大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

宮本小一と柳川熊吉の事

2023-02-23 | その他

碧血碑のそばに宮本小一による詩碑があった。宮本小一はもと幕臣で,神奈川奉行支配組頭を勤め、維新後外務省で外務大丞,外務大書記官を歴任、明治期に外交官として活躍した。
この碑は明治三十四年(1901)に碧血碑を参詣したときに詠んだものだと言う。

碑文
戦骨全収海勢移紛華誰復記當時鯨
風鰐雨函山夕宿草茫々碧血碑
明治三十四年八月来展題之 東京鴨北老人宮本小一

ここを訪れた石川啄木も歌集「一握の砂」の中に、「函館の 臥牛の山の半腹(はんぷく)の 碑の漢詩(からうた)も なかば忘れぬ」の歌を残している。
熊吉は江戸に生まれ、本姓は野村。安政三年(1856)、箱館に渡り、箱館奉行堀織部正の下僕となる。奉行の好きな柳川鍋をよく作った事から、柳川と呼ばれるようになったという。熊吉は戊辰戦争での箱館での戦いで、東軍戦死者の遺骸が野に横たわるのを、深く痛み、實行寺十六世日隆師と相談し、谷地頭の西丘に葬り祀った。のち有志の者が石を建て、これが碧血碑と云う。柳川翁之壽碑は大正二年(1913)、熊吉が八十八歳の米寿を迎えたのを記念し、柳川翁の義挙を後世に伝えるため壽碑を建立した。篆額は林董による。林董は下総佐倉藩蘭方医佐藤泰然の末子に生まれ、文久二年(1863)幕府医家林洞海(松本良順の弟)養子となり、林董三郎を称し、戊辰戦争では箱館の榎本軍に参加、のち岩倉使節団に随行、明治四十年(1907)、伯爵に昇叙。大正二年(1913)七月に亡くなっている。

柳川翁之壽碑
前逓信大臣正三位勲一等 伯爵林 菫篆額
翁名熊吉姓野村後有故改柳川江戸人少属侠
客新門辰五郎夙有名始来北海為函館奉行堀
織部正所知侠名愈顯戊辰之役東軍来據函館
也受巨師榎本武揚君之親信蓋曩榎本君年十
六七以在奉行織部君之家之時有面識故也後
東軍之敗于五稜郭也遺骸横野而無復顧也者
翁深惻之與當山十六世日隆師相謀収葬之於
谷地頭之西丘而歳時祀焉後有志者建石題曰
碧血碑翁今茲齢八十八猶矍鑠因欲傳翁之義
挙于不朽今記其梗概建諸血碑之傍云
 大正二年癸丑六月
日蓮宗一乗山實行寺十九世權僧正望月日謙誌
   羽陰 龍湖       石川重友書

函館市の説明板に「柳川熊吉は、安政3(1856)年に江戸から来て請負業を営み、五稜郭築造工事の際には、労働者の供給に貢献した。明治2(1869)年、箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は、「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集め同寺に葬ったが、その意気に感じた新政府軍の田島圭蔵の計らいで、熊吉は断罪を免れた。明治4(1871)年、熊吉は函館山山腹に土地を購入して遺体を改葬し、同8(1875)年、旧幕府脱走軍の戦死者を慰霊する「碧血碑」を建てた。大正2(1913)年、熊吉88歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、ここに寿碑を建てた」とあった。

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函館 立待岬から碧血碑へ

2023-02-16 | 掃苔

「北の岬に咲く浜茄子の 花は紅未練の色よ 夢を追い掛けこの海越えた」
「無敵かすめて飛び交う海猫よ もらい泣きする情があれば 北の女の一途なおもい」
これは吉田旺作曲、森昌子が歌った立待岬の歌詞の一節です。岬のまえに陸地が見えた。

立待岬から対岸の大間岬まで28.2k、案外近いなと思って乗り出して海を見たら岬の下から陸続き、見えたのは、何のことはなく函館市の一部だった。函館市の説明板に「この地名は、アイヌ語のヨコウシ(待ち伏せるところ、すなわち、ここで魚を獲ろうと立って待つ)に因むという」とあった。アイヌの人達は海に潜らなかったのだろうか。岬には海猫も浜茄子も見当たらず、待っていても誰も来る気配もなく、寂しくなるまえに退散した。
函館八幡宮に寄った。


