愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

奥殿陣屋(2) 岡崎市

2018年10月08日 05時45分58秒 | 岡崎市
このお店群の対面に資料室がありました。入場無料です。資料室に「奥殿陣屋要図」という図がありました。


奥殿陣屋要図

陣屋の中の建物の配置図です。大手門に入るまでに道が曲がりくねっています。防御のためでしょうか。
大手門に医師室というのがくっついています。これは、なんか意味があるのでしょうか。
陣屋の中心は、おそらく書院と表御殿だと思います。書院で政務を執り行い、お客さんは表御殿に案内して接客したのでしょうか。政務と言っても政治的事務ばかりではなく、今でいう警察、裁判所、税務署などの仕事も陣屋で行っていたと思います。
左半分は、住宅、道場、学問所、馬場などここに詰めていた武士の生活空間であることが分かります。陣屋で働いていた武士たちは、おそらく、ここに住み、ここで働いていたのだろうと思います。

奥殿陣屋は、奥殿藩の藩庁です。奥殿松平氏が代々藩主を務めていました。


奥殿松平氏系図 

年表も作ってありました。そこに加茂一揆との関係が記載されていました。


奥殿陣屋関連年表

「陣屋苦境に立つ」という表現がいいですね。典拠はわかりませんが、正直に陣屋の状況を書いているように
思います。

奥殿陣屋(1) 岡崎市

2018年10月07日 18時44分07秒 | 岡崎市


奥殿陣屋書院玄関

奥殿陣屋は、「加茂一揆」の時、それを抑えにかかった役所の一つとして登場します。ここから、一揆を制圧するための兵が出陣したわけです。したがって、一揆の百姓たちにとって敵となるものですが、今は文化財として観光地になって、庶民が訪れています。


「ジンヤ」の植え込み

道路から「ここが奥殿陣屋ですよ」と、分かるように植え込みがありました。


奥殿陣屋正面

現在秋まつり期間中のようです。また、桜の木でしょうか、黄色く色づいています。紅葉が始まっている感じです。

門から入ると、お店がずらりと並んでいました。


ずらりと並んだお店

今日は、三連休(10月6日~8日)の中日です。昨日は、台風25号の影響で客足も少なかったと思います。今日は、昨日の分を取り返す勢いが感じられました。

加茂一揆(10)滝脇村

2017年11月06日 09時55分07秒 | 加茂一揆
次に滝脇町に行きました。

滝脇町(地理院地図より作成)

まず、問題の滝脇陣屋跡です。

滝陣屋跡

滝脇陣屋跡は、石垣の跡が竹藪の中に残っているだけでした。この石垣の上に昔は建物があったのでしょうか。たしかに小高い山裾に立地していて、滝脇の町が一望できる場所にありました。一揆衆が押しかけてくれば、当然見える場所だと思いました。

その横に長松院という曹洞宗のお寺がありました。

長松院

長松院は、案内板によれば、滝脇松平氏の墓所だそうです。滝脇松平氏は、松平宗家松平親忠の9男で長享元年(1487)滝脇城に封じられたそうです。しかし、弘治2年(1556)には、大給松平氏との戦いがあり、滝脇松平氏初代の松平乗清、2代目松平乗遠(のりとお)、乗遠の長男松平正乗(まさのり)が討死をしてしまったそうです。天正3年(1575)には、3代目松平乗高が復讐戦を行い、大給松平氏を一時尾張に追いやることに成功したそうです。
その後、4代目松平乗次が滝脇村に陣屋を構え、この地を治めたということです。

滝脇松平氏の墓碑

しかし、松平数馬についてはコメントがなく手掛かりは得られませんでした。

なお、この滝脇町は、豊田市と岡崎市の境目にあり、その境を郡界川が流れています。郡界川とはまさに加茂郡(北側)と額田郡(南側)を分ける川だったのです。

郡界川

加茂一揆(9) 豊田市 乳子守(ちごもり)神社

2017年11月05日 07時37分16秒 | 加茂一揆
10月は大変な月でした。秋の長雨が10月にずれ込んで毎日雨ばかり降ると思ったら、台風21号、22号で土日がつぶれ、おまけに総選挙でぐちゃぐちゃでした。
ということで、ようやく30日は晴れ間が戻り、ちょっと寒かったですが、史跡めぐり日和になりました。

今日は加茂一揆関連で豊田市の松平地区、滝脇町、鍋田町に行きました。
まず鍋田町ですが、ここに乳子守(ちごもり)神社という神社があります。どうして乳子守神社に行くのかというと、松平数馬が寄進したという灯篭があるからです。松平数馬というのは、天保年間の旗本で、滝脇陣屋にいたようです。松平地区の紹介をしているパンフレットに次のような記事があるのを発見しました。

「境内の灯籠は、滝脇陣屋の領主松平数馬が天保12(1841)年に奉納したものである。」(鍋田自治区の紹介パンフレットより)

松平数馬は、「豊田市史」の資料「加茂一揆の過料銭」一覧表で、知行として、滝脇村、(西)大沼村、遊平村、鍋田村、曲村、羽明村、平折村、額田郡日影村、同丸塚村を有していました。一揆が発生した滝脇村は旗本松平数馬の知行所だったわけです。一揆は、滝脇村の石御堂に集結した後、滝脇村の庄屋宅を打ち壊しています。
当然その知らせは当地の陣屋である滝脇陣屋にも来ていたものと思われます。しかし、一揆が起こった段階では滝脇陣屋は何も動いていません。動いたのは岡崎藩領の須山村、仁木村、岩津村、大谷村等の庄屋たちです。彼らが岡崎藩に注進したことから、権力側の動きが始まったように「鴨の騒立」では記載されています。

