美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

「わたしを離さないで」(カズオ・イシグロ)について(その2)河南邦男―――『「東京物語」と小津安二郎』(梶村啓二、平凡社新書)について

2018年05月05日 19時33分40秒 | 河南邦男


はじめに
4月22日(日)にシネクラブ・黄昏で、私が担当者として映画「わたしを離さないで」を上映しました。その後、学生時代の友人で日本映画に造詣深い人と感想を話し合ったところ、彼が、『「東京物語」と小津安二郎』(梶村啓二 平凡社新書)を引用しながら、ヒロイン紀子(原節子、『東京物語』)と執事(カズオ・イシグロ、『日の名残り』)との同質性を主張しました。私は、反射的に「この二人が同質なんてあり得ない」と否定しました。

しかし、本書をひもといて著者の論旨を追えば、「そういうことも言える」と思いました。しかし、同時に二人の差異性を考えることも重要と思いました。

さらに、もっと重要なことは、紀子(原節子、『東京物語』)とキャッシ―・H(『わたしを離さないで』)は、同質性がはるかに濃いということです! もっとも、この場合も二人の差異性に注目しなければなりません。

以下、展開してみましょう。

〔1〕紀子(東京物語)と執事(日の名残り)の、同質性と差異性
二人の同質性は次の通り。

⓪出来過ぎた嫁と出来過ぎた執事
①過去の良き日の思い出や伝統を尊重している
②尊重の仕方は不自然なほどに完璧である。従ってそれは自己欺瞞でもある
③二人ともこのある種の自己欺瞞性を心の隅で自覚している
④生身の人間実存として、直ちには解決しがたい現実を自覚しつつ生を送っている。

まずは、それなりに、納得です。

しかし、違いはそこから先だ、と私は思う。

本には書いていないが、二人の差異性についても注目しなければならない筈である。それはラストシーンが如実に語っている。

❶紀子は、「時間」を押し進める、過去を一区切りするように新たな時間を切り開く。尾道から東京への帰還の列車の中で、義父から貰った形見の時計を握りしめ、汽車の驀進と共に、新たな人生を踏み出す決意を固めたと(私には)思われる・・・そんな生き方の転換ができたのは、葬儀の後の数日の滞在で、紀子と義父・周吉とが心を打ち明けて話し得たからである。また、紀子と京子(周吉の末っ子)とが打ち解けて話し得たからでもある。つまり、現在に生きている人々との心からの交流に後押しされて、未来へと向かうエネルギーを生み出し得たのである。

当映画では、幾つかの伏線を置きながら、紀子の心の再生が発現するクライマックスへの道を描く。

・周吉「云わば他人のあんたの方が、よっぽどわしらにようしてくれた」
※※※
・周吉「もう昌二のこたぁ忘れて貰うてええんじゃ。いつまでもあんたにそのままでおられると、却ってこっちが心苦しゅうなる。ーーー困るんぢゃ」
紀子「いいえ、そんなことありません。ーーーあたくし猾いんです。あたくし、いつまでもこのままじゃ居られないような気もするんです。このままこうしていたら、一体どうなるんだろうなんて、ふっと夜中に考えたりすることがあるんです。一日一日が何事もなく過ぎてゆくのがとても寂しいんです。どこか心の隅で何かをまっているんですーーー猾いんです。」
周吉「いやぁ、猾うはない」
紀子「いいえ、猾いんです。そういうことお母さまには申し上げられなかったんです」
周吉「ええんぢゃよ。それで。―――やっぱりあんたはええ人ぢゃよ、正直でーーー」
紀子「とんでもない」


❷一方「日の名残り」のラストシーンでは、執事は、なおも回想の中にいる。忍び寄る後悔をかみしめる。執事は、新たな「時間」を進めるには、あまりに時間に遅れ過ぎた(齢をとり過ぎた)。自己ならざる者・他己に奉仕することに時間を蕩尽した己の人生を無駄使いしたと後悔する。仕えた主人は、今や裏切者とまで非難されている。ありえたかもしれない彼女との生活を永遠に失った・・・と想起する・・・孤独感と諦めきれぬ思いが脳裏に満ちる。

〔2〕紀子(東京物語)とキャッシー・H(わたしを離さないで)の、同質性と差異性
さて、カズオ・イシグロは小津安二郎の映画を見ている。カズオ・イシグロは、映画「わたしを離さないで」を監修している。紀子は28歳という。映画のヒロインのキャッシー・Hも冒頭に「私は28歳・・・」とナレーションを始める(ちなみに、小説では31歳である)。

ここで私はにわかに気づいた。紀子(東京物語)とキャッシー・H(わたしを離さないで)の同質性は、執事の場合よりも濃いということである! もちろん二人の差異性についても考慮せねばならない。

両者の同質性を列挙してみる。

⓪出来過ぎた嫁と出来過ぎた生徒かつ介護人・提供者
①過去の良き日の思い出や伝統を尊重している。後者の場合は体制や仕組みを尊重している
②尊重は不自然なほど完璧である、従ってそれは自己欺瞞でもある
③二人ともこのある種の自己欺瞞性を心の隅で自覚している
④生身の人間実存として、直ちには解決しがたい現実を自覚しつつ生を送っている。

しかし、そこから先が微妙に違う! それはラストシーンが如実に語っている。

❶紀子については、既に上記に述べた。一方、映画「わたしを離さないで」のラストシーンでは、原作に無いことをキャッシーは言う。イシグロが監修しているのだから、これは本音であり小説の主題(テーマ)でもあるのだろう。まずは、ラストシーンの情景とキャッシーの最後の独白を聞こう。

・小説のラストシーン
「わたしは一度だけ自分に甘えを許しました。トミーが使命を終えたと聞いてから二週間でした。用事もないのに、ノーフォークまでドライブをしました。・・・」。

