MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯895 言霊の国の政治家

2017年10月17日 | 国際・政治


 日本は、古代から「言霊の幸ふ国」とされ、言葉の力によって幸せがもたらされる国と信じられてきたと言われます。

 言葉に宿ると信じられた霊的な力は「言霊」「言魂」(←いずれも「ことだま」)と呼ばれ、「万葉集」にも「志貴島の日本の国は事靈の佑はふ國ぞ福くありとぞ」(柿本人麻呂)、「大和の國は皇神の嚴くしき國 言靈の幸ふ國と 語り繼ぎ言ひ繼がひけり」(山上憶良)などの歌が残されています。

 1000年以上の歳月を経た現在でも、日本人の心の奥には、一旦声に出した言葉には現実の事象に対して何らかの影響を与える力があるという信憑があるとされ、良い言葉を発すると良いことが起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こると考える人も多いということです。

 このため、あいさつや表彰なども含め「祝詞」を述べる際には誤読がないように細心の注意が払われるほか、結婚式などの祝いの席で忌み言葉が避けられるのも言霊の思想に基づくものと考えられています。

 一方、戦後思想の論客の一人であった山本七平は、日本には現代においても言葉に呪術的要素に関し、これが抜けない限り日本に言論の自由は生まれないと述べているということです。

 第二次世界大戦下の日本で「日本が負けるのではないかと口にした人物」が敗戦主義者とみなされ「非国民」のそしりを受けたことなどを踏まえ、山本は「あってはならないものは指摘してはならない」という(日本人の血脈に流れる)感覚が、結果として日本人から自由な議論を遠ざけていると指摘しているということです。

 新約聖書中の「ヨハネによる福音書」の冒頭に「はじめに言葉ありき」とあるように、キリスト教世界でもこの世は神の言葉によって作られたとされています。実際、最初に言葉を発する人がいなければ何事も始まらず、そうした意味では「言葉」とは、「ある」「ない」も含めた物事の「存在」そのものと言えるかもしれません。

 「人を呪わば穴二つ」などと言いますが、一旦、口に出してしまった言葉は(消えてなくなるように見えて)実際はいつまでもそこにとどまり、私たちを拘束する。そうした意味において「その言葉」を発した人には、未来に向けて大きな責任が伴うということになるのでしょう。

 さて、10月11日の日本経済新聞のコラム「大機小機」では、今般の総選挙に絡む様々な政治の動きに関し「言葉の軽さ」と題する興味深い論評を掲載しています。

 政治家の最大の武器は言葉であるにもかかわらず、今、彼らの言葉がどんどん軽くなっていると、このコラムは昨今の政治家の姿勢に懸念を表しています。

 今回の衆議院の解散に伴い、民進党の多くの議員は生き残りを懸け、小池人気という世間の風を頼みに新党「希望の党」に合流しました。

 2年前の安保法制問題では「憲法違反」とプラカードを掲げ、またひと月前の代表選では消費税引き上げを支持する発言をしていた前原誠司代表や多くの(民進党所属の)議員たちが一夜にして消費増税凍結に転じ、安保法制も条件付きながら事実上容認へと宗旨変えしたのは(確かに)驚くほどの変わり身の早さと言えるでしょう。

 こうした状況について、政治の世界では妥協・打算はつきもので、小選挙区制では少数政党が不利となり信条を超えた野合が多発するのは宿命とは言え、今回のドタバタ劇を通じて見られた変節はやはり「軽い」と言わざるを得ないとこの論評は評しています。

 さらに、脚光を浴びている希望の党にも、よく聞けば言葉の軽さが目立つ。頼みの経済政策「ユリノミクス」についても、「消費者に寄り添いマーケティングなどをベースに進める」「AI(人工知能)からBI(ベーシックインカム)へ」などの「言葉」は躍るが、どれも意味不明だということです。

 消費税増税は「凍結」するけれどBIは検討するとか、その代わりに(恒久財源とはなり得ない)内部留保課税を導入するとか、並べてみれば拙速の印象は拭いきれないというのが現在の野党の政策パッケージに対するこの論評の評価です。

 もっともここでは、この拙速な政治を強いたのは安倍政治でもあるという指摘もなされています。突然の解散、所信表明や審議抜き、投開票日までの短さなどなど、野党の準備不足を見透かして行われたのが今回の解散だということです。

 政治に策謀は常に付きまとう。衆議院の解散は総理の専権事項で与党に都合の良いタイミングでの解散は認められているとはいえ、一連の決定は政党のみならず有権者からも考える時間を奪っていると記事は説明しています。

 実際、これまでの安倍自民党政権にも言葉の軽さが見え隠れしてきたというのが記事の認識です。

 軽い、と言うよりは言葉軽視と言うべきか。消費税引き上げの公約は2度にわたり延期され、2度目の延期では「リーマン・ショック前に似ている」という極めて疑わしい説明を展開したと記事は言います。

 また、基礎的財政収支の黒字化目標も先送りされ、森友、加計問題でも政権中枢の多くの関係者が「記録がない、記憶にない」と平然と言い放ってきた。野党に見られる言葉の軽さの背後には政権を本気で担う自覚の無さと幼稚さがあるが、安倍政権に見られる言葉の軽さの背景には、強行突破が可能という権力者のおごりが見え隠れするという指摘もあります。

 論評は、与野党のこうした言葉の軽視に共通する感覚に「誠実さの欠如」を見ています。その底流には「知的退廃」があり、その向こうには民主主義を脅かすニヒリズムが漂っているということです。

 言霊の国日本では、古来、自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と呼び、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられてきたということです。

 現在の日本で、政治を語る言葉自体が押しなべて誠実さを欠いたものとなっているとすれば、彼らの(無責任な)言葉がもたらす災厄が国家・国民に及ばないことを強く願うばかりです。