![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/e4/47ccdd9e8b586858290f04e224a865d4.jpg)
(↑この図については本文を参照下さい)
森田宏幸です。今日は2010年7月24日です。
前回の記事「練馬 vs 秋葉原?」(http://blog.goo.ne.jp/moriphy/e/02ec350868ba5965795b594c582636ff)
の続きを、アニメーションの仕事に関わる皆さんに向けて書きます。
前回は、練馬アニメーションサイト(http://www.animation-nerima.jp/)の担当者が意識する、秋葉原について論じました。
練馬は「アニメ」の地、秋葉原はコンテンツ((漫画、ゲーム、音楽、玩具など、表現すべて))の地であろうから、
同列に並べるのは意味がないし、練馬が不利に見えるのもしょうがない、と書きました。
しかし、不利は承知でも、練馬なりに巻き返しはないのか。
この話題のきっかけをくれた、読売新聞の記事から再び引用します。
(2010年5月13日読売オンライン「アニメの練馬 世界へ発信 区がHP」の記事から一部を転載はじめ)
HPでは、練馬アニメクリエイターズアワード「アニメ作家シナリオ・コンテスト」のグランプリ作品のプロモーション映像を公開しているほか、「アニメの町、練馬」の歴史や、としまえんなどで毎年開催されるアニメ関連イベントなどの情報が満載。世界最大のアニメ映画祭の開催地で、昨年、「アニメ産業交流協定」を結んだ仏アヌシー市との交流なども盛り込む。
発祥の地を自負する練馬だが、区の担当者には、「世界中から注目される日本のアニメといっても、脚光を浴びるのは秋葉原」という悩みもある。このため、区は昨年1月、アニメ産業を戦略的に育成しようと、「アニメ産業集積活性化計画」を策定、今回のHPもその一環で作成した。世界に練馬アニメを発信できるよう、各素材の英語版や字幕入りを制作している。
(転載終わり)
この中の、「仏アヌシー市との交流」という部分が私は気になった。
アヌシー市とは、アヌシー国際アニメーション映画祭が行われる場所のことです。
アヌシーとザグレブ、オタワ、広島の各国際映画祭を指して、世界の四大アニメーション映画祭、と一般には言われます。
何が言いたいかというと、
これらの映画祭は、クレイ、人形、切り紙など、幅広いアニメーション表現を志向する場だということです。
「アニメ」だけではありません。だから、
日本だと主に、個人作家の人たちの憧れの舞台です。そう言い切ってしまっては語弊があるでしょうか。
たしかに、アヌシーには、テレビシリーズ部門や長編作品部門があって、
宮崎駿や高畑勲と、そして細田守監督も「時をかける少女」で、受賞暦があります。
だから、あくまでアニメーション全般の映画祭であって、個人作家の人たちの舞台というのは言い過ぎです。
ですが、もともとアヌシーとは、実写映画の映画祭であるカンヌ国際映画祭から独立して出来た映画祭であるという、
その歴史にも注目してください。
アニメーションの作家たち(ときに「アニメ」も含む)の中には、
自分たちの表現が、「映画」として評価されることに対する反発があります。
なので、映画の一部門としてのアニメーションという位置づけを嫌って、独立するという動きも起こる、
ということだと私は理解しています。
そして、ストーリー性を重視して発展してきた日本「アニメ」は、
この映画との親和性がとても高いのです。
韓国系アメリカ人のアニメーション作家・ピーター・チョンが、
アニマトリックスのメイキングビデオの中で、
私の記憶では、次のように、たしか皮肉混じりに言っていたと思います。
「アメリカでは、アニメーションが評価される。しかし日本では、アニメーションは『映画』が評価される」
ちなみにディズニーも映画です。
アニメーションは、ディズニー的なものと、そうでないものとのせめぎ合いで発展してきたといっても過言ではない。
日本「アニメ」は、そのディズニー的なものとの親和性を持ちつつ、
その亜流として、発展してきたと私は思います。違うでしょうか?
