お正月に名古屋の郊外にある私の姉の家に行って凧揚げをした年には、子どもたちにはもう一つの楽しみがあった。
今までは叔母さんから暮れに郵便で送ってもらっていたお年玉を今年は直接もらうことができる。
それだけでなく、近くに住む私の弟、妹の家などを回っていっぱいお年玉をもらおうという楽しみがあった。
ところで、お年玉の相場がやけに高くなったのは最近の事ではなく、わが子が小学校に入る前の1970年代には、もう小学生がもらうお年玉は数千円単位で、その合計は1万円を越えていた。
私はいくら年に一度のお年玉でも、自分で扱い方もわからないような金額のお金を持たせたくなかった。
仮に貯金をするにしても、後日欲しいものが出来たときに自分の貯金があるから何でも買えると思われても困る。
それより子ども自身が、自分の理解の範囲をこえる金額はただ<多い>という認識しか出来なくて、ありがたさも、うれしさも実感として味わえないだろう。
親をはじめ叔父さん、叔母さんなどからもらったお年玉を集めて、かねて念願だったものが手に入るという設定がお年玉の一番うれしいもらい方だろう。
私の兄弟たちに意図を話して、当時は千円くらいが相場だったお年玉の学を200~300円に落としてくれるように根回しをしたが、女房のお姉さんだけがどうしてもその話に乗ってくれず、私は説得をあきらめた。
こうして、名古屋の親戚でお年玉袋をいっぱいもらった大よろこびで東京に帰り、今度は女房の親戚からもお年玉をもらう。
その中のひとつにとびっきり大金の千円札の入ったお年玉袋があり、子どもたちは喜ぶというより初めは世田谷の叔母さんがくれたお年玉は間違いだと思ったらしい。
かくして、息子はかねてから欲しかってグローブにバットまで買うことが出来、娘も近所のお友だちが持っていて、うらやましかった卓上ピアノを買うことが出来て二人ともお年玉のうれしさを十分に味わってくれた。
そして、あとから僕の貯金があるはずだから、あれを買いたいこれを買いたいなどというもめごとのタネになりそうな子どもにとっての<自分のお金>が残らなくて良かったとおもっている。
この方式はあくる年まで続いたが、そのあとは世間の相場並みのお年玉が子どもたちの懐に入るようになってしまった。
自分でセーブ出来ない金額のお年玉を手にした子どもたちは、それなりに喜びはあったが「あと800円でグローブが買える」「あと300円で・・・」といったワクワクするような感動はもう味わえなくなってしまっていた。
ところで、お年玉をあげる立場としてはどうしたのかというと、当時の相場に見合った金額を包んでいた。
というのは、お年玉に限らず子育ての中で、わが子になるべく数多くのワクワク感動を与えて育てたいというのは私の個人的な希望で、お年玉もその一環に過ぎないわけだから、よその子どもたちにまで私のやり方を押し付ける気はない。
よその子への配慮はその親がすべきことで、私のすることではない。
そんなことがあって30年ほどが経ち、私は小学生になった孫たちにお年玉をあげる年令になって来た。
娘に電話をして孫のお金認識度を尋ねてみた。
大きなおもちゃは子どもの日やクリスマスに親が買って与えるから、子どもが自分のお小遣いで使う金額はまだ100円単位でしかないという。
そして、よそでもらうお年玉は私が預かっておくことにしているが、直接渡してくれるのならせいぜい500円までにして欲しいという。
孫にも600円で買いたいものがあるのだという。
私は、息子にも娘にも昔のお年玉ワクワク作戦の話を一度もしたことはない。
このブログでの公開で初めて当時の事情を知ることになるのだが、娘もまた自分の子どもに対しては金銭感覚をマヒさせてしまうようなお金を持たせたくないという親としての気持ちは同じだった。
2007年1月の中旬に、小学館が調査をしたデータとして、この年の小学生のお年玉の最高額は17万円、平均でも2万5千円というニュースが流れた。
今までは叔母さんから暮れに郵便で送ってもらっていたお年玉を今年は直接もらうことができる。