(この時、キャッシーにも「通知」が来たことを匂わせている、小説の冒頭に(後八カ月、今年の終わりまでは続けて欲しい)と言われている。にもかかわらず彼女のこの自制心と落ち着き方はどうだろう)

「わたしは初めて自分に空想を許しました。やがて地平線に小さな人の姿が現れ、徐々に大きくなり、トミーになりました。トミーは手を振り、わたしに呼びかけました・・・」

(普通人が、いつも自分に甘えや空想を許しているのに、キャッシーのこの潔癖さはどうだろう。良い教育を受けると、人の魂はここまで高まるのか、介護人という辛抱強い職務にも精励できるのか。
小説のラストは、キャッシーの心の高貴さと強さを表している)

「空想はそれ以上進みませんでした。わたしが進むことを禁じました。顔には涙が流れていましたが、わたしは自制し、泣きじゃくりはしませんでした。しばらく待って車に戻り、エンジンをかけて、行くべきところへ向かって出発しました。」

(行くべきところが、単なる職務上の行き先なのか、提供の準備の為に行く回復センターなのか、小説は抑制的に過ぎる描写である。いずれにしても、キャッシーの最後のセリフは、感情の抑制と義務行為の揺るぎない遂行である。あの執事の言う「品格」がここにある。これは、英国人のあるべき姿が、キャッシーにおいて体現されていることを意味する。へールシャム教育の成果である。キャッシー自身の誠実な努力の成果である。魂は「存在する」どころか、高貴なまでに成長していたのである)

・一方、映画のラストシーンは、監督の解釈が入っている。

(広い耕地を前にして、有刺鉄線に引っ掛かったゴミ、つまりこの世の忘れものが吹き寄せられているのを前にして、キャッシーはつぶやく)

トミーが地平線の彼方から現れたらどうだろうか、でもその先は想像しない・・・

(この辺は、例によって、キャッシーの自制心である。小説のように映画でも、涙はキャッシ―の頬を伝うが、泣きじゃくりはしない)

・・・私は、トミーと知り合っただけでも幸せだった・・・」

(キャッシーにとって、出遭いだけが、人生の幸せだったのだろう、いや我々の世界だって本当は出逢いだけが人生の幸せなのであるが・・・)

・(映画のキャッシーは、ここで明言する。おそらくカズオ・イシグロの言いたいことである)

私は自分に問う

(・・・問うているのは、こんな制度を作った社会にではなく! 自分にである)

私たちと私たちが救った人たちとはどんな違いがあるのだろうか。人はいずれ終末を向かえる。だれもが生を理解すること無く、命尽きるのだ」。

(映画の主張は、かなり踏み込んでいる。ドナー制度の無意味さ、延命することの無意味さ、生の根源的な無意味さ〈仏教的な意味の「空」に似た〉、人の幸せとは人と人との出遭いである〈仏教的な意味の「縁」に似た〉、などを語らしているように思える・・・) 

❷キャッシーは、「時間」を押し進めることは運命的に出来ない。キャッシーは、あるおぞましい仕組みの「手段」として生まれてきており、自らを「目的」として生きられないのである。キャッシーは、紀子より数百万倍ものハンディを担っているのである。

二週間前、生涯にわたり愛したトミーを失った。それより若干前に、イケズな友人しかし最後は理解し合った友人ルースを失った。つい先日、自分にも「通知」が来た。キャッシーの前には、予め定められたことであるが、終わりの始まりである「提供」という巨大な壁が迫ってきている。

しかし、ここに至って、キャッシーはこの過酷な時間を主体的に受け止めている。勇者のように潔く受け止めている。彼女は時間を支配しているのである。紀子のように他人に後押しされることなく、また執事のように孤独に沈むのでもない。友人であり恋人である人々の記憶を、施設での生活を、すべての過去の記憶を抱いて、新しい任地(!)に赴こうとしている。

著者のメッセージが込められているものと思われるキャッシーの精神は至高の高まりをみせ、時空を超えて「仏教的空」、「仏教的縁」に近い概念を述べている。

〔3〕「東京物語」は、保守的か、非革命的か、だから悪いのか
ここで横道にそれるが、「キャッシー達はどうして反抗しないのか!」(つまり、時間を自分の意志のままに推し進めないのか)などという意見を言う者もいるかも知れないが、これはまともに答える必要がない問いである。「わたしを離さないで」は、SF映画ではない。荒唐無稽な活劇ではない。つまり、ハリウッド映画ではない。「東京物語」は、保守的であり、非革命的であり、だから悪いというのと同じ愚評である。

「わたしを離さないで」は、異常な世界を語りつつも、ひたすら我々の日常を語っているのである。我々日常人も(・・・変な言い方だか)、生まれてこの方、環境という桎梏のベールを一枚一枚剥ぐようにして認識を進めており、不条理にもがきつつなんとか日々を生き延びているが、「革命」や「反乱」などしないではないか。

この辺りのことを、『「東京物語」と小津安二郎』の著者は以下のように言っている。

・本書p194
なぜ、彼らは戦わないのか。叫ばないのか。否と拒否しないのか。これは私が望んだことではないと。こんなはずではなかったと。

だが、思えば、彼らの苦痛、苦悩をもたらしているのは外からの特別な攻撃や劇的な事件ではない。彼らを苦しめているのは、生きることと同意の避けがたい何事かだ。(略)それぞれが引き受ける自分の生活経済を守る労苦とそのためのエゴ。取り返しのつかない自分の過去。ふと気づく自分の力量の限界、子供たちの力量と可能性の限界。(略)戦争、息子の戦死、人の戦死。あらためて気づく友とおのれの老い。ふいに訪れる伴侶の死、孤独。そして、やがて来る自分自身の死の予感。

