逆風に抗して Against the wind,♪ we are running against the wind.♪
ここではないどこかへ。モモンガーの旅
2018年に横浜から信州にUターン
自転車と日々の生活を
綴ります。
 



無理な荷重を掛けた所に、ホゾが緩くなっていて外れそうになり、折畳み椅子が歪み、その結果先端のピン部分の木材にヒビが入ってしまった。
そこで、割れた部分を接着剤で固定。


そして、木ネジ2本で補強する。


ホゾ加工の緩んだ所に木工ボンドを塗り、クランプで固定して固まるのを待つ。


私の右腕の骨折場所と同じような手術になったが、上手く直ってくれると嬉しい。



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10/17(水)~10/18(木)

骨折顛末記も今回で一応終了。18日に退院し、自宅に帰ってきた。

振り返ってみれば、良い医師、看護士、療法士に恵まれ、医師の予告通り2ヶ月余りで
退院の日を迎えることができた。
直るかどうか、トレーニングにも関らず、なかなか痛みが引かない、後遺症が残るのでは
ないか、、、、、 色々な不安、不満を受け止め、サポートしていただいた2つの病院のス
タッフには、どんなに感謝してもしきれない。

また、お見舞いに来てくれた、友人、同僚、親戚そして、ほぼ毎日、1時間以上をかけて、
かよってくれた妻にどんなに支えられたことか。

この怪我で、収穫があったとすれば、少しは人間が丸くなったこと、我慢強くなったこと、
あらゆることに感謝の気落ちをもてるようになったことだろうか。

この気持ちをづっと持ち続けるように、事故の記憶、闘病のことを忘れないようにしよう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

事故から数年後の今は、手は100%回復、足と骨盤も95%回復し、自転車150km、散歩20kmをこなせる様になったのは自分でも驚いている。支えてくれたすべての人への感謝と、こんな幸運はなかなかないとおもっている。



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10/13(土)~10/16(火)

週末、外泊許可が下りたので、松葉杖生活3日目なれど、2ヶ月に及ぶ病院生活を切り上
げ、通勤の演習も兼ねて、京浜東北線と横浜線は電車で家に帰ることにした。

病院ともしばしのお別れ


駅まではタクシーで移動したのだが、その後は松葉杖で歩く。駅のエレベーターとエスカレ
は予習通り乗りこなせた。しかし乗車した京浜東北線は、週末にも関らず、予想外の
混雑。席を譲ってくれる人はおろか、乗車口付近のパイプに寄り掛かることされ、人をかき
分けてようやくだ。何事も無かったように、電車は大井町~大森~蒲田~川崎と進んでいく。

足2本と松葉杖2本で電車の中で立っているのは、大きな試練であった。
重力に抗して立っていることが、こんなに困難だとは予想もしなかった。
「直立原人は偉大だ。」
「人間は社会的動物だ、優先席の前で松葉杖の人が居れば席をゆずるだろう。」
「弱肉強食の世界なら、私のような怪我をした生物は確実に死を迎える。」
色んな思いが頭の中を駆け巡る。

優先席前でも、結局だれも60過ぎの松葉杖使いに席を譲ってくれなかった。
ようやく川崎で何人かの人が降り、座ることが出来た!。
 
教訓:電車の中で弱者を見つけたら、恥ずかしがらず、声を出して、席を譲ろう。



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10/6(土)~10/12(金)

8/15の骨盤寛骨臼蓋の手術から8週間、ようやく、右足20kgの呪縛が解ける時が来た。
今まで、右足に荷重を掛けられなかったので、移動手段はサークル歩行器=乳幼児並の
行動範囲(段差、階段なしの、ひたすら平らな所+エレベーター)であった。

それが、10/10(水)から40kg荷重までOK=右足の両側に松葉杖があれば、歩行許可
となった。

この日に備える為、右手首の骨折部分のストレッチ/筋トレ=無理やり曲げる「拷問」にも
耐えてきた。細くなった右足の各種の筋肉の筋トレにも励んできた。

だがしかし、現実は甘くなかった。サークル歩行器では数km連続で歩けたのに、初日に
松葉杖で歩けたのは、連続では500mが限度。腕も、右足も痛くなり、休み休みで歩き
積算でも合計2km歩いたのみ。

