フィリピン再登録

フィリピン3年振り100回目

カラオケ

2023-07-28 01:02:08 | 日記

昔の話を思い出つつブログに書き込む事は意味あるとしみじみと思う。テレサをすっかり忘れた訳では無いが日常からテレサを思い出すわけではない。日本でもフィリピン現地でも、私はフィリピン人に出身地を訊く事が多い。「タガサアンカ?」稀に「ラグナ」の人に会うとふ~っとテレサの姿が浮かぶこともある。前回書き込んでもう一度テレサ思い出を呼び起こす事が出来た。もう語ることも無いかもしれないけれど。

突然だがカラオケの話だ。テレサと出会った頃の私は当然タガログ語も知らず、これと言って英語が得意と言う訳ではないので、スナックなどでは日本語の歌を歌って時には接待で高齢の役員さんなんかが居れば、ご機嫌取りに昭和の演歌や村田英雄の曲やら覚えて歌ったりもした。当時はテレサの店に行っても歌うのはJ-POPが主流だった。ちょうどその頃仕事でアミューズと福山雅治さんの関係の仕事をしており、ステージなど観させてもらっているうちに福山さんの声と歌に継投して、自分でも福山さんの曲をスナックや以前行っていたキャバクラの様なところでも歌っていた。他にはスピッツやシャランQだったかな。さてPパブ通いあるあるで、タガログ語の歌に挑戦する時が来る。当時のタガログ曲の一丁目一番地は「IKAW」。曲もゆっくりだし、第一フィリピンでの大ヒット曲だからピナさん達のウケに良いのだ。すっかり今は歌う事は無くなったが、DAMだと確かカタカナのルビが振られていて日本語読みで歌えた。その時点では歌詞のタガログはちんぷんかんぷんだ。この頃に段々フィリピンアーチストを知っていく。マーティン・ニヴェラ、ガレー・ヴァレンシアーノとか。特に当時人気のタレント、ランディー・サンチアゴ。ランディー・サンチアゴは当時チャンネル2の昼のワイドバラエティー番組「マガンダン タンハリ バヤン」のトップ司会者で日本で言えばタモリの「笑っていいとも」の様な人気司会者で人気歌手。私の当時のヘビーローテーションはHindi mag babago

※IkawはMartin Nivera映像のCover Veresion
※Hindi mag babago映像はリバイバルで出演時のもので全盛時ではない。なおHindi mag babafoは私は新しい恋人は作らないと言う意味で、PINAの彼女が出来た人は言って欲しい。今でも通じるラブラブのタガログ語です。ちなみに当時はマニラに「Ratsky」と言う有名なRandy経営のコメディーバーがあった。Randyは斜視で常にサングラスをしておりまさに日本人ならタモリさんの様子。タガログで斜視はKiratsと言い差別用語。彼はKiratsをさかさま言葉でRatskyとして店の名前にしており、まさにハンディキャップをJOKEにする粋な人。


テレサと永遠の別れ

2023-07-22 14:57:59 | 日記

私は12時ごろ就寝していると2時や3時と携帯に電話がかかってくる。テレサからだ。

眠さで意識もうろうに「何~?」と話すとテレサはしどろもどろで私に話してくる。「ヨッパラッテル、キモチワルイ~」そして「ムカエニキテ、ウゴケナイ~」。私が「今どこに居るの?」と訊くと「ワカラナイ」。

で、結局私が着替えて探しに行くのだ。スナックやママがアフターに行きそうなお店も予想できるので、目星をつけてその導線の界隈を繁華街とは言え深夜で人通りの絶えた路地をウロウロして探すのだ。だいたいビルの前や既に閉まった飲食店の前などに、ほぼ熟睡かっ?って状態で倒れている。それを引き起こして連れて帰るのだ。時には雑居ビルと雑居ビルの隙間で寝てたりして、猫かっ!とつっこみたくなる。

可愛いな~なんてのは最初の内で週3回位起こされて、特に寒い冬なんてのはつらい。

当時の私は現実な訳で、そんな日がほぼ連日続いて当然私は慢性的な寝不足になり、徐々にストレスが溜まっていきテレサと別の事でもぶつかることが増えて、二人に小さな亀裂が入りはじめた。これは本当なのだがテレサより心惹かれる別のPINAが居たわけではなく、性格の不一致ならぬ生活の不一致が問題だった。彼女は家を後にした。

それからの数か月の細かなディティールは端折るが、これが元々の原因からの別れが来ることなった。

別れてからはテレサとしばらく会うことは無かったが、久しぶりに電話がかかって来た。「ゲンキー?」「ワタシ キョウカラ アタラシイ オミセニ ウツル オカクサンイナイカラ キテクレナイ」。文字では表しにくいが結構恥ずかしそうに話してくる。

どこに居るか尋ねると「コマゴメエキ」。駒込?そんなとこに店有るの?巣鴨にはPPが確か1軒有ったが(当時)。ま、とりあえず行く事にした。

店で久しぶりに話すとどうも別の男の影が有る事はうっすら感じた。その時点で私にも復縁の気持ちは無い。もう一度戻ったところでまた同じことの繰り返しになると心に決めた思いが有った。

