水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

茂道港

2006年08月13日 | 水俣病
120戸の漁業集落茂道(もどう)では、他漁村にさきがけ、1954年に猫・海鳥の大量死、そして漁民の中から原因不明の痙攣や視野狭窄など、のちに水俣病と認定される症状のため、漁業のできなくなる者が相次いだ。
病院に行かなくても、茂道の魚を食べると元気になると信じて、水俣湾・茂道湾の魚をたくさん食べ、このために茂集落に水俣病が集中発症した。茂道では、水俣病認定患者は200人を越えた。
水俣湾・茂道湾、1958年以降は不知火海でも、魚介類が、チッソから排出されるメチル水銀で汚染されていた。しかし、どこの漁業集落でも、水俣病から元気になるために魚を食べ、水俣病を悪化させた。
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茂道は、多くのリアス式海岸の漁業集落同様、背後に山地がせまる陸の孤島であった。水俣などとは船で往来していたが、船を所有せずに雇われて船に乗る漁民には、鉄道が重要な交通手段であった。国鉄鹿児島本線は2002年からは第3セクター肥薩おれんじ鉄道(八代~川内)となり、その「袋駅」から、茂道までは峠を越えて徒歩20分である。



袋駅から茂道への細道は全部みかん畑。自動車の入れないみかん畑は、放棄されている。全国的な生産過剰と安値に耐えきれなかったようである。
茂道でみかん栽培が始まって30年以上経過し、品種更新や有機栽培など、新しいみかん栽培に積極的な農家と、漁業の復活により、みかん栽培に情熱を失った農家(漁民)もいる。



茂道の集落はみかん畑に囲まれている。水俣病の原因が、不知火海のメチル水銀汚染された魚介類にあることが分かり(1968年政府認定)、漁業が厳しく規制された時、茂道の漁民は、みかん栽培に活路を見い出した。
チッソを相手の裁判と患者認定作業の遅れなど、気持ちは暗くなりがちであったが、みかん栽培の開始が希望をつないだ。
温室栽培で収穫時期を早めて高い価格で出荷したり、無農薬有機栽培で消費者の信頼を得たりした。熊本産みかんのうちでも、茂道のみかんの評価は高い。





チッソが1968年にメチル水銀の放出をやめてからは、不知火海・水俣湾のメチル水銀の魚介類汚染が急速に改善された。水俣湾の水銀ヘドロが埋め立てられ、1997年には水俣湾の仕切り網も撤去された。
茂道湾には、防潮堤など港湾施設が整備された。陸上には水俣まで道路がつくられた。港には漁船,海岸には水産加工場や漁船ドックなどがつくられた。茂道の漁業が復活した。



山の頂上までみかん畑が広がり、茂道湾には新しい漁船が並んで、水俣病は表面には見えない。しかし、水俣病に苦しめられた世代から新しい世代に確実に語りつがれている。



陸の孤島といわれた茂道み、水俣からの道路整備が進んで定期バスが通るようになった。自家用車の普及も進んだ。
バスは2時間に1本程度、バス停留所発着時刻表示も、判読しにくい。日暮れまで恵比寿様の顔を拝んで、時間をつぶす以外にない。
胎児性水俣病の子どもの将来を心配する老人の話を聞きながら、バス最終便を待った。
淡々とした話しの中に、チッソと行政への怒りが続いていることを感じた。恵比寿様のような柔和の表情の中に、水俣病の深刻さがあった。

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茂道港から袋湾はもともと魚の産卵場であり,魚が豊富であった。1954年,魚が手づかみでいくらでもとれた。弱って浮いた魚をねらった水鳥とカラスが集まった。茂道ではネコが全滅した。ネズミがたちまち増えたが,ネズミも死んだ。そして,人間に水俣病が発症した。
水俣病は遺伝する,伝染する,といわれ,患者家族は茂道に住むのがつらかった,という。茂道の穏やかであった人間関係は崩壊した。
しかし,水俣病患者を茂道から追い出そうとした者も水俣病を発症した。
今,茂道では,胎児性水俣病の問題が大きな問題になっている。胎児に,母親からへその緒を通してメチル水銀が運ばれ,出生直後から水俣病を発症する。あるいは水俣病ではないように見えても,10年後,20年後に水俣病を発症する。次第に動くことができなくなるのである。