しかも翌日は全身筋肉痛でヨレヨレ。
しかし、これで幼児並から脱却、大人の世界入りも間近だ。



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10/2(火)~10/5(金)

東京に転院してきてから、早一ヶ月。毎日2時間の病院指導のリハビリと、それをなぞった
形の自主リハビリ2時間+病院の廊下を歩行器と伴にひたすら歩くことをモクモクとこなし
てきた。

自主リハビリはゴムバンド(自転車の荷台用!)で結んだ両足を開いてみたり、


逆に、両足の間に入れた百均のボールを潰してみたり。


他の整形外科の入院患者が、次々と松葉杖歩行に移行したり、退院していく中、当方は右
足荷重20kg制限が1ヶ月あまり続き、遅々とした進行状態に、あせりが募っていくのであっ
た。しかも右手の骨折のため、手に荷重をかけることもママならず、松葉杖の訓練にさえた
どりつけていなかった。

しかし、今日ようやく、右手の握力が正常な左手を越えた!

手で支えることなく、静止状態の右足25kg、左足40kg程度の荷重負担で、5分間立って
いることができた!

なにか、トンネルの先の出口からの光が見えた気がする今日この頃である。


となると、入院中に考えていた、懸案処理=4月のイタリア旅行の記事完成を急がねば。



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9/29(土)~10/1(月)

今週土曜日は診察/リハビリ無し日なるも真面目に自主トレーニングをやった。
しかしながらやせ細った筋肉と、無理やりストレッチした関節/筋(スジ)が一週間の疲労蓄積
で悲鳴を上げている。

台風も近づいていることだし(理由に為らないか?)と日曜日は一日のんべんだらりとして過
ごした。

当然、朝早く目覚める訳で、病院の金網入りガラスの向こう、台風一過の西の空に、中秋
の名月を拝めるチャンスに恵まれた。


10分も中秋の名月に見とれていただろうか? 朝が次第にあけて行き、目を移せば、
丹沢山塊の雲の向こうに富士山が


振り返れば、今、昇ったばかりの太陽からの曙光が、病棟の廊下に溢れかえっていた。


10月/下期も始まり、会社・生活復帰が為るか??
焦らず、頑張りすぎずに、着々とリハビリに取り組むしか無いのは解かるのだが、、、、



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骨折顛末記も、病院で書いている本人は勿論の事、読んでいる人も厭きただろう。

シルクロード雑学大学の第二陣が今週初めから、ザグレブ~ローマを自転車で走っている。

入院中のヒマに任せて、サイクリングマップの作成を請け負った。予定表を見ると、全ルー
トを走ろうと計画した第一陣と趣きを変え、第二陣はおいしい所だけをつまみ食いして走ろ
うという、実にすばらしい下図のような計画だ。

( 下図のダブルクリックで、ルートの載ったグーグルマップへリンク )



予定では今日辺りは、山からアドリア海に出て、海岸沿いを走っているはずだ。

ストリートビューでルートをなぞってみると、真鶴道路の旧道をヨーロッパに持っていって、
風景を明るくし、左にアドリア海の青を眺めながら走るようなコースみたいだ。




しかも、ストリートビューに結構な数の自転車が映っている。
海を見ながら、こんな道路を走ったら、「自転車最高!」だろうな。 あ~ぁ、うらやましい。






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9/24(月)~9/28(金)
中毒になるのがいやで4週目辺りで、毎日3回飲んでいる鎮痛薬ロキソニンと胃腸薬タケ
プロンを止めて見た。しかし、痛みが我慢できず、ロキソニン/タケプロンを飲み続けてい
たのだが、先週からあまり丈夫でない私の胃が、ロキソニンに負けて、ボロボロになり、食
事を1/3残す事態となってしまった。

