ここを訪問してくださった群馬のIさんから次のようなメールをいただきました。
ところで一つお聞きしたいことがあります。それは他ならぬ「堅曹」の読み方です。速水さんは[Kensou]と読まれておりますが、一方「けんぞう」と訓む人も居ります。 その人の根拠は、『速水堅曹 履歴抜粋 自記』において「熊谷県士族速水ケンゾウ」と記し、さらにローマ字で「Hayami Kenzo」と記しているので「けんぞう」が正しいと考える。と言うものです。
速水さんのお考えをお聞かせ下さい。
Iさんが書かいておられるように、群馬県内にはその根拠に基づいて堅曹を「けんぞう」と読む方はおおいです。
私は群馬県の富岡製糸場世界遺産伝道師というボランティア活動をしています。
3年前にその養成講座を県内で受けたときはじめて堅曹を「けんぞう」と読んでいる方がいるのを知り、驚きました。
結婚して30年近くたちますが、親戚では誰一人「けんぞう」という人はいなかったのです。
理由がだんだん上記の根拠によるものだとわかってきたとき、わたしは聞いて回りました。
今年お亡くなりになった本家の御当主に。堅曹さんの兄の御子孫K氏に。
もちろん我が家のほうの親戚にも。みな「けんそう」さん。
他のところで書いたこともあるのですが、実は私の夫は名前が「けんそう」なのです。
字は一文字違います。 「堅壯」。
堅曹の孫にあたる祖母が初孫に「けんそう」と名付けたのです。当時「曹」の字が名前に使えなくて仕方なく「壯」にしたと聞いています。
祖母は生前の堅曹さんに会っていました。
どうして堅曹さんは日記に「ケンゾウ」って書いたんだろう、と随分長いこと考えていました。
上記のIさんの書かれている「根拠」について補足説明をすると、
『速水堅曹履歴抜粋 甲号自記』とは堅曹の自筆のいわゆる日記で、天保10年(1839)の生誕から明治16年(1883)末までの出来事が本来書かれてあった膨大な量の日記より「抜粋」してまとめたものである。
昭和58年(1983)群馬県史編さん事業の過程で調査により所在が判明し、同年県立文書館に寄託された。
それにより日記の内容が多くの方の目にふれることとなりました。
堅曹が「けんぞう」と読まれるようになったのはここからです。
昭和58年(1983)以降。
これ以前の人名事典等では私の調べたかぎりでは「けんぞう」となっているものはありませんでした。
『履歴抜粋 甲号自記』は本来なら、代々子孫にだけ伝えていくプライベートな日記だったのだろうとおもいます。
今で言う個人情報満載ですから。
抜粋して残したものなのに多くの親戚関係の細事がかかれているのです。
甲号の次、乙号や丙号が存在していないのは(多分あった)、もしかして、あんまりの内容なので親戚の誰かが処分してしまったのではと、私なんかは冗談ですが、考えることもあります。
ですから明治8年(1875)航海免状に書いた「速水ケンゾウ」というのは親がつけた本来の読みだとおもいます。いまだってパスポートには戸籍上の名前を書きますから。
そして「To Mr Hayami Kenzo Japan」は堅曹が明治9年(1876)アメリカから帰国後送られてきた、万国博覧会委員会からの感謝状を自分の日記に書き写しているものです。航海免状に基づいて公式の賞状は書かれているのだとおもいます。
とまあ細かいことをいってても話は前にすすみません。
親がつけた堅曹の読み方は「けんぞう」だとおもいます。子孫にだけ伝えようとおもったプライベートな日記にかいてあるのですから確かでしょう。
ただ本人は世間に出るなんて思っていなかった。
そしてそれとは別にいつのころからかはわからないが、堅曹本人は自分の名前は「けんそう」がいいな、とおもったのではないだろうか。
そしてそれを通した。どこででも。
だから家族兄弟親戚一同には「けんそう」であり、世間でもそうよばれていた。
当時の雑誌はすべて「けんそう」のふりがながついています。
新聞に載った堅曹の死亡記事のふりがなも「けんそう」。
そして自分の息子には「曹」の字をつかって「しんそう」と名付けています。
ある学芸員さんがおっしゃいました。
「けんぞう」だった名前をあるときから自分で読みの「音」(オン)を意識して「けんそう」として通されたのでははいか。子孫の方たちが全員そうならば本人は「けんそう」としていきたかったのだろうから、それを尊重していったほうがいいと思う。
また、昨日まで開催されていた写真展「夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史Ⅰ.関東編」で堅曹のポートレート発見の経緯をパネルにしてくださった、群馬県立館林美術館のN学芸員さんは名前について次のように書いてくださいました。
小川一真《速水堅曹像》
なお堅曹の読みは、日記の中に明治8(1875)年に得た自らの航海免状(旅券)に関して「ケンゾウ」と記した部分があることなどから、近年「けんぞう」とされることがありました。一方、速水家には長らく「けんそう」の読みで伝わっています。おそらく堅曹本人が途中から「けんそう」の読みを好み、それが定着したものと考えられます。よってここでは「けんそう」と記しています。
お二人の見解が私の現在の考えをよくあらわしています。
子孫である私がいまできることは、堅曹さんの意思を尊重すること。
よって「けんそう」さんといつまでもよばせていただきます。