第9話/小石の虫たち

2006-11-08 09:50:45 | Weblog

世田谷時代の仕事場に飾っていた小石に描いた絵

 我が家の子どもたちが幼稚園に通っていた1970年代は、今と違って子どもの数が多く幼稚園、保育園の数が足りない時代だったから、幼稚園も強気の商売?をしていて、月謝の他にあまり必要の無さそうなものもいろいろ買わされるという時代のことだった
 そのうちのひとつとして、新劇の傍役として出演する園児の母親が、ノルマでさばかねばならない公演の切符を幼稚園に持ち込み、マージンさえ稼げるなら何でも売る幼稚園から、この切符を一家庭2枚ずつ割り当てられ、核家族の時代に、子どもを置いてどうやって夜の公演を見に行けるのかと思いつつも、不満があれば幼稚園を辞めてもらっても構いませんよという雰囲気の中で、明らかに無駄にするしかない切符を作り笑顔で買わねばならないこともあった。

 やがて息子は幼稚園を卒園したが、そのまま幼稚園が経営する日曜日のお絵かき教室に通い始めた。
 お絵かき教室から戻ってきた息子の絵を見ると、ペンギンや魚の絵を上手に描いている。
 ちょっと疑問を感じて女房に尋ねてみると、そこではマル描いてチョン式に絵かき歌にあわせた絵の描き方を教えているらしい。
 これは絵の指導ではなく、一定の時間子どもを預かるだけのただの子守りだ。
 また幼い子どもの絵の指導は上手な形を描かせることではなく、表現力を養うための指導だから絵かき歌に合わせ絵を描かせるのは弊害すらある。
 私が小学校の4~5年生の頃だったと思うから、1950年ころに小学校での絵の時間の指導法が変わり、それまでは写真のように上手に描いた絵がいい絵として評価されていたが、以後は絵の中にいかに自分らしさを表現するかという個性を重んじる方向に指導の基準が変わってきた。
 幼稚園が併設していた「お絵かき教室」ではそんな常識すら持ち合わせていない園長先生の身内という素人が指導をしていた。

 私の話は脱線が多いが、今日も余談を許してもらえば、書道の世界は絵の世界でいえば未だに1950年以前の教育がなされているようである。
 ある学習雑誌の夏休み作品コンクールの審査員をしていたときに感じたことだが、そのコンクールは課題作品部門とフリー部門があり、フリー部門は言ってみれば異種格闘技戦である。
 応募作品は絵画、イラスト、コミック、工作、そして小学生ながら高学年になると小説、詩、音楽(譜面と録音テープで応募してくる)などまったく分野の違った作品が送られて来るのを同一視点で評価をしなければならず、大変な作業だったが、私の評価の基準は技術的な完成度より分野が異なってもオリジナリティーの有無に重点を置いていた。
 そうした応募作品の中に、どう扱えばいいのか、あるいは評価に基準に達していないといえばいいのか判らない分野の作品が含まれていた。
 もちろん、どの分野の作品でも評価基準外の作品はあるが、書道として応募してくる作品の99%は評価の対象外のものばかりだった。
「下手」なのではない、どれも墨痕あざやかに上手な文字が書かれている。
「青い空 白い砂」「あつい夏」などなどの決り文句が全国から寄せられてくる。
 つまり子どもたちは<書道>ではなく<習字>を作品として送ってきてくれたのだった。
 習字だけのコンクールなら、単純にどれが一番上手に書けているかという審査をすればいいのだが、異種格闘技としての創作性を問われる場ではどんなに上手に書かれた習字でもその中では輝きようがない。
 これは子どもたちが悪いのではなく、子どもたちの指導者のせいだと思われる。
 習字を音楽の世界に置き換えてみると話がわかりやすいが、バイエルのピアノ練習をテープに納めて応募してくるようなもので、教則本通りにきれいな音を弾きこなしてくれても「ハイ!上手に弾けました、次に進んでもいいですよ」という程度で終わりということなのです。
 街の書道教室のセンセイ方自身が習字と書道の区別がついていないのかも知れない。
 私は子どもたちより書の指導者たちにこの事に気がついて欲しいと思っている。

