鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘 9

2016年06月21日 | 鎌倉の古代
 上は、戦前の江の島稚児が淵の絵葉書で見る波蝕台です。
6000年前より海面は安定し2~3m程度の変化と思われます。
特異なのは関東大震災で、1m程隆起した事です。
波蝕台がこの様に平らな面をしている事は、6000年間海面の大きな変化は無かった事を示しています。

古墳時代の海水面水位の話ですが、一般的に考えられている事は、
〉根拠不明なまま、憶測で古墳時代の海水面は今より高い位置にあり、
〉「海岸線は陸地に入り込んでいた!」と考える方が多々居ります。
鎌倉の海岸においても、この墓の標高を根拠に現代とサホド変化が無かったと結論できます。

長谷小路石棺の標高6.8mは、台風の高波等を考えれば、妥当な高さと思えます。
更に関東大震災以前を考えれば、長谷小路石棺の標高5.8mです。

何を言いたいか?
新田義貞の稲村渡渉の話が絡みますし、
古代東海道の平塚から鎌倉までの砂地絡みの土地は、標高が4〜5mの場所で、縄文海進が5m以上もあり海岸線が陸地に入り込んでいたと推測されると、新田義貞稲村渡渉は、空想の話。
平塚の古代駅路の遺構も、成り立たなくなる。
この説に反論する決定的な証拠として石棺墓の標高が証明している訳です。

波蝕台っと言う現象があります。
著明なのは、江ノ島の岩屋に行くと、海面より一段上がって岩が平坦に成っています。
この平坦な岩は波の力で侵食された場所で、海面の高さで浸食され出来上がった岩です。
以上を根拠として、江の島鎌倉周囲の1000年程の海水面の増減は殆んど無いと結論します。

ちなみに、関東大震災時に1m程湘南海岸は隆起した事が知られています。
ですから、この長谷小路石棺の明治時代の標高は、5,8mです。

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2016年06月17日 | 鎌倉の古代

  上は、見学会パンフレット。
長谷小路遺跡の現在の標高は、11m です。
その4~5m下に石棺墓が出土した訳です。
その標高は 11m-4m=7m っとなります。
台風の高潮等も考慮に居れれば、海水面より7mの高さは妥当な設置高度と思えます。
それでも、海の砂は墓から2mの高さに堆積した訳です。
堆積した砂の内訳は、、、
風に運ばれた!
津波で海岸の砂が運ばれた!等が考えられます。
その砂の高さが墓から2mで、平安後期~鎌倉初期の地表のレベルです。
それから上の地層は、人工的に土砂が盛られた!

パンフレットに紹介された写真。
平安後期~鎌倉初期の砂地の上に2mの高さの土砂が この周囲全体に盛られたのですが、
一個人が家を建てる為にその様な事をやるか?
藤沢市の海岸より内陸へ4㎞は、別荘地で有名ですが、皆砂地の上に家を建てます。
何の目的の盛り土か?
土木工事としても一個人のやる土木として、規模が大きすぎます。
畠が造られている様子が明治の絵地図に有りますが、
畠の為には、1mも土を載せれば十分ですし、この土は畠を造るには、不向きな土砂です。
それでも、砂地よりは良いだろう、、、と言う事で畠の時期も有った。
明治以降、誰がこの様な土木工事を何の為にやったのか?
当時の大規模土木工事は、震災後の稲村ヶ崎の埋め立て工事ですが、、
長谷小路でもやったなら、石碑の一つも立っていると思います。

その様な訳で、
昔、、周囲の山を加工した残土を捨てたと解釈するのが、私の憶測です。

鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘 7

2016年06月15日 | 鎌倉の古代

先ずは、上の地層の年代です。
平安後期~鎌倉初期の上に砂地とは異質な土砂が乗っています。
この土砂の地層は「明治時代」との説明です! 稚拙で考えのない 無神経な回答と考えています。
この地には、室町、戦国、江戸時代は無かったのか????



上の写真 石棺の上数十㎝が平安時代の住居跡で4~5m程の深さがあり、
深さの半分は砂地で、あとの半分は出所不明の土砂で、この場所だけでなく、写真に写る断面は同様な土砂の盛り土の状態です。
其処から、、、何が考えられるのでしょうか?

この石棺墓発掘の当初から考えた周囲の山を城の形に作る残土を捨てた!!
とは単純に考えられないが、、、
可能性は十分にあるかも、、、

情報が不足ですから結論を出せば、憶測の範囲ですがね、、、
下から中程迄の砂地の説明は?何でしょうね、、貴方はどの様に説明しますか?

鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘 5

2016年06月13日 | 鎌倉の古代

さて、、
見学会ですが、
肝心の説明する人は距離を置かれた状態で、質問が出来ません。
問題は、地層の状態ですが、、、
半分から下は砂地で、上半分は見た通りの土砂です。
人工的な埋め立ても絡む訳です。
どの様に解釈したらよいのか?
さとう-さんの説もお聞きしたいのですが、、、
どうせ、情報不足で憶測となるのですが、、、必要なのは確証のある答えでなく、
多様な考え方が欲しい訳です。

未だこの件は続く予定です。

鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘 4

2016年06月12日 | 鎌倉の古代
> 堆積土砂の起因 (さとう)
> 12日に開催される説明会で是非調査担当者にご確認ください。
> フォローアップをお待ちしています。

