ひよこかいぎ

 HIYOKO-MEETING
 とあるひよっこのつぶやき
 脳内での、ひとり会議の様子

2010-09-02 | 考えたハナシ
新しいバイトを始めて、3週間くらいが経とうとしています。

学習塾ということで、
教育方針というか、指導理念というか、
そういうものを新人のうちは教え込まれるのだけど、

その中の一つに「夢を持つことの大切さ」なる言葉が登場していたのです。

私はこういう類の言葉を聞くと、
すごく暑苦しいものを感じると同時に、
「何か目標を持たなければいけない」というような強迫観念をすごく感じます。

先日の新人歓迎会でも、室長始め新人講師の一人も「夢」について話していて、
私はその様子を横目で見つつ、
「はいはい、アツいですね~。でも現実はそんなに甘くないよ~。」
と、いつものごとく斜に構えて聞いていました。

夢を持つこと、それに向かって努力すること。

それを否定する気は毛頭ないのだけれども、
誰しもが夢を叶えられるわけではないし、努力し続けられるわけでもない、と思う。

いろんな挫折を経験するし、怠惰に蝕まれるし、
そんな自分を後悔することもあるし、後悔してももう遅いってこともたくさんある。

その度に人は、諦めて、あるいは妥協して、「夢」を塗り替えていく。
より身近なものに、より達成可能なものに、より楽(そう)なものに。

人が夢を持つこと・叶えることは、そういうことの繰り返しなんだと思う。

思い描いていた「夢」、諦めもせず妥協もせず、当初抱いていた「夢」を叶えられる人は、ほんの一握りの人だと思う。
というか、もしかしたらそんな人はいないんじゃないかとも思う。

だから私は「夢は諦めなければ絶対叶うんだ!」という言葉が大嫌いだ。
それを言える人は、自分がある意味で特殊な人間であることをわかっていなければならないと思う。


だから、バイト先で「夢を持つことの大切さ」という言葉に触れた時、
いつものように拒否反応が出てしまった。(今も若干出てる。)


自分の人生をどう作っていくのかということを、
リアルに考えられるようになるのは一体いつからだろう。

少なくとも私は、24歳になるまでは自分の人生をリアルには感じられなかった。
そんな私だから、私がバイト先で関わり合う小中高生が、
自分の人生を自分自身で作っていかなければならない感覚を持っているとは思えない。
そういう年齢の子達に「夢を持つことの大切さ」を伝えても、響かないのではないか。

そんな風に思っている。
また、「夢を持つことの大切さ」という言葉が、
私が感じるような強迫観念を与えかねないことが私にとっては一番危惧するところだ。


しかしこんな風にも思う。

誰かから伝えられた言葉を、自分の実感として感じられるようになるには、時間差がある。
今になって「あの時のあの言葉はこういう意味だったのかな」と感じることはたくさんある。

自分自身を振り返ってみれば、
小中高生のときに、いろんな人にいろんなことを言われて、
その時はまったくわからなかったし反感さえ覚えたことも、
今になって、その言葉の意味を理解できるようになった。
(もちろんすべてを覚えているわけではないし、すべてに共感できるわけでもないけど。)

私は、誰かに自分の言葉を届けたいと思う反面、
誰かが自分の言葉に影響されてしまうことがすごく怖い。
自分の言葉に責任が持てない。

でも、人と人が関わり合ってしか生きていけない人間社会においては、
誰かの言葉に影響されることもたくさんあるし、まったく響かないこともあるし、反発することもあるし、
時間差で響くこともあるし、ぜんぜん覚えていないことだってある。

その時その時の取捨選択によって、自分の人生は形作られていって、
そうやって取捨選択したものをまた拾い集めたり選択しなおしたりしてまた形作っていく。

人生をそうゆうものだと考えたら、
「夢を持つことの大切さ」を伝えることに、そんなに否定的にならなくてもいいのかもしれない。

私は私なりに生きてきた人生があって、これから生きていく人生があって、
いろんな経験をして、いろいろと考えることがあって、いろんな価値観を持っていて、

その上で、自分なりに解釈した「夢を持つことの大切さ」を伝えればいいんだと思う。

それが誰かに響くか響かないか、反発されるか盲従されるか、それはわからない。

だけど、私だけしか経験しえない人生を経てきた「私」が思うことを伝えることは、
受け手にとって、これからの人生を生きていく上での数多ある価値観の一つとして触れられることになると思う。

「こんな風に考える人もいるんだよ」ってことを、なんとなくでも感じてくれればそれでいいんだと思う。
そういう風にしか、私は出来ない。

先日の新人歓迎会での室長の話や私にかけてくれた言葉を考えると、
室長は、上記のような、私の経験してきたことや考えることや価値観なんかをなんとなく感じ取って、
そこを評価して採用してくれたんじゃないかと思う。(すごい前向きに考えれば。)

たかだかバイトっちゃバイトだけど、
このバイトの経験は、これからの私の「夢」へ向かって、糧になるものだと思う。


だからがんばるぞー!!