それらは、個人の良心や努力によって変えられるものではない。社会を変構すれば避けられるというものでもない。つまるところ、「東京物語」は、抵抗するすべのない避けがたい何事かを静かに受け入れていく人々を描いた映画なのだ。受け入れる作法としての軽さを描き、そして何よりも、その尊厳を描いた。

避けがたきもの。人が生のうちに遭遇する避けがたさは多々ある。だが、その中で誰も逃れることのできないものがあるとすれば、それは「時間」、ではないだろうか。それら人生において避けがたきもの、避けがたい変化すべてをもたらすのは他ならぬ時の流れそのものだ。 

時間。わたしたちを等しく運び去る地上の王。「東京物語」の人々が受け入れているものは、じつは時の流れであり、時間という王こそがこの作品の真の主人公なのかもしれない。


なお私は、筆者の言うこの「時間」の概念を借りて、紀子、執事、キャッシーが「時間」とどう向き合ったかをそれぞれの差異性を考える際に用いた。
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『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ、早川文庫)及び同名の映画について  (河南邦男)        

2018年05月04日 22時16分28秒 | 河南邦男


編集者より:河南邦男氏の『わたしを離さないで』論をお送りします。氏は、私自身参加している思想塾・日曜会の2018年4月22日の映画会で担当者として同名の映画を上映し、同月30日の文芸の会での同名の原作の読書会に参加なさいました。当論考を読み、当作品と思想的に格闘するプロセスそれ自体が当論考の道筋になっているような印象をいだきました。論者の誠実さを感じます。30日の参加者数は、普段の倍以上でした。当作品に対する世間の関心の高さを物語っているように思われます。その意味でも注目の論考です。

***

注:水色は映画の感想です。


1.小説のモノローグという文体、あるいは映像描写と一人称の語りとの違い
この小説はモノローグ(独り言)で語られる。読みづらいと音を上げて、途中で辞める人もいる。
映画は見やすい。ところが、この見やすさに私のようにある違和感を抱く者もいる。

そもそも、我々は、意識にめざめ成長するとき、あるいは過去を思い起こす時、そんな内省の時にはモノローグで考えるのではないか。従って、この語り口は本書のテーマ(記憶をたどりつつ、精一杯生きた精神の成長過程を思い起こす)に相応しい。小説の始めのとっかかりの悪さに耐えて読み進めば、主人公キャッシー・Hのモノローグに導かれて、彼女と心境を同化しつつ、精神の迷いと成長をだどっていく、ということを追体験できる。

一方映画は、「話し手と聞き手が同時に見え」かつ二人以上の人間の「会話体」で映写される。それは本来的に第三者の眼(神の眼とも言える)から見えるものである。自分が透明人間になって、登場人物に無関係な傍観者にならない限り、このような立ち位置は取れないものである。小説は一人称で語るのでキャッシー・Hの姿は描写されないのに、映画ではキャッシー・Hの全身が見える。そればかりでなくトミーもルースも彼女の周辺に全身を現わして動き回るのだ。

こうした神の視点を先に得てしまえば、初めて小説を読む場合のように主人公キャッシー・Hのモノローグに導かれて(当初読みづらいことは確かだが)、彼女と心境を同化しつつ、精神の迷いと成長を辿りゆく、ということを追体験できない。

小説と映画の両方を見たいと思う場合は、先に小説を読み、その後映画を見て、さらに理解を深めるために、また小説を読み返すという順序が良いと思われる・・・。

映画では、始まりからして何やらSF的なストーリィが開始されているという印象を受ける。医療技術の発達に関するドキュメンタリー的な語り口である。音楽が不気味さを醸し出してはいるが、映像には精神性が乏しい。SF映画として見るならば、他にもっとスリリングなものはいくらでもある。どちらを先に見るかは、不可逆的な選択である。私には、先に映画を見た人の気持ちは分からない。最初に映画を見たら、ひょっとしたら、分かりづらいあるいは陳腐だという印象を受ける人が多く出ることを心配する。


小説は、最初のページから引きこまれる語り口であった。モノローグというスタイルをとるので、いきなり感情移入から始まる。語り手の姿は見えなくて、意識の働きだけが聞き取れる。まるで、読者である自分が記憶を紡ぎだしているかのようだ。我々が生きて考える実相は、第三者的視点に立って関係人物の全身を見ながら思考するのでなく、自分で言葉を操りつつ環境のベールを一枚一枚剥ぐようにして、思考を進めているのが実態ではないか?

2.本書のテーマは、ずばり「生きる」。
なにやら、黒澤明の映画の題名のようだが? あるいは、本書のテーマを青春ラブストーリィとして、あるいは友情物語として捉える方法もある。

本書のテーマは、ある特殊な施設についての語りである。それは、あるおぞましい仕組みを語っている。従って、非現実的な設定である。しかし、なぜ読み始めたら本を置くことができないほどの、緊張感と心惹かれるものがあるのか?

それは、誰にも多かれ少なかれ身に覚えのある現実を語っているからである。人は、境遇を選んで生まれてはこない。人は、「境遇の中」に生まれ墜ちてくる。もの心つく前に、既に境遇の中の人となり、その境遇に合わせて自己を育む。

ところで、どんな境遇もその個人の意のままにならない「ある超越した前提」があり、「制約」があり、「掟やタブー」がある。つまり固有の閉塞した情報空間がある。人は自己の外にある既成の環境と折り合いながら、成長していかざるを得ないのである。人は成長とともに、この閉塞した情報空間を抜けて透過する視点を育み、やがて境遇を相対化して、一個の独立した自由な人として生きる術(すべ)を見出していくものとされている。

ところが、普通人のだれにでも許されているこの可能性を、本書の中の子供たちは、仕組みとして運命的に保有していないのである。成人すれば過酷な使命が待っている、全ての者は、子を作ることなく、数度の”提供“を果たした後、中年になるまでもなく”使命を終える“。

