かまがやミモザ通信

誰もが暮らしやすいまち「鎌ケ谷」を目指して…

「私」という主語を持つ

2012年04月26日 | 会報・レポート

 「かまがやミモザの会」の活動の地は、いま白い梨の花が咲いている。  
 東京で桜の開花宣言があった頃、2日間に渡って、朝日新聞に「母の娘」
という記事が掲載された。
 この問題は、ある意味、女性問題の核心に触れる問題だと思っている私は、
関心を持って記事を読んだ。(赤字部分は新聞の記事抜粋)

 「なじる 切れる すがる」
母と娘の関係が苦しい―。母と娘の確執に焦点を当てた小説やルポが相次いで
出版されている。娘を支配したがる母。(略)

と言うリード文で記事は始まる。              
              
 母との関係を著した半自伝的小説「放蕩記」の作家村山由佳さんが、
 「『後ろ指をさされない生き方』を求められ、しめつけがきつかった。
『あんたのため』と言われてきたけれど、後ろ指をさされたくなかったのは
母自身だった。母の前ではいい子に、と仮面をかぶるようになった。(略)」
と話す。

 近代以降今日に至るまで女の子は、「私」らしく生きるよりは、  
女「性」を意識して生きるよう育てられてきたと、と思う。
家庭(内)を守り、世間様に後ろ指をさされないよう子どもを育てることを役割とされた。
 限られた世界で、「私」を抑え、夫・子どもを優先させて生きる。こうした生き方の中で、
夫や子どもの社会的評価が自分の評価に繋がるという思いから一層頑張る。
そこに、干渉や依存が生まれても不思議ではない。
 いま女性は、子育て後40~50年という長い時間を、「私」として生きなくてはならない。
個を育ててこなかった女性は、娘の子育てにさえ干渉するという。
 せつない気持ちと、「もう少し問題の核心に迫ってほしい!」という思いが残った。 

 翌日の記事には、
「いい子」もう限界
あなたによかれと思って、やってきたのに―。従順だった娘から突然、激しい怒りをぶつけられ、
母親は動揺した。もがきながらも、娘も自分も生きる道を探し始めた。
  と摂食障害で
苦しんだ娘と母の経験が紹介されていた。

 記事中の「母でない『私』を取り戻して」という臨床心理士の信田さよ子さんの発言で
昨日の中途半端な気持ちがいくらか解消された。
 「人様に笑われないよう」と世間を重んじ、「あんたのため」と
母が娘に依存する背景には、「男は外で働き、女はかまどを守る」という近代以降の
役割分業があると思う。                             
 戦後、新たな理念が入ってきたが、いまだこの分業に大きな変化はない。
そして、孤独感や不満の矛先が娘へ向かった。自分にできなかったことを娘に託したり、
恵まれた娘に嫉妬したり、様々な表れ方をしている。(略)
 娘を手放すと空虚になるかもしれない。支えてくれる人が必要だ。夫か、同じ立場の仲間か。
韓流スターに夢中になってもいい。
 ママでもなく、お母さんでもなく、「私」という主語を取り戻してほしい。


 女性問題は、もう一方の性=男性との問題であると同時に、   
女性同士の問題でもあることを再認識。
 今さらながら、性にかかわらず、ひとり一人を大切にしたい、という思いを強くした。

 記事のことも忘れかけていた頃(4月25日)
母の娘・反響編「私だけではないんだ」 が掲載された。
 70通超の投稿の一部が紹介されていた。
 今も続く悩みや、「娘達を抱っこすると、つい自分の体の一部のように感じてしまう。
でも、別の人格で、考えも違うことを覚えておかなくては」という自戒
 等。
 書くこと、仲間と話すことも気持ちの整理につながると、12枚に及ぶ体験記をよせた女性や、
3年前から2ヶ月に1度、「墓守娘の宴」と題した集いを開く女性
が紹介されていた。

 そう、どんな問題も、一人で抱え込まないで、チョット深呼吸をして外へ出てみよう。
 話せる場所と機会が見つかるかもしれない、そう思うことにしよう!        

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