MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯732 「いじめ」という言葉を使うのはもう止めてはどうか

2017年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム


 昨年末、東京電力福島第1原発事故により親とともに福島県から横浜市に自主避難していた中学1年の男子生徒が不登校となっていた問題で、生徒が小学5年の時、遊ぶ金として総額150万円ものお金を同級生らに渡していたことが学校などの調査で判明し、大きな話題となりました。

 生徒は同級生らから「賠償金をもらっているだろう」と言われ、親に気づかれないように1回5万~10万円を自宅から持ち出しては同級生らに渡していたということです。

 しかしながら、横浜市の第三者委員会は11月にまとめた報告書で「金銭授受はいじめから逃れるためだった」と指摘しながらも、生徒らは「おごりおごられる関係で、いじめとは認定できない」と説明。さらに今年に入り、横浜市の教育長も「関わったとされる子どもたちが『おごってもらった』と言っていることなどから、いじめという結論を導くのは疑問がある」と述べ、こうした金銭のやり取りを「いじめ」とは認定しないという判断を示したということです。

 一方、教育長のこの発言に対し、市の教育委員会には「見識を疑う」などとする苦情の電話が、1月23日から25日にかけて200件以寄せられたということです。そして、混乱するこのような状況を収集するため、林文子横浜市長は1月25日の定例記者会見で、「子どもに寄り添っていない。申し訳ない」と陳謝したとされています。

 こうして、果てることのない(行き過ぎた)「いじめ」に関する問題を、社会としてどのように捉えたらよいのでしょうか。横浜市教委の対応に「けしからん」と憤り、学校や教員は何をやっているんだと責め、記者会見で頭を下げる市長や教育長に留飲を下げても、事態が何も変わらないのは言うまでもありません。

 「いじめ防止対策推進法(平成25年法律第71号)」では、「いじめ」を「児童生徒に対して、(その児童生徒と一定の人間関係にある)他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」と定義しています。

 しかし、学校や教室などにおける未熟な人間関係の中では、「心理的・物理的な影響を与える行為」は日常的に行われているでしょうし、そうした中で傷つけたり傷ついたりしながら人は成長していくのだという意見の人も多いかもしれません。

 結局、「いじめ」として対応すべき事象は、被害の程度や強要や暴力の悪質さなどで判断されることになるのでしょうが、その基準はあいまいで、実際、「金持ってんだろ?10万円くらいおごれよな。」という無心が「いじめ」に当たるかどうかは、(その恐怖の程度も含め)無心された本人にしかわかりません。

 神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏は、自身のブログ(「内田樹の研究室」2013.6.7)で、「いじめ」は人間集団には必ず発生する太古的な機制であるとの認識を示しています。

 どんな社会やどんな集団にも(程度の差こそあれ)いじめは必ず存在する。なので、これを「異常」で「非人間的」なものとみなし、学校内に存在しないことが「ふつう」であるという前提を採ると、問題は最初から解決の糸口を失ってしまうという指摘がそこにはあります。

 内田氏は、現在の「いじめ問題」は、「あるはずのないこと」が起きているのではない。「よくあること」の暴力性と攻撃性が常軌を逸していることが問題なのだと説明しています。ことは「原理の問題」ではなく、「程度の問題」だということです。

 これを「原理の問題」として取り扱うと、「いじめがまったくない学校」を作り出さなければならない。そうすると「いじめ」があっても、教師や教委がこれを「なかったこと」にして放置し、場合によっては隠蔽するという最悪の事態になるというのが、いじめ問題に直面する現場の対応に関する内田氏の見解です。

 さて、社会問題としてのいじめを「程度の問題」と見るならば、もう「いじめ」という言葉を使うのを止めたらどうかというのが、今回の私の提案です。

 「いじめ」という言葉には、未成熟な人間関係の中で肉体的・心理的苦痛を快楽的に楽しむ(幼稚な)行為としてのイメージ、言い換えれば「指導の対象であって処罰の対象ではない」という甘えた印象が付きまといます。

 しかし、逃げ場のない集団の中で集団で金品を強要したり、嫌がらせを繰り返したり、場合によっては暴力をふるったりするのは、通常の社会であれば恐喝や脅迫、傷害として検挙、処罰されるべき犯罪であることに間違いはありません。

 例え子供のやることだからと言って、例え「学校」という教育の場でのできことだからといって、やってよいことと悪いことは明確に区分され、判断されるべきではないか。

 世の中には、(恐らく必ず)立場の強い者と弱い者が生まれ、これを避けることはできません。一方、人と人とは必ずしも分かり合えるものではなく、社会に出ても、「いじめ」と思しき人間関係に悩む人は多いでしょう。

 しかし、(どんな形にせよ)暴力や権力を背景に立場の弱い者を脅迫して金品を自分のものにしたら、(それが「いじめ」に当たるかどうかとは関係なく)大人であっても子供であっても行為自体は「犯罪」以外の何ものでもないのは自明です。

 「いじめ」だとか、「児童虐待」だとか「DV」だとか、そういった言葉の陰に隠されてしまっている(人間の)残酷性から目を背けていては、現実は何も変わりません。

 学校現場においても、やはり「ここまでは指導だが、ここから先は処罰」といった、イエローカードとレッドカードの基準は客観的に明らかにしておくべきではないかと、今回の事件から私も改めて感じたところです。