本書のテーマは、現実の日常の人たちが、幸運にも持っているその可能性を無駄にしてはいないかという問いかけであるように思える。本書の子供たちに対して、同情する余裕など上から目線を働かせるヒマがあったら、読者自身こそ「己を取り巻く境遇の奴隷」になっていないかを自問せよと言っているようである。

読者に対して、あなたは人生の目的を追求できるのに、今のあなたはそれに気づいていないのではありませんか、と問いかけているようである。読者に対して、日々の雑事にとらわれ時間つぶしをしていませんか、あるいはわざわざ本来的でないかりそめの目標を作っては追い求めていませんか、と問いかけているようである。

主人公キャッシー・Hのように、あるいはトミーのように切なくも必死に自由と目的を追い求めた子がいる。彼ら彼女らはついには挫折する。しかし、その後の運命を静かに受け入れたのだった。本書は、“あなたもこの物語のヒロイン・ヒーローのように生きてみませんか、たとえあなたも彼らのように挫折に終わろうとも目的を追うことは意義あることですよ”と言っているように思える。

彼女・彼らは、臓器提供者という手段のために生まれて来た。いかに創造性を発揮しようと、いかに人間らしく生きようと、運命の日は刻々と迫っている。そのことを、自覚して受け入れているのである。しかし当作品は《あなたには、彼女・彼らが持つ制約や運命はないのだから、あなたは最初から「手段」としてではなく「目的」として生まれてきているのだから、それゆえあなたは自由の可能性を持っているのだから、思い切り生きられるはずですよ、なぜそうしないのですか》と言っていると私には思える。

3.あらすじ
あらすじは、読者が本書を読んでたどる他はない。あらすじを事前に聞いてはならない。一切の前提知識なく読むべきである。繰り返すようだが、映画を先に見るべきではないと思う。

4.キーワード。
以下は、本書のキーワードである。(1)場所(2)人(3)コトに分けて、読了した人への内容整理のために記述する。読んでない人が、これを読んでも百害あって一利なし。

(1)場所
・ヘールシャム・・・施設。学校。将来提供者になる者が、幼児から16歳(?)になるまで育てられる施設。しかし、ヘールシャムは、他の同様の施設と比較して特別に恵まれているらしい。なぜ、特別に恵まれているのかと言えば、主任保護管(校長先生)などの学校関係者の理念のもと、ある人道的な運動の実践として同校は営まれているらしいからである。
例えば、絵や彫刻や詩の創作活動などが異常に活発である。彼ら彼女らに魂が「あること」の証明のために(魂の創造性の優秀さの証明のためでなく)行われている。優れた作品は展示館(ギャラリー)に運び展示される。おそらく、学校外の運動の支援者がそれを見て、運動の意義を確認するのであろう。

・ヘールシャム以外の施設・・・国内に幾つかあるとされているヘールシャム以外の施設では、子供たちはただ大きくするための存在として扱われていると示唆されている。

映画の後半には、この辺の事情について踏み込んだセリフがある。「ヘールシャムは閉鎖されたらしいよ(ここまでは小説に同じ)、施設はまるで養鶏所のようだと言うよ・・・」。

・コテージ・・・16歳を過ぎると、上記の施設から移りここに収容される。いろいろな施設の出身者が混在する。提供者あるいは介護人になる前の待機場所と言える。最大2年居るが、途中で申請すれば、2年を経ずに介護人になれる。介護人にならないものは、2年後提供者になる。ここでは教育はあまり行われず、比較的自由な生活をし、外出も許される。カップルになることも自由である。

・回復センター・・・提供が済んだのち、体力を回復する所。提供は被提供者のいる病院で行われるのだろう。その後、次の提供までの間、提供者が体力を回復するために居るところ。届を出せば、かつ自己の健康状態がよく、誰かの助けを得られれば、外出も自由である。ここに居る提供者は、体の一部が既に無く、体力が衰えて動きが辛そうである。

(2)人 
・提供者・・・小説の1ページの終わりにいきなり出てくる意味不明の言葉。その意味が分かって来るのは暫くページを繰った後である。(英語では、donors なので、その意味がピンとくるのか、こないのか? 最初の驚きを含んだ違和感がここにあるのか、ないのか?)

臓器提供する人。施設の子供は皆、提供者になる。子供たちはクローン人間である。施設で育てられ、教育される。16歳を過ぎるとテージに移され、2年経つと原則として提供者になる。その前に、申請すれば介護人になれる。

介護人となっても、ある日「通知」がくると提供者になる。

・介護人・・・小説のはじまりは、「わたしの名前はキャッシー・H。いま三十一歳で、介護人をもう十一年やっています。・・・」と始まる。(では、20歳で介護人になったのだろうか?2年ずれているように思える・・・介護人になるための訓練期間があるのだろうか)

 (映画は、冒頭から原作と違う。「私の名は、キャッシー・H。いま28歳で、介護人を9年やっています・・・」と言う。原作とは3年程ずれている。若いきれいな女優さんを起用したことに合わせたのだろうか、それとも小説の記述の誤謬を正したのだろうか。)

施設を離れコテージにいるとき、申請すれば介護人になれる。ただし、自動車運転免許などの訓練科目を選択したり、その他の適性があったりする者がなれるらしい。仕事は、提供者をケア(肉体的、精神的に)し、心の安定のためにカウンセリングなどをすることである。車を運転して、国中に散らばる各地の病院や回復センターにいる提供者を訪ね回るのである。介護人のケアがよろしければ、提供者は「動揺」することなく精神が安定して提供に臨める、あるいは終末を迎えられる。

