ラッパ吹きの私的つぶやき

沼津交響楽団Tpパートリーダの華麗でも素敵でも詩的でもない私的な音楽的手記。

沼津交響楽団第27回定期演奏会

2011年05月30日 21時56分32秒 | クラシック
 2011年5月28日はうちのオケの定期演奏会でした。指揮は横島勝人先生、ピアノ独奏海瀬京子さん。曲目は、
  ベートーヴェン/レオノーレ序曲第3番
  モーツァルト/ピアノ協奏曲第17番
  シューマン/交響曲第3番「ライン」
 シューマンは1st、モーツァルトはパートなし。レオノーレは舞台裏ファンファーレ。

 今回の演奏会に関しては、トランペットに負担がかかるところはほとんどなく、音色とタイミング勝負ばかりの神経戦となりました。
 そんな中せっかく良い先生に教えて頂いているのだから、と音の立ち上がりの改善に集中することに。
 レオノーレのファンファーレに関しては、ウィーン伝統のアゴーギグを教えて頂いてとっくり練習。

 本番の直前に大事件発生。シューマンに使う予定のロータリィC管を破損してしまい、演奏不能状態に。
 慌てて昔伺ったことがあるアトリエに修理をお願いする。
 なんとか本番の週の頭に楽器が到着、当初はまるっきり音が響かなかったものの、丸一日掛けてなんとか以前の状態に持って行くことができた。
 そんな中発見したのが、自分の音量感覚と周りに聞こえる音量感覚の違い。外で吹いていると分からないが、広い室内の響くところで吹くと非常に大きく聞こえる。mfffくらい。ああこれが、妙に音が浮き出る原因であり、先生に指摘された「聞こえない恐怖症」か。
 そして音量感覚を調整し、リハーサルと本番に臨むことにした。

 レオノーレのファンファーレ演奏に際しては舞台裏からの吹奏となる関係上、音量と音程が重要になる。音量に関しては、舞台裏楽屋通路まで出て1回目、舞台裏一番遠くで2回目と差をつけ、楽譜指示にある「遠く」「近く」を表現する。音程に関しては1回目、主管を全部入れて吹いても舞台上では低く聞こえるという難問に行き当たった。自分自身の音程を無視してできるだけ高めに音程を取り、マウスピースを普段使っているものより浅くて小さいものに切り替えて明るい音に変えることで、ゲネプロでしっかり合わせることができた。
 ゲネプロで合わせてしまうと本番が怖い。

 うちのオケの定期演奏会は何故かいつも天気が悪い。今回は東日本大震災の追悼演奏を行う関係上、ロビーコンサートはなし。追悼演奏はJ.S.バッハの管弦楽組曲第3番より「アリア」、いわゆる「G線上のアリア」を弦楽合奏で。やっぱりバッハは良い。ラッパはどれもめちゃくちゃ難しいからそうそう演奏機会がないけど。
 続いていよいよレオノーレ。最初の和音を聞いてから楽屋に戻り、ゲネプロの時と同様に高めの音程を確認しつつ軽く音出し。展開部で舞台裏楽屋通路に待機。
 構える。弦楽器の上昇音型。
 演奏1回目。
 すぐに舞台裏に入る。モニタを動かしてもらう。構える。
 演奏2回目。
 ……80点。合格。脱力。
 演奏後に舞台裏から呼び出してもらい、大きな拍手をいただく。感無量。

 楽屋でのんびりモーツァルトを聴く。ソリスト海瀬さんは5年前から印象が変わった。モーツァルトをしっかり演奏できるピアニストは良いピアニストだ。
 アンコールは生誕200年、リストの「愛の夢」第3番。ロマンティックな曲は軽やかな演奏、穏やかな気持ち。
 実は自分は前回のシューマンの協奏曲にも載っていない。いつか共演したい。

 そしてシューマン。音量ランクを2つ落とす。最初はfなのでmp感覚。さすがにコーダは1つ落としに変更。節度ある演奏を目指す。最後のフェルマータ後に沼津では珍しい楽章間拍手。盛り上がって頂いたと嬉しくなる。
 第2楽章もじっくりと。第3楽章はお休み。第4楽章のコラールは音量より楽器を響かせることを重視。
 第5楽章は軽やかに。コーダのコラールも従来より響き重視で。最後の下り音型も軽やかに。
 自分ではなかなか良くなったのではないかと思う。
 アンコールはなし。この時点でかなり遅い時間になっている。

