ラッパ吹きの私的つぶやき

沼津交響楽団Tpパートリーダの華麗でも素敵でも詩的でもない私的な音楽的手記。

感受性、音楽性

2011年02月21日 22時58分14秒 | クラシック
茨木のり子さんの詩に「自分の感受性くらい」という有名なものがある。
著作権が存続しているので全文転載はできない。是非本を購入して欲しい。

一番最後の連がもっとも有名で刺激的なのだが、最初の連はこう始まる。

ぱさぱさに乾いていく心を/ひとのせいにはするな/みずから水やりを怠っておいて


音楽性が合わない人間とやっていくのは辛い。
だが、音楽性が合わないことを他人の所為にしては居ないだろうか?
自分の音楽性、自分の音楽の理想にしがみついては居ないだろうか?
自分の音楽性に十分水やりをしているだろうか?

音楽性は自分が示すことはできるかもしれない。
だが、音楽性を他人に強制することはできない。

気づいているだろうか。
音楽性が合う人間とだけ演奏したいというのはただの我が儘だということ。
音楽性が合わない人間と演奏したくないというのも我が儘だということに。

音楽との関わり方を強制することなどできはしない。
プロだろうとアマチュアだろうと、音楽との関わり方は人それぞれ。音楽への気持ちも人それぞれ。
テンションの低い同輩に悪態を吐きながらも、自分のベストを尽くすこと、そして多様性を認めることから音楽は始まるのではないだろうか。

そんな中で自分が如何に貪欲に新しいものを取り入れようとする気持ちを保つかということと、それを如何に同じ仕事をする他人に伝えて同じテンションを与えようとするかということ。それができない奏者はアマもプロも駄目だと思う今日この頃。奏者に限らず会社員でも創作者でも。
自分がすでにできていると満足することも駄目だし、自分が頑張っているということを殊更に他人にアピールするのも駄目だし、自分が頑張るレベルを他人に強制させることも駄目。結局自己完結、自己満足でしかない。そういう人間がこのところ目立つ。
苟も指導的な立場に立ってしまっているのなら、他人を如何に持ち上げ煽ててやる気を出させて最大限の効果を発揮させるかどうかを考えるべし。それができないのなら指導者的な振る舞いをせず口を噤むが良い。
指導的な立場とは指導者に限らない。パートリーダー、先輩、同僚……。

さらに言うなら演奏の不備を安易に他人の所為にする人間が多い。
他人の所為にできるほど自分は万全を尽くしているのだろうか?
人の責任を問えるほど自分の責任を果たしていると言えるのだろうか?
合わせる気もないのに合わせられないと安易に口に出していないだろうか?

他人ができることを自分もできると考えるのは努めるということ。
自分ができることを他人もできると考えるのは驕るということ。

そういう意味ではわたしは指導者には恵まれてきていると思う。特に楽器関係では。 自分も少しでもそういう風に伝えられるようになっていきたい。

もっとも、今はわたし一人だけど。