・キャッシー・H・・・主人公(女性)。彼女も含め全ての子供たちはクローン人間であるため、セックスはできるが、生殖能力は無いらしい。そのことは、施設の中の授業で少しずつ知らされ、少しずつ運命を受け入れる諦観が形成される。普通人が教育を受ける目的は、各人がやがて見つける人生目的を実現することであるが、ここでは各人に定められた臓器提供という使命を効率的に担うべく、その存在が手段化されるための教育である。

ただ、ヘールシャムに限り、単に手段としてのみでなく、自己の運命への認識と創造性の発揮、また目的を追及する「人間らしい」教育がなされている。このため、キャッシーは「当時のわたしは、成長のある段階に差しかかっていたのだと思います。困難と見れば挑戦せずにいられない」(p23 第二章の冒頭)と言えるまでに「人間的」に成長している。

・ルース・・・キャッシー・Hのヘールシャム時代からの友人(女性)。トミーとカップルになる。後に、キャッシーへのジェラシィからトミーを奪ったと告白する。コテージではトミーを挟んで三角関係にもなる。コテージを出ると一旦疎遠になる。ルースは5年ほど介護人をした後、提供者になり一度目の提供が終わったころ、キャッシーが介護人になる。二人は仲直りする。死期を意識したルースは、トミーを奪ったことを告白し謝罪する。ルースは死を目前にして、心が清明になったようである。

やがて、ルースの薦めで、キャッシーはトミーとカップルになり、「猶予期間」という噂を実現するための行動を開始する・・・。

・トミー・・・キャッシー・Hのヘールシャム時代からの友人(男性)。ルースとカップルになる。最後の日が近づいていることを自覚したルースの頼みで、トミーとキャッシーは、カップルになる。そして、噂される「猶予期間」を獲得するために行動を起こす。

しかし、昔のマダムや校長先生を訪ねると、そのような制度は元来存在しないことが明かされる。その帰り道、トミーは幼いころの習性が再発し癇癪を起す。

そんな絶望とやり切れなさに取り乱したトミーを、キャッシーがしっかりと抱擁する。

キャッシーに包まれたトミーは、昂奮が次第に治まり、そのまま二人は地に崩れ落ちる。

その後静かな絶望に陥る。キャッシーはトミーから介護人を断られる。(この部分、何故かは、読者の私には分からない・・・)トミーは最後の姿をキャッシーの目にさらしたくないようである。キャッシーはやがてルースの最後を看取り、トミーの最後を伝聞で知る。

映画では、原作と違いルースとトミーの最後の様子を生々しく映す。手術台に横たわるルースから重い臓器(ワインレッド色の肝臓か何か)を取り出すシーンがある。のどに管を通されたまま目を見開いて、天井を向いて微動だにしない青白い顔を映すシーンがある。
トミーの最後の提供手術シーンは、ベッドに横たわり、ガラス越しに見守るキャッシーに笑いかけウインクする。ウインクが終わる間もなく、トミーは麻酔による眠りにつく。


一方小説において、キャッシーはルースの部屋を訪ね、彼女の手を取るうちに息を引き取る。トミーの場合は、キャッシーは介護人を辞めているので、彼の最後を伝聞で知る。

二人の友を失い、キャシーも運命を静かに受け入れたようである。やがて、キャッシーにも「通知」が来たのだろう、車を運転して目的地に向かう。キャッシーは、へールシャムの記憶を新しいセンターにも運び込むつもりである。

旅の途中、広い耕作地のような場所で車をとめる・・・柵に張られた有刺鉄線に風に飛ばされて引っかかった無数のゴミが揺れている・・・世界の忘れものが集まる場所(ロスト・コーナー)でもある・・・しばらく佇み・・・多くの思い出の回想とともに、トミーが地平線から現れないだろうか・・・と願う・・・、これが小説のラストシーンである。

キャッシーは記憶を大切にしている、それは人間のアイデンティを保つ唯一とも言えるものだからだ、そして死んだトミーはキャッシーの記憶の中で生きているのだ・・・。

・ルーシー先生・・・ヘールシャムの先生。生徒の運命である「真実」を授業中に生徒に漏らす。そのためか、学校を解雇される。ルース先生の行為は彼女の正義感からでたものであろう。「真実を述べるべきだ、いつまでも誤魔化してはならない・・・」。このいささか手前勝手な正義感は、はたして生徒のためになるのであろうか?

    トミーはルース先生のやり方を是とする。トミーは、幼少時に自分の運命を予感していたらしい、時折発生する癇癪はそこから来ていたのだ・・・。

・マダム・・・外部から時折学校に訪ねて来る人。生徒の作品のうち優れたものを、展示館(ギャラリー)に展示するために持ち帰る。展示館(ギャラリー)はある人権運動のための施設らしい、ここで運動への賛同者が、子供たちの絵を見て、創造力があること、魂が≪ある≫ことを認め、運動の正当性を再確認するらしい。決して、≪優れた創造力の作品≫を鑑賞するためではないのである。

・保護管・・・・・施設の先生

・主任保護管・・・施設の校長先生。ヘールシャムの校長先生はエミリ先生。運動の主導者。

(3)コト
・提供・・・臓器提供のこと。2-3回で使命を終える。まれに4回。

・提供の終わり・・・ 役目(臓器提供)の終了。死のこと。あるいは提供が終わった後に植物人間として死亡措置を待つ短い期間の始まりのことも含むのか?