6週目ともなり、痛みが何とか我慢できるレベルとなったので、ロキソニン依存から脱却し
たら、胃もなんとか状態が良くなってきた。

これで、ようやくリハビリに集中できるようになった。リハビリ途中で窓を覗くと、裏ヤビツの向こうに富士山が見える。あそこを走れるのは、いったい、いつになるだろう。


手術から6週目ということで、もうそろそろ右足20kg荷重の制限を拡大し、松葉杖歩行を
許可していただけないか?主治医にお願いした所、「CTとX線の結果を見てから」という
ことになり、9/27にCTを撮影、その結果に期待が高まった。

だがしかし、所見はやはり、「骨の位置ズレ、異常は見つからず、順調。されど、骨の一体
化はまだ不完全で、荷重の増加は時期尚早。」となってしまった。



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9/9(日)~9/23(日)

手術をした病院でリハビリを受けるのが理想的ではあるのだが、横浜での生活もあり、術後
3週間で帰京/転院することとした。

当初、怪我の種類(自宅とは言え、剪定作業中の梯子からの落下だから、擬似労災ジャン)
や怪我の重大さから、自宅近くの新横浜の労災病院辺りに転院できるのではと、楽観視し
ていたが、「当院は急性期対応の病院であり、自分の所で手術しなかった患者のお世話
はできません。」との冷たいお返事。

近所を調べると、大きなリハビリ専門病院が2年前に開業しているのだが、推測するに、多
分リハビリ専門病院≒病後老人の機能回復訓練病院のような気もして、触手が動かない。

いろいろ考えた末、東芝病院に連絡を取ってみた。最初の反応はやはり急性期対応の病院
で、、、、、であったが、従業員であることと、こちらの窮状を話したところ、受け入れてくれる
ことになった。

入院してみてから判ったのだが、従業員関連の入院はほんの数分の一、基本的に地域の
中核病院だ。一方、整形外科部門は会社がラグビー、野球、バスケ、、、の実業団を抱え
ているので、スポーツ整形専門ドクターがおり、スポーツで手足を受傷した若い男女が色
んな所から集まってくる。私の病室でも看護婦に人気の現役ラグビー選手、筑波大の柔道
選手、某Canonのバトミントン愛好家、近所のご老人、それに私と整形外科にしては平均年
齢が若いのだ。

また、担当のセラピストが固定されており回復度と体力を考慮して、リハビリに当たってく
れるので安心できる。私の場合、手のセラピストが1時間、足のセラピストが1時間、みっ
ちりと運動指導をしてくれる。

ただ、スポーツ外傷系の若者が、急速に回復していくのに、こちらのリハビリの進歩が遅々
としているのにはまいってしまう。 まあ、60台後半以降の転んで骨折系の方よりは進歩
しているとは思うのだが、、、、

さて、病室の直ぐ下に見える、京浜東北線で通勤できるようになるのは、いったい何時の
のことになるやら。



数年後のコメント: 結果としてここでの痛い、痛いリハビリが大正解であった。1年後こそ右手の方が握力が低かったが、手の中のチタンプレートを外した後の2年後には、右手の機能は完全復活、痛みなども全くない。足のほうも、さすがに自転車で150km走ると、少し鈍い痛みが出たり、季節の変わり目に痛みは出るが、日常生活、スポーツにまったく不自由を感じていない。感謝感激である。



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9/2(日)
入眠剤を9時に、痛み止めの座薬を1時に使って、昨晩は久しぶりに充分眠ることが出
来た。この為、昼間もあまり痛みに悩まされること無く、リハビリに励むことができた。た
だ、坐骨神経の上の梨状筋が張っているのは相変わらずで、時折、ピッリとくる電気
ショックのような痛みを感ずることがあるが、鎮痛剤が効いているせいか、平穏に過ご
せる。

手、足とも、かなりの時間のリハビリを行い、少し汗をかいた。この調子で今日も眠れる
と良いのだが。 

9/3(月)
痛みも大分弱まり?寝ている時以外はあまり意識に上ってこなくなった。

右足20kg負荷での練習、両足で立ち、体重の半分近くを右足と右手に掛ける練習を1時
間近く練習しただろうか?だが、まだ右足は自由にならない、特に前後左右に足を振った
り、足を曲げるのは可能だが、足を足軸に沿って回転する(外転、内転)動作が自由にで
きない。骨盤の手術に伴い、この辺りの筋肉を切開しているせいだろうか?

