鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

三方を山に囲まれた自然の要害? 2

2017年01月30日 | 巨城対モンゴル
  鎌倉城内側の切岸2(由比ガ浜通りと鎌倉中心部)
 初期の自然な要害の地は、、当然のごとく防衛力には問題です。
それ以降は鎌倉山の城郭の切岸、砦工事となる訳です。
現在残る遺構は、山の隅々まで人手の入った人工の切岸と曲輪が観察できる。
それを証明するのは、第二次世界大戦終結の昭和21年前後に撮られた空中写真が有り、
鎌倉が都市開発されても、城の証拠は個人宅の平地と裏の崖に存在する。
国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
(当初から地図作製の為の立体視出来る写真。)

私は古典文献に興味が無く、鎌倉の古代東海道に興味が有るのですが、、、
鎌倉城に関わる事情、、城造りの為に古代東海道を寸断した事情が有ります。
更に、その経緯と根拠を知る為に最低限の古典文献を知る必要が起る訳です。
 このブログに書いた裏付け資料として後付の調査確認資料として使っています。
ですから古典文献に詳しい訳ではありません。
鎌倉の城郭遺構のオリジナルは太平洋戦争直後まで空中写真で遡れます。
その上で、古典文献は、遺構の根拠に使っています。
 遺構の存在理由が、古典から導き出される。
過去に述べられた鎌倉の研究図書の著者は『鎌倉は三方を山に囲まれた天然の要害の地』
と書かれるのが一般的ですが、、、、
山に囲まれた市街地側にも切岸が在るのを書かれた文献を見た事が無い。
大概は、社寺、住宅等の裏が切岸に成っているので、住宅を造る為に平地を造ったのであろうと、考えられている。
 この考え方の問題は、
個人宅の平地を造るにも、社寺を造る土地にしても、其処まで大掛かりな崖を個人的な資力で造る事は無い。
それでは、この崖は何か?
それは、切岸である!
切岸は、外敵が侵入する事を防ぐ為の構造物です。
鎌倉の市街を守る為ならば、内側に切岸を作る必要は無いのですが、、、
首尾一貫し、統一された考えの基に、鎌倉の山は切岸が造られ、宅地や社寺の裏だけが崖ではなく、
外部から侵入した外敵が山に登れ無い様な、切岸の造りをしている。

次回へ、、、、

三方を山に囲まれた自然の要害? 1

2017年01月24日 | 巨城対モンゴル
 図は由比ヶ浜より見た鎌倉城内側の切岸1。(スーパーカシバードにて作成)
 
石橋山の戦いは、平安時代末期(1180年)に源頼朝と平氏方との間で行われた戦いです。
石橋山の戦いに敗れ 頼朝、実平一行は真鶴(神奈川県真鶴町)より船で安房国へ入る。
 安房で頼朝は再挙し房総半島より武蔵国へ入った。千葉氏、上総氏などの東国武士が参集して、1か月かけて数万騎の大軍になった。その後10月6日に頼朝は鎌倉に入る。
 
そんな話の背景で、頼朝が鎌倉に入る一ヶ月前の事が吾妻鏡にあります。
〉鎌倉歴史散策の歴散加藤塾別館 吾妻鏡入門
〉  より拝借。
〉治承四年(1180)九月大九日戊午。盛長自千葉歸參申云。
〉至常胤之門前。案内之處。不經幾程請于客亭。常胤兼以在彼座。
〉子息胤正胤頼等在座傍。常胤具雖聞盛長之所述。暫不發言。
〉只如眠。而件兩息同音云。武衛興虎牙跡。鎭狼唳給。縡最初有其召。
〉服應何及猶豫儀哉。早可被献領状之奉者。常胤云。
〉心中領状更無異儀。令興源家中絶跡給之條。感涙遮眼。
〉非言語之所覃也者。其後有盃酒次。當時御居所非指要害地。
 〉又非御曩跡。速可令出相摸國鎌倉給。
常胤相率門客等。
〉爲御迎可參向之由申之
 
今 居られる場所は、 地形がけわしく守りやすい土地ではない、又先祖の謂れも無い場所です。速やかに相模の鎌倉へ行かれるが良い
 
〉城郭研究書の 「日本城郭大系」(1980年著)より引用、
〉  (前略)
鎌倉が三方を馬蹄形に連丘で囲まれた理想的な都城の地形であったためである。
〉千葉常胤は、鎌倉が要害の地であるので本拠地とすることを進言している。
〉  (後略)
 
この赤字の分は、日本城郭大系の著者の創作で原文とは違います。
それ以降は、鎌倉は三方を山に囲まれた『天然の要害』と言う尾ヒレが付き、伝言ゲーム状態と成る。
千葉常胤が進言したのは、頼朝が鎌倉に入る以前の話で、古代東海道が西東に通り抜け、東山道が海蔵寺裏の大堀切より鎌倉市内に入り込んだ、自然な山に囲まれた時代と言えるでしょう。
決して、
現在の様に山裾を切り落とし、人工的な切岸で囲った城構造では無かった。
依って、
現代の鎌倉を鎌倉は三方を山に囲まれた天然の要害』と言うのは、
日本城郭大系に端を発し更に尾ひれを付けた 根拠の無い創作と考えられる。
 