・ポシブル:子供たちに両親はいない。クローン細胞を提供した人が、「オリジナル」である。想定されるその人が「ポシブル=かもしれない」人である。

ルースは、オープンスペースの素敵なオフィスで働くキャリアウーマンがその人であると夢想する。素敵な働く場所、素敵なオフィス家具、素敵な同僚・・・などがルースの職業観である。

キャッシーは、ヌード写真のモデルの女がポシブルかと思う、なぜなら、自分にある性衝動の存在は、自分がそんな女(「から」削除)のクローンであるからに違いないと思うのである。

いずれにしても、子供たちは外の世界を知らず、閉ざされた施設で育てられているため、職場やその他のことを客観的に考えることができない。それ故に、夢想に近い勘違いをするのが頼りなくも悲しい。

・オリジナル・・・クローン細胞を提供した人 

・宝物・・・施設内で、模造通貨で購入したおもちゃなど。キャッシーの最大の宝物は、カセットテープ(歌は、「Never Let Me Go!」)である。

・外出・・・施設ではできないが、コテージでは任意に可能である。また、回復センターでも、条件が整えば可能である。

・外の世界・・施設やコテージ以外の現実の場所。施設でもコテージでも、子供たちは現実の世界で生きることは許されていない。ただ、現実の世界について、実習やTVや本などで学ぶことはしている。しかし、本当の現実世界の中での学びでないので、しっくり身についていない。

(映画では、外出時にカフェでランチを注文するにも、ドキドキの大変な思いである・・・。
 ヘールシャムの授業では、カフェでの注文の仕方を実習していた。トミーはそんな時でもとまどい、キャッシーのアドバイスを受けながら、やっとこさ注文していた。)


・展示館(ギャラリー)・・・生徒の作品(絵画、詩など)のうち優れたものが飾られる場所。どうやら、世間の人権運動の支援者に見せるというのが本当らしい。クローン人間にも、《魂がある》ことの証明にするらしい。決して、美術的な鑑賞でなく。また、決して「魂の創造性」の鑑賞ではなく。 

・猶予期間・・・噂話。ヘールシャム出身者に限り、本当に愛し合うカップルは、提供を3~4年猶予され、二人で一緒に過ごせる時を持てるという噂。こんなささいな幸せなら、普通人のだれにでもその可能性が与えられているものだが、彼女や彼らには、輝くような憧れなのである。

トミーの考えでは、その制度があり得る証拠として、展示館(ギャラリー)の存在がある。猶予期間を申請した二人が、嘘でなく本当に愛し合っているのかを確かめ得るのは、展示館(ギャラリー)に納められた作品で証明されるはずだ、という理屈である。施設時代に優れた作品を創造した者はそのこと(愛していること)について嘘を言わない筈だ、という「理論」である。従って、猶予期間を許可されるのは、作品が展示館(ギャラリー)入りした者だけである。(「という考えである。」は削除)(「これを知った」は削除)そう確信したトミーは、にわかに絵を描き始めるのだが・・・。

やがて、この制度は存在しないことが知らされる。この制度は噂にすぎず、トミーの想像上の理論に過ぎなかった。真実を知ったトミーは、幼い頃の癇癪を再発する。

・通知・・・・提供者となることを知らせる通知。

・申請・・・・介護人になることを表明する申請。

・テレビのモノマネ・・・コテージでの集団生活が始まると、キャッシーはある違和感を抱く。皆が、テレビ番組などのマネとも言える口癖や動作をすることに、不快感を抱く。知性が発達し、精神が独立した者は、安易にテレビドラマの行動スタイルをなぞったりはしないはずだ(とキャッシーは言明してはいないが、思ったのだろう・・・)。特に、へ-ルシャム出身のルースとトミーまで、それに倣い、すれ違うときなど、相手の腕の肘を後ろから手の甲で軽くたたくなどすると違和感を抱く。

それを、ルースに言うと、ルースはまたしても誤解し《ああ、キャッシーちゃんは妬いているんだ、かわいそうな孤独なキャッシー》と応ずる。こんなことからも、三人は離れていく。

5.追加的に、本書のサブテーマ
(1)どんな人間も、多かれ少なかれある限定した境遇の中で生きている。

タブーがあり閉塞した情報空間の中でどう真実を知るか、意味ある生を生き得るか。

ある既成の体制の中で、それを超出する意識をどう育むのか。

運命(枠組)を超越することは出来るのか。

曇らぬ認識を得ようと、試みもがくことは甲斐あることなのか。

自由な意識や行動はいかにして可能か。

(2)記憶とはどのような人間的傾向を持つか。忘れることもその重要な機能のうちか。

形を変えて記憶することも、その重要な機能のうちか。

(3)われわれは、「社会」というものに生れ落ちない、そんなとりとめのない抽象的なものの中には生れ落ちない。「ある固有の場所・ある固有の状況」の中に生れ落ちる。

それは我々が生きる上で「運命・条件・枠組み」として関わり、我々は最初から捕らわれの身になって生まれ出る。通常、それらは何と言われるか・・・イエ、家族、学校、階級、地域、職場、国家、などなど。

(4)生きることの意味、生きがい、自由を持つことの大切さ、その恵みをどう生かすか。それに比べて、この子たちの将来はある制度の中のある手段を 担うべく決定されている。

体が自分のものでない、奴隷の一種、手段の一種。それでもなお、生きがいは見いだせるのか。魂の自由は発揮できるのか。

小説中の彼女・彼は、ささやかだか精一杯、生きがいを追及した。その望みは、普通人なら、容易に手に入れられるほどの些細なものに過ぎなかったが、彼女・彼らにとっては、懸崖の上の美しい花だった。キャッシーとトミーは、カップルとしてほんの2~3年共に安らかに過ごすというだけの望みが許されることを願ったのである。

(5)小説を読んで改めて、読者は我が身を振り返る。辛くても、貧しくても、現実の中に生きて、自分の生き方を自分で決められることが自由というものである。この生を、十全に生きないで、他に何をするというのだ。

(6)なぜ、彼女・彼らは反抗や反乱をしないのか?
クローン人間として、寿命が短いのか。例えば、40歳未満とか。生物学的には細胞分裂の制限回数が普通人よりはるかに少ないのか。