と、まあ、各論では議論が分かれても、要するにアニメーションにもいろいろあるということです。
その中でいろんな価値観がせめぎあっているのに、なぜか日本では「アニメ」でひと括りにされてしまう。
そこに私は今までずっと違和感を覚えてきました。
加藤久仁生さんが「つみきのいえ」で、アヌシーに続いて、米アカデミー賞の短編アニメ部門で大賞をとったとき、
評論家の土居伸彰(どい のぶあき)氏はブログで次のように書きました。
(http://www.animations-cc.net/body-blog.html の、土居伸彰氏のブログから転載はじめ)
「アニメーションという総体のうちに「アニメ」や「カートゥーン」といったジャンルがある、と考えた方がしっくりくると思います。(一部報道では、『つみきのいえ』の受賞に関して「日本アニメの底力を見せた」などという言い方がされているようですが、それは明らかに間違っているでしょう。)」
(転載終わり)
私が言うのもおこがましいですが、これは正しい、とうか当たり前の指摘です。
この土井氏とは、イベントで一度ご挨拶させていただいたことがあります。
山村浩二氏とともに言論を展開しているAnimationsの活動に、一昨年、ある上映会を通じて触れたときは、
大変に恐れ入りました。それはともかく。
たしかに、日本のアニメーションをどう分類するか、の議論は難しいです。
そこで今日は、私自身の実感にもとづいた、分類をお見せします。それが上の表です。
日本のアニメーションは、製作者系と制作者系、そして個人作家系の3つに、大きくは分かれる、というのが私のモデルです。
この系という表現は、東映系、虫プロ系という昔よく言われた表現に習いました。
製作者系と制作者系は、ともに映画やディズニーアニメーションと親和性のある、いわゆる日本「アニメ」のことです。
そして、そうでないものが、個人作家系です。
そして、個人作家系以外の中でも、映像の質によって作品の成功が左右されるという考え方をしているのが制作者系で、
企画力で成功を探るべきという考え方をするのが製作者系です。
製作者系と制作者系に親和性があるのは言うまでもありませんが、
映像表現の力を信じているという点で、制作者系と個人作家系のアニメーションも親和性があります。
ただし、ストーリー性に依存する制作者系に対し、個人作家系はストーリー性より、映像表現を重視します。
制作者系と個人作家系の親和性を示す例としては、
STUDIO4℃ が、アニメーター・監督から、個人作家なみの独創性を引き出します。
近年ジブリも、映像的な短編を多く作っている。
一方、個人作家の加藤久仁生氏は、ROBOT というプロダクションのしくみを利用して企画し、
わかりやすいストーリー性で「つみきのいえ」を作っています。
このように、個別に論じれば複雑ですが、
日本のアニメーションは、大きくは、この三系統に収斂できるというのが私の考えです。
これらは、それぞれ別の歴史を歩んできました。
互いに接点はあっても、信じる理念の部分がまったく別です。対立していると言ってもいい。
そうした中で練馬区は、どこらあたりに重心を置いて、事業を展開するつもりなのか、そこが私の気になるところです。
「練馬区地域共存型アニメ産業集積活性化計画」(http://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/keikaku/shisaku/kumin/shogyo/anime.html)
に目を通すと、制作者育成を主眼に置いているとも見て取れます。
アヌシーに行きたい個人作家系と、制作者系を集積して育成していこうということであれば、話は分かりやすくなってきます。この立ち位置は、決して時代遅れということでもない。
秋葉原に対抗できます。
ただ、しかし、制作者系たって、杉並区、中野区、中央線沿いに広まっているし。
私の知人の個人作家たちは、世田谷や神奈川にも広がっています。
そうした人たちの都合も考えず、練馬集積化(練馬に集まってもらう)を言ったところで、誰の得になるのでしょうか?
