"ひとり遊び"の記録

山歩きやMac、そして最近ハマったカメラ(リコーGRD4&シグマDP3Merrill)と写真の”備忘録”として

生母の形見

2014-08-16 17:01:46 | 日記

姉と私には、生母と義母の二人の母親がいます。

生母は、私が1歳のとき(昭和23年)に盲腸から腸捻転を併発して亡くなったそうです。姉は小さいときからそのことは知っていたそうですが、私は高校3年生になるまで気付かずに育ちました。
思い起こせば物心つくまで親戚の家に長くいたことや、中学校や高校に入学したときには、戸籍謄本を「私が持っていく」と言って必ず母親が学校へ持参していました。
 
生母の写真は見たことがありませんでした。

千代
 
10年前に育ての母親が亡くなったときに、おばさん(向かって右側)が一枚の写真を手渡してくれました。生母が父と結婚する前の写真だそうですが、生母と父とはいとこ同士だったのでおばさんが持っていたようです。初めて生母の写真を見て、自分の「根っ子」を見つけたような気がして安心した気持ちになりました。
 
育ててくれた母親は、いとこ同士で結婚し先妻と死別した父のもとに来て、親戚がすぐ間近にある住まいでずいぶん気の張った生活をしてきたものと想像します。「ぜひ遠くへ引っ越しして欲しい」と父に頼んだそうですが、父は戦後町工場を立ち上げたばかりでそんな余裕もなかったのかと、私は思います。
 
先日の従兄弟会のおりに、一番年長の従姉妹が生母の写真と、その写真に写っている帯を姉と私のために持ってきてくれました。
生母の形見として大切に保存してきてくれたそうです。
その写真は、父と結婚する前の写真ですから70年ほど経て目にすることができました。

CCF20140725_00000

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この従姉妹は、5人兄弟です。
この子だくさんの家に姉も私もよく遊びに連れていってもらいました。今はなくなりましたが難波の大阪球場横に住まいがあり、おじさんは水道工事の棟梁でした。家の物干し台から大阪球場の外野席やスコアボードを見ることができました。
おじさんが、おばさん(父の姉)に「預かったれ!」と、言って姉や私を預かってくれたそうです。
 
一番年長の従姉妹が中学生のとき一人で、難波から守口まで迎えに来て、また難波まで私をオンブして連れていってくれたそうです。
「大事な子やから、ケガさせたらあかんで!!」と、おじさんやおばさんから口酸っぱく言われていたそうです。
このことは、今回初めて聞きました。
 
「高島屋の大食堂や道頓堀の”ミュンヘン”などにも、いとこによく連れていってもらったなあ!」。
懐かしい思い出です。 
 
家内がその生地を使って、日常使えるように「カード&小銭入れ」を作ってくれました。
DP3M1697
生地も古く弱くなっているので、大事に使います。 
 
私はいろんな人から大事にされて、愛情いっぱいに育てられてきたことをこの歳になってあらためて思い知りました。
お盆の時期に、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

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