転院先の東芝病院および職場に電話連絡し、9/5の転院を確認した。 
転院が確定したので、映画「神様のカルテ」で印象的だった、病院の屋上からの北アルプス
の展望を見ようと幾つもの段差を乗り越えて、屋上にでてみた。

残念ながら、北アルプスの展望は他のビルとヘリポートに阻まれ、全く見えない。実は映画
のあのシーンのロケは別の病院なのだそうだ。

しかしながら、僅かに開けた東側の視界に美ヶ原が横たわっている。これもなつかしい故郷
の風景だ。

 

9/5(水)
朝3時半、携帯の目覚ましで目覚め、相澤病院を4時少し前にタクシーで出発。ところが、
4階病棟から車椅子で運ばれる時、ズボンのポケットから携帯電話が零れ落ちていた。
幸い、2kmも走らない内に気がつき、病院にUターン。時間はかかったものの、無事洗馬
の家で待つ、義母と奥さんに合流。奥さんの運転で予定通り5時少し前に家を出発した。

甲府昭和、談合坂SAで車椅子を借り、トイレ、食事休憩。その後、高尾口で高速を降り、
16号を走ったのだが、やはり昼間は渋滞が激しい。予想通り、横浜の自宅には10時にし
か着けなかった。義母を降ろし、食事の体制などを整え、45分休憩、再びタクシーで東芝
病院に予定通りの12時前に到着したのであった。

病院では今までの経過を聞かれ、簡単に診察を受けて、この日の診療は終了、長い一日
はようやく終えたのであった。

 
9/6(木)
昨日の転院後、血液検査、手足の可動範囲の確認、X線、、、、と検査を行い一日が過ぎ
ていった。この間、あまり手足を動かさなかったせいか、夜分に臀部と足が痛み七転八倒、
ずっとこの痛みが続くのではという不安が頭から離れない、眠れぬ夜を過ごすことになる。

 
9/7(金)
リハビリのセラピストの指導でしっかり、2時間半のリハビリを行う。体が楽になった感じ。


9/8(土)
東芝病院は土日は休み、隔週で土曜日も開ける体制なので、今日はリハビリなし。

 



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--このエントリーはようやく落ち着いた1ヶ月後に、当時の日付で書いている--

8/26(日)
睡眠薬で無理やり眠るも、夜半の激痛で目が覚め、眠れぬ夜を過ごす。
早朝、痛みを紛らわす為にあてもなく病棟を車椅子でぶらついていたら、西方に常念岳と
その左に槍ヶ岳の穂先が覗いている。

早朝の西山(北アルプス)を見るのは多分そう、40数年振り。

松本で育ったものの、信州の帰省先、塩尻の妻の実家の辺りは、もう木曾谷の入口で、
北アルプスは見えない。こうして雄大な常念岳と、実はそれよりもっと高い槍ヶ岳を見ると、

「あ~ぁ、故郷の風景だ。」と思うのだ

8/27(月)
色々と調整することはあったが、9/5に相澤病院から東芝病院に転院することが決まった。
これで一安心。
 

8/28(火)
体調コントロール失敗。夜半よりずっと、足が痛い。

 
8/29(水)
相変わらず、右足の痛みが酷く、鎮痛剤が切れた時間が辛い。

看護士は、もう手術跡は融合しており、手術の痛みは無いはず。リハビリのやり過ぎの筋
肉痛か、もみ返しの痛みのはずと言うのだが、、、、、

2日ぶりに、シャワーを浴び、リフレッシュ。手術後2週間経ったので、レントゲンの再撮影、
そして、右足に20kgの負荷を掛ける練習をした。20kg負荷では足に痛み無し。でも
20kgって、片足そのものの重量程度なので、単にポジションコントロールができるだけ
で、歩くことは無論出来ないばかりか、松葉杖での歩行も恐怖感があり出来ない。
(松葉杖は脇の下で体重を支えるのでなく、手で体重を支える、したがって私の場合、
右手では使えない。)


