水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

ヤミ米を考える。

1960年01月03日 | 1960年
政府は戦時中の昭和17年に施行された食糧管理法を根拠として、米の買入・配給を独占していた。農家は米を農協経由で政府に売り渡したが、米代金の支払いの遅いことに不満があった。
農家の多くは、政府買い入れの時、米の品質のチェックがなく、味には価格差がないことに目をつけた。味の悪い米を政府に出荷し、味のよい米は、違法を承知でヤミ米として政府外に現金で売ったのである。
ヤミ米と配給米との価格はどちらも1kg80円程度であったが、ヤミ米には現金収入になったし、税務署に捕捉されない魅力があった。ヤミ米用の上質米の栽培が増加した。
うまいヤミ米の需要増加と、パン食の普及によって、政府配給米を辞退する消費者が多かった。食管制度は崩壊寸前であった。
ヤミ米には、農家から直接消費者に流れるもの、行商人が代金として米を受け取るもの、農家が生活費などを米で支払うもの、ヤミ米ブローカーが買い集めるものなどがあった。

農家が政府供出米に古米を混合させたり、量だけはあるまずい米を栽培したりした。政府は味の悪さを承知で、農家から米を高値で買い入れ、米屋を通して、政府米として国民に安く売った(配給した)でのある。

米屋は一般消費者には、まずい政府米を売った(配給した)。が、寿司屋とか料亭のような得意客には、味のよいヤミ米を売った。ヤミ米は高値だが、一人当たりの1食米原価では10円の差である。10円高くても、寿司屋・料亭はうまい米飯を食わせないと、客に叱られる。
米屋は表で政府米を売買、裏でヤミ米を売買した。このことは国民がみんな知っていた。最近の米屋は、おいしいヤミ米が大量に手に入ると、一般庶民にもヤミ米を売るようになった。
ヤミ米で商売が成り立つ。しかし、配給制度で、自動的に割り当てられる政府米の処分に悩むのである。そこで米屋は奥の手を使う。おいしいヤミ米と宣伝して、一般消費者に、実はまずい政府米を売るのである。ヤミ米もたいしたおいしくない、と思わせれば、安い政府米は売れる。厳密には詐欺であるが、これが政府米の処理の決め手であった。

昭和22年は戦後の食糧難の真っ最中。政府米が不足していた。高値のヤミ米は大量にあった。東京地裁の山口裁判官は法を守り、ヤミ米を買わなかった。当然、飢え死にした。それから10余年、国民多数はまずくて安い政府米を買わず、高くておいしいヤミ米を食べている。政府の配給米が余るのは当然である。
山口判事の餓死は、当時、かたくなな遵法精神が死を招くという、裁判官の非常識として話題になった。

http://www15.ocn.ne.jp/~aoisora5/




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2 コメント

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ヤミ米の運び方 (ヤミ男)
2005-09-19 20:57:11
米作農家が、商店などに米を少しだけ売ってもヤミ米として、摘発された。そこで、農家はいろしろ考えたようである。

①小学生にランドセルに入れて運ばせる。小袋の米をランドセルに入れ、駐在所の前を通る。

②リヤカーに米袋を置き、それをムシロで隠して、野菜を一番上に置く。

③駐在所の巡査を村の演芸会に招待して飲み食いさせておき、その間に馬車で大量輸送する。

④夜中に野原に火をつけて巡査をおびき出し、炎の消えないうちに米を運ぶ。

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ヤミ米のうまみ (ヤミ太郎)
2005-09-19 21:04:50
一升百円のヤミ米を、農家の息子であった私は、当時元気のよい中学生、商店街にヤミ米を売り歩いた。百円は簡単に稼げた。

1960年、3本立映画40円、ラーメン30円、漫画30円。中村錦之介の映画を見て、ラーメン食って、漫画本を買って帰宅。贅沢な暮らしができた。
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