五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

久しぶりの熊本城

2010-01-29 03:35:00 | 熊本城を散策する

ある日の熊本城案内・・                 二の丸公園から                         宇土櫓表から

久しぶりに熊本城観光案内をした。北海道からやって来たということで、頬当門から入城し熊本城の観光を堪能してもらった。お客さんは割に若い夫婦3組で、一組は九州はおじいさんは出身地であるが、父親からは九州とは殆ど縁がない人という人たちであったが、しかし親御さんが五高の卒業生でという夫婦もあり、五高記念館と熊本城を案内した。休養を兼ねた九州地方の観光旅行であるようだった。例のようにまず自身の紹介と挨拶で「熊本生れの熊本育ちで、全くのジゴロです、あちこちで熊本弁が出てきますので」と断りを入れて説明を始める。熊本城について「熊本城みてある記」を貼り付けたりして、ブログも作って居るし参考文書も読みあさっている。各お客さんは熊本城は初めてだそうで案内のコースは任せると云う。・・・二の丸駐車場から南大手門を通り、空堀を両側に見て熊本城の正門、頬当門から入城する。平左衛門丸では首掛石を説明し井戸の由来から数寄屋丸では地図石を説明し熊本城に来たのであるからと本丸御殿に向った。暗がり通路を通り、赤松の梁、欅の柱は殆ど地元産を中心に建築されていること、本来本丸御殿は1570畳の畳が敷詰められていたそうであるが今回復原された御殿は約その3分の1程度で580枚敷いてある。部屋の説明は鶴、梅、桜、 桐、若松の間を説明する。待望の昭君の間を見たが今の若者は余り興味がないようであった。昭君の間はフラッシュを焚かないのであれば写真を写していいと言うことである。廊下が開いていたので午砲台を説明する。午砲台は・・・・本丸御殿を見学し、熊本城のシンボル大銀杏のいわれを説明する。大銀杏の周りに人を入れないための柵が取り付けられている。そのため玄関へは遠回りしなければ為らない。 コースはお任せであったので四層六階の天守閣に入った。鉄筋コンクリート造りの天守は昭和三十五年熊本市の篤志家による寄付金を中心に熊本市により建築されたこと。熊本市博物館分館として一階部分が加藤時代の史料、二階部分は永青文庫を中心とした細川の史料を、三階は西南戦争関係を展示してあることを説明した。入城口では谷村計介の像の説明その後に掲げてある一口城主の説明、台所用として使用した井戸、その上に飾ってあるかっての暗がり通路を照らしていた提灯を説明し階段を登る。つづいて重要文化財になっている波奈之丸の説明、細川藩の参勤交代は豊後街道を大分県の細川藩の飛び地、鶴崎へ行っていたこと。ここから瀬戸内海を大阪までの海路に使用したこと説明する。ここでは細川藩の展開立体図により現在の熊本城の範囲とを比較してもらう。細川藩の時習館の関する資料は近頃展示換えされたのか、余り記憶にない初代教授は秋山玉山から八代藩主重賢によって創設されたこと文武両道を奨励し若者の教育に励んだこと。日本の藩校のモデルであったこと等を説明する。このあたりのことについては指導教官以外は全く興味がないようだ。そして永青文庫の史料を眺め、西南戦争の史料を眺める。ここまで来るとお互いに少々くたびれる。最上階にあがり周囲の景色を眺める。阿蘇山はこっちの方角と説明する。熊本市もノッポビルのラッシュで遠方まで見通せない。今日は皆さん元気であるので宇土櫓に登る。宇土櫓は昔の時代に思い馳せ偲ばれる、以前と比べて少々階段が登りやすくなったことを説明し、ここでは匠の技を説明する。その他細川家の九曜の紋、加藤家の蛇の目の紋、祝の場等に使用されていたという折墨の紋を説明する。まず殆どがこの観光コースであるので説明がマンネリにならないように注意している。これについて本丸御殿では各部屋を中心に説明者がいるが、説明の内容は全く同じことの繰り返しであるので余計そのように感じた。(tH)                  宇土櫓加藤神社のお立ち台から



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