津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

「阪鶴丸」の登場

2017-08-13 | 旅行
前回は阪鶴鉄道による「舞鶴・境間航路」開設の経緯を記した。これまで著されてきた航路史とは、少々異な
る経過を辿っていた。今回は「阪鶴丸」登場から記してみたい。





阪鶴丸 10154 / JWVF 760G/T、鋼、1906(M39).05、大阪鉄工所、187.00尺[M40版]
「1尺」曲尺=0.3030303m

これは、大阪鉄工所アルバムに掲載された「阪鶴丸」の船影。トライアル時の撮影と思われる。船橋楼の腰より上、
及び船首楼のコンパニオン上部は、船体とは異なる塗色になっている。マスト、煙突及び通風筒も同色か。この塗色
は、前掲の「第三隠岐丸」と同じに見える。乗客定員は一等8人、二等35人、三等194人とある。

「阪鶴丸」登場の直前、1906(M39).07.07付山陰新聞は、同船の回航から定期運航に至るまでのスケジュールを
報じている。各港におけるレセプションの予定など、大変に興味深い。就航先各港における期待の高さを、このこ
とからも伺えよう。

7/03 20時 大阪出港
    途中、多度津寄港後、舞鶴へ直航
7/06 15時 舞鶴入港
7/07 17時 来賓饗応
〃   22時 舞鶴出港
7/08 06時 賀露入港、観覧に供す
〃   08時30分 賀露出港、馬潟へ直航
〃   15時30分 馬潟入港
〃   17時 来賓饗応
7/09 07時 観覧に供す
〃   09時 馬潟出港
〃   10時 安来入港
〃   11時 来賓饗応
〃   13時 観覧に供す
〃   14時30分 安来出港
〃   15時 米子入港
〃   16時 来賓饗応
7/10 07時 観覧に供す
〃   09時 米子出港
〃   12時 境入港、直ちに来賓饗応
〃   18時 定期の運航に就く



1906(M39).07.10付山陰新聞は、馬潟におけるレセプションの詳細を報じている。来賓と芸妓は、「料理其他の準
備あり」という理由により、松江港東桟橋と馬潟港において、散々待たされたようである。待ちくたびれた芸妓
が自転車を乗り回した事まで記事となり、110年以上も経った今に、進行管理の難しさを伝えている。続いて、
記事から船内の造りや装飾、祝賀会の様子を覗いてみよう。

一等室は稍や寝臺狭くして肥満せる乗客はドウやらと思はるばかり併し其設備は清楚にして旅情を慰
するに足るべく食堂亦敢て議すべきにあらす而して喫煙室は盖し船中の白眉とも稱すべし二等室は平
民的にして男子同士の乗船には快味少なからさるべきか下りて三等室となると無理に押込めば三百人
というのてあるが棚なしの家庭的に作られたるを以て郵船等の牛馬舎同様なるに比すれば二等の価値
あり他に其類を見さる所にして東海道の三等食堂付急行列車よりも乗客の意に適するものあるべしコ
レ将た本船の特色なるかサスがにハイカラー船の稱あるたけ先づは近頃気の利きたる新造船というに
吝かならす或るものは之れを評して隅から隅まで行届きてドコやらにシッとりとした処は田社長の人格
を代表しドコまてもハイカラー風なる処は早見支配人其ままなるか如しと


しかし、これ程までに当時の新造船就航祝賀会の様子や、船内装飾を詳述した記事も珍しい。

甲板上は電灯によるイルミネーションを灯し、真昼のようであった。また、ハンドレールには野草や花々を用いて装飾し
ていたという。現在の、モールのようなを用い方だったのか。船内の式場も、同様に草花にて装飾し、中央の
天窓にはリボン様の布を何本も交叉させて、卓上には約一間ごとに草花挿した竹籠を配置していた。
祝賀会において、田社長は「南北連貫航路」の重要性と本船新造の経緯を語った。松永武吉島根県知事、松
江の企業経営者、福岡世徳松江市長らの祝辞の後、「阪鶴丸万歳」を三唱し、「酒、泉の如くして芸妓その間
に周旋し飲まさるに酔ふて狂せんはかり」とある。来賓達は迎えの船に乗り、松江港へ帰着した時は22時を過
ぎていた。来賓数は160~170名に上ったという。

時代の先端を行く大型新造船「阪鶴丸」は、就航先の人々に歓迎され、1906(M39).07.10境港18時出港の上
り便から定期航海に就いた。「第十壹永田丸」からの置換えは、境出港広告から見ると次のとおり。

7/08 第十壹永田丸 境出港 <これまで隔日運航>
7/10 阪鶴丸 境出港(処女航海)
7/11 第十壹永田丸 境出港(最終航)
7/12 阪鶴丸 境出港 <以後、隔日運航>



手許に不思議な絵葉書がある。船名は「阪鶴丸」とあるのに、船影は「第貳勢至丸」。絵葉書から船名は読み
取れないが、『大阪鉄工所アルバム』は、全く同じ写真の「第貳勢至丸」を収録している。どんな経緯によりこの
絵葉書は世に出たのか、疑問を抱いてきた。目にした当初は、この船影こそ「永田丸」ではないか‥と考えた。
「阪鶴丸」就航の新聞記事を読むなかで、祝賀会において配布された数種の絵葉書のあることを知った。恐ら
く、竣工と祝賀会の間の時間は少なく、同じ頃に大阪鉄工所建造の建造した船から写真を見繕い、絵葉書は
製作されたと見ている。
絵葉書の「船影取り違い」や「船名の修正」は、枚挙に暇がない。何故このような作為をするのか、全く理解不
能なものさえある。絵葉書の船名は、先ずは疑ってかかる必要がある。