 舞台裏で木管トレーナの先生に良かったと褒めていただく。
 急いで荷物をまとめてレセプション、すぐに2次会へと雪崩れ込む。
 横島先生にも良かった、上手くなったと褒めていただく。
 これでようやく、先生に師事していますと言えるようになったかと思えて感無量。これがスタート地点。これからも頑張ります。
 横島先生はオーケストラについても、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンがしっかりできるようになって良いオーケストラになった、と褒めてくださいました。
 終電時間が迫ってきて帰宅。自宅で自主3次会。

 今回は神経戦だった分、抑制する神経が鍛えられたかなと評価。自分の音は思った以上によく聞こえている。すべてを凌駕する音は、必要なときまで取っておきます。

 次は11月。噂によるとラプソディー・イン・ブルーだのアメリカもの中心の曲目になるとか。ラッパは何人呼ばなければいけないだろうか……。

感受性、音楽性

2011年02月21日 22時58分14秒 | クラシック
茨木のり子さんの詩に「自分の感受性くらい」という有名なものがある。
著作権が存続しているので全文転載はできない。是非本を購入して欲しい。

一番最後の連がもっとも有名で刺激的なのだが、最初の連はこう始まる。

ぱさぱさに乾いていく心を/ひとのせいにはするな/みずから水やりを怠っておいて


音楽性が合わない人間とやっていくのは辛い。
だが、音楽性が合わないことを他人の所為にしては居ないだろうか?
自分の音楽性、自分の音楽の理想にしがみついては居ないだろうか?
自分の音楽性に十分水やりをしているだろうか?

音楽性は自分が示すことはできるかもしれない。
だが、音楽性を他人に強制することはできない。

気づいているだろうか。
音楽性が合う人間とだけ演奏したいというのはただの我が儘だということ。
音楽性が合わない人間と演奏したくないというのも我が儘だということに。

音楽との関わり方を強制することなどできはしない。
プロだろうとアマチュアだろうと、音楽との関わり方は人それぞれ。音楽への気持ちも人それぞれ。
テンションの低い同輩に悪態を吐きながらも、自分のベストを尽くすこと、そして多様性を認めることから音楽は始まるのではないだろうか。

そんな中で自分が如何に貪欲に新しいものを取り入れようとする気持ちを保つかということと、それを如何に同じ仕事をする他人に伝えて同じテンションを与えようとするかということ。それができない奏者はアマもプロも駄目だと思う今日この頃。奏者に限らず会社員でも創作者でも。
自分がすでにできていると満足することも駄目だし、自分が頑張っているということを殊更に他人にアピールするのも駄目だし、自分が頑張るレベルを他人に強制させることも駄目。結局自己完結、自己満足でしかない。そういう人間がこのところ目立つ。
苟も指導的な立場に立ってしまっているのなら、他人を如何に持ち上げ煽ててやる気を出させて最大限の効果を発揮させるかどうかを考えるべし。それができないのなら指導者的な振る舞いをせず口を噤むが良い。
指導的な立場とは指導者に限らない。パートリーダー、先輩、同僚……。

さらに言うなら演奏の不備を安易に他人の所為にする人間が多い。
他人の所為にできるほど自分は万全を尽くしているのだろうか?
人の責任を問えるほど自分の責任を果たしていると言えるのだろうか?
合わせる気もないのに合わせられないと安易に口に出していないだろうか?

他人ができることを自分もできると考えるのは努めるということ。
自分ができることを他人もできると考えるのは驕るということ。

そういう意味ではわたしは指導者には恵まれてきていると思う。特に楽器関係では。 自分も少しでもそういう風に伝えられるようになっていきたい。

もっとも、今はわたし一人だけど。

沼津第九終了(2010)

2010年12月01日 22時21分51秒 | クラシック
 2010年の沼響第九が終了。まだ録音は手に入ってないが雑感を記す。

 今回もトランペット1人からスタート。最終的には3人にしたが、いい加減自前で何とかしたいもの。
 でも、そのおかげで高校時代の親友K氏と15年ぶりに競演できたのはよい収穫だった。彼にはいろいろなアドヴァイスや示唆を貰った。この場を借りて感謝したい。

 演奏そのものは、正直自分では感触をつかめていない。本番当日の調子がもう一つで、上のAの音の当たりが悪く、最終的に極端に低い替え指「2+Cクラッペン」を使わざるを得なかった。その所為でおそらく上のAは低くなっているはず。高い音の信頼性は未だに低い。
 今回の課題は立ち上がりで鋭くない音。舌に頼りすぎる発音からの脱却。でも自分では身についているとはまだ思えないから今後の継続課題。次はシューマンだから同じようなものでもある。
 本番テンポがかなり遅かったのに吃驚。指揮者とティンパニに合わせるので精一杯で、他への影響を考慮できなかった。
 ティンパニのエキストラさんからは「よく通る音ですね」と言って頂いた。以前の「レーザー光線」はどうやら戻ってきているようだ。毎日外で吹いている成果か?
 そのティンパニエキストラさんとは上手く合わせることができたと思う。団のパウカーからは「吹き方が変わってる」といわれたけど、これはむしろ音色や立ち上がりを変えようとしている結果なんじゃないかといい方に捉えてみる。パウカーによって意識的に吹き方を変えられるほど、まだ制御できているとは言えない。