鎌倉は、人工的な工作をされた城で、自然の地形は探すのが困難です。

これまでの纏め 鎌倉城4

2017年01月17日 | 大鎌倉城
学術的には、鎌倉城の調査資料が無いに等い。
鎌倉の三方を山に囲んだ要害は、埋蔵文化財と誤解された為の調査不足。
切岸等の調査は、掘り出さなくても調査できます。
個人的にも調査は出来ますが、調査範囲が七口のラインだけでも数十Kmですから、全容を掴むのは困難です。
その全容は、調査基準を作り組織的に調べる事で全容を示した資料に成る。
既成の鎌倉研究書は、基礎調査が皆無ですから推測や憶測の結論を書くことが多い。

先ずは、、、基礎資料を造る事から始めるべきでしょうが、、、
基礎の何かを考える事から始めて欲しいモノです。
基礎調査はせず、古典文献も無視した先人の研究書を資料にする為、誤解の上塗りをした研究書が多い。
しかし、結論を出さないと本の体裁がとれなくて、、根拠の不明確な結論が出る。

初期は、
頼朝が石橋山の合戦破れ千葉に逃げた時に、千葉常胤氏が「鎌倉は、要害の地で源氏の因縁が有る場所です。其処に居を構えたら如何でしょうか?」から始まります。
この時点では、源平合戦を想定した「要害の地」と考えられます。
中期には、
文永の役(1274年)で元寇が有り、3万の兵と900艘の軍船を見せつけられた!
文永の役の翌年,杜世忠(外交使節で来日した。)を罪人なみに斬ってしまう。
結果は、元と真っ向勝負で博多湾を2mの石垣で囲い その距離20km程を造った。
元の攻撃は、博多や大宰府だけで終わるモノとは考えず、鎌倉まで元が押し寄せる想定をしたのでしょう。
 文献は無いが遺構をみれば、巨大な鎌倉城となり、国中の武士が集まって守る規模の城となった。

後期の実戦では、
新田義貞が鎌倉を攻めたのだが、、、
守備側は、守る人員が足りずに、七口を繋ぐ防衛ラインと台峰や稲村ヶ崎を守る範囲に兵を配置した様である。
その防御は効果絶大で、新田軍の攻め込んだ場所は城壁の切岸は越えられず、、切岸の切れた稲村路と、異常気象に依る海底の岩場が現れ、鎌倉市内に兵を送り込めた。
 この異常気象が味方をして鎌倉城を陥落できたと、文献に書かれている。

初めから、鎌倉城を守るには、莫大な兵士を必要とし、日本全国の武士が集まって元寇を迎え撃つ城です。
逆に、兵士が少ない時は、城として機能は困難となる。

新田義貞の鎌倉攻めの>後に、鎌倉で数度の戦いが有ったが、守勢が負けている。
弱小氏族の少人数で鎌倉城は守れないし、戦った場所は、七口の内側の館の戦いであった事で、
鎌倉城を使った訳では無いのです。
「日本城郭大系1」の鎌倉を知らず無知で矛盾を含む記述を鵜呑みにされた机上の研究者が大半の様です。

さて、次回は鎌倉城の機能として「鎌倉の町を守る為だけじゃなかった!」
だけでなく、私の想定したより更に大きかった。という話です。
この続きは『巨城対モンゴル』へカテゴリーを変えます。

これまでの纏め 鎌倉城3

2017年01月16日 | 大鎌倉城
鎌倉城は個人的に調査するには広過ぎて手に余る!
その為 私自身が出来る限り避けて話をしていたのですが、、、
近年グーグルでも、国土地理院でも精度を上げ視覚的にも地形を把握できる地図が閲覧でき、
更に全体を見渡せる優秀な地図アプリが使える様になり、
私の個人レベルで鎌倉城の全容が掴める様になった。
居ながらにして、鎌倉の地形を把握できるのが現在です。

話は変わり、
元寇で、博多湾に石垣を積み元寇に備えた!
その土手の長さは、20㎞になるそうです。それには関東武士の話が出て来ない。
トンデモナイ対元寇の砦です。
押し寄せる敵も当時の世界では最大の軍船団であり、、、水際作戦です。
その水際が破られたら、、何を考えるでしょうか?
その敵を迎撃するに必要な城は、国中の兵士を集めて戦う広大な城になります。
元朝は、人類史上最大規模の国土の広さと、兵力のモンゴル帝国の末裔です。
その巨大な軍隊を迎え撃つ為の、国中の武士が集まり守る城であったのです。
鎌倉城の成り立ちの根底に在る背景です。
問題は、文献が無いのです。だから研究の手掛かりがない??
それは、机上の鎌倉研究をする学者のいい訳でしょうね。
見方が理解できれば、素人でも理解でき調査が出来る 人手で作り上げた切岸と城です。
その証明は鎌倉城の山に刻まれた遺構が示すわけです。

