しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

道③江戸時代の道(商品の道)

2023年06月27日 | 江戸~明治

茂平の新田である吉原は江戸時代、綿花畑がひろがっていたに違いない。
綿花は塩と米と並び、瀬戸内地方の代表品で「備中三白(びっちゅうさんぱく)」とも呼ばれていた。
明治中期に輸入綿花が入り衰退していったが、
農家にとっては換金作物であり、自給の糸・布・着物に必要な生活必需品を兼ねていた。

 

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「福山市引野町誌」 福山市引野町誌編纂委員会  ぎょうせい  昭和61年発行

「干鰯」
西廻り航路(北前船)に依って干鰯が盛んに入荷し、帰り荷には塩や古手を積んで帰る
(干鰯が入荷するまでは人糞尿、厩肥(きゅうひ)、山草などが重要な肥料元となっていたが、干鰯が入るようになると、米、木綿、たばこなどの生産力が飛躍的に上昇した)。
こうなってくると農産物自身の生産量が増加してくるし、その流通量が増加してくる。 

江戸時代から明治にかけての購入肥料は、
北海道のにしんの絞りかす、豊後いわしの絞りかす、伊予・伯耆のさわらかすの魚肥(干鰯)や
大豆かすが使われた。
しかし施肥量の主体は堆厩肥、緑肥、しば、草、木炭、人糞尿の自給肥料で、
寛政の頃かなり購入がはじまった。

明治後期から大正に入り、
魚肥は桃、葡萄などの果樹に適していることから、
稲には代わって大豆かすが重用され、また硫安、過燐酸石灰などの化学肥料が漸次浸透してきた。

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(広島県福山市鞆港 2021年10月2日 )

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「吉備路と山陽道」  土井・定兼共著 吉川弘文館 2004年発行

玉島港
玉島港が栄えたもっとも大きな理由は、
玉島周辺農村の綿作の展開である。
綿作の肥料である干鰯・油粕を販売し、
農村からは実綿(みわた)・繰綿(くりわた)を集荷して出港した。

笠岡港
笠岡は中世から海運業が盛んで、寛文11年(1671)には村内に胡町・仁王堂町など15の町が出来ていた。


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(岡山県倉敷市玉島港 2022年4月1日 )

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「江戸時代の瀬戸内海交通」  倉地克直 山川弘文館  2021年発行


塩の輸送
製塩には大量の薪が使用される。
これを塩木(しおぎ)という。
塩も塩木も輸送された。

海産物
鯛が最も多く、次いで蛸。
生物・塩物ともに大坂へ運ばれており、
大坂で商品価値の高いモノであったことがわかる。
その他に、
あわび・はまぐり・あかう・ちぬ・鰆・鰯・鯖・えそ・アミなどがみえる。

生魚を運ぶ生け簀付きの生船(いけぶね)による輸送が多い。

瀬戸内海の各地から大坂へ干鰯を運ぶ例が多い。
干鰯は急速に普及する金肥の代表格。
すでに近畿で商品作物の栽培が盛んになり、需要が高まっていたことがうかがえる。

材木・薪・炭
材木は土佐・伊予から大坂まで運ばれた。
割木・松葉
安芸・讃岐・土佐から大坂・江戸に運ばれた。
割木のうち、「塩木」は赤穂などに運ばれた。

周防・安芸・備前・伊予から大坂へ運ばれた。


農産物
灯火油の原料となる(種子・菜種)、
同じく灯火油の原料となる綿実(わたざね)が、大坂に運ばれた。
畳表・上敷・筵など備中から大坂へ移出されている。
たばこ、酒は相互流通した。
栗・こんにゃく玉・ゴボウ・大根・ねぶかなどもあった。


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(岡山県倉敷市下津井港   2019.4.6 )

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「せとうち産業風土記」  山陽新聞社  昭和52年発行

花形「北前船」


寛文12年(1672)日本海から下関に入り大坂に至る「西回り航路」が開発されると、
尾道、鞆、玉島、下津井、三蟠、牛窓などの各港は一段と活気を帯びて来た。

その年の秋口、瀬戸内海の島々に巨大な白帆を見え隠れさせながら、
千石船の一団が下津井港を目指して船足を速めていた。
「うわーっ、来たぞ」。
岸壁で出迎える港問屋、倉庫業者、はては髪結いから小間物屋まで、
港中が色めき立った。