百間排水口(水俣湾)

2006年08月11日 | 水俣病
現在、チッソ水俣工場からは、水俣病原因物質メチル水銀は排出されていない。家庭からの生活排水の方が、百間水路を汚している。その百間水路の排水は、水俣湾の干満に合わせ、百間ポンプ場で行われている。



百間ポンプ場から水俣湾に流れる百間水路である。もっと広い水路であったが、左側が埋め立てられて、水俣湾のわずかな残り部分が残っている。
1958年まではメチル水銀を含むヘドロが流れていて、水俣湾岸に水俣病患者が発症する原因となった。
現在は干潮時には無害無毒化されたチッソの排水と、水俣市民の生活汚水が流れる。満潮時には海水が逆流する。水路の幅は埋め立てにより半減した。写真水路の左側が埋め立てられて竹林になった。




竹林公園は水俣湾の最奥部の埋立地につくられた。国内150種、海外160種の竹を植えている。竹林公園の外側を水路と化した水俣湾が、百間水路の水を運んでいく。
竹林公園には適度に無人休憩所があり、ゆっくり散策できる。
さて、内外310種のタケノコを誰が食べるのだろうか。竹林公園とエコパークの間には土産物屋と食堂があるが、半官半民の店は「武士の商法」丸出しで、当然、開店休業状態である。世界のタケノコ料理の冷凍パックを売ったり、世界のタケノコ料理を食べさせたりするような工夫をすれば、少しは儲けが増えると思うが。





水俣湾の埋立残り部分の海水が満潮時にポンプ場まで到達し、百間排水口からの排水を運ぶ。その出口である。かつての水俣漁港の一部、埋立の残り部分である。



かつての水俣港はほとんど消滅し、2、3の船舶の休息場の趣である。不知火海を縦横に走るフェリーや、海外からの貨物船は、南の月浦につくられた新しい水俣港に移った。
プール状態の旧水俣港は、荷役施設も補給設備もない。百間排水路のために、わずかに残された海水面である。
魚がよく釣れる。もちろんメチル水銀の汚染もない。


旧百間港メチル水銀排出口(水俣湾埋立前)

2006年08月11日 | 水俣
水俣湾の百間港はチッソの工場排水口であった(1932~58年)。その中にメチル水銀が含まれ、魚介類を通して人間が体内に取り入れた。水俣病は有機水銀中毒である。チッソの工場排水は、1958年から不知火海(水俣川河口)に変更されたが、水俣病が水俣湾から不知火海に拡大された。
百間排水口の看板に、チッソ水俣工場からのメチル水銀が水俣湾と不知火海を汚染した事情が説明されている。以下、その全文。
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百間排水路
百間排水口は水俣病原点の地です。
この排水口を通じて、昭和7(1932)年から昭和43(1968)年までチッソ(株)水俣工場において酢酸等の原料となるアセトアルデヒドの製造工程で副生されたメチル水銀化合物が工場排水とともに排出され(一時期、水俣川河口へも排出)、水俣湾は汚染されました。そのため、八代海(不知火海)一円に水俣病が発生しました。
水俣湾に排出された水銀量は約70~150トン、あるいはそれ以上とも言われ、百間排水口付近に堆積した水銀を含む汚泥の厚さは4mに達するところもありました。
昭和52(1977)年、熊本県は汚泥を除去する公害防止事業に着手し、約14年の歳月と総事業費485億円の巨費をかけて、水俣湾に堆積した水銀ヘドロの一部浚渫、埋め立てを行い、平成2(1990)年、事業は終了しました。
現在、百間排水口からは、浄化処理された工場排水及び家庭からの生活排水が流れています。また水俣湾の魚介類の安全性を確認するための調査も継続して実施されています。
一度汚染・破壊された環境は、いかに莫大な費用と労力をかけても、元に戻すことはできません。このことを私達は人類の教訓として受け止めなくてはなりません。
(以上が看板の説明文。下の白黒写真2葉はこの看板にある)
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昭和51(1976)年、チッソがメチル水銀の使用をやめたあとの百間水路の内陸側。上の百間排水口説明看板にある写真である。高濃度のメチル水銀を含む汚泥が堆積しているが、総量は少なく、水俣湾側と比較すると、処理は簡単であった。