「鎌倉を世界遺産に!」
何が武家の鎌倉なんだろう??
鎌倉城の話は全く無し!
鎌倉時代の建築は無し!(円覚寺の舎利殿のみ、荏柄天神は別物)
鎌倉時代の武士の作法や伝承はなく、実態は江戸の武士の延長と私には思える。
地下の埋没した埋蔵文化って、見る価値が有りますか??その前に見れる様になってないでしょ!
それを「世界遺産」の認定資料に考えたようですが、価値無いでしょ??
鎌倉には
世界に誇れる巨大な城の痕跡が有ります。
大手の土地業者が分譲をしない限り、、、、
地形は残る。その風景も樹木や個人宅の裏にキッチリと残っています。
誰も、調べないし、
吾妻鏡や太平記に書かれた事を無視して、
公的機関は巨大な城を資料が無い為に消し去った!
資料が無いのでなく、資料を作らない過ちです。
大企業が土地造成をしない限り城の遺構は残るのです。
倉久保の谷戸、台峰等、大事な遺構は、徐々に宅地化されようとしています。
広町緑地の様な市民の力は無いのでしょうね、、
鎌倉に城は無かった~! 何て言う説を真面に信じた市民が居る訳です。
私自身は、元鎌倉市民でしたが、、  今は選挙権が無い!

これまでの纏め 鎌倉城2

2017年01月12日 | 大鎌倉城
古代の鎌倉に入る官路は、
古代東海道が鎌倉を通過するので、入り口と出口が有った。
東山道武蔵路と称される群馬県太田市より武蔵国衙へ向かう道と、その延長の
武蔵国衙より鎌倉へ向かう東山道相模路の直線路が鎌倉に入る。
平安時代には、
東山道相模路は 座間(府中-野津田-座間のルート)より座間の星谷寺を通り、
海老名(相模国分寺)に向かい綾瀬より藤沢のイスズ自動車脇の水道路(仮想伝路)より立石、玉縄城脇より倉久保谷戸に入る道を想定するのですが、この経路を鎌倉では武蔵大路と呼ばれたと考えています。
武蔵大路は「唐糸草子」に書かれた経路であり、途中立石と白幡神社に分岐し、白幡神社より江の島を目指す経路を「唐糸草子」には書かれている。
別路の藤沢の立石より玉縄城脇より倉久保谷戸を通る大道が倉久保谷戸の中で消える。
鎌倉市内には武蔵大路の呼称が存在した。
その倉久保谷戸と市内の間に埋められた切通が在る筈です。
その痕跡は、何処なのか?

更に、
古代東海道が都より鎌倉に入るとき梶ヶ谷から入る事が想定されるが、
そこからは、化粧坂の上より源氏山、寿福寺脇に向かう。
ここで問題は、、、、
化粧坂の上より源氏山へ向かうのは不自然で、切通が存在したと考えるのです。
鎌倉時代は源氏山へ道があったと考えても、それ以前の時代は切通が有った筈が、
埋めた痕跡が不明です。

憶測できる場所は、、、何か所も有るんですね!
もう一段精度を上げて憶測から推測のレベルに上げる必要が有る。
確証するには、、、堀出すって、、個人レベルの出来る事じゃ無い!
所詮、お遊びですから、推測するのも楽しいかな?

これ等の鎌倉市内に入る切通を城造りの為に塞いだのは明白ですが、、
それが開いていれば、
新田義貞は稲村ヶ崎まで遠回りをして攻める必要は無かった。
言い換えれば、切通が塞がっていたので、稲村ヶ崎に行った訳です。
次は、城の成り立ちの経緯です。
新しく珍説を出す必要は無く、netに有る情報をマトメレバ良い訳ですが、、

これまでの纏め 鎌倉城1

2017年01月07日 | 大鎌倉城
明けまして オメデトウございます。

このブログの主旨は、鎌倉周囲の古代東海道を探す事ですが、
これまでの経過をマトメてみましょう。

古代道は、鎌倉城を造る時の障害になる為に巨大な切通は埋めてしまった!  
  っと
考えられます。
イヤでも鎌倉城と関わる事になってしまうのです。

当然 切通を埋めた痕跡は残ります。
埋めた痕跡は、鎌倉城を造る痕跡でもあります。
平安時代まで、古代東海道と東山道相模路が鎌倉の市内に入り込み、楽に往来出来たのですが、
城造りの為に大道は塞がれ、唯一朝比奈峠のみが道幅を狭められ、押し寄せる敵を攻撃し易い様に道を改造した。

他の埋めた大切通の痕跡は明確な物では、東山道相模の切通で、海蔵寺裏の大堀切です。
明確ではないが、、その他の埋められた切通は数か所あり、、
武蔵大路の別経路や古代東海道の都からのの入り口となる切通が存在すると考えられる。
各々一か所ずつではなく、、数か所の痕跡と思われる場所が有る。