それだけでなく、近くに住む私の弟、妹の家などを回っていっぱいお年玉をもらおうという楽しみがあった。
ところで、お年玉の相場がやけに高くなったのは最近の事ではなく、わが子が小学校に入る前の1970年代には、もう小学生がもらうお年玉は数千円単位で、その合計は1万円を越えていた。
私はいくら年に一度のお年玉でも、自分で扱い方もわからないような金額のお金を持たせたくなかった。
仮に貯金をするにしても、後日欲しいものが出来たときに自分の貯金があるから何でも買えると思われても困る。
それより子ども自身が、自分の理解の範囲をこえる金額はただ<多い>という認識しか出来なくて、ありがたさも、うれしさも実感として味わえないだろう。
親をはじめ叔父さん、叔母さんなどからもらったお年玉を集めて、かねて念願だったものが手に入るという設定がお年玉の一番うれしいもらい方だろう。
私の兄弟たちに意図を話して、当時は千円くらいが相場だったお年玉の学を200~300円に落としてくれるように根回しをしたが、女房のお姉さんだけがどうしてもその話に乗ってくれず、私は説得をあきらめた。
こうして、名古屋の親戚でお年玉袋をいっぱいもらった大よろこびで東京に帰り、今度は女房の親戚からもお年玉をもらう。
その中のひとつにとびっきり大金の千円札の入ったお年玉袋があり、子どもたちは喜ぶというより初めは世田谷の叔母さんがくれたお年玉は間違いだと思ったらしい。
かくして、息子はかねてから欲しかってグローブにバットまで買うことが出来、娘も近所のお友だちが持っていて、うらやましかった卓上ピアノを買うことが出来て二人ともお年玉のうれしさを十分に味わってくれた。
そして、あとから僕の貯金があるはずだから、あれを買いたいこれを買いたいなどというもめごとのタネになりそうな子どもにとっての<自分のお金>が残らなくて良かったとおもっている。
この方式はあくる年まで続いたが、そのあとは世間の相場並みのお年玉が子どもたちの懐に入るようになってしまった。
自分でセーブ出来ない金額のお年玉を手にした子どもたちは、それなりに喜びはあったが「あと800円でグローブが買える」「あと300円で・・・」といったワクワクするような感動はもう味わえなくなってしまっていた。
ところで、お年玉をあげる立場としてはどうしたのかというと、当時の相場に見合った金額を包んでいた。
というのは、お年玉に限らず子育ての中で、わが子になるべく数多くのワクワク感動を与えて育てたいというのは私の個人的な希望で、お年玉もその一環に過ぎないわけだから、よその子どもたちにまで私のやり方を押し付ける気はない。
よその子への配慮はその親がすべきことで、私のすることではない。
そんなことがあって30年ほどが経ち、私は小学生になった孫たちにお年玉をあげる年令になって来た。
娘に電話をして孫のお金認識度を尋ねてみた。
大きなおもちゃは子どもの日やクリスマスに親が買って与えるから、子どもが自分のお小遣いで使う金額はまだ100円単位でしかないという。
そして、よそでもらうお年玉は私が預かっておくことにしているが、直接渡してくれるのならせいぜい500円までにして欲しいという。
孫にも600円で買いたいものがあるのだという。
私は、息子にも娘にも昔のお年玉ワクワク作戦の話を一度もしたことはない。
このブログでの公開で初めて当時の事情を知ることになるのだが、娘もまた自分の子どもに対しては金銭感覚をマヒさせてしまうようなお金を持たせたくないという親としての気持ちは同じだった。
2007年1月の中旬に、小学館が調査をしたデータとして、この年の小学生のお年玉の最高額は17万円、平均でも2万5千円というニュースが流れた。
人生の大先輩からのメッセージ勉強になりました。
小学生なのにそんな大金どうするのでしょうか?
うちも小学2年生の子供がいますが5千円や1万円などの大金をいただく事がありますが本人はあまりの金額にピンときてないようです。500円のお年玉の方が現実的でよい金額ですね。次女(2歳)はお年玉をふりかけだと思ってご飯にかけようとしてました。
お年玉をとおしてお金の大切さを学ばせたいです。