MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯762 サービス業の生産性を上げるには

2017年04月01日 | 社会・経済


 大学関係者の間には「2018年問題」というものがあるそうです。減り続けてきた18歳人口がこの年から一段と減少に向かい、学生獲得に向けた大学のサバイバルが始まるということです。

 もう少し詳しく見てみましょう。

 18歳人口は、戦後「団塊の世代」が18歳を迎えた1966年に249万人のピークを打ちました。その後の増減を経て、団塊ジュニアの多くが18歳を迎えた1992年には205万人で二度目のピークとなり、大学はこの時期「受験バブル」を迎えたとされています。

 しかし、それ以降は急激に転じ、ここ数年は120万人台を何とかキープしていた18歳人口も、2018年には118万人に、2024年には106万人にまで減少し、その後110万人台を回復することはないと考えられているようです。

 一方、1970~80年代には36~37%であった大学進学率(大学・短大含む)は、1995年に45%、2005年に52%まで上昇しています。

 一般に、2000年ころに日本は、大学・学部を選ばなければ誰でも入学できる「大学全入時代」に入ったと考えられています。2014年には大学・短期大学を合わせた進学率は57%に達し、これに専門学校などの専修学校を加えると、進学率は80%を超えていることから、これから先の日本で、進学率が大きく上昇する(つまり大学の需要が拡大する)ことは考えにくいとされています。

 こうした若者人口の減少は、高齢者の労働年齢からの退出と同時に進むため、労働力人口の減少に拍車をかけることになります。また、労働生産性の停滞や低下が問題視される中、労働力についてはその「量」だけでなく「質」に関しても、今以上に高めていく必要性が強く指摘されています。

 このような状況を踏まえ、1月20日の日経新聞「経済教室」では、これからの人口減少時代における人材の育成・活用に関し、オックスフォード大学教授の苅谷剛彦氏が「人的資本向上正しく生かせ」と題する興味深い論評を寄せています。

 刈谷氏はこの論評でまず、日本では1970~2013年の長期にわたり(18歳人口の増減にかかわらず)大卒就職者数が増え続けていることに着目しています。新規学卒就職者のうち、今や多数派を占めるのは高卒者(36%)ではなく大卒者(大学院修了者を含めると43%)。そして彼ら大卒就職者の就職先は、(純粋な意味での)「サービス業」が3分の1強を占めているということです。

 また、苅谷氏は、(意外に感じる向きもあるかもしれませんが)これらサービス業への就職者のうち、44%は医療・福祉系に仕事に従事していると説明しています。さらにサービス業の次に多いのが「小売業・卸売業」の18%で、これを合わせると、大卒者の実に半数以上がこうした内需中心の、それゆえ製造業などに比べて国際競争にさらされることの少ない産業に就職しているということです。

 氏は、その結果として、就業者全体に占める大卒者の割合にも大きな変化が生じていると指摘しています。小売業・卸売業従事者のうち大卒以上は92年の14.0%から12年には35.1%へ、医療福祉の領域でも19.9%から38.3%へと大きく上昇した(特に看護や福祉従事者)。製造業の同時期の変化が13.6%から27.2%なので、製造業を上回って大卒化が進んだということです。

 ここで苅谷氏は、(教科書的に言えば)人的資本が増大しそれが生産性の向上につながるとすれば、就業者の高学歴化は(産業の)生産性を高めるはずだとしています。ところが、日本の労働生産性は(特に小売業・卸売業やサービス産業では)は停滞したままで、変化の兆しは見えてこない。高学歴化により高まったはずの人的資本が生み出す価値はどこに消えたのかと、氏は疑問を呈しています。

 こうした疑問に対して苅谷氏が下した結論は、サービスの質の高まりが「価格」(さらには報酬)に転嫁されずに、他の先進国以上に行き届いたサービスを消費者が受け取ることで、(ある意味)使い果たされているのではないかというものです。

 時間指定の宅配便や24時間営業のコンビニ、遅れない電車、さらには接客者に求められる「おもてなしの心」などに代表されるように、日本の消費者は安価できめ細かいサービスを受け取ることに慣れすぎていると苅谷氏は説明します。

 これは裏を返せば、きめ細かい、なおかつ報酬に反映しにくい過剰なサービス労働の上に、日本人の便利で快適な生活が成り立っているということです。苅谷氏は、日本の消費者はそれを「当たり前」と思い、国際水準以上に行き届いたサービスを低価格で要求しているのではないかと指摘しています。

 また一方で、自ら消費者である「働く側」も(「働かせる側」も)、当然のようにこの要求を受け入れている現状が日本にはあると苅谷氏は言います。氏によれば、これは国際比較のできない内需型産業なればこそ許される(ガラパゴス的な)仕組みだということです。

 「お客様」本位のサービスが(国際水準以上のコストをかけて)提供されているにもかかわらず、サービス産業や販売業の賃金が、他の先進国に比べて高いことはない日本では、(正規・非正規間、男女間の賃金格差が他の先進国より大きいこともあって)人的資本に見合った報酬を受けない人々が相対的に多いと苅谷氏は見ています。

 バブル経済後の日本では、全体としての賃金が増えず消費も伸びないまま長期のデフレ経済の下で内需型産業を中心に就業者の高学歴化が進行した。しかしその結果、増大した人的資本は「付加価値を生む資本」になりきれず、その高度化した能力はより高度なサービスを提供する中で使い果たされているという指摘です。

 ポジションに報酬が結び付いた仕組みの下での就業者の高学歴化が、「賃金を上昇させる競争」よりも「過剰なサービスを供給する競争」を生んだ。なぜ、サービス業の生産性が上がらないかと言えば、それは国内のみで通用する「閉じた仕組みの作動(=サービスのガラパゴス化)」が、賃金や利益を伴わない形で就業者の(人的資本という)投入リソースを飲み込んだ結果だというのが、この問題に対する苅谷氏の見解です。

 大学人である苅谷氏は、この論評において(こうした状況下)主体的な学びや批判的思考力の育成が日本の教育に求められていると改めて指摘しています。

 若者たちの間に、日本人の働き方や報酬分配の仕組みのおかしさに気づき、必要があればこれに抗い、変えていくことができる批判力・判断力を育ていく必要があるのではないか。また、そうしなければ、(電通の例にもあるように)若者は、消費者やクライアントのリクエスト、そしてクレームに応じ続ける(ガラパゴス化した)サービス産業に、エネルギーの全て飲み込まれ燃え尽きてしまうのではないかということです。

 閉じた仕組みの中にいると、遂にはそこで行われていることが「当たり前」となってしまうと苅谷氏は言います。だからこそ、それを超える視点と知識を与えるグローバルな教育が求められ、大学自身の批判的思考力も試されるとこの論評を結ぶ氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。