とか、暑苦しいことは言えないけどw

私は私なりに、私の人生の一部として、このバイトを前向きに続けられたらいいかな、と思う。

わかもの

2010-08-26 | 考えたハナシ
卒論が(形式的には)終わって約半年。

無気力状態が続き、もう論文など書くものか!と思っていて、
研究や勉強には意識的に関わりを持とうとしていなかった。

しかし、小説を読んでもニュースを見ても漫画を読んでも、
なんとなくやっぱり、自分の研究に関連することが気になってしまい、

「こりゃ研究を続けるべきかな」と、また論文を書くことを決意。

自分たちで論文集を出そうと企画しており、そこに私も論文を出すことになりました。


とはいえ、論文集に載せるほどのモノを書ける気はさらさらしないのだがw

しかし、がんばることがだいじなのだ!!と自分を励まし、
なんとか二週間後の締め切りに向けて、構成を考えているところであります。

トピックは「若者」。

現代日本の若者について、
自分や周りの友だちや兄妹などもその一員であると考えて、
なんとなく感じる「閉そく感」「生きづらさ」「公共性のなさ」などが、
どのようなものなのか、どのように論じられているのか、
ということにずーーっと興味があって、それを書こうと思っています。

今回の論文は、現代日本の若者についての論争(2000年以降)という感じになりそうです。

前段階として一か月ほど前に合宿で発表したのは、
「現代日本の若者の社会状況について」ということで、
「若者」について論じている人が、彼らを取り巻く社会状況をどのように認識しているのかをまとめてみました(発表段階では未完だったのだけど)。

具体的には、
・現代日本は先進国で経済的に豊かである
・現代日本は経済不況である
・現代日本は消費社会/情報社会である
という3つの認識が論者によってあるのではないか、という話。

論者はそれぞれの認識から若者の問題を論じていますよーと。
(ニート・フリーター・ひきこもり・公共性・社会性・安定志向・いじめ・コミュニケーション能力などなど)

それがどうした!と言われればそれまでなのですが、
私にはとても関心のあることでして。

なぜかと言えば、
それぞれの論者が語る「若者」は、私自身もしくは私の周りの友人や妹であるから。

どの議論にも「これって自分のことだな」と思える部分があって、
そう言われるとそうだよな~と納得させられてしまう。


たとえば、消費社会を前提に語るある論者は、
現代の若者は食うに困ってバイトをするのではなく、物質的豊かさを満たすためにバイトをする、
というようなことを言うのだけど、まさにその通り!と思ったりする。

私が今バイトをしているのは、食うに困ってという側面が大いにあるのだけど、
高校時代とかは、欲しいものを買うため・遊びに行くためにバイトをしていた。

周りの友達でも、食うに困ってバイトをしている人はあまりいない。
どちらかと言えば「欲しいものを買うため」にバイトをしているような印象を受ける。


たとえば、経済的豊かさを前提に語るある論者は、
フリーターでも生きていけるし、親もニートやフリーターである子どもを養えるだけの余裕がある、
と言う。これも「たしかになぁ」と思う。

私は一応学生だけど、25歳にしてまだ親に食べさせてもらっているし、
周りにもそういう人は少なからずいる。
「もう養えないから自立しろ!」と親に言われた、という話は身近では聞いたことがない。


また、経済不況から若者を論じるある論者は、
不況で就職口がなくフリーターになるしかない若者がたくさんいることを問題視する。
2010年3月に卒業した大卒の就職率が6割だったことを考えると、この議論もうなずける。


こんな風に、自分を含めた同世代の若者が語られていることをまとめてみると、
そのどれもが的を射ていて、でも個人の状況はそれぞれ人によって違うとも思う。
だからどうしたらいいのかわからなくなる。


