津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

尼崎汽船の最終航海

2017-06-13 | 尼崎汽船部
6年前の2011(H23)年に「尼崎汽船の終焉」を記した。尼崎汽船に関心を持つ者にとって、尼崎汽船と尼崎造
船所の黄昏は、永遠の謎である。尼崎汽船は、1952(S27)上半期に最終航を迎えたと絞り込んだものの、日
付の特定までは難しかった。折にふれ、手掛かりを探す中で、ようやく旅客定期航路最終日を突き止めた。
判ってみれば呆気ないことも、確証を得るのは大変だった。

太平洋戦争開戦の前、1941(S16).11.11に瀬戸内海及び四国九州方面航路を経営する7社の役員は、関西汽
船創立に関する申合書を作成した。合名会社尼崎汽船部は17隻を出資し、1942(S17).05.04関西汽船は創立
した。
一方、芸予海域における戦時統合は、第一次統合として1940(S15).09.16広島湾汽船が創立された。現在の
瀬戸内海汽船の前身である。第二次統合は、広島湾汽船、瀬戸内商船、(合)尼崎汽船部ほかの出資により、
1942(S17).12.31広島県汽船が創立。(合)尼崎汽船部は3隻を出資した。第三次統合は広島県汽船、東海汽
船、尼崎汽船(株)ほかの出資により、1945(S20).06.11瀬戸内海汽船が創立され、尼崎汽船(株)は2隻を出資
した。第二次統合の1942(S17).12.31時点において「合名会社尼崎汽船部」と記される社名は、第三次統合の
S20.06.11では「尼崎汽船株式会社」と変わる。そこには、単なる社名変更とは異なる経緯があった。
先ず、尼崎汽船史において、「鉄道連絡急航汽船株式会社」を忘れるわけにはいかない。同社は1924(T13)に
尼崎家の設立した船社で、当初から株式会社の形態を取っていた。1926(T15・S01)に「急航汽船株式会社」
と社名を変更した。在籍した汽船は、期間の長短はあるものの「兒島丸」「玉藻丸」「此花丸」の3隻。同社につ
いては、「急航汽船のこと」として記してある。



『海事要録S25版』を見てみたい。1943(S18)における「急航汽船株式会社の合名会社尼崎汽船部の吸収合
併」と「尼崎汽船株式会社への社名変更」を記している。文脈から、存続会社は急航汽船株式会社である。
このことは、『海運業者要覧』の記述とも符合する。同書より手掛かりを拾うと、鉄道連絡急航汽船株式会社
の創立は1924(T13).05.13。同社の合名会社尼崎汽船部吸収合併及び社名変更は、1943(S18).09(日付不
明)と考えられる。

戦後、過度経済力集中排除法の公布をみて、財閥解体の進む中、戦時統合によって創立した関西汽船に対
し、尼崎汽船、宇和島運輸及び阿波国共同汽船の三社は、分離要請を行った。1948(S23).04.26開催の関西
汽船臨時株主総会の承認を経て、尼崎汽船10隻、宇和島運輸4隻、阿波国共同汽船4隻の船舶返還は実現
した。手放す方の『関西汽船社史』はサラリと記しているが、分離独立は三社の悲願。後に首相を務めた大物
政治家の動きもあって、経緯は実に興味深い。

船舶返還後の運航時刻について、改めて触れておきたい。



1950(S25).07時点の旅客定期航路は大阪・多度津航路。船は「浪切丸」「大衆丸」「神惠丸」「日海丸」の4隻
を投入している。



これは「1950(S25)10月時刻表」。原稿は前月09/10締切りの内容。
1950(S25).05.22高松市で開催された公聴会を経て、航路は多度津から尾道へ延伸された。この時点で、延
伸は既に認可されていたと判る。就航船は2隻で、何故か「第十四宇和島丸」が充当されている。



尼崎汽船の旅客定期航路を確認できる最後の時刻表は「1952(S27)5月時刻表」。原稿は前月10日(4/10)
閉切りの内容となっている。上段は関西汽船の大阪・多度津航路、中段は尼崎汽船の大阪・尾道航路、下段
は加藤海運の大阪・観音寺航路。尼崎汽船は大阪・尾道航路に「大衆丸」「日海丸」の2隻を投入している。

1952(S27)当初の尼崎汽船は、一体、何隻のフリートを所有していたのか。『船名録S27版』(S27.01.01現在)を
確認すれば良いのだが、残念ながらS27版は刊行されていない。
『近畿海運局要覧S27版』は「管内100G/T以上鋼船所有者一覧表(S27.01.01)」を掲載している。記載は「隻
数」「総屯数計」「重量屯計」「備考」で、船名は記されない。尼崎汽船は「総隻数4隻」「総屯数計2044G/T」、
備考欄に「旅客定期及び内航不定期」とある。当時、「内航不定期航路」も経営したと判る。
「総屯数計」から引算すると、4隻は「大衆丸」「日海丸」「赤城丸」「一心丸」と見られる。『船舶明細書S26版』
(S26.11.01)に掲載の「第四南興丸」「電信丸」の2隻は、1950(S25)中に売却されたようだ。

S26.01.01  船名録昭和26年版   12隻
S26.11.01  船舶明細書S26版    6隻 <第四南興丸、大衆丸、日海丸、赤城丸、一心丸、電信丸>
S27.01.01 (船名録昭和27年版刊行無し)
  〃     近畿海運局要覧S27版 4隻 <船名記載無し>
S27.02.28  「一心丸」独航機能撤去により信号符字取消。
S27.07    「大衆丸」を九州商船へ売却。
S27下期   「日海丸」を宝海運へ売却。
S28.01.01  船名録昭和28年版   1隻 <赤城丸>
S28.03.15  「赤城丸」独航機能撤去により信号符字取消。
S28.06.26  和議手続開始。
S28.10.13  債権者集会。
S28.10.26  和議認可。



