三日月堀のぶろぐ

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児玉(本庄市)の中世を訪ねる

2017年10月10日 | 埼玉 城址

2週に渡り埼玉県本庄市児玉町に行って来ました(^^ゞ

〇恵日寺 本庄市児玉町長沖
臨済宗寺院で創建時期は不明ですが、境内には中世石造物が多く現存します。
「児玉町の中世石造物」に本堂裏手に細長く池があり中世の館跡の堀であろうか、との記述があります。
現地を探検すると池のさらに裏手の一段上がった場所にはいくつかのマウント状の塊がありました。
後で調べるとこの辺り一帯は長沖古墳群として知られ、どうも古墳のようです (^-^;)

  


〇円通寺 本庄市児玉町金屋
真言宗寺院で円通寺のある金屋地域は中世以降金屋鋳物師が居住した地域です。
寺の由緒は不明ですが、金屋鋳物師の檀那が多く近世規期の宝篋印塔や石殿がみられ、さらに中世石造物も現存しています。
本堂裏手の竹林に沿って溝状の遺構がありましたが、遺構の用途やいつごろのものなのかは不明です(._.)

 


〇田端南屋敷遺跡と田中供養地 本庄市児玉町田端
鎌倉街道上道から児玉で分岐する上杉道(関東管領上杉氏の居城であった群馬県藤岡市の平井城方面へと続く古道)が田端の集落をクランク状に曲がりながら通過しています。
「塩谷氏館跡と児玉党の形成(真鏡寺後遺跡3)」によると集落の東端に120×150メートルほどの方形の地割があり、塩谷の真鏡寺館及び赤根川から引水した水の合流した水路による水流が認められるところから館跡である可能性が指摘できる、とあります。
十二社のある墓地には田中供養地と呼ばれる板碑・中世石塔がありました。
以前は十二社のある前の道路の三角地にあったようです。
館跡と推定される場所は人家・水田・畑となり遺構は確認出来ませんでした。

 


〇真鏡寺館 本庄市児玉町塩谷
天台宗寺院で境内には渋谷金王丸の墓と伝えられる五輪塔のほか板碑や中世石塔が散在します。
児玉党塩谷氏の館跡といわれ東西250メートル、南北240メートルの方形館です。
本堂裏手にあった空堀は埋められてしまったそうですが、土塁の一部と空堀が確認出来ました。

   


〇篠城 本庄市児玉町塩谷
室町時代を中心としする城跡と推定されます(田端中原遺跡)
色々調べてみたのですが篠城の歴史・遺構等詳細が分からず、また現地は畑や藪になっており道路から眺めるだけでした(T_T)




〇別所城 本庄市児玉町金屋
南北朝期を中心に機能していたと推定されています(田端中原遺跡)
篠城同様歴史・遺構等は分からず、現地もやはり畑などになっており詳細は不明でした。




〇雉ヶ岡城(雉岡城・八幡山城) 本庄市児玉町八幡山
山内上杉氏により築城後、上杉氏が上野平井城に移ってから家臣の夏目豊後守定基が守っていました。
その後北条氏邦に奪わられ天正18年(1590)北条氏滅亡とともに落城したと伝えられています。
付近には鎌倉街道上道や鎌倉街道上杉道が通り、交通の要衝となっています。
規模は東西260メートル南北440メートルで、児玉中学校や県立児玉高校の建設などにより本丸・二の丸・三の丸などの城域西半分は消滅していますが、大手虎口・土塁、馬出の空堀、伯耆(ほうき)郭の土塁・堀などが残っています。

※規模について「日本城郭大系」・「中世の城館跡埼玉秩父・児玉地方」では東西150メートル、南北200メートルとしていますが、「中世北武蔵の城」では東西260メートル、南北440メートルとしています。
縄張図などを基にインターネット地図などで距離計測しましたが、「中世北武蔵の城」記載の規模がより近いのではないかと思われます。

  

   

  


〇八幡神社(東石清水八幡神社) 埼玉県本庄市児玉町児玉
康平6年(1063)に源義家が奥州平定の帰途、当地に立ち寄り八幡宮を勧請したと伝えられています。
鎌倉時代には児玉時国が深く崇敬して社殿を再建しました。
延徳3年(1491)夏目豊後守定基によって社領が寄進されました。
当初は八幡山雉ヶ岡の地に鎮座していましたが雉ヶ岡城が築城された際、現在地に移転してきたとも伝えられています。
八幡神社前を鎌倉街道上杉道が通り、道沿いに100メートル程土塁が確認出来ました。
隣の玉連寺は児玉時国の館跡と伝えられていますが、この土塁が館に関連する遺構なのか等々詳細は不明です。

   


〇玉蓮寺 埼玉県本庄市児玉町児玉
日蓮宗寺院で児玉党の領主児玉六郎時国の開基です。
時国の館跡とされていて日蓮が文永8年(1271)佐渡流罪の途中と文永11年(1274)佐渡流罪の斜面を得て鎌倉へ帰る途中に時国の館に泊まったと伝えられています。
境内墓地には児玉時国の供養塔との伝承がある嘉元2年(1304)造立の釈迦一尊種子板碑がありました。
館の遺構は確認する事が出来ませんでしたが、東側には鎌倉街道上道が通っています。

   

この他館・屋敷跡の可能性がある上一之堰遺跡・ミカド遺跡・枇杷橋遺跡D地点・塩谷原遺跡(現状遺構は無し)などにも立ち寄りました。

写真は塙保己一記念館で購入した「本庄市の武蔵武士」児玉党の発生から一族の事など詳しく解説されていて、館跡の事も数ページですが解説されています(^_^;)
ちなみにこれ、本庄市のホームページからPDFでダウンロード出来ますので、チェックしてみて下さい~




※参考資料・地図は後日掲載します_(._.)_

※H29.10月10日 参考資料と地図を追加しました<(_ _)>

〇参考資料
・児玉町史 民俗編
・児玉町の中世石造物
・写真で見る児玉の歩み
・本庄市の武蔵武士
・真鏡寺後遺跡Ⅲ
・真鏡寺後遺跡Ⅳ
・金屋西遺跡 
・田端南堂遺跡
・田端中原遺跡 


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
役立ちますわ (ししんみちのく)
2017-10-23 18:02:36
ばんは~
復活ですか
なかなか渋いですね
として鎌倉道を追い求める姿に感動ww
ぶれないのが素晴らしい

コレ、ダウンロードしましたが実物欲しくなっちゃいますね
古道と地名の冊子も一緒に欲しいですわ

情報ありがとうございます
ハマりました~ (児玉・ミカ)
2017-10-23 20:18:00
お晩であります!

まさかの2週続けての進軍でした(^^ゞ
なんかお城より鎌倉道の方に興味が移りつつ・・・

冊子を無料でDL出来るなんて本庄市様様ですね、鎌倉街道は現在売り切れですが増刷予定があるようなので必ずゲットします

お役に立てたようで幸いです(^^)
路次不自由の中ありがとうございます

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