当初は、現代日本の若者の公共性や社会性の衰退について書こうと思っていて、
その全段階として、若者についての議論を上に書いたようにまとめたのだけど、
どうにも自分の思っていたような方向に議論をもっていけない。


うーむ、どうしたものか。。。

と思っていて、合宿でそのように報告したのだけど、
いろいろとコメントをもらって、気付いたこと。

そもそも、若者が「生きづらい」とかいう前提がちょっと違うのではないか、と。
日々楽しんで生きている若者もいるのではないかと。

そのようなコメントをもらって、
「たしかに!」と思っていろいろ考えてみると、

アースデーを企画してる若者もいたり、
農業推進をがんばっている若者もいたり、
ある議員のブログでは、非常に意欲的にインターンに取り組む若者が紹介されてたり、
自治体を盛り上げようといろいろ企画しているのも若者が中心だったり、

「閉そく感」や「生きづらさ」を持った存在として語られる若者ではない若者の姿もたくさんあるということがわかった。


また前述した、若者についての議論を、批判している人も少なからずいることを発見。


なので、
いろんな若者像があることや、その中でどのような議論がされているのか、
ということを、今回の論文では書こうと思います。


うまく書けるかはわからないけど、がんばるのです。
第一稿の締め切りまであと2週間だけど、がんばるのです。

書けたらまたここで報告しようかなー。

9月中に報告がなかった時はポシャったと思ってください。w

生まれてきてよかった?

2008-10-23 | 考えたハナシ
人は、生まれた瞬間から生きることを強いられていると思う。

しかも、その社会に適応して、順応して、ちゃんと生きていくことを。


なんと酷い話か。


生んでくれなんて頼んでないのに(思ったかもしれないけど、記憶になし)、

ただ子どもが欲しいと思った親の勝手か、

ただその場の快楽を求めて避妊しないでやっちゃった結果か、

生まれてくるほうにしては、何にしろ勝手な理由で生まれてこざるをえない。


それなのに、

生まれてきたら“教育”される。

ある価値観を、植え込まれる。

社会化されていかなければならない。


それは、社会の中で他の人間と関係して生きていくのには必要なことだけど、

だれもこんな世の中に生んでくれなんて頼んでないじゃないか。


生きていくのは、大変だ。

楽しいこともいっぱいあるけど、

つらいことだっていっぱいある。


自分で自分を支えて生きていかなきゃいけない。

親の勝手で生まれてきたのに。


なぜつらいことをいっぱい経験しなきゃいけないのか。

理由はどうあれ、

生まれてきたんなら、

「生まれてきてよかったー」と思いたい。


でも、それを心の底から思い続けられる人って、

本当にいるのだろうか。


死にたいくらいつらい思いをする人と、

生まれてきてよかったと心の底から思える人と、


いったいどっちが多いのだろう。


どうか後者のほうが多いことを願う。


もし前者のほうが多いのならば、

そうならない世の中にするには、いったい自分には何ができるんだろうか。


問い続けたい。



そしていつか自分が「生まれてきてよかった」と心底思えるようになれば、

その時は自分も子どもを生もうという気になれるのかもしれない。

納得するか、しないか

2008-08-31 | 考えたハナシ
人は、一人では生きられない。


今この世界に生まれ落ちた瞬間から、

人は、
まったく一人で、
誰とも関わらずに、

生命を維持することは、不可能だと思う。


生きていくには、人との関わりは不可避だ。


私は、生まれてきて、生きているからには、

自分なりに、

なるべく楽しく生きたいし、
よりよく生きたいと思う。



だから、いろいろと、

これからの人生に深く関わるであろうことは、

なるべく、ちゃんと考えたい。


でも、

自分一人で考えるだけでは何ともできないことはたくさんある。


人は一人では生きられないから。



自分の人生、どのように生きていくかは、

周りの人にも深く関わることだ。


逆もまたし然りで、

自分の周りの人がどんな人生を送るのかは、

自分に深く関わる。


人の人生は、

複雑に絡み合って、
作用しあって、
反応しあって、
衝突しあって、

成り立っていくものなんだと思う。


自分一人で考えるだけでは何ともできないこと。

そんなのは、もしかしたらすべてなのかもしれない。


でも言いたいのはそうゆうことじゃなくて。


自分一人が考えて何かを決めるのに、

誰か他の人の考えを聞かないことには、
考えてもしょうがないことがあるっていうこと。


つまりは、

自分一人では決められないことって、たくさんあるよねってこと。


そんな時、どーしようかと、よく考える。


自分の欲することを、相手は欲していないときとか、

一体どーすればいいのか?


