三日月堀のぶろぐ

お城・歴史の記事がメインのぶろぐです〈(_ _)〉

思川流域の城館巡り 小山市編 その1

2016年05月22日 | 栃木 城址

戦国時代の小山 小山市博物館 第66回企画展の続きです。
多少順番が入れ替わりますが、まずはこちらから・・・

〇乙女の土塁(栃木県小山市乙女)
乙女幼稚園の北東に土塁で囲まれた区画があります。
ここから県道50号線を思川の流れる乙女大橋に向かうと乙女河岸があり、また土塁のある場所は亀田遺跡内にありますが、詳細は不明です(?_?)
  

〇小谷城(栃木県小山市下生井)
小谷城は小山市の南西端標高十六メートルに位置し、西の赤麻草原、旧巴波川や旧思川を天然の塞とし、堀・土塁をめぐらした平城でした。西北面に、円形の緩やかな流れを持った高さ約三メートル、幅約一〇メートルの土塁は整地後消滅し、郭内は田畑となっています。

築城者は小谷三郎俊景で、後に小山政光が城主となり、居住したと伝えられています。南北朝時代(一三三六-九二)には、小山一族網戸村重が生井八郎と称し、小山の支城の役割を担っていましたが、結城合戦(一四四〇-四一)に敗れ、奥州に逃れました。
その後、秀綱が再興し、大橋左京亮を城代としましたが、天正一八年小山城落城とともに廃城となりました。 間々田商工会・小山歴史研究会(小谷城解説板より)
旧思川から県道174号線を80mほど北西に進んだ十字路に神明宮があり、ここに小谷城の石柱と解説板がありました。

城域の東側には堀跡を思わせる水田がありました。
   

〇網戸城(栃木県小山市網戸)
網戸城は思川と巴波川を自然の砦とする面積約十・八ヘクタールの平城でした。
築城は鎌倉時代(一一八五-一三三三)の初めで、初代城主は網戸十郎朝村です。結城家出身で、父は結城朝光、寒河尼(小山政光の妻・頼朝の乳母・地頭職)を祖母とし、結城家領の網戸郷を治めました。
網戸氏は代々の城主を継承しましたが、南北朝期(一三三六-九二)の争乱で、重朝が奥州で討死し、子の村重は結城合戦(一四四〇-四)で敗れ、会津の葦名氏の家臣となり遂に廃城となりました。
城址は大字網戸字追切・折本の両字にわたり、西城・中城・外城・御古座・陣屋、その他御城沼・しらじ沼と称する城囲堀などの地名が残っています。城址には網戸神社・旧網戸小学校・称念寺(寒河尼と朝村の墓所)があります。 間々田商工会・小山歴史研究会(網戸城解説板より)
網戸神社に網戸城の解説板がありました。
ここから称念寺・旧網戸小学校・長慶寺周辺を探検、長慶寺周辺には堀跡を思わせる水田がありました~
    

まだまだ続きます~
でも早く更新しないと、訪れた記憶がうすれそうです(^_^;)

〇参考資料
・栃木県の中世城館跡
・角川日本地名大辞典 栃木県
・中世小山一族
・市制60年記念  小山の歴史
・現地解説板
・おやまわが街ガイドマップ 埋蔵文化財情報


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
更新も一苦労ですね (小頭@和平)
2016-05-22 22:28:31
こんばんは。

ブログ更新お疲れ様でございます。

たしかに日数が経過するにともない次第に記憶が曖昧に・・・悩ましいところですね。

自分の場合には、できるところから処理したあと、読み直しながら少しずつ追加訂正していくという方法をとっております。
しかしこれにHP自体の更新も行うとなると気が遠くなるのであります^^
記憶と気力が・・・ (みかづきぼり)
2016-05-22 23:06:00
小頭@和平さま
こんばんは~コメありがとうございます
あれもこれも書こうと頭の中でグルグルまわって結局時間だけが過ぎ去っていく悪循環です(涙)
皆さんのようにHPを立ち上げて使い分け出来れば・・・ん~悩ましいです(汗)
目的をもって地道にコツコツやれればとは思っています

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。