これは1935(S10)に行われた主機換装直後の「日海丸」。多度津港における記録。
日海丸 9673 / JKFE 300G/T、41.2m、鋼、1905(M38).02、尼崎造船所(大阪) [S11版]

「四国新聞」には高松港出港情報が掲載されている。1952(S27).05下旬以降の紙面から、尼崎汽船と加藤海
運の船名を併記してみた。時刻表は前掲のとおりで、「阪神行高松出港時刻」は、両社共21:00。なお、加藤
海運の船名は記事のままとした。船名録によると、船名は漢字と平仮名が逆になる。
    尼崎汽船  加藤海運
5/23  日海丸  八千代丸
 24  大衆丸  あおい丸
 25  日海丸  八千代丸
 26  大衆丸  あおい丸
 27  日海丸  八千代丸
 28   -   あおい丸
 29  日海丸  八千代丸
 30   -   あおい丸
 31  日海丸  八千代丸
6/01   -   あおい丸
 02  日海丸  八千代丸
 03  日海丸  あおい丸
 04   -   八千代丸
 05  日海丸  あおい丸
 06   -   八千代丸
 07  日海丸  あおい丸
 08   -   八千代丸
 09  日海丸  あおい丸
 10   -   八千代丸
 11  日海丸  あおい丸
 12   (記事無し)
 13  日海丸   -
 14   -   八千代丸
 15   -    -
 16   -   八千代丸
 17  日海丸   -
 18   -   八千代丸
 19  日海丸   -
 20   -   八千代丸
 21  日海丸   -
 22   -   八千代丸
 23  日海丸   -
 24   -   八千代丸
 25  日海丸  八千代丸
 26   -   八千代丸
 27  日海丸   -
 28   -   八千代丸
 29  日海丸   -
 30   -   八千代丸
7/01   -   あおい丸
 02   -   あおい丸
 03   -   あおい丸



最初に姿を消したのは「大衆丸」。1952(S27).05.25 / 18:00大阪出港、翌05.26 / 12:00尾道着。折返し13:00
尾道出港、21:00高松出港、翌05.27 / 07:30大阪入港で運航を終えた。
その後「日海丸」一隻で隔日運航した。しかし、06.28大阪出港、翌06.29尾道折返し、翌06.30大阪入港をもっ
て「日海丸」は運航を終えた。尼崎汽船社員は、どんな思いで安治川を上って来る「日海丸」を迎えたのか。
今から65年前のことである。
尼崎汽船の運航休止は、確認した限りにおいて新聞報道されていない。阪神~小豆島~高松~丸亀間には、
同一時刻、同一運賃の加藤海運の航路があり、住民生活や地域経済に、影響は無かったのだろう。
『九州商船80年のあゆみ』によると、「大衆丸」は同年7月に九州商船へ売却され、翌月「椿丸」と改名、五島
の海に登場した。「日海丸」は宝海運に売却され、1952(S27).12.01改訂大阪・鳴門線時刻表に掲載された。
しかし、旅客定期航路事業休止後も、尼崎汽船株式会社及び尼崎造船株式会社は存続した。1953(S28)まで
在籍した貨物船「赤城丸」の運航や、オペレーターとして貨物船を用船した可能性も否定できないが、真相は判ら
ない。

最後に『海運業者要覧』から創立日等を拾ってみた。版により、異なった年月が見える。先にも記したが、その
辺りに真実が隠されているように考えている。
『S18・19版』(S18.04.01現在)
  合名会社尼崎汽船部 M13.03創立 代表社員尼崎伊三郎
  尼崎造船株式会社 S15.07.04創立 取締役社長尼崎伊三郎
『S21・22版』(S21.09.01現在)
  尼崎造船株式会社 S15.07.04創立 取締役会長尼崎伊三郎 取締役社長田村太郎
『S24版』(S24.04.01現在)
  尼崎汽船株式会社 合名会社T10.01 株式会社S18.09 取締役社長尼崎伊三郎
  尼崎造船株式会社 M34.04創立 取締役社長田村太郎
『S28・29版』(S28.06.01現在)
  尼崎汽船株式会社 T13.05.13創立 取締役社長尼崎伊三郎
  尼崎造船株式会社 M34.04創立 取締役社長北山由雄
『S29・30版』(S29.06.01現在)
  尼崎汽船株式会社 T13.05.13創立 取締役社長尼崎伊三郎
  尼崎造船工業株式会社 M34.09創立 代表取締役村上平太郎
『S30・31版』(S30.04.01現在)
  尼崎汽船株式会社 T13.05.13創立 取締役社長尼崎伊三郎
  尼崎造船工業株式会社 M34.09創立 代表取締役村上平太郎
『S31・32版』(S31.06.01現在)
  尼崎汽船株式会社 T13.05.13創立 取締役社長尼崎伊三郎
  尼崎造船工業株式会社 M34.09創立 代表取締役村上平太郎
『S32・33版』(S32.06.01現在)
  尼崎汽船株式会社 T13.05.13創立 (役員の記載なし)

尼崎造船工業株式会社は『S31・32版』、尼崎汽船株式会社は『S32・S33版』を最後に掲載されなくなる。登
記の抹消された「真の終焉」は、この頃と思われる。
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