百間排水口外、水俣湾側である。メチル水銀を含む海底汚泥から、メチル水銀だけを取り除くことはできなかった。ある地域の汚泥を浚渫して、別の地域の汚泥の上にかぶせて水俣湾の大半を埋め立てた。
写真は埋め立て前の昭和52(1997)年の様子で、漁船が並んでいて漁業が盛んであったこと、そして、魚介類の水銀汚染は、漁民とその家族に大きな健康被害を与えたことが推察できる。



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工場排水は百間堀川を通して水俣湾に流された。1958年の排水口変更まで、百間堀にはメチル水銀を含むヘドロが堆積した。現在、チッソ水俣工場は水銀を使用していない。液晶原料を製造している。百間堀への排水は無毒無害である。

水俣病を忘れないために

2006年08月10日 | 水俣
水俣湾の埋立地エコパーク45haと不知火海を見わたす高台(水俣市明神町)に、国、県、市の水俣環境学習の3施設がある。3施設とも水俣病を後世に正しく伝えることが最大の使命のようである。むだな重複施設というより、役割・機能を分担した3施設というべきだろう。


エコパークはメチル水銀の堆積した元水俣湾である。現在は埋め立てられて、グラウンド兼イベント会場として利用される。水俣湾は100%全部埋めたのではなく、百間排水路の排水処理に必要な部分を残している。
写真に見える海の部分は、水俣湾より南の水俣港である。
エコパークはグラウンドのテントは催し物のためのものである。地盤が弱く、大きな構造物をつくることができない。この撮影は国立情報センター屋上から。



国立水俣病総合研究センター(水俣病情報センター)と水俣市立水俣病資料館は建物が隣り合い、渡り廊下でつながっている。写真は国立情報センター。会議室や資料室が利用される。
全く別の土地(水俣市浜)に研究者用施設として国立水俣病総合研究センターがあり、よく間違えられるので有名。この写真は情報センターである。



これは熊本県の施設で、「熊本県環境センター」が正式名称。環境学習のため、クラス単位、グループ単位の学習施設が整っている。最近は総合学習の場として、修学旅行に組み込まれたりして、利用者が多い。



恋路島がすぐ近く。手前は親水公園つまり水俣湾埋立地の一部である。この海域全体が、一時期メチル水銀に汚染された。恋路島は無人島であり、リゾート開発を進めて、水俣のマイナスのイメージを払拭しようとする計画はあった。しかし、逆に、水俣病の本質としての行政の失敗と、市民運動を後世に正確に伝えていくために、国立情報センターが建設された。下の写真はその屋上から撮影。



親水公園(水俣病慰霊碑)

2006年08月10日 | 水俣病
熊本県水俣湾の水銀汚染地帯を埋め立て、その最先端部分が親水公園である。埋め立ての記念碑が波打ち際にあり、その向こうに恋路島が見える。恋路島はタブノキの原生林が残る無人島である。一時キャンプ村になったり、リゾート開発候補になっったりしたが、水俣病のために開発からまぬがれた島である。
この写真は埋立の記念碑であり、水俣病慰霊の碑ではない。



2006年5月1日、水俣病公式認定から50年を記念し、水俣病慰霊碑が建立された。
水俣市街地から、波打ち際の慰霊までが遠い。それだけ、メチル水銀汚染地つまり埋立地が広いのである。
当日、小泉首相が欠席して、小池百合子環境大臣が代理の挨拶をした。

水俣病慰霊の碑(碑文)
不知火の海に在るすべての御霊よ
二度とこの悲劇は繰り返しません
安らかにお眠りください




水俣病関係者がつくった魂石(たまいし)が、埋立記念碑や水俣病慰霊碑ほどは目立たないものの、ひっそりと、不知火海と恋路島を見て、何かを訴えかけている。水俣病の悲しみに耐え、今後の希望を祈っているような魂石が全部で50体ある。



