当ブログにひとかたならぬご協力をいただいている小浜逸郎氏の新著を紹介します。PHP新書『新訳 歎異抄 「絶対他力』の思想を読み解く」(950円税別)です。「わかいやすい新訳で読む古典の名著」シリーズの一冊です。だから、PHP新書のイメージ・カラーの小豆色ではなく、薄紫色の新書です。
「歎異抄」とは、親鸞が語った「悪人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の悪人正機説で有名なあの 「歎異抄」のことです。それを、小浜逸郎氏ならではの明晰な現代語訳と懇切丁寧な解説で紹介したのが本書です。それを10ページ分の「はじめに 『歎異抄』を文学として読む」と38ページ分の「付論 近代人の片思いを捨てて『歎異抄』に接する」が前後をはさんでいます。「はじめに」に次のように書かれています。
『歎異抄』も、単なる抽象的な思想信条を書き並べたものではありません。それは、唯円の生々しい創作意欲によって書き起こされたという意味で、一種の文学作品なのです。
そこで私は、この事実を訳文に反映させるために、それぞれのモードに応じて文体を変えることを試みました。親鸞自身の言葉に対してはやわらかな説明口調を、対話編には物語口調を、唯円の説法の部分にはやや硬めの「である」調を、といった具合です。
このようにしてこそ、唯円作とされる『歎異抄』という作品の奥行きの深さが立体的に現われ、ひいては、そのなかでの親鸞像がますます精彩を増してくると思うのですが、いかがでしょうか。ご判断は読者の皆さんにお任せいたします。
著者のその目論見に対して、いまここで私があれこれ言うのは差し控えます。著者の果敢な試みの結果がいかなるものなのかについては、皆さんご自身の目でお確かめいただきたいと思います。
私自身の、ご献本に対する著者へのお礼のメールは次のようなものです。
読後感というほどのものでもないのですが、ゆったりとした心持ちで読むと、なんとも言えない良い気分になってきます。思想と文体の成熟とは、こういうことを言うのかもしれません。かと言って、小浜さんが、変に人生を悟ったようなことを言おうとしているのではないこともよく分かります。この世に生を受けた者として、真っ直ぐに歎異抄に眼差しを向けている風情が感じられます。そういう意味での若々しさが感じられます。そこが本書のもうひとつの魅力なのではないでしょうか。私にとって、これからおそらく折に触れ何度も読み返す本の一冊になるのでしょう。まったく抵抗なく知人のだれそれに紹介できる一冊でもあります。
本書が、心ある現代人の求めていた一冊であることは間違いないでしょう。
これがベスト・セラーにならないとほかにどういうものがベスト・セラーになるのか、私には想像がつきかねます。もしかしたら、サブタイトルかキャッチに「若い人のための」という言葉を挟むほうが良かったのかもしれません。小浜ファンの中高年はほおっておいても読みますからね(笑)。
ひとつ付け加えたいことがあります。かつて小浜氏は、故吉本隆明氏とオウム真理教の地下鉄サリン事件の評価をめぐって論争を繰り広げました。そのときの主要な論点の一つが親鸞のいわゆる「造悪論」の評価の問題でした。本書において、小浜氏は「造悪論」と「本願ぼこり」との微妙な違いをごく平易に簡明に論じ尽くすことによって、「造悪論」が親鸞思想の核心から見れば傍流の議論に過ぎないことをテクストに即して見事に論証しています。あの世の吉本氏は、もはや虚勢を張る必要はないのですから、「いやぁ、まいったな」と素直に頭を掻いていることでしょう(いや、ぜひそうしてほしいものです)。ここに本当の意味での思想の継承のあり方が示されていると、私は思いますし、感銘を受けもしました。本当の思想家は、「しつこく」なくてはいけないのです。この、本書に書かれざる思想のドラマの指摘は、若い読者のためにあえて「しつこく」させていただいた次第です。思想に「死んだら仏」はないのです。それが、思想家に対する本当の供養の仕方なのです。
「歎異抄」とは、親鸞が語った「悪人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の悪人正機説で有名なあの 「歎異抄」のことです。それを、小浜逸郎氏ならではの明晰な現代語訳と懇切丁寧な解説で紹介したのが本書です。それを10ページ分の「はじめに 『歎異抄』を文学として読む」と38ページ分の「付論 近代人の片思いを捨てて『歎異抄』に接する」が前後をはさんでいます。「はじめに」に次のように書かれています。
『歎異抄』も、単なる抽象的な思想信条を書き並べたものではありません。それは、唯円の生々しい創作意欲によって書き起こされたという意味で、一種の文学作品なのです。
そこで私は、この事実を訳文に反映させるために、それぞれのモードに応じて文体を変えることを試みました。親鸞自身の言葉に対してはやわらかな説明口調を、対話編には物語口調を、唯円の説法の部分にはやや硬めの「である」調を、といった具合です。
このようにしてこそ、唯円作とされる『歎異抄』という作品の奥行きの深さが立体的に現われ、ひいては、そのなかでの親鸞像がますます精彩を増してくると思うのですが、いかがでしょうか。ご判断は読者の皆さんにお任せいたします。
著者のその目論見に対して、いまここで私があれこれ言うのは差し控えます。著者の果敢な試みの結果がいかなるものなのかについては、皆さんご自身の目でお確かめいただきたいと思います。
私自身の、ご献本に対する著者へのお礼のメールは次のようなものです。
読後感というほどのものでもないのですが、ゆったりとした心持ちで読むと、なんとも言えない良い気分になってきます。思想と文体の成熟とは、こういうことを言うのかもしれません。かと言って、小浜さんが、変に人生を悟ったようなことを言おうとしているのではないこともよく分かります。この世に生を受けた者として、真っ直ぐに歎異抄に眼差しを向けている風情が感じられます。そういう意味での若々しさが感じられます。そこが本書のもうひとつの魅力なのではないでしょうか。私にとって、これからおそらく折に触れ何度も読み返す本の一冊になるのでしょう。まったく抵抗なく知人のだれそれに紹介できる一冊でもあります。
本書が、心ある現代人の求めていた一冊であることは間違いないでしょう。
これがベスト・セラーにならないとほかにどういうものがベスト・セラーになるのか、私には想像がつきかねます。もしかしたら、サブタイトルかキャッチに「若い人のための」という言葉を挟むほうが良かったのかもしれません。小浜ファンの中高年はほおっておいても読みますからね(笑)。
ひとつ付け加えたいことがあります。かつて小浜氏は、故吉本隆明氏とオウム真理教の地下鉄サリン事件の評価をめぐって論争を繰り広げました。そのときの主要な論点の一つが親鸞のいわゆる「造悪論」の評価の問題でした。本書において、小浜氏は「造悪論」と「本願ぼこり」との微妙な違いをごく平易に簡明に論じ尽くすことによって、「造悪論」が親鸞思想の核心から見れば傍流の議論に過ぎないことをテクストに即して見事に論証しています。あの世の吉本氏は、もはや虚勢を張る必要はないのですから、「いやぁ、まいったな」と素直に頭を掻いていることでしょう(いや、ぜひそうしてほしいものです)。ここに本当の意味での思想の継承のあり方が示されていると、私は思いますし、感銘を受けもしました。本当の思想家は、「しつこく」なくてはいけないのです。この、本書に書かれざる思想のドラマの指摘は、若い読者のためにあえて「しつこく」させていただいた次第です。思想に「死んだら仏」はないのです。それが、思想家に対する本当の供養の仕方なのです。
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