三日月堀のぶろぐ

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~中世墳墓と城郭遺構が残る景勝地~ おしゃもじ山 埼玉県比企郡鳩山町赤沼

2017年03月29日 | 埼玉 城址

埼玉県立嵐山史跡の博物館発行のガイドブック『改訂歩いて廻る「比企の中世・再発見」』に、鳩山町の「おしゃもじやま」に堀が残っているとの情報がありましたので探検に行って来ました~

〇おしゃもじ山
今宿の北側の越辺川を眼下に見下ろす景勝の地で、物見砦に利用され堀の痕跡が一部に残ります。
西方の山麓を鎌倉街道が通り、街道を見下ろす山腹には中世墓がありました。
ここから、多数の板碑と蔵骨器が発見されています。
また別の山腹には小堂跡と思われる小平場があり、傍らには井戸跡もあります。
「おしゃもじ山」の名は麓に杓子母神社(おしゃもじ様)がまつられていることに由来します。
※『改訂歩いて廻る「比企の中世・再発見」 コース5鎌倉街道と苦林の宿』より

 

〇杓子母神社と傍らの板碑
おしゃもじ山は現在公園になっていて、南麓には鳩山町今宿コミュニティセンターがあります。
コミュニティセンター東側からおしゃもじ山へ登る道路を進むと右手に杓子母神社の祠があり、祠の中にはおしゃもじが祀られていました(^_^;)
「鳩山町史編さん調査報告書第3集 鳩山の地名」によると、杓子母神社は願い事が成就するとおしゃもじを供えるので「おしゃもじ神社」とも呼ばれているそうで、昔は頂上にあったそうです。
杓子母神社の道路を挟んだ山の斜面には「广安三年」の年号が刻まれた板碑がありました。
そして杓子母神社の裏手、道路に沿って掘割状の遺構がありました。

〇掘割状の遺構と小口?
「鳩山町史編さん調査報告書第7集 鳩山の中世」によると、おしゃもじ山は板碑が多数出土しており中世の墳墓群と考えられると同時に、斜面中腹に空堀を巡らせ尾根筋に小口をつくる山城であり、詳しい築城年代は不明ですが特徴から見て戦国期以前と考えられるそうです。
杓子母神社からおしゃもじ山へ登る道路の右側斜面に、堀切とも・竪堀とも思える掘割状遺構が道路に沿ってありました(写真上・中)
でも写真だと藪になっていてよく分からない、ですね・・・(^_^;)
今宿小学校との際には掘割状遺構に伴う土橋状の通路(小口?)がありました(写真下)
ただ「鳩山の中世」が指摘していた堀と小口がここなのか、ちょっと自信がありません(._.)

〇平場と池跡
おしゃもじ山の南側中腹に、平場(小堂跡?)と池跡と思われる窪みがありました。
この辺りから西側の斜面にかけては多数の板碑が出土し、規模の大きい中世墳墓群であると考えられるそうです(四反田遺跡)

〇おしゃもじ山から望む南方の遠景
おしゃもじ山の頂上には展望台があり毛呂山~坂戸方面がよく見渡せましたが、お城に関係しそうな遺構は確認出来ませんでした(._.)
鎌倉街道はおしゃもじ山の麓を通り南下して越辺川を渡り、毛呂山の苦林宿へ向かっています。

〇台の屋敷と今宿小学校
おしゃもじ山の東麓には台地が東に向かって突き出しており、現在今宿小学校の敷地になっています。
「鳩山の歴史 上」によると、ここの字地名は台の屋敷・さらに東は高在家の地名があり、史料はなく詳細は不明ですがこの一帯は中世まで遡る集落と考えられるそうです。
台の屋敷に居館を構えた武士がいたのでしょうか、おしゃもじ山との関係もチョット気になりますね(^_^;)
ちなみにおしゃもじ山は「峰」という字名があります。

〇国土地理院の空中写真(1949年1月11日撮影)を編集・加工
久しぶりに国土地理院の空中写真を張り付けてみました (^_^;)
おしゃもじ山の城郭遺構がいつ頃の時代のものなのかハッキリとは分かりませんが、「鳩山の歴史 上」では「太平記」を引用して笛吹峠の合戦で足利尊氏が本陣をおいた、としています。
おそらくですが太平記の「・・・峰ニハ錦御旗ヲ打立、・・・」の峰をおしゃもじ山の字名「峰」に比定していると思われます。
笛吹峠とおしゃもじ山の位置など色々と検証してみると面白そうですが、それはまたの機会に・・・(^(^(^^;)

〇参考資料
・ガイドブック 改訂歩いて廻る「比企の中世・再発見」 埼玉県立嵐山史跡の博物館
・鳩山町史編さん調査報告書第3集 鳩山の地名
・鳩山町史編さん調査報告書第7集 鳩山の中世
・鳩山町史編さん調査報告書第10集 鳩山の遺跡・古代窯業
・鳩山の歴史 上
・特別展解説図録 古道と宿の景観 毛呂山町歴史民俗資料館


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