YSコンサルタント創業者 佐藤康行の最新刊が角川書店より4月25日(土)に販売開始
「お金の不安が消える本」
お金の悩みから解放されて、幸せになる31のコツ
おすすめです。
YSコンサルタント認定講師 杉山厚子
父の著書「千の波 万の波」をお届けします。ビキニ事件の話です。
ラルフ・E・ラップ
焼津市発行の「第五福竜丸事件」という本とアメリカ人のラップ*が書いた本(この本はA紙の記者が面倒をみました)は、その与える影響が随分と違うのです。ラップはこう書いています。
ビキニ環礁の静かな小島に米国の専門家たちが「ブラヴォー」(万歳)という名の暗号をもった超爆弾、新兵器を組み立てたのは1954年3月1日だった。
米国人は福竜丸の航海についてごく限られた理解しかもっていない。
私アメリカ人、ラップはこの遠洋航海を日本人と同じ程度に知るべきだと痛感する。
ラルフ・E・ラップの序文の一節です。
ラップのいうように、日本人で遠洋航海の話をラップ以上に理解している人がどれ程いたでしょうか。
焼津市役所の当時の見解と行動を見ればわかります。
焼津市は資料集「第五福竜丸事件」(1976年発行)で、事実と異なる場面を文章にして公開しています。
人は一度話したことでも言い直してしっかりした話にしようと努めます。
修正(訂正)はごく自然で必要なことです。
単なる井戸端会議、昔話ではないのです。
修正しないことが正しいことではありません。編集者の名誉を傷つけることでもありません。修正することによって回復する正義もあるのです。
一回目より、二回目、三回目と、まじめに真実を追求すれば当然のことです。
1954年3月1日から15日までが事件の出発点であり、大事なところです。
18-20日にかけて海上保安庁の審問がありました。一回目は西川さん(当時の第五福竜丸船主)宅、その後は焼津漁協会議室で、海図を前にして詳細に航海の説明をしました。調査審問を担当した保安官は、「船の指揮を執っていた漁労長の証言は的確であった」「これでアメリカとの交渉に自信を持って入れる」と語るとともに、労をねぎらい、感謝の気持ちを表しました。
海上保安庁の外務省宛の報告書の中で証明されている公式の政府見解は、この報告書が基になっているとの話です。
16日付朝刊でスクープといわれる新聞記事となって世間様をびっくりさせました。また、その内容にびっくり仰天、紙面にはぶざまな漁士の姿が踊っていました。誠に残念無念です。
16日に漁協、病院、保安庁の各機関から一斉に発表してもらう段取りでした。新聞に載るのは17日の予定でした。関係した三機関からも乗組員からも、話を漏らした事実はありませんでした。
ラップもこんなことを書いています。
「1954年1月22日午前10時、一番最後に危なっかしい足取りで、かなり酒に酔って漁労長が船に上がってきた・・・」
本来、私は酒は好きですが、第五福竜丸に乗船してからは一滴の酒も飲まない。酒を断って第五福竜丸の漁士人生に賭けたのです。
いつの場合でも暗いうちに、朝日の出ないうちに港に来て、各船の船頭(漁労長)たちと対話して、積極的に生の情報を集めるのです。
自分の航海の重要な参考にするためです。
いつどこでどんなふうに、大きな力になるかわかりません。
港にいる時も出る時も、各船を尋ねては対話をして回ります。実践教育です。
情報を集める。これは私の仕事であると決めていました。
それは私の航海の血となり肉となるのです。
自分の船と同じくらいよその船に居ることが多かったです。
当時は、港は活気に満ちて太陽が昇る勢いがありました。
朝暗いうちから港にいます。
船が好き、漁士が好き、港が好きでした。
*「ラルフ・E・ラップ」 アメリカの物理学者。第二次世界大戦中原爆開発にかかわりましたが、後に核戦争を批判。著作「福竜丸」(1958年刊)執筆のために焼津を訪れ、当時、見崎さんも会っています。2004年9月、87歳で死去。(編集スタッフ)