨーロッパ、特にドイツなどでは、この考え方がごく普通のコンセプトとして、国内に定着している。また、それであってこそ、ねじれのないエコツアーだと言える。汗は、何も体から出る汗ばかりではない。観光客の真摯な態度、それなども含めて、汗なのだ。お分かりだろうか。

 僕の好きな旅の分野まで、ねじれが登場するとは思わなかった。文章の成り行きと話しのアヤで、こうなってしまった。今日話題にした4つのねじれは、押し付けがましく、必ずしもねじれとして相応しくないものもあったと思う。だけど、僕が思うに、気分転換に書いた旅のことさえ、どこかに有耶無耶の元となるねじれが、存在していることに気付かざるを得なかった、のもまた確かだ。

 庶民の生活の礎は、企業も含めた国の政治。身近な生活必需品は、庶民の貴重品。人の心は、霊長類、人間の宝。そして旅は、日常を打破する癒しだ。このような生活の礎、貴重品、宝、癒しにねじれが絡み、負の連鎖を起こしている日本。この先に待っているねじれを考えると頭が重くなるばかりだが、いくらねじれても、かつて古き良き時代にあった元のいい形に戻ることを、ささやかながら期待したい。

 時の主役、ガソリンスタンドは「GS」だ。もう一方のGS、「グループサウンド」全盛時代は、夢があった。あの長嶋さんの雄姿と重なる。ねじれの修復に当たっては、あの頃の形状と共に、優しかった人々の心も十分に記憶して欲しい。その記憶は、双方の気持が五分五分のエコツーリズムに通じる道だ。それを生かすのが、政治の力だろう。