あるいは、全寮制教育で幼児から徹底的に従順に教育されているからなのか。

(7)記憶を物語るといこと及び映画と小説の違い
「記憶―語りー聞き取り」の過程に、「ゆがみ」が生ずるのが普通である。当小説では、一人の人間のモノローグを読むうちにキャッシーの周辺の人々の心理が浮かび上がる。人々の心理が語り手からの遠近感をもってじわーーと浮かび上がるのがリアルに感じられる。

不思議なことにこのじわーーと浮かび上がるリアルな気づきが映画では得られない。

最初からすべてが明らかに見える第三者的視点ではこの気づきが得られないのだ。

朝霧の中から次第に姿を現し浮かび上がる風景は、ことのほか深みがあり美しいが、最初から一点の曇りない日光に晒された同じ風景がさっぱり感興を催さないのと似ている。

モノローグを読むことにより、むしろ心理の差異が分かるという不思議な現象は何処から来るのか。ひょっとしたら映画という第三者的視点というのは、却って真実を隠すのではないか?
 
われわれは、映画的視点つまり客観的第三者的視点を信じていないのではないか? 人は、じわーーと浮かび上がものを、自ら気づくという仕方のものしか信じられないのではないか?

人は、必ずある一方向から見るものだ。その方がリアルな風景なのだ。なぜなら、我々のある立ち位置からの内面的な思索とは、まさにそれだからだ。


→独白(ナレーション)という文体
本小説はキャッシーの独白に終始する。すべて彼女の記憶に基づいたもの語りである。それは、ナレータである彼女の記憶である。当然「ゆがみ」があることを読者は想定すべきである。

しかし、キャッシーの場合、記憶が良い意味に変えられていることが多い。テープは多分ルースが盗んで秘かに捨てた、と読み手である私は判断する。キャッシーより私の方が、少し人が悪いからそう感じるのだろう。

キャッシーの話を聞いていると(彼女はあまり気づいていないようだが)、ルースはキャッシーに対抗心をもっている。馬5匹の話にしても、最もどんくさい馬をキャッシーに乗らせると言うが、ここまではまあ良い。最悪なのは、トミーとキャッシーが近づきになるや、ルースはトミーを奪う。トミーへの愛よりもキャッシーへのジェラシーが目的だとしたら、ルースの人間性を疑うものである。これにもキャッシーは気づいていない。二人のカップルが成立するや、彼女は身を引くのである。

ルースは、自分のポシブルは「素敵なオフィスで働くエクセレントなキャリアウーマンである・・・」と思う自惚やである。

こんなルースならば、キャシーが大切にしているテープを取り上げるなんてこともしそうである。それが大騒ぎになるや親切ごかして別なテープを贈るなんてこともしそうである。キャッシーはこの件に関しては生涯ルースを疑っていない(一度だけ疑問を持った・・・)。

トミーは気づいていたかもしれない。彼は旅先で、パートナーのルースが居ない時を見計らって、テープを店で買い求めて、キャッシーに贈ろうとする。キャッシーは、トミーと店の中でテープを探す至福の時間が永遠に続くことを願う。

できればトミーに先に見つけて欲しいと思う。キャッシーにとって探す時間自体が幸せで、ルースに傾く前のトミーと共にいるかのような思いである。

(映画では、このテープ事件を映像化していない。心理が複雑すぎて出来ないのだろうか)

(8)子供時代について。
p409「あなた方には子供時代があったのです。ル―シ―がいくらよかれと思っていても、あれに自由にやらせていたら、生徒の幸せなど木端微塵です。たとえば、あなた方二人。わたしはとても誇りに思いますよ。わたしたちが与えたものの上に人生を築いてくれています。わたしたちの保護がなかったら、いまのあなた方はありません。・・・」

文明国には子供時代がある。当然、日本にもある。江戸時代にもあったらしい。幕末に日本にきた外国人が「日本の子供は、大切にされ、くったくなく、かわいく、活き活きとして、守られている・・・」という報告を残している。

まだ江戸の名残をのこす明治の初期に樋口一葉が書いた「たけくらべ」もこんな風景を描いている。もちろんその子たち(真如や美登利)は、ある一定年齢になると、世の中に出て行き厳しい大人の世界に入って行く。

しかし、彼ら彼女らは、幼いころに育まれた豊かな情操を持ち続け、大人として世の中に生活しつつも周縁の人々への思いやりなどができる人になっていたことだろう。

近世以前の中世には、世の東西を問わず、「子供」が存在しない時代であったといわれ、子供とは年齢の低い大人のことだったのである。中世は、むき出しの暴力が支配する世であった。

へ-ルシャムは、他の施設には無い、子供時代を作る施設であった。そこでは、情報が制限され、外部と隔離される。不自由である。ある意味でウソの世界である。

そこでは、ルース先生のようにホントのことを性急にバラすべきだろうか。へ-ルシャムの教育方針のように、徐除に開示すべきだろうか。教育は、カルチャーと言われるように、見守りつつゆっくりと行うべきであろう。芽がのびないからといって、手で引っ張ってはならないのである。

こうして育まれた彼ら彼女らは、人間的な感性や知性を持ち、互いに愛し合い、人生の目的を追求することもできるようになったのである。

(9)題名『わたしを離さないで』の由来
キャッシーが大切にしていた音楽テープの中の好きな歌の歌詞。

「オ―、ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで・・・・・・」(ジュディー・ブリッジウォーター『夜に聞く歌』)。

それを聞きながら、キャッシーは枕を抱きながら体を揺らして聞いていた・・・。その時、部屋の外からこれを見ているマダムの姿があった! キャッシーは、一瞬マダムに咎められることを恐れたが、マダムが泣いていることに驚く。

後々「教育」が進み「あなたがたは赤ちゃんを生めないのよ・・・」と教えられると、この記憶の意味が変形する。キャッシーは、もし奇跡がおきて赤ちゃんが生まれたらという思いで、枕を赤ちゃんに見立てていたと外目には見えた、と言う意味に変わる。だからマダムは泣いていた、という意味に変わる。