文安二年(1445)亀田郡の領主河野加賀守政通が函館に城郭を築き、その東南隅に八幡神を勧請したのが始まりと伝える。文化元年(1804)、函館奉行所交代屋敷新築に当たり幕府の費用を以て会所町に奉遷、明治十一年、同十二年両度類焼の災厄にあい、明治十三年、谷地頭に奉遷し現在に至っているという。祭神は「品陀和気命(ほんだわけのみこと)住吉大神(すみよしのおおかみ)金刀比羅大神(ことひらのおおかみ)」。
本殿の扉に烏の団扇が飾ってあった。八咫烏かと思ったら、大した由緒も無かったので、そのままスルーする。近くの妙心寺の裏山にある碧血碑に向かう。碧血碑への道を探して妙心寺本堂の裏をうろうろしてしまった。妙心寺の行き止まりにある駐車場の脇に登り道があった。


大正二年函館区宅所発行の「函館案内)に、「碧血碑は区内谷地頭町の山麓老樹鬱葱の処に在り戊辰の役佐幕党の勇士土方歳三他二百有余名の戦死者を吊はんか為め榎本大島等の有志に依て建設せられ」とあり、明治八年(1875)五月に建立された。台座裏に「明治辰巳実有此事 立石山上以表歔志」とあった。原文は「以」文字の俗字、「口編に人」、なんでこの文字だけ俗字をつかったのだろうか。似た字に、二つ折りしたムシロの意味を持つ「叺(かます)」いう文字がある。ここは幕府軍の戦死者の埋葬場所、いろいろ想像をたくましくしてしまう。明治四十年に榎本武揚が作成した「明治辰巳之役東軍戦没者過去帳」の序文に「戊辰ノ役我軍ニ属シ凾館其他ノ各地ニ於テ戰死シタル者ノ遺骨ハ當時憚ル所アリテ之ヲ顧ミル者殆ンドアラザリシニ、侠客柳川熊吉ナル者アリテ實行寺ノ住職ト胥リ自ラ収拾ノ勞ヲ取リ之ヲ谷地頭ノ丘阜ニ埋葬ス後同志者相謀リテ一片ノ目表ヲ立テ碧血碑ト名付ク」。碧血は中国の故事「其血三年而化為碧」からだという。誰が碧血と言い出したのだろうか。七回忌の明治八年によく大きなこの慰霊碑が建設できたと感心する。ある史料に石代、千弐百五拾参円圓七十四銭。海陸運賃、五百八拾弐圓など建築計算で合計三千百五十九圓七拾参銭七厘二毛とでていた。海舟日記に石碑の不足分を大鳥圭介、沢太郎左衛門に依頼され、沢に碑石寄附金百五十両渡したとある。海舟が管理していた徳川家の金から捻出したのだろうか。

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函館住吉共同墓地(雑賀重村墓)

2023-02-09 | 會津

共同墓地入口から立待岬に向かう道の途中左側に石川啄木一族の墓がある。

入口から1本目の街路灯の手前に小池毅の墓があり、その先の2本目の街路灯(石川啄木墓の手前約20m)、山側の石段の先に三基の墓石が並んでいる。

左側 故□□郡長雑賀重村之墓 明治十三年九月十日
中央 □生院釈如泥居士  一瀬重文之墓  明治十六年十月三十一日
右側 秀道院釈精砲居士 一瀬朝春之墓  明治十六年四月十二日

会津の一瀬という姓は前から気になっていた。高遠内藤藩士で伊那一ノ瀬を出自とする家から我家を継いだ人がいる。同姓同紋で秀禅といい、なんでも駕籠に乗ってきたと伝わっている。
会津藩家老の一瀬家は諸士系譜によると、本姓滋野、本国信濃で、今回訪ねた函館住吉に眠る一瀬・雑賀家は本姓藤原、本国紀州とあり別家だという。保科正之に仕えた初代一瀬左兵衛直長は高遠勢として武田勢と青柳峠にて戦い討死した一瀬越前守直忠の長男で、そのあと保科弾正正直に仕えた。この一瀬氏は諏訪一族ともいわれる笠原中務少輔政直次男が伊那市野瀬にあり、地名を屋号としたのが始まりという。
会津の勘助系一瀬氏は要略会津藩諸士系譜によると、鈴木太郎利重十五代雑賀孫市十重兵嫡男、一瀬勘助忠春が二代正経(鳳翔院)に供番として仕えたのが始まりで、中央の墓、一瀬重文は名を醒畝、字を郷助重文。雅号は如泥と称した。