8/30(木)
レントゲン撮影の結果、順調に回復しつつあるとの朗報にも関らず最悪の一日になった。
朝から右足が痛み、しかも攣る感じだ。妻が10時に身の回りの世話をしに来てくれている
のだが、会話が成り立たない。ただひたすら痛く、七転八倒、臀部を揉んでもらう。リハビリ
の治療師からは、坐骨神経が臀部の凝っている梨状筋などと干渉して、炎症を起こしてい
るのでは?ということで、臀部の凝っている筋肉を中心に揉み解してもらった。マッサージ
後はしばらく調子がよかったものの、夜半から激痛となり、痛み止め座薬、催眠導入剤と
試したが眠れず、最終的に睡眠剤を筋肉注射して、夜半に昏睡するように眠りにつき、
翌朝6時に目が覚めたのであった。

 

8/31(金)
昨日の続きとなるのを恐れ、ベッドの上でひたすら謹慎し、リハビリと時々のコーヒーブレ
イクのみにとどめた。午後より痛みもほぼ止まり、以前の状態、つまり微痛はあるものの、
我慢できる程度であり、本も読めるようになった。

思うに、ここ2~3日、足の痛みを紛らわすため、逆療法で右足のストレッチをしすぎたの
が激痛の原因であったかもしれない。主治医の鈴木医師の説明では、右足の攣るような
感覚は実際に攣るのではなく、坐骨神経の圧迫によってよく起こるようだ。右足をストレッ
チする→坐骨神経が引き伸ばされる→炎症の可能性がありそう。

骨折入院→肺栓塞→死亡という実例があると友人から知らされ、昨日脱いだ、エコノミー
症候群防止の圧縮ストッキングを今日は履いて寝ることにする。

 
9/1(土)
昨日昼間、運動などを自粛していたにも関らず、夜半過ぎにやはり痛みはやってきた。
入眠剤をお願いするも、夜12時以降は明朝への影響を考慮して、入眠剤は出せないと
のおおせ。そうなら、早くナースコールをしたのに、との後悔もむなしく、眠れない夜を過
ごしたのであった。昼は昨日の続きで、痛みレベル1~2/5と、まあ何とか意識を集中
できるレベル。午後レベル1に落ち着いたので、読書ができた。今日は座薬と入眠剤を
事前入手したので、何とか眠れるだろう。



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--このエントリーはようやく落ち着いた1ヶ月後に、当時の日付で書いている--

8/21(火)~8/23(木)
4人部屋やら2人部屋に移ったせいか、それともリハビリのマッサージが効いているのか、
夜半の痛みにあまり悩まされること無く、手持ちぶさたとなる。

病院内の図書館で毎日2冊づつの本が借りられるので、久しぶりに、本当に久しぶりに、
毎日2冊ペースで読書三昧となる。



長野県は佐久総合病院、とか、諏訪中央病院とか、地域で作った病院に、全共闘の残党
が流れ着き、優秀な病院に生まれ変わらせた歴史があり、今井澄さんや、鎌田實さん、
南木佳士さんの本や終末医療に関る本、人生観に関する本などもおいてある。

あ、それから、もちろん、この病院で働いていた経験を小説にした「神様のカルテ」シリーズ
も読了。 

8/24(金)
手の手術からも一週間がすぎ、経過も良いのでリハビリが本格化した。ところが、体調の方は降下の一途。夜半足が痛くて、眠れなくなる。 鎮痛剤が毎食後で、18時半の夕食時に飲む鎮痛剤が夜半に切れるのがいけないのだろうと、鎮痛剤を21時に飲んだのだが、やはり、夜中は七転八倒、結局座薬のお世話になった。

8/25(土)
事故後初めてシャワーを使わせてもらう。シャワーに入ろうとパジャマのズボンを下ろして、
気がついた。左足と比べ右足がぐんと細くなっている。触ってみると、筋肉も右足はポチャポ
チャで筋肉と言う感じが無い。たった10日足らずで、こんなに筋肉が落ちるものか。

