習作の貯蔵庫としての

自分の楽しみのために書き散らかした愚作を保管しておくための自己満足的格納庫ですが、もし感想をいただけたら嬉しく存じます。

お菓子をくれなきゃイタズラしちゃうぞ(1)

2016-10-28 19:24:34 | ノンセクション
(1)ハロウィンという虚妄


「日本のハロウィンとかけて、バカと解く」
「そのココロは?」
「バカだから」

 ・・・と、謎かけにならない謎かけを平気で書く私こそ、頭の悪さを露呈しまくっている感があるが、しかし、ハロウィンなるものに踊らされる人間がバカに見えてしょうがないというのは事実なのだから、やむを得まい。
 毎年秋が到来し、スーパーなどでのハロウィン店頭ディスプレイが溢れるようになると、あるいは低俗なテレビ番組がオリエンタルランドをはじめとする各所でのハロウィン企画とやらを紹介するようになると、「ああ、今年もわが日本人のバカさを見せつけられる季節が来たか」と、嘆息する。


 本来のキリスト教の上での意義もまったく知らずに、ただただ広告代理店の販促に踊らされて消費させられて喜んでいる愚かなわが同胞たち。販促屋から見て「チョロすぎる」わが同胞たち。・・・毎年ノーベル賞をとるほど頭のいいはずの日本人が、どうして一方では、こんなに頭が悪いのだろうか。
 だいたい、ハロウィンなんて、クリスマスと違って、キリスト教圏でも米国だけの習慣だろうに。すなわち、おばけカボチャを飾って、「トリック・オア・トリート?」なんて、英国でもフランスでもイタリアでもやってない、あくまで米国だけの民間習俗であって、世界のスタンダードでも何でもない。ヤードポンド法やアメフトのように、「アメリカだけの常識」だということは踏まえておいてもよかろう(そもそも、アメリカのハロウィンはあくまで子どもの遊びであって、大人のコスプレ祭りじゃないし!)。

 もちろん、アメリカの慣習だからアホらしいとか、ヨーロッパの慣習だから高尚だとか、そんな差別的なことを言いたいわけではない。
 眼目は、日本の地域文化の伝統でも何でもないイベントを、業界の思惑通りに無批判に受け入れて踊らされている、そんな広告代理店にとって都合の良すぎる「カモ」っぷりが情けなくて、同胞としてはなはだ暗澹たる気分になるということである。ねぶた祭りやだんじり祭りや山笠祭りのような地域で何百年も育まれた日本の伝統文化を継承するのではなく、販促屋の「仕掛け」に都合よく乗せられている、その姿に絶望するのである。

 そりゃまあ、好きな人が勝手にやっているのだから、こっちは興味がなければ関わらなければいいだけと言ってしまえばそれまでだが。

 しかし、実際、こんなふうに販促界がハロウィン押しというのを繰り広げるようになったひと昔前から、コスプレイベントとして定着した最近になるまで、不快だ不快だと思いながらも、一方では、いつかは慣れて気にならなくなるのかとも楽観視していたものだったが、どうも一向にそうはならない。何年たっても、業界の販促都合に踊らされているバカたちが目障りだという気分はまったく好転しない。私が物心つく頃から既に定着していたバレンタインデーや、私が思春期の頃に広まったホワイトデーについてそうであるように。
 それに、クリスマスにしたって、いくら戦前からおなじみの年末商業イベントとして日本国内での消費受容の歴史が長いとは言っても、ここ十年ほどの、家を電飾で飾りたてるようなアホっぷりには、やっぱりハロウィンと同様、唾棄したくなる(なお、バブル期に、クリスマス=エッチする日とされたのも、欧米基準からしたら相当異常だったろうが、その頃は当方はガキだったから関係なかったかね~)。


 そんなふうに、これら「キリスト教的な意味も知らずに-あるいはホワイトデーなんてキリスト教上の意味自体がもともと存在しないものを捏造して-ただ業界都合に踊らされるカモ消費者たち」への絶望感・嫌悪感はまったく晴れない。
 いや、何もキリスト教的な雰囲気を借りた舶来、あるいはエセ舶来の販促装置に限ったことではない。ここ十年ほどの間にコンビニ界の思惑でプッシュされてしまったらしい「恵方巻き」なんていう日本の伝統みたいなツラをして実は販促屋の策略でしかないものについても、やはり憎悪しか感じないのだから、私も相当なへそ曲がりなのだろうな(笑)。


(※注:この文章は、これで終わりではありません。続きがあります)
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