右側の墓、一瀬朝春は会津藩士一瀬重文の長男で、名は勘助、雅号を朝春という。

明治四年、斗南県司民掛開拓課に任じられる。開拓使の測量の画工として、明治五年二月から四月にかけて、開拓使浦河支庁の命を受け、鵡川、空知川の河源より、十勝川河原までの各地に標木を立てた記録「北海道河源探討記」、日高の諸河川を遡り、水源を調査した跋渉記「「北海道跋渉雑記」等を残している。
左側の墓の雑賀重村は、会津藩士一瀬郷助の四男(三男?)として生まれ、はじめ一瀬紀一郎、のち雑賀孫六郎、雑賀重村と改名している。(写真右: 一瀬家墓域を背に函館湾を眺める)

安政元年(1854)、幕府目付堀織部正利煕、勘定吟味役村垣範正らの蝦夷、樺太視察に同行した一瀬紀一郎(雑賀重村)は蝦夷樺太の風景、「蝦夷回浦図絵」を残している。安政二年(1855)蝦夷地を直轄地とした幕府は奥羽諸藩に国境の北方警備と領地の開拓を命じた。会津藩は万延元年(1860)から慶応三年(1867)まで続いた。北方警備の拠点として本陣を標津に置いた。標津の初代代官を務めたのが会津藩士の一瀬紀一郎で、このとき纏めた「北辺要話」が残っている。ちなみに、文久二年(1862)からの二代目代官は会津藩士南摩綱紀が勤めている。のち会津藩江戸金杉陣屋詰の蘭学専修生として雑賀紀一郎の名がある。鳥羽伏見の戦いでは大坂城に残っていた御用金を運び出したと言われている。戊辰戦争では開陽丸に乗り戦った。戊辰後、斗南への移送の為、外国船(ヤンシ―号)雇入れにかかわる。明治四年一月、開産掛として斗南藩に勤めたが、同年九月開拓使に雇われた。明治十二年、開拓使は全道に郡区役所の設置を決め、茅部山越郡役所の初代郡長を雑賀重村が務めた。

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函館住吉共同墓地(小池毅墓)

2023-02-02 | 會津

2022年冬、北海道函館に半世紀振りに行った。早くからホテルの予約はしていたが、旅行の一週間前から観光庁の全国旅行支援が始まり、慌てて予約を取り直した。北海道は旅行代金の40%とプラス平日3000円が補助されるという。何か凄く得をした気分になる。
 
函館市営住吉町共同墓地にある会津関係の墓碑を訪ねた。ここは函館駅からは南に約3K。市電の終点谷地頭からは750mと距離は短いが坂道が続く。
入口の浄土宗地蔵堂の前にある前にある石柱から中央道、最初の街路灯から約5m手前に陸軍二等軍医正七位勲六等小池毅の墓碑がある。
 
小池毅は会津藩侍医小池求真の三男で、東京済世学舎で医学を学び、のち伝染病研究所助手となる。征清役が始まった翌年の明治廿八年、陸軍三等軍医に任じられる。明治廿九年一月、ペスト病が大流行していた台北に赴任、同年六月より衛戍病院附きとなる。ペスト病研究に従事中、ペストに感染し明治三十一年二月廿八日、二十四歳で死去、その年の四月、函館の尻沢辺墓地(現市営墓地)に葬られた。著書に「新纂医術後期試験問題答案軌範」「百斯篤菌鎖談」などがある。

陸軍二等軍医正七位勲六等 小池毅墓陰刻
小池君諱毅父名求眞為旧会津藩侍医母同藩士有賀氏三女也君幼時在
小学以秀才顕年十六負笈游東京入済生学舎学医三年而卒業後従北里
博士攻黴菌学為伝染病研究所助手征清役起也君任陸軍三等軍医敍正
八位尋進二等軍医敍正七位役畢以功叙勲六等賜瑞宝章及金若干并従
軍記章翌年一月奉命至台湾在新竹及台北衛戍病院当此時台地悪疫流
行兵士多死君専擔任伝染病室及病理試験室朝夕出入猛毒瀰蔓之間拮
据奮励多所救済矣又加生蕃地探検隊跋渉山川鋭意研究斯道欲以明前
人未発之原理而益後世也纂一書曰百斯篤菌鎖談其他著書数十部其功
績偉矣猶将大有為不幸為悪疫所侵竟卒享年僅二十有四実明治三十一
年二月廿八日也君以前途多望之身遂斃其職猶将士之斃炮丸也可謂忠
烈矣人皆深悼惜焉是歳四月十六日葬於函館尻澤辺墓地建碑以表其墓
余嘗識君揮涙書其梗概
             明治三十一年十二月 小川景義撰并書

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