その後、1-2度アタラシイオミセ キテホシイと連絡が有って、可哀そうだか初日一回だけって事でつきあってあげた。何せ、1~2ヵ月毎、直ぐに店を換わるのだ。

初めてテレサと出会った店で同僚としていたジョシーは、テレサと随分前から親友で心優しいPINAでテレサを通じて親交があり、1年以上随分テレサとの連絡が途切れても携帯にジョシーの電話番号は残っていた。ある日そのジョシーから電話入った。「テレサガシンジャッタヨ」。耳を疑い暫く意味を受け取る事が出来なかった。「テレビデモヤッテルヨ」。どのテレビか訊くと「フィリピンノ チャンネル7」。

当時はYoutubeも無く直ぐには確認できなかったが後に何かの方法で観る事が出来たが「日本でフィリピン女性が殺された疑いがある」と言う内容だった。

その後何度かジョシーから断片的に訊いた話だと、付き合っていた男性から火を付けられたそうだ。「火をつけられた!??」。どういう状況なのだ?。フィリピンサイドの報道だと日本人男性と口論中に日本人男性から火をつけれたとの論点。私が推測するに駒込の時に訊いた30歳ぐらいの男性の存在があり、口論になり自分で火をつけたのか。しかし衝動的な行動しがちなテレサだが、人が自分に火をつけるって事があるのか?

今でさえ威張れるほどの国民でもないのに、外国人に差別を当然とする日本政府と日本人が多いが、当時はもっとVISA等の取り締まりも厳しく警察も日本人びいきの差配があったのではないだろうか。

憤りは有ったが、いずれにしてもこの時点で私が動く理由も無く、権利も無いのだ。強い心残りを残しつつ冥福を祈った。

 

ジョシーの寂しく悲しい後悔を私に語る声が今も耳に残る。


テレサと同居

2023-07-17 13:55:26 | 日記

私は住居を換わる必要が有った。思い切ってテレサに一緒に住もうと誘った。正直彼女の全てを知ってるわけでも無いがとりあえず誘ってみたらあっさりOKの返事だった。本来私一人が住む部屋を探していたので決して広い部屋では無かったのだが、同居が始まった。しばらくして当時勤めていたフィリピンパブを事情があり辞めたいと言っていたので、とあるスナックの日本人ママ(韓国系)に働けないかと声を掛けた。人をたまたま探していたのよ~って返事で、一度休みの日にテレサを連れて行き面接OKとなった。ちなみに私の旧住居からもそう遠くないこの駅そばの繁華街に、以前より友人が住んでいて、界隈の居酒屋やスナックなども頻繁に出入りしていたので、そのママとは顔見知りだったて訳だった。

新居から徒歩10分もかからないそのスナックにテレサは通い初めたのだが、当時の私はまだ勤め人で朝9時に出勤してそこそこ残業も有る生活を送っていて、いわば規則正しい生活なわけだ。私は8時ごろに出勤するのだが彼女は夜の仕事で帰宅は早くても深夜1時頃にはなるので、休み前夜はテレサが帰って来るのをテレビなど見ながら過ごしたり、界隈の別の居酒屋で遅くまで飲んだりしてテレサを待ったりもした。しかし平日連日2~3時就寝も辛い。さてそれでも都合をやりくりしてそれなりに平穏で楽しい生活も始まり、時には二人のこれからの事などもまだ現実味は無いが考えたりもしていた。

ところでどのタイミングかは覚えていないが、テレサの子供とテレサのVISAについてわかった事があった。テレサはスタートは新宿でタレントだった様だ。それで旦那が出来た。旦那は彼女曰くヤクザさんとの事。その二人に女の子が出来当時4歳の子供が居たのだから、結婚してある程度経っているわけだが、素朴な疑問。何故ここに居て、何故私と暮らしているのか?テレサが言うにはもう別れたと。おそらく子供が出来る前に期間と彼女の年齢を考えると、結婚後5年以上経ち子供もフィリピン居住ではあるが、籍にも入っていたのだろう、テレサは永住権VISAを持っていた。

しかしふわーっと気になるのはその旦那だ。

これもテレサの返答では服役中との事。服役中って大丈夫か~とは思ったが、とにかく服役中なんだから今は大丈夫じゃん。ま、とりあえず忘れる事にした。とりあえず。そう言えば、以前私が自動車の買い替えを考えていてテレサと一緒に中古車屋巡りをしたことがある。私はセダンや小振りなスポーツ系の車を見つけてはテレサに相談するが気のない返事が返ってくる。で、テレサが見つけてくる車は大体、真っ黒塗りのシーマの様な大型セダンで車高が低く、スモークが貼られてステンレスのモールは概ね金色仕様のやつ。どうりでテレサはやんちゃ系車仕様マニアだったわけだ。

