散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

天地人3~謙信の名

2009年07月23日 | ★メタ坊タウン情報
上杉謙信の城・春日山の「春日」は、奈良の春日神社を勧請したことからの呼び名だという。決して、トゥーッスと挨拶するオードリーの春日と何か関係があるのではないかと考えてはいけない。守護職・上杉氏が藤原の姓を名乗っていることから、藤原の氏神・春日神社を祀った山だとされている。その春日山に城を築くにあたり、春日神社を城の鬼門の位置に移している。謙信が、守護代・長尾景虎として頭角を現すと、小田原の北条氏から圧迫を受けた関東管領・上杉憲政から関東への出兵要請を受け出陣。憲政を春日山城下に造営した御館(おたて)に迎え、後奈良天皇から治罰の綸旨を授かる。仏世界の北方を守る四天王の一人・多聞天を独尊とした場合の毘沙門天になぞらえて「毘」の旗印を掲げる大義となったといえる。2度目の関東出兵では、小田原城を包囲するところまで北条を追い詰めたが、落城に至らず撤退する。その最中、上杉氏の家督と関東管領職を相続し「政」の字をいただいて、上杉政虎を名乗るようになる。そして、いわゆる「川中島の戦い」として大激戦となった第4次川中島への出陣後、機をとらえて覇を拡げる北条氏を討つべく再度関東へ出兵したが、疲弊から撤退を余儀なくされた。その後、将軍・足利義輝から「輝」の一字を贈られ、上杉輝虎(文書には「藤原輝虎」とある)を名乗る。天下をうかがう武田信玄を牽制するため、宿敵・北条氏康と同盟し、その人質として氏康の子・三郎を養子として迎え「景虎」と名乗らせると、以後、自身に法号「不識庵謙信」を付け、使用するようになる。景勝はその5年ほど前に養子となっている。
さすが酒どころ越後の人だけあってよく酒を嗜んだ。ために織田信長と同じ、49歳で亡くなった。症状から脳溢血だったのではないかといわれている。遺骸は甲冑を着た姿で甕に納められて春日山の麓・林泉寺に埋葬(写真は供養塔)された。当時の武将には殉死の習慣があっただけに背後の小さな五輪塔群の数からして、そのカリスマ性が推し量れる。以後、上杉氏が転封などで本拠地を替えるたびに改葬されたという。謙信が倒れるときも遠征の準備がされていたところをみると、本人は全く「死」が訪れようなどと思っていなかった。だから遺言を残さず、それが越後を二分する跡目争いが、養子景虎と景勝の間で発生し、天地人前半のドラマが展開されることになる。

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