北海道の松前、小樽を40~50日前に出発した「北前船」が初めてやってきたのだ。
「瀬戸内海沿岸部は干拓の歴史そのものでもる。
新田には有効な有機肥料が喉から手の出るほど欲しかった」。

北前船が運んできた干鰯、羽ニシン、ニシンしめかすなどが人気を集め、
江戸後期、下津井港では北前問屋が24~25軒も並んでいたという。
また、高瀬舟の終着港、玉島港では、港問屋が43軒と繁栄をきわめ、
繰綿、実綿、米が売り出され、
干鰯、茶、塩魚、菜種などが買い入れられた。

北前船の出港地は北陸地方で、
帰り荷に当時商品価値の高かった瀬戸内海産の塩を積んで帰った。
北前船は別名「塩廻船」とも言われた。

北前船は一枚帆の「大和型」から、明治に入ると「西洋型帆船」まで登場したが、
日本海が日露戦争の舞台になったのと、
北海道ニシンの不漁、
鉄道の発達などで
明治中期には姿を消してしまった。

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(広島県呉市倉橋島・鹿老渡港 2013年1月15日 )


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「瀬戸内諸島と海の道」編者・山口撤 吉川弘文館 2001年発行

西廻り航路の発達

「沖乗り」をおこなうようになった背景には海上輸送量の飛躍的増大があった。
幕府や大名の財政は、年貢米を大坂や江戸に運んで売却することで成り立っていた。
酒田から下関をまわって大坂・江戸を結ぶ西廻り航路が整備され、これ以後
西国だけでなく東北・北陸地域からも続々と年貢米を積んだ廻船が瀬戸内海にやってくるようになる。
やがて年貢米だけでなく各地のさまざまな特産品も大坂に集まり、大坂から桧垣廻船や樽廻船で江戸に回送されるという構造ができあがっていく。
塩飽の廻船は幕府御用船として寛文から元禄にかけて栄えた、のち特権的地位を失った。
年貢米に代表される領主的流通が中心とされるが、後期には広範な商品生産の展開を背景とした商品流通のうねりが押し寄せてくる。
たとえば、畿内・瀬戸内地域にひろがる綿作地帯では大量の魚肥を必要とし、従来の干鰯(ほしか)のほかに北海道産ニシンの〆粕(しめかす)などが求められた。

初夏、あるいは秋に蝦夷地の産物を積んで西廻り航路を瀬戸内海にやってきた北前船は、船頭の裁量で積み荷の米・ニシン・数の子・〆粕・昆布などを各地で売却し、大坂でひと冬越したのち翌年春には、大坂周辺あるいは瀬戸内各地の塩・砂糖・紙・木綿・古手・甘藷などの産物を積んで北国に向かう。
また大坂・瀬戸内各所の廻船も北国・蝦夷地とを結ぶ交易に進出していく。
九州・中四国と大坂を結ぶ廻船もいっそう盛んに往来した。
 

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「港の日本史」  吉田秀樹  祥伝社 2018年発行

北前船

東廻り航路と西廻り航路で使用された主要な船舶は、
船の型からもっぱら「弁財船」(べざいせん)と呼ばれ、
東北・北陸ではこの呼称が多く使われた。
ただ大坂や瀬戸内の商人の間では「北前船」と呼ばれる。

とくに大型の「千石船」は、全長80尺(24m)、船体の幅30尺(9m)、
帆の横幅は63尺(19m)、積載量は1000石(約150トン)、
船員は15人ほどであった。

北前船は時代が進むにつれて輸送量の拡大や操船技術の向上によって大型化が進み、
最大級のものでは積載量が2400石(約360トン)もあったという。

航行速度は、潮流や風向きが理想的な海域では3~4ノット(時速5.6~7.4km)、
最大6ノット(時速約11.1km)ほどであった。

廻船業者は「一航海千両」といわれるほどの巨利を得ていた。

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1 コメント

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北前船 (killy)
2023-06-27 12:55:05
30年以上前、岡山県立博物館では北前船の寄港地にある神社(下津井など)に寄進された石造物(標柱、燈籠など)の寄進者の末裔の方を探していました。

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