 それ以外は殆ど何も言われない演奏会だった。指摘がないということが良かったということだとはとても思えないのでそれが今回の最大の不満。ここで書いても仕方ないんだけど、全部前に座ってる人たちのための練習だったから……。
 あとは、演奏会前にレッスンを受けられなかったのが悔やまれる。日程が合わなかった所為だが、古典のロータリィの吹き方などをきちんと教わるいい機会だったと思うと残念。

 上でも書いたが次はシューマンの3番「ライン」。中途半端なラッパの仕事を如何に料理しよう。マーラー版にしてばっさりカットしてくれた方がよっぽど簡単。長管を借りられるか問い合わせして頂いているのが唯一の楽しみか。
 もはや、やりたい曲はできない曲しか残っていない。難しすぎてできない曲と、ありふれすぎててやる機会がなかなかない曲。オケでの目標を見失いそうになっている今日この頃だったりする。
 自分としての課題はたくさんあるけど、それをクリアしたところで使う場面が殆ど無いからなあ……。

 せめて自分が吹きたいと思ったように吹けるようになること。これが最大にして最後の課題。多分これを目標にしていられるうちは大丈夫。大丈夫。がんばろう。

沼津交響楽団第26回定期演奏会

2010年05月31日 22時18分55秒 | クラシック
 去る5月29日は所属する沼津交響楽団の第26回定期演奏会。
 曲目はメンデルスゾーンの「夏の夜の夢」序曲とヴァイオリン協奏曲ホ短調、チャイコフスキーの交響曲第5番ホ短調。担当パートは全部1st。いい加減慣れたけどやっぱりしんどいです。たまには降り曲を作ってその時間でじっくりのんびり教則本なんかさらってみたい。誰かオケに興味ある人いませんか。

 演奏の出来としては、自分としてはまあまあだったかなと。特にメンデルスゾーンのバランスを保つことができたのは良かった。チャイコフスキーは最後のMolto meno mossoで力が入ってしまったのが悔やまれる。そこまではほぼ計画通りだったんだけど計画通り行き過ぎたんですな。

 自分の音は思ったよりよく抜けていて、改善の方向に向かっている模様。マエストロにも良い方に向かっていると褒めていただいた。これもレッスンと日々の練習の賜物。でもとてもじゃないけど満足できないのでさらに頑張る所存です。

 次は第九。11月末。

なんで?

2010年03月25日 00時32分58秒 | クラシック
 うちのオケってなんでこうラッパが定着しないんだろう?
 転勤したり転職したり結婚したり赴任したりで、ここ6年間のうちでもう何人入れ替わっただろう?6人?
 何か悪いことしてるのかな。

 うちのオケは随時メンバを募集しています。ラッパ急募です。あとセンスのいいパウカーこっそり募集です。毒も吐きます。やがて手も出て足も出ます。意味はないです。

中指と薬指のコンビネーション

2010年03月14日 19時06分36秒 | クラシック
 昔から早いパッセージはあまり得意じゃなかったけど、その原因として最近俎上にあがったのが、薬指がらみの運指が上手くないということ。先生には「左利き?」と言われてしまったけど右利きだし。
 トランペットでいうレミとかレ#ミの動きが微妙に遅くて、指と舌が合わないために曖昧な発音になっている。
 それを解消するために地道に指の運動をしているが、なかなか思うように動いてくれない。
 具体的にはクラークのテクニカルの#36を(そのままでなく)本来の運指でさらうと3回くらいで指が攣る。
 まあ、ゆっくりやっていくしかないわけですな。

個性というもの

2010年03月08日 22時51分56秒 | クラシック
 いろいろ捜したけど、結局これが一番しっくり来た。
 個性などというものを信じてはいけない。もしそんなものがあるとすれば、それは自分が演じたい役割ということにすぎぬ。―福田恆存
 他人に合わせたり時代背景に合わせたりして演奏することが没個性なんだとしたら、ラッパは古典を演奏できません。