(「アニメ」の学校が、練馬に集まってくれたら、助かるかもですが。
今、自分が通ってるところが遠くて。引っ越してきてくれたら嬉しい・・・。)
実は、前記の、練馬区地域共存型アニメ産業集積活性化計画の中に、次のような記述もあります。
(本文2ページ{http://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/keikaku/shisaku/kumin/shogyo/anime.files/text.pdf}から転載始め)
(2)漫画家・アニメ作家など人材の蓄積
アニメ製作会社が練馬区を中心に発展したことにより、クリエイター
も多く区内に居住している。日本のアニメを代表する大塚康生氏や高畑
勲氏は区内在住である。
また区内には、従来より多くの人気漫画家が居住しており、故手塚治
虫氏、故石ノ森章太郎氏は在住歴がある。さらに松本零士氏、ちばてつ
や氏など日本を代表する多くの区内居住の漫画家が、現在も活躍中であ
る。
(転載終わり)
と、このように、練馬区は漫画にも興味があるようです。
だからといって、私は、練馬区がいきなり、
「コンテンツ全般(漫画、ゲーム、音楽、玩具など、表現すべて)を取り扱って、秋葉原の向こうを張ろうとしている」
とは解釈しません。
日本のいわゆる「アニメ」とは、簡潔に定義すれば、漫画スタイルのアニメーションのことで、
「漫画アニメーション」(「人形アニメーション」と言うのと同じ)のことだろうと思うからです。
つまり、漫画+アニメーションとは、制作者系と製作者系の、日本の普通の「アニメ」のことです。
とここまで考えてみると、どうやら練馬は、日本のアニメーション三系統をすべて引き受けたいようです。
昔、制作者系だった東映動画も、今やはっきりと、製作者系の考え方で東映アニメーションとなっているから、
「アニメ発祥」の歴史との連関という意味でも、そのほうが都合がいいでしょう。
それは、経済産業省が音頭を取りはじめる前(「アニメ」がコンテンツと呼ばれる前)の、
一世代前のアニメーションのあり方にアプローチするということだから、
もはや、時代遅れは承知の上ということでしょう。
だから、「練馬vs秋葉原」は「アニメvsコンテンツ」ではなく、「アニメーションvsコンテンツ」のことだったのですね。
ここまで、敢えて細かく論じてみました。
だけど、いじわるな見方をすれば、
アヌシーでも区内在住の漫画家でもなんでも、利用できる導線はなんでも利用した結果、
「練馬の計画はこうなりました」と見えなくもありません。
それはそれで、かまいませんが。制作者系でやってきた私も、
アヌシーには一度行ってみたいので、今、まだ練馬区民として、何か仕事をもらえたら大喜びです。(笑)
まとまりのない論考になってしまいましたが、
練馬や秋葉原、いろいろあるアニメーションなど、それぞれ違うので、
一緒くたにしないで論じてください、という趣旨でした。
終わりです。
森田宏幸です。今日は2010年7月24日です。
前回の記事「練馬 vs 秋葉原?」(http://blog.goo.ne.jp/moriphy/e/02ec350868ba5965795b594c582636ff)
の続きを、アニメーションの仕事に関わる皆さんに向けて書きます。
前回は、練馬アニメーションサイト(http://www.animation-nerima.jp/)の担当者が意識する、秋葉原について論じました。
練馬は「アニメ」の地、秋葉原はコンテンツ((漫画、ゲーム、音楽、玩具など、表現すべて))の地であろうから、
同列に並べるのは意味がないし、練馬が不利に見えるのもしょうがない、と書きました。
しかし、不利は承知でも、練馬なりに巻き返しはないのか。
この話題のきっかけをくれた、読売新聞の記事から再び引用します。
(2010年5月13日読売オンライン「アニメの練馬 世界へ発信 区がHP」の記事から一部を転載はじめ)
HPでは、練馬アニメクリエイターズアワード「アニメ作家シナリオ・コンテスト」のグランプリ作品のプロモーション映像を公開しているほか、「アニメの町、練馬」の歴史や、としまえんなどで毎年開催されるアニメ関連イベントなどの情報が満載。世界最大のアニメ映画祭の開催地で、昨年、「アニメ産業交流協定」を結んだ仏アヌシー市との交流なども盛り込む。
発祥の地を自負する練馬だが、区の担当者には、「世界中から注目される日本のアニメといっても、脚光を浴びるのは秋葉原」という悩みもある。このため、区は昨年1月、アニメ産業を戦略的に育成しようと、「アニメ産業集積活性化計画」を策定、今回のHPもその一環で作成した。世界に練馬アニメを発信できるよう、各素材の英語版や字幕入りを制作している。
(転載終わり)
この中の、「仏アヌシー市との交流」という部分が私は気になった。
アヌシー市とは、アヌシー国際アニメーション映画祭が行われる場所のことです。
アヌシーとザグレブ、オタワ、広島の各国際映画祭を指して、世界の四大アニメーション映画祭、と一般には言われます。
何が言いたいかというと、
これらの映画祭は、クレイ、人形、切り紙など、幅広いアニメーション表現を志向する場だということです。
「アニメ」だけではありません。だから、
日本だと主に、個人作家の人たちの憧れの舞台です。そう言い切ってしまっては語弊があるでしょうか。
たしかに、アヌシーには、テレビシリーズ部門や長編作品部門があって、
宮崎駿や高畑勲と、そして細田守監督も「時をかける少女」で、受賞暦があります。
だから、あくまでアニメーション全般の映画祭であって、個人作家の人たちの舞台というのは言い過ぎです。
ですが、もともとアヌシーとは、実写映画の映画祭であるカンヌ国際映画祭から独立して出来た映画祭であるという、
その歴史にも注目してください。
アニメーションの作家たち(ときに「アニメ」も含む)の中には、
自分たちの表現が、「映画」として評価されることに対する反発があります。
なので、映画の一部門としてのアニメーションという位置づけを嫌って、独立するという動きも起こる、
ということだと私は理解しています。
そして、ストーリー性を重視して発展してきた日本「アニメ」は、
この映画との親和性がとても高いのです。
韓国系アメリカ人のアニメーション作家・ピーター・チョンが、
アニマトリックスのメイキングビデオの中で、
私の記憶では、次のように、たしか皮肉混じりに言っていたと思います。
「アメリカでは、アニメーションが評価される。しかし日本では、アニメーションは『映画』が評価される」
ちなみにディズニーも映画です。
アニメーションは、ディズニー的なものと、そうでないものとのせめぎ合いで発展してきたといっても過言ではない。
日本「アニメ」は、そのディズニー的なものとの親和性を持ちつつ、
その亜流として、発展してきたと私は思います。違うでしょうか?