そんな時、

私は今まで、

「自分を納得させること」

が一番大事なんじゃないかなと思ってた。


自分の思うようにいかないことなんてたくさんあるわけで、
その状況は、自分一人が何かをしたからといって変わるわけではなくて、
それに関わる他の誰かの考えや思いがあってこそのものなんだから、


その状況を受け入れて、

その状況を自分が如何に納得するのか、
その状況を自分に如何に納得させるのか、

それが重要なんだと思ってたし、今までそうしてきた。


でも、

それは考えようによってはすごく受け身なわけで、


その「自分ではどうする事も出来ない状況」を、

自ら打破するという道を絶っていることになるのではないだろうか。


と、ある人と話していて考えさせられた。



「自分を如何に納得させるかが大事ですよねー」

と言ったら、その人は、

「納得しないで、そこからどうするのかを考えることも大事じゃないか」

みたいなことを言った。


そのことをここ数日ずっと考えていて、

自分の今までの考えは、受け身だなーと思った。


別に受け身なのが悪いとか、そうゆうことではなくて。


納得しないで考えても、どうにもならないことだってたくさんあると思うけど、


姿勢として、

「どうしようもない状況」になったとき、


それをそのまま受け入れて納得してしまう、

なんか“いい子ちゃん”的な姿勢と、


それを受け入れたにしろ、

納得せずに、じゃーそこからどうするのかを考える

なんとなく“族の総長”的な姿勢と、


両方あるよなーと思ったわけです。


他にもいろいろあるかもだけど、ね。



で、じゃーその両方の姿勢を知った自分が、

今の「どうしようもない状況」にどっちの姿勢でいればいいのか、

それは未だ思考継続中なわけなんですが。

なにしろ今までは“いい子ちゃん”的な姿勢だったわけだから。


でも、“族の総長”的な姿勢を知ったことは、

自分にとってはすごく大きなことなわけです。


それこそ、これからの人生について考えるときに、

その姿勢を持っているのと持っていないのとでは、

全然ちがう人生になるかもしれないわけで。



人と関わることに、

また一歩新たに前進できたような気がする。


誰にとって“良い”のか

2008-06-11 | 考えたハナシ
昨日、五月の企業倒産件数についてのニュースを見た。

詳しい数字なんかは覚えてないけど、

なんでも、全体としては去年より下回ってるそうで。

でも、たしか何年かぶりに、

建設業の倒産件数が増えたらしい。


で、その要因はいくつかあるらしいんだけど、

その中でも気になったのが、

「揮発性ガスの暫定税率の問題で、公共事業が凍結したことの煽りを受けた」

というもの。



がーん。

これを見たとき、ショックを受けた。



GW空けにプレゼンをしたとき、

「いったい“民意”って何なのか?」

という議論になった。


それは未だによく分からないんだけど、

そのプレゼンの中で私は、

ガソリン暫定税率・道路特定財源のことを取り上げて、

さも「暫定税率を撤廃すること」が“民意”であるかのように話をしてしまった。


でも、そうとは言い切れなかったんだ。

だって、暫定税率がなくなったことで、

倒産に追い込まれた企業が何百件もある。


そこで働いていたであろう、何千何万の人は、

日常的にガソリンなどを使っているであろう何百万の人に比べれば、

少数なのかもしれない。


けど、少数でも存在していることは確かで、

それを無視することはできない。


それなのに私は、

そういう人たちがいることなんて、思いつきもしなかった。

自分とその周りの人たちの意見が、

“みんな”の意見だとしか考えてなかった。



なんということか。


自分の視野の狭さにびっくりだ。


なにか一つの意見があったら、

それに反対する意見は必ずあるという想定が出来ていなかった。

頭の中では分かっていたかもしれないけど、

現実の問題として、全然意識できていなかったんだ。


あー、しょっく。


まだまだだな。


もっとまじめに勉強しよう。


と、思い知らされました。



と同時に、

一つのニュースを、

自分の勉強と結び付けて考えられるようになったことが、

ちょっとは成長したことの証かな~なんて思ったりしてw


はい、甘ちゃんです。


とにかく、がんばらねば。うん。



これからの課題:

“みんな”にとっていいことなんて、考えられないのだろうか?