音楽テープは忽然として消え、いくら探しても無い。その後どうなったかは、(8)「記憶を物語るといこと及び映画と小説の違い」で前述した。

また、マダムはマダムで、全く別なことを考えて泣いていたことも小説の終わりごろに明らかにされる。

11.映画について。
冒頭で映画についてとことん否定的な言い方をしたが、小説を読んだ後に映画を見るのもまた一興である。映画を先に見ることは、なるべくよした方がいい。しかし、偶然そうなったら仕方が無い。映画を入門書として鑑賞し、小説を後で読むのである。小説だって一度読んだだけではよく理解できず二度以上読むべきなのだから、映画を先に見てもいいだろう。

イシグロ氏自身は、映画のことを悪く言っていない。映画は、原作の解釈を踏み込んで伝えそれと違うところもあるのだが、これも非難してはいない。そもそも、イシグロ氏は、他の作品(「日の名残り」など)でも映画化されたものを悪く言わない主義の人らしい。

・外部について
ヘールシャム施設では、生徒は外部に出ることは許されていないらしい。生徒の間でささやかれているタブーと伝説がある。決して外部に出てはならないというタブーの寓話である。

映画では、これを視覚化している。ボールゲーム(野球?)をしていて、センター越えの飛球があった。バックするトミー。しかし、ボールは塀をこえて外部に転がる。トミーは何のくったくもなく追うのをあきらめて帰ってくる。だれもそれをとがめない。見ていたのは、新任のルース先生である。

その後、教室でルース先生は訪ねる「なぜ、外に出たボールを追わないの?」

その質問自体が理解できずとまどう生徒は答える、「外に出た少年は帰ってこなかった。3日後、立木に縛られて死んでいた。裸だった。手も足も切り取られていた。うっかり、外に出た女の子は、泣き叫んでも中に入れてもらえなかった。塀のそばで飢え死にした。」と。

ルース先生は、あきれたという顔をして、「そんなこと、信じているの?」と問う。

こんどは生徒が、何を今さらと「当たり前でしょ」という顔をする。

・へ-ルシャムの校歌
映画では、へ-ルシャムの校歌(小説には無い)を生徒が歌う。

いつの日かはるか遠く離ればなれになって
今日ここに集う者はそれぞれの道を行く
過ぎた昔を振り返りつれづれに思うだろう
よく学びよく遊んだ懐かしき幼き日々を
過ぎた過去の思い出は時と共に輝きを増す
芳しい大気 降り注ぐ雨 きらめく太陽
弾む息、喜びに満ちあふれていた日々
懐かしき我らが母校ヘールシャムよ、永遠なれ

・キャッシーが聞く音楽テープ
キャッシーは音楽を聴いている。ふと、開け放たれたドアの向こうでこれを凝視(ぎょうし)している者が居る。小説では、マダムである。映画では、ルースである。


・ラストシーン
ラストシーンも小説と映画では違う。

小説は、極めて描写に抑制的である。「わたしは一度だけ自分に甘えを許しました」とキャッシーは言う。また「トミーが使命を終えたと聞いてから二週間でした。用事もないのに、ノーフォークまでドライブをしました。・・・」とも。この時、キャッシーにも「通知」が来たことを匂わせている。にもかかわらず彼女のこの落ち着き方はどうだろう。

「わたしは初めて自分に空想を許しました」・・・とキャッシーは言う、「やがて地平線に小さな人の姿が現れ、徐々に大きくなり、トミーになりました。トミーは手を振り、わたしに呼びかけました・・・」

普通人が、いつも自分に甘えや空想を許しているのに、キャッシーのこの潔癖さはどうだろう。良い教育を受けると、人の魂はここまで高まるのか。だからこそ介護人という辛抱強い職務にも精励できるのか・・・。

小説のラストは、キャッシーの心の高貴さと強さを表している。

「空想はそれ以上進みませんでした。わたしが進むことを禁じました。顔には涙が流れていましたが、わたしは自制し、泣きじゃくりはしませんでした。しばらく待って車に戻り、エンジンをかけて、行くべきところへ向かって出発しました。」

 キャッシーの最後のセリフは、感情の抑制と義務行為の揺るぎない遂行である。これは、英国人のあるべき姿が、キャッシーにおいて体現されていることを意味する。へールシャム教育の成果である。キャッシー自身の誠実な努力の成果である。魂は「存在する」どころか、高貴なまでに成長していたのである。

・映画のラストシーンは、監督の解釈が入っている。
広い耕地を前にして、有刺鉄線に引っ掛かったゴミ、つまりこの世の忘れものが吹き寄せられているのを前にして、キャッシーはつぶやく「トミーが地平線の彼方から現れたらどうだろうか、でもその先は想像しない・・・(この辺は、例によって、キャッシーの自制心なのだろうか)・・・私は、トミーと知り合っただけでも幸せだった・・・(クローン人間のキャッシーにとって、出遭いだけが人生の幸せだったのだろうか。いや普通人だって本当は出逢いだけが人生の幸せなのであるが・・・)」。

キャッシーは、ここで明言する。

私は自分に問う(・・・問うているのは、こんな制度を作った他人にではなく!、自分に対してである)。私たちと私たちが救った人たちとはどんな違いがあるのだろうか。人はいずれ終末を向かえる。だれもが生を理解すること無く、命尽きるのだ」

映画の主張は、かなり踏み込んでいる。ドナー制度の無意味さ、延命することの無意味さ、生の根源的な無意味さ(仏教的な意味の「空」に似た)、人の幸せとは人と人との出遭いである(仏教的な意味の「縁」に似た)、などを語らしているように思える・・・。
 
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