発掘現場見学会見学してきましたが、、、
鎌倉市教育委員会文化部文化財課と話が出来る雰囲気ではなかった。
それでも、シツコツ係員に質問をしたのですが、
埋もれた状況=特に深さが異常である事については『見解無し!』
要は、調査担当者にとっての価値は、埋蔵物だけに価値が有り、そこから現代までの経過は不要と言う事なのでしょう。
特にこの場所は、津波の浸水予定地で津波対策の建築物を造る事情もあり、より深く掘り進めラレタヨウデス。
通常、砂地で3mも掘り、何も出なければ諦めるのが普通の考えですから。
そんな前例は、海蔵寺裏の大堀切調査で数m掘っただけで埋め戻した経緯が有ります。
最大の収穫は、墓の直上の層には平安時代の居住跡があり、墓との深さは数十㎝で有ったそうです。
よって、墓の深さ=「平安時代の深さ」っと考えて良さそうです。
この場所の深さの原因は、人為的な土砂だけでは無い様で、
 砂地で半分以上が埋もれた状況です。

鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘 3

2016年06月10日 | 鎌倉の古代

   緑に囲まれた場所を掘り起こしたのです。
少ない情報を総合すると、、、、、
箱式石棺墓が出土した江ノ電「由比ヶ浜駅」より200m西に「染屋太郎大夫時忠邸址」の碑が有り、駅の北に50mには石棺墓発掘場所です。
染屋太郎大夫(由井の長者)の頃は、鎌倉の長者窪を源流にしたイタチ川周囲の製鉄業が鎌倉を栄えさせたと考えられ、時期も合致する。
長者の息子は、奈良の大仏を企画した僧良弁(689年~)と考えられている。
この僧良弁は、手塚治虫「火の鳥」にも出てくる。

藤原鎌足は、中大兄皇子の側近として大化の改新を行っている。
藤原鎌足の孫は染屋太郎大夫時忠と言われその子は僧良弁となる。
鎌倉は、当時から製鉄で栄え『鎌を埋めた伝説』の鎌倉命名の元祖が藤原鎌足となります。
そして、唯一東海道と東山道の接点が有る場所です。
それらの背景が有る箱式石棺墓発掘です。

鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘 2

2016年06月10日 | 鎌倉の古代

場所は、上図の黒くチェックされた鎌倉市由比ガ浜三丁目11-48の「長谷小路周辺遺跡」です。

> 古墳時代(五~七世紀)の箱式石棺墓と、ドコウ墓が出土した。
> 墓の場所は海から400m程の江ノ電「由比ヶ浜」の北側50mです。
> 8~9世紀の竪穴住居跡の下の層に在った。との事です。

■古墳時代中期~後期(五~七世紀)の時代は、、、
新羅、仏教伝来、聖徳太子、法隆寺の時代です。
646年(大化2年)改新詔の「駅馬,伝馬」は東海道を造る事始めです。
この東海道は、鎌倉を通り東京湾を船で渡ると考えられている。
663年の白村江の戦いは、大宰府の水城の築城に係る話で鎌倉城築城の参考に成ったと思われる遺構です。後の元寇の話につながる。 それが五~七世紀です。

■8~9世紀の時代は、794年平安京に遷都し平安時代に成る。


         写真はTVKの放送画像。
其処で問題は、
この平安時代の住居跡のスグ下の地層から墓が出土した訳です。
平安時代までは墓のスグ上=低い場所に人が住んでいた訳で、、、
平安時代より 鎌倉時代にかけてこの地層(人の丈3倍程=4~5m程)が作られた訳です。
この土は何処から運ばれたのか?
海の砂? どうでしょうかね、、、
私には、砂の集積では無く、人為的な土に思われます。

何を言いたいのか?
「三方を山に囲まれ,一方は海に面した天然の要害の地」と言われた。
それは、平安後期の頼朝が来る前の都を選定する基準です。
都を移した後!!!
頼朝が三方を山に囲まれた地形を如何に城として作り替えたか?
その問題です。鎌倉の山周辺を見れば、決して自然な形態ではなく、切岸遺構等の人為の改造が施されている。
机上論の学者は、現実の遺構を見ずに古文献ノミを「後生大事に疑いもせず信じている。」
現状を調べずに、、、研究の手を抜いた訳です。
古文献は当時の状況の概要が書かれている。しかし、その詳細は書かれて無い。
自然の山を切り崩した城造りですが、その土砂を何処に運んだのか???
土砂を捨てた場所の話です。

鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘

2016年06月08日 | 鎌倉の古代

鎌倉時代の話が大半の『武家の都鎌倉』ですが、

> tvkニュース(テレビ神奈川) 6月7日(火)14時23分配信
> 鎌倉市内で古墳時代の箱式の石棺墓と埋葬された人の骨が発掘されました。
> 石棺墓が見つかったのは鎌倉市由比ガ浜の海岸から400メートルほど
> 内陸に入った遺跡の発掘現場です。
> 石棺は深さが45センチ、長さ2メートル30センチ幅およそ1メートルで、
> 数十個の石が長方形に積み上げられています。
> 5世紀から7世紀ぐらいの古墳時代の石棺墓が鎌倉市内で発掘されたのは
> 初めてですが、県内では13例目で主に三浦半島エリアで出土しています。
> 一方、人骨は身長が155センチほどで骨の形状や成長度の分析から10代半
> ばの男性と推測されています。
> 鎌倉市は発掘現場を今月12日に一般公開する予定です。


興味が有るのは、異常に深い場所に埋められている事です。
何故深い場所なのか?
その埋葬方法の石棺も鎌倉においては特異です。
結論を出すには、情報が少なすぎです。