で、スナック勤めも数か月経った頃に問題が生じ始めた。とにかくテレサは酒癖が悪いのだ。とにかく。タイプは意識飛ぶパターン。テレサはお店は12~1時でもたまにお店の常連と一緒にアフターに行くママのお供で2~3時なんて日も有る。2000年問題が沸騰中の日本列島でのお話し。


テレサの父はチェ・ゲバラ

2023-07-13 18:06:12 | 日記

しばらくしてテレサにはフィリピンに子供が居る事がわかった。当時テレサは29歳、女の子のお子さんは4歳でフィリピンのお母さんが育てている。付き合って1年ほどして初めて彼女のアテンドでフィリピンに行った。旅の記憶も今や既に薄くなったが、彼女がマニラで写った写真を見ては当時を度々思い出した。彼女の実家はラグナのビニャーンでマニラからは2時間弱。当時は高速もあまり無かったのでバスでそれ位の時間がかかったと思う。

ビニャーン街中に有る古いバスターミナルに着くとトライスキルが長蛇の列を作ってバスの降車客を待ち受けていたのが強い記憶だ。

1日ラグナに滞在して宿泊中のマニラのホテルに戻る旅程。

ラグナではプール付きのリゾートをレンタルしてテレサのファミリーと勿論4歳の女の子も来ていた。夜はそのリゾートに雑魚寝って感じで。場所は多分サンタローサでバイ湖のほとり。

総勢10数人のみんなはプールではしゃいだり、BBQなんかをつついて飲んだ。薄れる記憶で鮮明に残る記憶はテレサのお父さんだ。テレサと初めて会った時印象的だったのは、色が白く鼻筋も通るフィリピンらしからぬ顔とスタイル。そこに惚れたとこ。お父さんはスペイン人だった。フィリピンではフィリピンとスペインのハーフ女性はミスティーサと呼ばれて、テレビタレントなんかでも時々見る欧米っぽいフィリピン人はスペイン系だ。しかしこの時から約20年後の現在はイタリアやイギリス、勿論アメリカにも多くの出稼ぎが出て、現地の男性と結婚して子供をもうけた人々も多く、顔立ち欧風2世3世と言ってもスペイン系はむしろ少ない今日この頃。

もともとスペインの影響が強いのはセブなどのビザヤ地方だが、ご存じの様にAYARAグループはスペイン系財閥で、マカティーの開発もスペイン系、ランカスターなどのデベロッパーもスペイン系、最近ではBGCの開発も含めて、概ねマカティーを中心とした地域はスペイン系だ。

さてプールサイドに現れ紹介されたお父さんは個性が強かった。身長は高くはないのだが、口ひげあごひげを蓄えてもちろん顔はスペイン人。なにより個性の塊は上下迷彩服で迷彩のベレー帽を被っていて、痩せたチェ・ゲバラそのものなのだ。服装は普段着だから(笑)写真が無いのが残念だが。。ほぼほぼスペイン語しかしゃべれないこの吾人とは、あいさつ程度で会話が盛り上がらなかった記憶だ。

プール付きホテルとは言うもののプールの横に2階建ての建物が有り、小分けの部屋が3~4つついた物件で、プール付き一棟毎1NIGHT借りるシステムだった。まだ有るのかな?

一晩遊んでご飯食べて一睡して翌日全員解散した。

 

テレサの事は流石に前の事で記憶も薄くなっており、文章も散文になって申し訳ないが、その後衝撃的な結末が待って居るとはこの時は思わなかった。


総武線のフィリピンパブ2

2023-07-10 03:29:38 | 日記

『フィリピンパブ、いかがですかぁ~』。と笑顔の小柄な客引きのお兄さんが帰宅中の私に声をかけてきた。その場所にフィリピンパブなるものがある事は意識の端っこにあったが全く選択肢に無かった。この店の並びに有る、現地人(笑)(日本人)ローカルなキャバクラにしばらく通った事はあったが、フィリピンパブは行こうとはならず。が、その夜家に帰りたく無かった私はその前の居酒屋での酔いもあり客引きのお兄さんに連れられ、フラーッと入ってしまった。その時の気まぐれ気分で客引きのお兄さんに「誰かお兄さんのオススメに女の子を紹介してよ」ってお願いして、数分後席まで来てくれた娘がテレサ。テレサはこの下町の店にはやや不似合いの大人っぽい娘だった。私はその大人っぽくてスタイルが良く目の愛くるしい彼女に徐々に夢中になって行く。このころの私は以前フィリピンに短期に出張滞在経験はあるものの、ほぼタガログ語は忘れて、ほぼ知らず、イカウのイの字も判らない自分だった。生意気な娘で彼女はお店から何度言われてもパンツスタイルでスカートは履かなかった。確かに足の長さが引き立ち、私はむしろパンツルックの彼女が自分の心の中で大きな存在になっていった。週に何度も通い完璧にはまった。たまにお店の後食事に行ったりデートしたりと関係が進む様になった。

当時タレントも居た店だったが、何も判って無い私はタレントだVISAだアルバイトだ永住権だとか何も知識が無く彼女から少しづつ情報が積み重なっていった。

いずれにしても、あの夜フィリピンパブ初訪問が全てのスタートだった。