ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

大垣城(岐阜県)(続日本100名城)  2019.10.10

(写真は、大垣城の天守)

 

「奥の細道」のゴールの大垣を見学した我々のバス

旅行は、最後に、大垣城に立ち寄ります。


1600年の関ケ原の戦いでは、ここ大垣城は、西軍

の石田三成の本拠地となりました。

 

三成の本隊が、関ケ原に移動した後も、ここ

大垣城では、壮絶な攻防戦が繰り広げられ

ました。

(関ケ原の戦いについては、「中山道を歩く・

関ケ原の戦い」   と「関ケ原の宿場町」を

  見てね。)  

 

かつての大垣城は、水堀を幾重にもめぐらせた

堅城で、当時、敷地は現在の3倍以上もあり、

10もの櫓がある大規模な要塞でした。

江戸時代に入ると、戸田家が大垣藩の藩主となり、

以降、戸田家は11代にわたって、大垣藩十万石

の城主を続けました。

 

大垣城は、珍しい4層の天守を持っており、戦前

には国宝に指定されていました。

しかし、戦災で焼失、昭和34年に天守のみ再建

されました。

 

現在、大垣公園となっている城址には、上の写真

の様に、大垣藩の初代藩主 ・戸田氏鉄の像が、

城を背景に建っています。

 

西軍に属していた大垣城は、関ケ原の戦いの際

には、東軍による猛攻を受けました。

上の写真の「おあむ」という名の女性は、落城

寸前の大垣城から脱出し、この戦いの様子を

後の世に語り継ぎました。

 

「おあむ」は、城から脱出する際に、天守の脇の

松に飛び移り、そこから堀へ下りて、堀にあった

「たらい」に乗り移って逃げたそうです。

 

この「おあむ」が見た大垣城の籠城戦の様子は、

「おあむ物語」として後世に伝えられました。

 (おあむの松)

 

上の写真は「大垣城東門」で、次頁の写真の

大垣城東門の右の櫓は、戦前は国宝だった

「艮隅櫓(うしとら すみやぐら)」です。

 

この東門は、昭和34年に天守が再建された際に、

大垣市内に残っていた「柳口門」を移築した

そうです。

 

上の写真は、昭和20年の米軍爆撃で焼失する前

の、国宝だったときの大垣城の天守です。

我々、バスツアーは、再建された天守への石段の

坂を上って行きます。

(入城料100円)

(大垣城下)

天守の中は、鉄筋コンクリート造りで、甲冑や

古文書など、大垣城にまつわる品々が展示されて

います。

また、当時の大垣城下の様子などをジオラマで

見ることもできます。

(大垣城設計図)

(大垣城)

 

 

(天守)

 

(天守からの眺め)

 

以下の写真は、天守内部に展示されている、

関ヶ原合戦の前日に大垣城を舞台に起きた

「杭瀬川(くいせがわ)の戦い」の配置図と

ジオラマです。

 

関ケ原の戦いにおいて、西軍・石田三成が本拠地

を置いたこの大垣城から、東軍が陣をおいた岡山

(現在のお勝山)までは約5キロです。

家康は大垣の北東の赤坂岡山に着陣しました。

そこで、石田側の島左近は、杭瀬川(くいせがわ)

越しに東軍をおびき出し、徳川軍を壊滅させ

ました。

 

余り知られていませんが、関ケ原の戦いの前哨戦

にあたるこの戦いでは、上記の様に西軍が大勝

したのです!

(杭瀬川については、「中山道を歩く・赤坂」を

   見てね。)  

関ヶ原合戦後の大垣城の戦いでは、1週間の

籠城戦を経て本丸のみとなったところで、

降伏・開城しました。

(大垣城に籠る西軍と、杭瀬川(くいせがわ)に

出撃し東軍を蹴散らす島左近、そして赤坂・岡山

に陣取る家康率いる東軍)

(呂久の渡しの戦い:呂久の渡しについては、

中山道を歩く・美江寺」を見てね。)  


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コメント一覧

ウォーク更家
交通の要の大垣
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうそう、昔ありましたね、「大垣行」き。

私も若くて金がないころ、深夜の東海道線・各駅停車「大垣」行で、関西に出かけていました。

そう、今はどこへ行くにも新幹線なので、寝台車さえなくなりましたね。

そうでしたか、福井出張は「大垣」で北陸線に乗り換えでしたか。

確かに、そいう意味でも、関ヶ原は交通の要所だったんですね。

それにしても、昔の福井迄日帰り出張とは、厳しいですね。

なるほど、ドラマ「おあむ物語」、面白そうです。
もののはじめのiina
交通の要 
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/f714c73797e0515bb67ae864a3dd48c3
かなり詳しくされた「大垣城」でした。
                    更家さんには、思い入れのあるお城なのですね。
その昔の深夜に、東海道線下りの各駅停車が「大垣」行だけが1本が走ってましたが、いまは、寝台車さえなくなりました。

若いころに福井迄日帰り出張した際に「大垣」駅で北陸線に乗り換えました。関ヶ原の地は交通の要所だったのが今に伝わります。

「おあむ物語」は、ドラマ化したら面白そうです。


神奈川座間の宗仲寺本堂天井の龍は、寺に説明がありましたが、WEBにヒットしないため著名ないわれはなさそうです。



ウォーク更家
水門川を下る芭蕉
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
お城が、川の流れの十重二十重の堀に囲まれている事から分かる様に、この辺りの川の流れは非常に複雑です。

従って私もよく分からないのですが、水門川はこの先で、どうやら、杭瀬川、揖斐川に合流しているらしいです。

ですから、芭蕉も、水門川、杭瀬川、揖斐川と進んだのかも知れません。
hide-san
川を下る
https://blog.goo.ne.jp/hidebach
芭蕉は大垣を最後に水門川を下って、揖斐川に出て、
二見ヶ浦がある伊勢に向かったとありますが、

この杭瀬川を渡ったのでしょうか?
いずれにせよ一番外側のお堀を下ったのでしょうね。

それにしても十重二十重にお堀があるのに驚きです。
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