『大阪海事局管内航通運輸ニ関スル報告(第四回)』は、「舞鶴境線」の寄港地として「往復共米子、安来、馬
潟ニ寄港し、臨時賀露ニ寄港ス」とある。また、航海頻度については、「総噸数七百八十噸平均十海里ノ船舶
一艘ヲ用ヰ夏季ハ隔日冬季ハ三日一回ニ舞鶴又ハ境ヲ發ス」とある。
だだ、疑問なのは、『大阪海事局報告(第四回)』は、M38年01月~12月における報告の筈。この間には、阪鶴
鉄道による定期航路は開設されていない。しかし、刊行年月との間に時間があり、「山陰道の海運」特集は挿
入されたと考えている。
この記事で重要なのは、当初、賀露寄港は臨時であったことと、出港頻度は「夏季ハ隔日冬季ハ三日一回」
であったこと。このことは、阪鶴鉄道時代の1906(M39).07~1907(M40).07における新聞広告から、裏付けを
得ている。この間、9月まで隔日、10月から翌年3月まで三日に一回運航し、月末に運休日を設定している。

1907(M40).08.01「舞鶴・境間航路」は買収により国有化された。国有後の「阪鶴丸」の船影は、二点見つか
っている。





上は十神山を背景に安来港に停泊する船影。ファンネルマークは「工」に変わり、塗装は腰より上の塗り分けが無い。
境港における船影は、所々に松飾りを付けていて、暮れから正月にかけての記録とみられる。

『日本鉄道連絡船史』から、国有化後の「舞鶴・境間航路」を引用させていただく。

国有鉄道の阪鶴鉄道買収と共に、同社が大阪鉄工所において建造中なりし第二阪鶴丸(八六四噸)も
国有鉄道に継承され、明治四十一年六月二十五日竣工し、同年七月十日、舞鶴・境間航路に配船され、
同年八月二十日より従来の隔日運航を毎日運航に変更した。
同航路は浜坂及び鳥取市外賀露港に寄港することにしたが、連絡作業が困難なるため永続しなかった。
明治四十五年三月一日、山陰本線の全通によつて、本航路は廃止された。


『大阪鉄工所アルバム』は進水直後の「第二阪鶴丸」を記録している。刊行年月の記載は無いが、この頃に刊行
されたとみられる。



第二阪鶴丸 11081 / LFKS 864G/T、鋼、1908(M41).04、大阪鉄工所、187.62尺[M42版]
「1尺」曲尺=0.3030303m





「第二阪鶴丸」当時の絵葉書は二点あり、舞鶴海岸駅における船影と、旧境港灯台を背景に、境水道を港外
へ向けて航行する姿。

1908(M41).08.20付山陰新聞は、「阪鶴丸毎日の航海」として「第一、第二阪鶴丸は本日より隔番毎日の航海
をなすと云ふ」と報道している。運航スケジュールは「舞鶴発午後4時、境着翌朝6時。境発午後6時、舞鶴着翌朝
8時」「八月廿日より実施」とある。

新聞広告を見る限り、賀露への定期寄港は確認でず、『連絡船史』の記述は、裏付を得られない。一方、浜坂
(諸寄)への定期寄港は、1908(M41).09.15~12.10の間であった。初日の「帝国鉄道連絡船出帆広告」に「本
月15日より濱坂(諸寄)ニ寄港但上下便共寄港せざる分あり」と記される。『大阪海事局報告(第四回)』にある
とおり、賀露は臨時寄港であったと思われる。
1907(M40).04までは鉄道作業局、以降、帝国鉄道庁。1908(M41).12から鉄道院と改組されたその間にあたる。

1912(M45).03.01山陰線浜坂~香住間は開業した。鉄道院米子出張所は、「境舞鶴間ニ運航シタル連絡汽船
ハ二月末日限リ廃止致候」と新聞広告を出している。

「阪鶴丸」は宇野・高松間航路に臨時配船後、阿波国共同汽船に払下げられた。「第二阪鶴丸」は関釜航路の
貨物輸送に従事後、青函航路に配船。後に、同じく阿波国共同汽船に払下げられ、「第十八共同丸」と改名さ
れた。

最後に「舞鶴・境間航路」略史を掲げる。鉄道連絡船「阪鶴丸」の華やかな時代は、6年に満たなかった。
1904(M37).11.01 隠岐汽船と阪鶴鉄道は、車船連絡輸送契約を締結。
1905(M38).03.19 隠岐汽船と阪鶴鉄道は共同し「浮世丸」用船契約を締結。
1905(M38).10末 「浮世丸」用船契約を解除。
1906(M39).01.09 「第十壹永田丸」就航(三日毎)。
1906(M39).07.10 「阪鶴丸」境港18時出港の上り便から定期航海に就く。
            2隻体勢となるまで、4~9月は隔日、10~3月は三日毎。
1907(M40).08.01 「舞鶴・境間航路」は買収により国有化。
1908(M41).08.20 「阪鶴丸」2隻体勢となり、毎日就航。
1908(M41).09.15 浜坂(諸寄)寄港開始。12.10まで。
1912(M45).02.29 「阪鶴丸」就航最終日。翌日、山陰線開通。



いわつばめ 17G/T、FRP、藤井造船所
リアス式海岸の山陰東岸には、遊覧船の活躍する入江が点々と並ぶ。沿道に桐の花の咲く季節、国道178号を
走り、浜坂港へ但馬海岸遊覧船㈱「いわつばめ」を訪ねた。最近訪れていないが、『フェリー・旅客船ガイド』による
と、先年、経営者も船も変わったらしい。
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