と、まあ、各論では議論が分かれても、要するにアニメーションにもいろいろあるということです。
その中でいろんな価値観がせめぎあっているのに、なぜか日本では「アニメ」でひと括りにされてしまう。
そこに私は今までずっと違和感を覚えてきました。
加藤久仁生さんが「つみきのいえ」で、アヌシーに続いて、米アカデミー賞の短編アニメ部門で大賞をとったとき、
評論家の土居伸彰(どい のぶあき)氏はブログで次のように書きました。
(http://www.animations-cc.net/body-blog.html の、土居伸彰氏のブログから転載はじめ)
「アニメーションという総体のうちに「アニメ」や「カートゥーン」といったジャンルがある、と考えた方がしっくりくると思います。(一部報道では、『つみきのいえ』の受賞に関して「日本アニメの底力を見せた」などという言い方がされているようですが、それは明らかに間違っているでしょう。)」
(転載終わり)
私が言うのもおこがましいですが、これは正しい、とうか当たり前の指摘です。
この土井氏とは、イベントで一度ご挨拶させていただいたことがあります。
山村浩二氏とともに言論を展開しているAnimationsの活動に、一昨年、ある上映会を通じて触れたときは、
大変に恐れ入りました。それはともかく。
たしかに、日本のアニメーションをどう分類するか、の議論は難しいです。
そこで今日は、私自身の実感にもとづいた、分類をお見せします。それが上の表です。
日本のアニメーションは、製作者系と制作者系、そして個人作家系の3つに、大きくは分かれる、というのが私のモデルです。
この系という表現は、東映系、虫プロ系という昔よく言われた表現に習いました。
製作者系と制作者系は、ともに映画やディズニーアニメーションと親和性のある、いわゆる日本「アニメ」のことです。
そして、そうでないものが、個人作家系です。
そして、個人作家系以外の中でも、映像の質によって作品の成功が左右されるという考え方をしているのが制作者系で、
企画力で成功を探るべきという考え方をするのが製作者系です。
製作者系と制作者系に親和性があるのは言うまでもありませんが、
映像表現の力を信じているという点で、制作者系と個人作家系のアニメーションも親和性があります。
ただし、ストーリー性に依存する制作者系に対し、個人作家系はストーリー性より、映像表現を重視します。
制作者系と個人作家系の親和性を示す例としては、
STUDIO4℃ が、アニメーター・監督から、個人作家なみの独創性を引き出します。
近年ジブリも、映像的な短編を多く作っている。
一方、個人作家の加藤久仁生氏は、ROBOT というプロダクションのしくみを利用して企画し、
わかりやすいストーリー性で「つみきのいえ」を作っています。
このように、個別に論じれば複雑ですが、
日本のアニメーションは、大きくは、この三系統に収斂できるというのが私の考えです。
これらは、それぞれ別の歴史を歩んできました。
互いに接点はあっても、信じる理念の部分がまったく別です。対立していると言ってもいい。
そうした中で練馬区は、どこらあたりに重心を置いて、事業を展開するつもりなのか、そこが私の気になるところです。
「練馬区地域共存型アニメ産業集積活性化計画」(http://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/keikaku/shisaku/kumin/shogyo/anime.html)
に目を通すと、制作者育成を主眼に置いているとも見て取れます。
アヌシーに行きたい個人作家系と、制作者系を集積して育成していこうということであれば、話は分かりやすくなってきます。この立ち位置は、決して時代遅れということでもない。
秋葉原に対抗できます。
ただ、しかし、制作者系たって、杉並区、中野区、中央線沿いに広まっているし。
私の知人の個人作家たちは、世田谷や神奈川にも広がっています。
そうした人たちの都合も考えず、練馬集積化(練馬に集まってもらう)を言ったところで、誰の得になるのでしょうか?