 2010-03-09追記。
 良い言葉が見つからなかったので自分で。
 あらゆる制約条件の下で、それでも発現してしまうのが個性である。
 天才という個性すら、社会から受容されるという必要条件を満たしてこそ認められる。
 個性的であろうという試みは個性じゃなくて自分勝手では?
 これは全体主義とは違いますよ。

目的と手段

2010年03月08日 22時19分57秒 | クラシック
 ドラッカーだったか、「お金は手段であって目的ではない」という話をイトイさんが紹介していた。確かにお金は目的を叶える手段であり、お金を増やすことは目的そのものではないはずだ。
 さらに一般化に言及されていた。確かにその通りだと思った。
 そして楽器についても言えるのではないかと思った。

 楽器を上手くなるということは「人に正当に聴いてもらう」ための手段であって目的ではない。目的なくして手段なし。目的は手段を正当化することもあるが、手段は目的を正当化しない。自分だけが良いと思っていても他人が良いと感じなければ、それは良い演奏とは言えない。ましてアマオケは、プロと比べるとどうしても技術面は劣っており、聴いて上手いと言える演奏は少ない。そんな中でも自分が音楽を演奏する意味について、常に考えていたいと思う。

田島さんのトランペット

2009年06月28日 23時01分28秒 | クラシック
 静岡市清水区にお出かけ。目的は清水フィルハーモニー管弦楽団の演奏会、もっと正確にいうならトランペット協奏曲。
 読売日響の主席、田島勤さんによるハイドンの協奏曲ということで、聴きに行ったのでした。

 非常に良かったですね。短いEs管だと思ったのですが、暖かみのある音でじっくり聞かせていただきました。ハイドンの軽やかさと穏やかさを存分に味わうことが出来たと思います。
 それを聴きながら、やっぱり説得力のある、人の感情を動かす音には音程とリズムが不可欠なんだなあとつくづく。
 音程は少しサボるとすぐにだめになってしまうので、時々頭の中をチューニングしなければならない。
 リズムはサボるとすぐにだれてしまうので、日頃の練習から背筋の伸びた演奏を心がけなければならない。
 音の諸要素の中ではこれが一番大事で、そして一番出来ていないことだと思ったことでした。

 そういう意味でもとても参考に、勉強になった一日でした。

練習態度というか

2009年06月16日 23時51分44秒 | クラシック
 アマオケでよくあるのが、本番前にならないとメンツが揃わないということ。うちのオケも例外ではなく、特に弦楽器にその傾向が見られる。ちなみにいうとうちのオケは管楽器の集まりは割と良い。
 これってどういうことなのかなとかねがね考えている。とりとめのないまま書きとめてみる。

 練習しなくてもまったく問題なくついてこられるという人は、外部から呼ぶ本当に巧い人を除いてほとんどいない。たいていの場合は練習不足のためにオケ全体の足をひっぱり、挙げ句の果てに必要のない分奏を開かせる。
 練習が嫌いな本番主義者だとしたら、それはアマオケにとっては最も軽蔑すべき態度だと考える。集団に混じって自らの醜い音を顧みることもなくその音をかき乱し、そのオケの音楽の質を落とす。アマオケにとっては本番もさることながら、それに至る過程で隣にいる、周りにいる人間の音に合わせていく行為そのものが目的であり、本番はその到達点であるべきなのだ。
 確かにアマチュアである以上演奏の質に差があることは当然であるが、同じ下手でも練習に毎回参加していればまったく違うことは、周りから見れば明らかである。

 忙しいからと練習に参加しない人間もいる。かくいうわたしもこの3週間、出張で沼津を離れているために練習に参加していない。そういう人間が本番前には忙しくないというのはあり得ることなのだろうか。わたしの場合は上手くできすぎていて、本番が終わった途端に出張が入ってしまったわけだが、本番前だったら出演すら危ぶまれる状況であった。
 詰まるところ、忙しさを言い訳にしてただ練習したくないだけだとも考えられるというのは言い過ぎだろうか。
 例外として考えられることは、家族の協力が、本番前でないと得られないというのはありそうだ。だとしたら気の毒な話である。

 練習は確かにつまらないところもあるだろう。金管楽器の身からすると弦楽器ばかり抽出される練習にうんざりすることもよくある。しかしながら、だからといって練習を嫌いだというのは、不幸なことである。
 自分が練習を通じて上手くなったという、成功体験を自覚していないということなのだから。

 練習に対する温度差があるのは仕方ないのかもしれないが、日頃からの練習について、もう一度よく考えるべきではないかと考える今日この頃である。いまいちだという評価もよく聞かれることですし。それってこのあたりから出てきているのではありませんか。

 あまりとりとめのないまま終わる。