魂石の立ち並ぶ森の裏は、「エコパーク水俣」と名付けられたイベント緑地である。メチル水銀を封じ込めた埋立地で、面積は41haである。
大黒摩季と谷村新司のジョイントコンサートがあった時には、九州一円から観光バス、乗用車で数万人が集まった。
背後のビルは「国立水俣病総合研究センター水俣病情報センター」である。隣に「水俣市立水俣病資料館」があって、その隣に「熊本県環境センター」がある。


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親水公園の碑文が、広島の原爆の碑文同様、主語が不明である。日本語としては少しおかしい、という議論もある。

チッソ水俣工場

2006年08月10日 | 水俣病
1906年に水俣に工場ができた時は、アセチレンの製造、1914年から硫酸アンモニウム(硫安)、1932年にアセチレンと水銀を用いてアセトアルデヒドの合成を始めたが、この時から有機水銀(メチル水銀)を排出した。1932年から1968年まで、百間水路にメチル水銀を含む工場廃液を流した。最終的には水俣湾に100トンのメチル水銀が堆積した。
1968年、チッソはメチル水銀を使うのをやめた。同時に、工場廃液を百間水路ではなく、八幡プールへ流し、汚水処理のあと、水俣川(不知火海)へ放水した。
このため、不知火海(八代海)沿岸の漁民とその家族に水俣病患者が広がった。

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チッソ水俣工場。当然ながら非公開である。





チッソ水俣工場の正門。JR水俣駅前であり、部外者は当然ながら立ち入り禁止。



裏門。部外者は立ち入り禁止。




東門跡はこの奥。この近辺はいつの時点までかは、社員が出入りできたのであろう。
一体どこから取水し、何に使った水なのか、とにかく排水量が大量である。ハゼだか何だか知らないが魚の大群が泳いでいる。カモも泳いでいる。
右への流れが丸島排水路で、終点の丸島漁港にはメチル水銀は堆積しなかったが、魚介類が汚染され、丸島地区の水俣病患者が3000人以上と推定される。
左への流れが百間排水路であり、終点の水俣湾に100トンのメチル水銀が堆積した。つまり、左の流れの先でメチル水銀が大量に排出され、水俣湾沿岸漁民とその家族にメチル水銀中毒としての水俣病患者を多数発症させたことになる。



百間排水路。水路の右がチッソの工場群である。大小10か所ほどの排水口のどれかから、メチル水銀が百間水路に排出された。「ここがメチル水銀排出口」との看板でもあればいいのだが、そんなものはない。どの排水口が雨水か、無害廃液か、メチル水銀出口かは分からない。ただし、コンクリートで封鎖された排水口跡もある。



水俣湾はどう変わったか(地図)

2006年08月09日 | 水俣病
チッソ水俣工場から百間放水路を通って水俣湾に堆積したメチル水銀は100トン、メチル水銀を含むヘドロ層の厚さは4mもあった。1977年に水俣湾の埋立開始。1990年に埋立が終了した。
総費用485億円のうち,チッソが306億円を負担し,残りは熊本県と国の公費が投じられた。メチル水銀に汚染された水俣湾は、58haの広大な公園に作り替えられた。

1974年の地形図


1991年の地形図(水俣湾埋立終了後)


チッソは1958年には百間水路つまり水俣湾への排水をやめた。ヘドロがたまり、排水が難しくなったためである。水俣病の原因が工場排水にあるとの認識もあった。
新しい排水先は、八幡プール経由、水俣川河口であった。八幡プールで廃液に沈殿処理を施したが,しかし排水中には,メチル水銀が含まれていた。このため,水俣病が不知火湾全体に広がった。
1968年、チッソはアセトアルデヒドの製造をやめた。メチル水銀の排出も止まった。しかし、水俣川河口に工場排水を流した11年間に水俣病患者が不知火海沿岸全体に広がった。ただし、不知火海沿岸の水俣病患者の多くは、公式の水俣病とは認定されていない。
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水俣市、水俣湾、不知火海の位置は下の地図のとおりである。