四阪の美濃島側から家ノ島の製錬所を眺めた絵葉書に住友汽船「木津川丸」は船尾側から俯瞰された
姿を残している。
大阪商船の発注した「木津川丸」は、初出の『M23船名録』によると1080 / HGPL、132G/T、鉄、1888
(M21).03、攝津国兵庫。建造は川崎造船所。『住友別子鉱山史』には、「木津川丸」の鮮明なサイドビュー
が掲載されている。この社史から、画像の撮影された年代はごく限られた期間と判った。家ノ島頂部に
6本煙突と、煙に隠れてはいるものの、右から3本目の煙突の背後に、使用を止めた大煙突が見えてい
る。これが撮影年代特定の決め手となった。
新居浜惣開に設けられた洋式銅製錬所は、1888(M21)操業を始めた。1893(M26)煙害問題の発生を
みたことにより、住友は1895(M28)四阪島の買収を完了。1897(M30)製錬所建設工事を着工し、1905
(M38)本格操業を開始した。四阪島に移転後も、周辺地域に煙害を及ぼしたことにより、煙害減少を図
るため、鉱毒調査会の案出した「鉱煙稀釈法」採用を政府から命じられた。大煙突を廃止し、代わりに
6本の煙突を建設し、送風機により空中に放出し、鉱煙を稀釈すると云うものであった。
6本煙突は1915(T4).03から通煙を開始した。ところが、結果は大失敗となった。温度の低下により亜硫
酸ガスは拡散せず、凝集したまま被害地に達し、四阪島も被った。社史には「四阪島全体が硫煙に包
まれ、遠方からは見えにくくなり」「在住者は、言語に絶する困苦を強いられた」とある。このため、
1917(T6).10わずか2年半で6本煙突は使用を停止、再び大煙突を使用することになった。
この画像を良く見ると、6本煙突は煙を吐いている。これは、在住者が困苦を強いられた二年半の間の
光景となる。
1892(M25)住友による定期航路経営の復活は、山陽鉄道の尾道開業を契機とした。鉱山用度品運搬
を目的とし、新居浜~尾道間定期航路を開設し、「御代島丸」(初代)を投入した。1893(M26)大阪商船
「木津川丸」を購入し、置き換えている。四阪島製錬所起工を控え、1896(M29).12より「木津川丸」は
四阪島へ1日一回の寄港を開始した。
この住友汽船「木津川丸」運航時刻は1920(T9).07のもの。大正初期から変更は無く、画像の記録され
た当時もこのダイヤにて運航されている。光線の当たり具合から、復航の四阪島出港時刻(15:55)直前と
思われる。
直江津において記録されている船影について、触れておきたい。手にしてから30年近く経過する絵葉書
の、読めるようで読めない船名に、長い間、もどかしい思いをしてきた。先頃「高砂丸」の船名を検証し
た際、アルファベットの「MARU」四文字は、「全体の文字数」や「文字の潰れ具合」を判断する上で、重要
かつ有効であることを知った。改めてこの画像を検証したところ、何と、画像は裏焼きされていたこと
に気付いた。
『T11船名録』より船舶番号順から五十音順に改められている。『T11版』『T12版』には「御代島丸」は
2隻並記となっている。
初代「御代島丸」(住友トク)1272 / HJLF、60.15G/T、木、1891(M24).12、攝津国川北村、小野正作で
建造されている。この船については『佐越航海史要』に詳しい。「M25.05佐渡二見村古藤亀太郎が、御
料局佐渡鉱山用途受命の目的の下に購入」して以来、「T3佐渡商船会社が優秀船二隻を建造する段取
りをつけるや、それと対立抗争すべき事の甚だ無駄であることを覚」り、越佐海峡航路から退役している。
直江津において絵葉書に記録されて、何ら不思議はない。阿部泉のまま1914(T3)に船籍港は出雲崎か
ら小樽に変わり、1922(T11).12.05北海道大鼻岬沖にて「同栄丸」と衝突し失われた。最後の所有者は
樺太工業株式会社(小樽)とある。
断定は避けたいものの、この船影は、M20頃に大阪湾方面で建造された船の特徴を備えていることから、
