大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

函館 立待岬から碧血碑へ

2023-02-16 | 掃苔

「北の岬に咲く浜茄子の 花は紅未練の色よ 夢を追い掛けこの海越えた」
「無敵かすめて飛び交う海猫よ もらい泣きする情があれば 北の女の一途なおもい」
これは吉田旺作曲、森昌子が歌った立待岬の歌詞の一節です。岬のまえに陸地が見えた。

立待岬から対岸の大間岬まで28.2k、案外近いなと思って乗り出して海を見たら岬の下から陸続き、見えたのは、何のことはなく函館市の一部だった。函館市の説明板に「この地名は、アイヌ語のヨコウシ(待ち伏せるところ、すなわち、ここで魚を獲ろうと立って待つ)に因むという」とあった。アイヌの人達は海に潜らなかったのだろうか。岬には海猫も浜茄子も見当たらず、待っていても誰も来る気配もなく、寂しくなるまえに退散した。
函館八幡宮に寄った。


文安二年(1445)亀田郡の領主河野加賀守政通が函館に城郭を築き、その東南隅に八幡神を勧請したのが始まりと伝える。文化元年(1804)、函館奉行所交代屋敷新築に当たり幕府の費用を以て会所町に奉遷、明治十一年、同十二年両度類焼の災厄にあい、明治十三年、谷地頭に奉遷し現在に至っているという。祭神は「品陀和気命(ほんだわけのみこと)住吉大神(すみよしのおおかみ)金刀比羅大神(ことひらのおおかみ)」。
本殿の扉に烏の団扇が飾ってあった。八咫烏かと思ったら、大した由緒も無かったので、そのままスルーする。近くの妙心寺の裏山にある碧血碑に向かう。碧血碑への道を探して妙心寺本堂の裏をうろうろしてしまった。妙心寺の行き止まりにある駐車場の脇に登り道があった。


大正二年函館区宅所発行の「函館案内)に、「碧血碑は区内谷地頭町の山麓老樹鬱葱の処に在り戊辰の役佐幕党の勇士土方歳三他二百有余名の戦死者を吊はんか為め榎本大島等の有志に依て建設せられ」とあり、明治八年(1875)五月に建立された。台座裏に「明治辰巳実有此事 立石山上以表歔志」とあった。原文は「以」文字の俗字、「口編に人」、なんでこの文字だけ俗字をつかったのだろうか。似た字に、二つ折りしたムシロの意味を持つ「叺(かます)」いう文字がある。ここは幕府軍の戦死者の埋葬場所、いろいろ想像をたくましくしてしまう。明治四十年に榎本武揚が作成した「明治辰巳之役東軍戦没者過去帳」の序文に「戊辰ノ役我軍ニ属シ凾館其他ノ各地ニ於テ戰死シタル者ノ遺骨ハ當時憚ル所アリテ之ヲ顧ミル者殆ンドアラザリシニ、侠客柳川熊吉ナル者アリテ實行寺ノ住職ト胥リ自ラ収拾ノ勞ヲ取リ之ヲ谷地頭ノ丘阜ニ埋葬ス後同志者相謀リテ一片ノ目表ヲ立テ碧血碑ト名付ク」。碧血は中国の故事「其血三年而化為碧」からだという。誰が碧血と言い出したのだろうか。七回忌の明治八年によく大きなこの慰霊碑が建設できたと感心する。ある史料に石代、千弐百五拾参円圓七十四銭。海陸運賃、五百八拾弐圓など建築計算で合計三千百五十九圓七拾参銭七厘二毛とでていた。海舟日記に石碑の不足分を大鳥圭介、沢太郎左衛門に依頼され、沢に碑石寄附金百五十両渡したとある。海舟が管理していた徳川家の金から捻出したのだろうか。

コメント
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