 前に99%の応募作品と書いたのは、あながち言葉の綾(あや)として言ったのではなく、極めて少ない数だが「習字」ではなく「書」で応募してきた子どもがあったからである。
 一人はあまり上手な字ではなかったが「毒の花」という書で応募してきた子があった。
 その子は世の中の美しく見えている部分の裏側にあるものを覗いてしまったのか、あるいはもっと単純にトリカブト、ヒガンバナなどの有毒植物に興味があったのかわからないが、少なくとも毒の花と書いた子はお手本をまねただけではなく、<自分の言葉>を習字で<習った手法で表現>してくれていた。
 技術的な難点もあって入選には至らなかったが、私はこの「毒の花」に票を入れた。
 次の年の応募作品には、やはり書道での応募作品の中で飛びっきり完成度の高い作品が1点だけあった。
 完全に習字から抜け出して、小学生離れした筆づかい、文字の配置の気配りなど異種格闘技戦に文句なく耐えられる完成度で高い評価を得た子どもがいたが、その子はおそらく習字しか指導の出来ないセンセイではなく、墨と筆を使って自己表現を指導が出来る書道の師との出合いがあったのだろう。

 前置きと脱線話が長くなり過ぎたが、やっとここからが話の本筋になります。
 息子が通っていたお絵かき教室のお粗末なセンセイに預けておくわけにもいかず、あまり長くは続かなかったが、日曜日は我が家でお絵かき教室をすることになった。
 教室とはいっても絵の具の使い方や絵の描き方を教えるのではなく、ただ好き勝手に色を塗りたくらせておくだけで「わーきれい」「わーすごい」「わーおもしろい」などとはやし立てながら私も子どもの真似をして画用紙に色を塗りたくる。
 何かの形を上手に描かせることより、まず上手に描かなければいけないのでは・・・といった観念の解放から始め、花瓶の花、ぬいぐるみなどを描くようにしたが、もちろん形がうまく描けはしない。
 それでも「わーきれい」「わーすごい」の連発で、おだてるのではなく形が描けないからといって畏縮すること無く自己表現ができるように努めていた。
 そして、ある天気の良い日曜日に今日は外で絵を描こうということになり、電車に乗って多摩川まで出かけることにした。
 河原に出て、景色のいいところをさがしている間、息子は大きな石を持ってついてくる。
 私はてっきり椅子代わりにする石を確保しているのだろうと思っていたが、いよいよ絵を描く場所も決まって絵の具を取り出し、スケッチブックをひろげようとしたところ、1年生の息子はスケッチブックではなく今まで持ち歩いていた石に色を塗りはじめ、娘もそれをまねて同じように石に絵を描きはじめた。

 そうじゃあなくって・・・と私は言いかけて口をつぐんだ。
 私の仕事場には何の意味もないのだが、仕事に疲れたときに模様を描いて遊んでいた小石がある。
 息子はこの小石が印象に残っていたのだろう。
 私が対岸のスケッチを描いている間、二人の子どもたちは夢中で絵の具遊びをしていた。
 さぁ、そろそろうちへ帰ろうかという頃になって、息子は自分が色をぬった大きな石を持って帰ると言い出し、重いだろうにがんばって家まで持って帰ってきた。
 
 実をいうと、子どもたちが小石に色を塗っているのを見ながら、ふとしたアイデアが浮かび、それを試そうと私も形のいい小石を数個拾ってきていた。
 以前に石に落書きをしていたときは、どんな石でもその石の形に合わせた模様を描いていたが、河原の石の中には脚を付けたらバッタやテントウ虫になりそうな形のものがあった。
 家に帰ると、子どもたちが女房に今日の河原での遊びの報告をしている間に仕事場に入り、早速小指状の細長い小石にアクリル絵の具でバッタの絵を描き、針金の脚を付けてみるとなかなかリアルなバッタになった。

テントウムシとゴキブリは紛失してしまったが、30数年前に作ったバッタはまだこれだけ残っていた。

 しかし、あまりリアルなバッタではどこか面白味に欠ける。
 しかも石の全体に色を塗ってしまったのでは、素材が小石であったことがわからなくなってしまう。
 素材の味を殺してしまってはいけないことは、以前に殻つき落花生の人形を作ったときに体験している。
 シンプル・イズ・ベストだ。
 彩色部分を最小限に押さえ、石の地肌を残しもう一度作り直してみると、リアルなバッタより趣が出てきた。
 早速出来上ったバッタを女房に見せると、脚の針金は手芸材料店で売っているリボンフラワー用の緑色の紙が巻いてあるワイヤーを使った方がいいのではとアイデアの補足をしてくれた。
 後日その針金を使った脚をつけてみたら、小石の虫はより完成度の高いものになった。
 その後、子どもたちは外で遊んでいて、形のいい小石を見つけると拾ってきてくれるようになり虫の数はドンドン増えて行った。
「お父さん、これはゴキブリになりそうだよ」いたずらっぽい目を輝かせて、息子はだ円形の平たい石を持ってきて、それ以来バッタとテントウ虫の他にゴキブリも仲間になった。

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