初代「御代島丸」と見ている。
姿を残している。
大阪商船の発注した「木津川丸」は、初出の『M23船名録』によると1080 / HGPL、132G/T、鉄、1888
(M21).03、攝津国兵庫。建造は川崎造船所。『住友別子鉱山史』には、「木津川丸」の鮮明なサイドビュー
が掲載されている。この社史から、画像の撮影された年代はごく限られた期間と判った。家ノ島頂部に
6本煙突と、煙に隠れてはいるものの、右から3本目の煙突の背後に、使用を止めた大煙突が見えてい
る。これが撮影年代特定の決め手となった。
新居浜惣開に設けられた洋式銅製錬所は、1888(M21)操業を始めた。1893(M26)煙害問題の発生を
みたことにより、住友は1895(M28)四阪島の買収を完了。1897(M30)製錬所建設工事を着工し、1905
(M38)本格操業を開始した。四阪島に移転後も、周辺地域に煙害を及ぼしたことにより、煙害減少を図
るため、鉱毒調査会の案出した「鉱煙稀釈法」採用を政府から命じられた。大煙突を廃止し、代わりに
6本の煙突を建設し、送風機により空中に放出し、鉱煙を稀釈すると云うものであった。
6本煙突は1915(T4).03から通煙を開始した。ところが、結果は大失敗となった。温度の低下により亜硫
酸ガスは拡散せず、凝集したまま被害地に達し、四阪島も被った。社史には「四阪島全体が硫煙に包
まれ、遠方からは見えにくくなり」「在住者は、言語に絶する困苦を強いられた」とある。このため、
1917(T6).10わずか2年半で6本煙突は使用を停止、再び大煙突を使用することになった。
この画像を良く見ると、6本煙突は煙を吐いている。これは、在住者が困苦を強いられた二年半の間の
光景となる。
1892(M25)住友による定期航路経営の復活は、山陽鉄道の尾道開業を契機とした。鉱山用度品運搬
を目的とし、新居浜~尾道間定期航路を開設し、「御代島丸」(初代)を投入した。1893(M26)大阪商船
「木津川丸」を購入し、置き換えている。四阪島製錬所起工を控え、1896(M29).12より「木津川丸」は
四阪島へ1日一回の寄港を開始した。
この住友汽船「木津川丸」運航時刻は1920(T9).07のもの。大正初期から変更は無く、画像の記録され
た当時もこのダイヤにて運航されている。光線の当たり具合から、復航の四阪島出港時刻(15:55)直前と
思われる。
直江津において記録されている船影について、触れておきたい。手にしてから30年近く経過する絵葉書
の、読めるようで読めない船名に、長い間、もどかしい思いをしてきた。先頃「高砂丸」の船名を検証し
た際、アルファベットの「MARU」四文字は、「全体の文字数」や「文字の潰れ具合」を判断する上で、重要
かつ有効であることを知った。改めてこの画像を検証したところ、何と、画像は裏焼きされていたこと
に気付いた。
『T11船名録』より船舶番号順から五十音順に改められている。『T11版』『T12版』には「御代島丸」は
2隻並記となっている。
初代「御代島丸」(住友トク)1272 / HJLF、60.15G/T、木、1891(M24).12、攝津国川北村、小野正作で
建造されている。この船については『佐越航海史要』に詳しい。「M25.05佐渡二見村古藤亀太郎が、御
料局佐渡鉱山用途受命の目的の下に購入」して以来、「T3佐渡商船会社が優秀船二隻を建造する段取
りをつけるや、それと対立抗争すべき事の甚だ無駄であることを覚」り、越佐海峡航路から退役している。
直江津において絵葉書に記録されて、何ら不思議はない。阿部泉のまま1914(T3)に船籍港は出雲崎か
ら小樽に変わり、1922(T11).12.05北海道大鼻岬沖にて「同栄丸」と衝突し失われた。最後の所有者は
樺太工業株式会社(小樽)とある。
断定は避けたいものの、この船影は、M20頃に大阪湾方面で建造された船の特徴を備えていることから、
初代「御代島丸」と見ている。