筋力トレーニングをするべきだろうが、右足に荷重は掛けられない、しかもお尻の後ろで
筋肉を切られているので自分の思う方向に右足を動かせない。



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--このエントリーはようやく落ち着いた1ヶ月後に、当時の日付で書いている--

8/18(土)

大人数部屋では一番広い2人1部屋を一人で独占して快適に点滴を受けながら快眠。
予定通り、塩尻の家に一家であそびに来てくれていた義姉一家のお見舞いも余裕でこなすことが出来た。

 
8/19(日)

手術後は神奈川/東京エリアの病院への転院をお願いしてあったせいか?それとも比較
的元気で、少なくとも老人ではないせいなのか、4人部屋に移され、点滴も終わってしまっ
た。
鎮痛剤は飲み薬=ロキソニンのみ。ところが、夜半に鎮痛剤が切れて七転八倒、座薬
(ボルタレン)を入れたり、沈静剤を飲むも、眠れない夜を過ごす事となった。

 
8/20(月)

手や足の関節が固まらないように、手のリハビリを本格的に開始。リハビリは痛いの一語
に尽きる。
さらに、夜半になると、夕食時飲んだロキソニンが切れ、持続的痛みが襲ってきて、また眠
れない夜を過ごすことになった。4人部屋だと七転八倒している音や、車椅子で起きるた
びにトイレに行くのも迷惑なので、病院にお願いして、明日から前よりは少し狭いが二人
部屋に移してもらえることになった。

 



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--このエントリーはようやく落ち着いた1ヶ月後に、当時の日付で書いている--

さて、足の手術はおわったものの、まだ右手首、関節の手術の手術が残っている。

下のCTの3D画像で解る様に、この骨折も良く見られる骨の真ん中、細い部分での
骨折と異なり、関節に近い太い部分の骨が剪断し、しかも2つに割れ、骨片は横に
ずれている。(医学用語的には橈骨遠位端の複雑な骨折と言うらしい)

そこで、今回の手術は若い主治医ではなく、彼の上司の手の手術のスペシャリストが行う
のだそうだ。手術前、尿管を取り外されていたので、小水が出ず、まあ予定1時間半の手術
だから我慢できるだろうとトイレをスキップしたのが間違いであった。

今回は右腕のみの部分麻酔で行われ。手と顔の間はカーテンで仕切られており直接視認は
出来ないが、手術室壁のモニター画面と、耳によって手術の進行具合が逐一わかるのである。

手術前、今日の手術は手の手術の専門家がやるので、心配ないとは言われたものの、足の
時と異なり、進行具合が判るだけに、尿意もあいまってはらはらする。

しかも、手術が始まると、骨片が小さく、難しいらしく、執刀医がしきりに、「どうしようかな?」と
何回もつぶやく。工具やピンのサイズをあれこれ変えたり、螺子山を潰してしまったボルトを取り
替えたりしながら、結局予定時間の倍以上、3時間半の長丁場の手術が終わったのであった。
(病院、執刀医の名誉のために言っておくと、手術後の状況は非常に良い)

しかし、全身麻酔の足の手術の数倍ハラハラする展開で、わが身に何が行われているか、
「見るべきか、見ないべきか。」それが問題の一日であった。

で、こんなチタンプレートとネジによって、私の右手は修復された。



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--このエントリーはようやく落ち着いた1ヶ月後に、当時の日付で書いている--

大手術から一日たち、麻酔からは醒めたものの、生理食塩水、抗生物質、消炎剤、鎮痛剤
などを点滴され、尿管も繋がれているので、ベッドから離れることは出来ない。しかし、毎時
定量滴下される鎮痛剤=麻薬のおかげで、300mmを切開する大手術というのに、あまり
痛みは感じない。

事故後ずっと風呂に入って居ないので、若い看護婦さんに、全身裸にされ、体を拭って貰
う。行った経験はないが、何かソープ×ン× にでも行ったような気分だ。

さらに麻薬のおかげて、短い睡眠の間に、色々な、どちらかというと幸せな短い夢を幾つも
見られる。

これなら、入院も良いかも? なんて思ったが、先に塗炭の苦しみが待っていようとは、この
時は知る由も無かったのであった。



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