一体どうして滝脇陣屋は動かなかったのか疑問です。

なにか手がかりがないかと思い、出かけることにしました。

松平地区の鍋田町、滝脇町の位置


乳子守神社の標識


松平数馬が寄進した灯篭

その灯篭がありました。確かに「松平数馬」という名と「天保12年」という年が刻まれていました。

灯篭の「松平…」の文字が画像からも確認できます。

灯篭の「天保12年…」の文字

ただこの灯篭で不思議だったのは、正面の紋が葵の紋ではなかったことです。さらに神社の名称が「児子森」となっていたことです。

灯篭に刻まれた家紋と神社名

調べましたら、多くの旗本は徳川宗家にはばかって葵の紋を使わず、この「丸に蔦」を用いたそうです。なので、松平数馬の家紋と言えそうです。

また神社の名称については、なぜ「児子森」が「乳子守」になったのかは分かりません。ただ、もともとは、鍋田住民が天文4(1535)年に白山の宮を勧請して「千子の宮」と称して安置したのが始まりといわれているそうです。安産の神様だそうです。(自治区紹介パンフレットより)

ということで、乳子守神社では滝脇陣屋が動かなかった手がかりはつかめませんでした。

加茂一揆(8)岡崎藩の対応

2017年11月04日 10時51分14秒 | 加茂一揆
渡辺政香「鴨の騒立」第6回 注進と岡崎藩の対応

岡崎・吉田・赤坂・西尾・刈谷へ、その領地の村々より注進の事
 22日、岡崎領須山村より、これまでのことについて報告があったので、岡崎藩で出動の準備を整えた。22日午後1時頃、額田郡仁木村へ一番手の兵が出動した。
 他の説では、次のように言っている。9月22日、午前10時頃、岡崎の領内の仁木村へ一揆共の回状が村次で回っていた。よって、岩津村へそれを知らせ、仁木村の庄屋がそれを早々に岡崎の役所に御注進した。東の方では大谷(おおがや)村へ同様の回状が回っていたので、同村(大谷村)庄屋はその回状を預かって、早々に岡崎に御注進をした。その両村(仁木村と大谷村)に御先手同心30人ずつ遣わせた。もっとも一揆の頭取辰蔵に加担することが無いよう厳しく仰せ付けられたので、岡崎領では一人も徒党に加わるものはなかった。そして、隣村まで寄せてきて一揆勢が、家を毀していることが、出張した同心より注進があった。同日(9月22日)午後2時頃、御物頭(おんものがしら)(1)、郡奉行(こおりぶぎょう)(2)、郷目付、御代官、徒士頭(かちがしら)、御医師、御同心が出張した。

 一番   9月22日   御出張
      御物頭
         三宅理兵衛
          同心(3)30人
          張弓  10挺
          鉄砲  10挺
          陣幕陣太鼓
          陣小屋大筒
          鉄砲長持3棹
          具足長持3棹
          此外軍用道具
          役馬  10疋
          御旗手鎖(4)3棹
      同
          都築藤一郎
          組下御道具右同断(5)
      同
         岡田十左衛門
          組下御道具右同断
      郡奉行
         那須猪太夫
          同心20人
      大目付(6)
         柴田弥左衛門
          同心10人
      同
         緒方七郎
          同断
      同
         篠原与兵衛
          同断
      大官(7)
         椙浦黒右衛門
        〃志水三右エ門
        〃渡辺与五右衛門
        〃新延佐司馬
      医師
         満田古文
         徒士目付附頭
           4人
          早縄 1棹
一説には、22日に守衛に入ったのは物頭国府三之丞・河合三郎・新宮弥次兵衛・松下源太左衛門、用人構母太一・冬木新左衛門・清水氏・佐野氏、処々に手配りと聞いている。

注意書き
(1)御物頭 藩の軍制のひとつで、いわば部隊長
(2)郡奉行 幕府の勘定奉行に相当する民政上の役。同心をひきつれている。
(3)同心 江戸幕府で、所司代・諸奉行などに属し、与力(よりき)の下にあって庶務・警察事務を分掌した下級の役人。 (コトバンク)
(4)御旗手鎖 手鎖は、いわゆる手錠のこと。ここは、旗と手鎖の2つのことを言っているか。
(5)同断 前と同じであること
(6)大目付 藩の中枢で、御物頭や郡奉行らの監視役か。(ウィキペディア)
(7)大官 代官のことか。代官は、年貢の徴収を担当する役人。


いよいよ岡崎藩が動き出しました。きっかけは岡崎藩領の庄屋たちが注進したことからのようです。はじめに30人ほどを仁木村と大谷村に遣わし、状況を見て、一番出張ということで出陣をしました。今でいうと県警、機動隊の出動というところでしょうか。

それにしても、すごいです。一つの部隊で兵隊30人、弓10丁、鉄砲10丁、陣太鼓に大筒(大砲)さらに馬10匹です。これが3部隊出動したわけです。その他に奉行だの目付だの代官だのも兵隊を率いて出動しています。
一揆衆は滝脇村の襲撃時点で約400人ですから、かなりの規模の兵隊と武器を準備しています。一揆後の取り調べで辰蔵が、「岡崎様、挙母様、其の外御大名の歴々、張弓、鉄砲、火縄などそえて、仰山なお行烈。是まで見たこともござらぬ古の戦の体と存じられます。なんとまあ、鎌、鋤より外に持つこと知らぬ百姓ども、ご上意とあらば鎮まりそうなもの。あまり厳重すぎた御行烈と、憚りながら存じます。兼ねて承りまするに、農人は天下のお百姓とて、上にも御大切にお取り扱い、その百姓に怪我でもあらば、お気の毒と存じます。」と、堂々と述べていますが、まさにその通りの対応になっています。