(「アニメ」の学校が、練馬に集まってくれたら、助かるかもですが。
今、自分が通ってるところが遠くて。引っ越してきてくれたら嬉しい・・・。)
実は、前記の、練馬区地域共存型アニメ産業集積活性化計画の中に、次のような記述もあります。
(本文2ページ{http://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/keikaku/shisaku/kumin/shogyo/anime.files/text.pdf}から転載始め)
(2)漫画家・アニメ作家など人材の蓄積
アニメ製作会社が練馬区を中心に発展したことにより、クリエイター
も多く区内に居住している。日本のアニメを代表する大塚康生氏や高畑
勲氏は区内在住である。
また区内には、従来より多くの人気漫画家が居住しており、故手塚治
虫氏、故石ノ森章太郎氏は在住歴がある。さらに松本零士氏、ちばてつ
や氏など日本を代表する多くの区内居住の漫画家が、現在も活躍中であ
る。
(転載終わり)
と、このように、練馬区は漫画にも興味があるようです。
だからといって、私は、練馬区がいきなり、
「コンテンツ全般(漫画、ゲーム、音楽、玩具など、表現すべて)を取り扱って、秋葉原の向こうを張ろうとしている」
とは解釈しません。
日本のいわゆる「アニメ」とは、簡潔に定義すれば、漫画スタイルのアニメーションのことで、
「漫画アニメーション」(「人形アニメーション」と言うのと同じ)のことだろうと思うからです。
つまり、漫画+アニメーションとは、制作者系と製作者系の、日本の普通の「アニメ」のことです。
とここまで考えてみると、どうやら練馬は、日本のアニメーション三系統をすべて引き受けたいようです。
昔、制作者系だった東映動画も、今やはっきりと、製作者系の考え方で東映アニメーションとなっているから、
「アニメ発祥」の歴史との連関という意味でも、そのほうが都合がいいでしょう。
それは、経済産業省が音頭を取りはじめる前(「アニメ」がコンテンツと呼ばれる前)の、
一世代前のアニメーションのあり方にアプローチするということだから、
もはや、時代遅れは承知の上ということでしょう。
だから、「練馬vs秋葉原」は「アニメvsコンテンツ」ではなく、「アニメーションvsコンテンツ」のことだったのですね。
ここまで、敢えて細かく論じてみました。
だけど、いじわるな見方をすれば、
アヌシーでも区内在住の漫画家でもなんでも、利用できる導線はなんでも利用した結果、
「練馬の計画はこうなりました」と見えなくもありません。
それはそれで、かまいませんが。制作者系でやってきた私も、
アヌシーには一度行ってみたいので、今、まだ練馬区民として、何か仕事をもらえたら大喜びです。(笑)
まとまりのない論考になってしまいましたが、
練馬や秋葉原、いろいろあるアニメーションなど、それぞれ違うので、
一緒くたにしないで論じてください、という趣旨でした。
終わりです。
僕としては制作者系の人がジーニアスパーティのように個人作家系の仕事してくれる環境と個人作家系の人が制作者系の仕事してくれる環境がもっと整ってくれると非常に嬉しいです。
そゆ意味では文化庁メディア芸術祭は本来分類が違う比べようのないものを比べて強引に賞を授与してるの非常に良い事のように思えます。
映画としてのアニメーションの源流はマッケイなんじゃないですかね。彼が初期に制作した『How a Mosquito Operates』にはすでに十分なストーリーがあります。
記事おもしろかったです。ありがとうございました
森田宏幸です。
ウインザ・マッケイは漫画家でもあったし、
ディズニーから日本「アニメ」への系譜の源流に位置づけて
しっくり来ますね。
「ディズニー的なもの」と言うとき、私は
ある種の権威を意識してます。
「アニメーションと言えばディズニー」
みたいなことです。
「ディズニー的なもの」という言い方は、
実は高畑勲さんが使っていて、受け売りっぽいのですが、
一般にも言われないでしょうか?
高畑さんがどういう意味で言っていたかは、
確かめていませんが、
文献をあさって、いずれ引用したいと思います。
制作者系と製作者系の定義については、
私のオリジナルの用語なので、
説明が足りませんよね。
もっときちんと、説明しないと、と思っていますが、
早速、これらの言葉を使って、
どうもさんが、ご自分の考えを書いて下さって感謝です。