ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

今この時点に於いて『原発ゼロ社会』というのは、政策的な選択問題ではなく不可避の現実!どーん!

2012年11月06日 | 日本とわたし
こちらがサンディの置き土産に四苦八苦している間に、きーこさんが、彼女としてはいつも通りなんやろうけど、
ものすごい量(何万字にも及ぶ大変な量)の文字起こしをしてくれてはった。
それを、ちょこちょこと、細切れに時間を見つけては読みながら、これは絶対に、ここにも残させてもらいたいと思た。
彼女の労力を厭わない正義感と、真実を伝えたいという意思の強さには、ほんまに心から感動するし、深く感謝してる。
きーこさん、ありがとう!

↓以下、転載はじめ

田坂広志氏11/2自由報道協会会見(内容書き出し)
自由報道協会
[日時] 2012年11月2日(金)15時30分(14時30分 受付開始)
[会見者] 田坂広志氏
[テーマ] 今後の原子力の課題について

この会見を、偶然Liveで見ました。
田坂広志教授を、初めて知りました。
その内容は、簡潔明瞭で、非常に分かりやすく、事実が見つめやすいものでした。
『原発ゼロ』ということは、それを誰かが選択する以前に、避けようのない現実であるという田坂先生のお話は、
今、原発が無ければ困るという人にも、即廃炉と言う人にも、
みんながきっちりと理解しておかなければならない事実なのだ、と思いました。

音声を取りましたので、そこから書き出しました。


田坂広志氏:
私もまず最初に、自由報道協会の方に、お礼を申し上げたいと思います。
私自身、あんまりこういうところにしゃしゃり出てくるような、話をなんですけれども、
今、日本で、原子力の話が、いろんな形で言われている訳ですが、
ほぼ、わたしの目で見る限り、極めて重要なことは、あまり議論されていない、という印象があります。
メディアの方には、一人一人、いろいろとお話をするようにしているんですが、
やはり、何かの理由があるのかもしれませんが、原子力の問題で、根本の問題に触れないような論調が多いように思われます。

そんな事を感じていました矢先に、自由報道協会の方から、こういう場を使って何かのメッセージを出したらどうかという、そんなお誘いをいただきましたので、
本当に感謝を申し上げながら、この場を務めさせていただくことにいたします。

私の経歴などについては、今ご紹介を、少し身に余るようなご紹介も含めて頂きましたので、本題に入ってまいりたいと思います。

で、私自身の経歴で、もう一回だけ、申し上げておきたいのは、
私は、原子力の、いわゆる原子力ムラと言われるところを、ま、20年間歩んだ人間です。

これはもう、隠しようのない、現実の私の経歴になって残っていることですので、
1970年に大学に入り、71年から原子力工学科に進学を決め、そして、後に国立研究所に、アメリカの国立研究所に行くこともあり、勤める事もありましたが、
民間企業での、いろいろな原子力のプロジェクトにも携わって、91年にその世界から、ま、離れたわけです。

離れた訳というのは、決して、原子力について極めて強い批判を感じたからではない、これも、正直に申し上げておきます。

むしろ、自分のやるべきことはもうやった。
後輩の皆さんが、本当に優秀な方々がいらっしゃるので、これからは、世界で最も安全な原子力を実現してもらいたい、という気持ちを持ち、
同時に私自身、それ以外の、自分で取り組んでみたいシンクタンクという、やりがいのある仕事がありましたので、そちらに向かったわけです。
これが、91年ごろですね。

そしてこの、20という数字に意味があるのか分かりませんが、20年、原子力ムラで勤めた人間が、働いた人間が、
20年離れて、2011年、何故かまた、原子力の世界に戻ることになってしまった
わけです。

私は、この事故が無ければ、かりにそれなりの高い立場、たとえば、原子力委員長とか、そういう立場でお誘いいただいたとしても、戻る事はなかった人間かと思います。

ただ、あの3月11日の事故の後、一人の市民として、まずはあの事故を見ながら、
「なぜ、SPEEDIが動かないか?」
実は、SPEEDIのような、環境安全に関わるシュミレーションは、私の専門でもありましたので、
あのSPEEDIを解するために、ま、国費を何百億円も使い、何年もの歳月を使って作ったものが、
一番必要な時に動かない、という現実
も見ながら、
本当に、福島の方々の事にも、やはり、これはどうなっていくんだろうか?という思いながら、
外から、政府に対しては、いくつかの提言をしておりましたが、
結局、29日、内閣官房参与として政府の仕事を手伝う、というよりももう、東京電力と経産省、保安院そして官邸、
この方々と、この事故対策に取り組む、という日々が始まったわけです。

で、5カ月と5日勤めて、内閣総辞職とともに、内閣官房参与を辞任する事になりましたが、
5か月の前半は、やはりこの事故対策、やはり事故対策だけではもう、私自身が進めるべきことは十分ではない。
原子力行政の改革にも取り組むことになり、さらには、原子力政策、現在話題になっている、原子力脱原発依存という、こういう政策論にも関わることになったわけです。

で、まぁ、こういう立場の人間ですので、原子力ムラの裏も表も、率直に申し上げればよく分かっております。

その意味では、何か、運命的にこの世界に戻って、原子力行政と原子力産業の改革という事を、論じざるを得なくなった時に、
かつて私が見てきたことが、何かの意味があるんだろうと思って、今、ささやかな活動をしております。

とはいえ、僕の経歴は、もう十分にご理解いただいたと思うので、
実は、今日申し上げたい事、時間さえあれば、もう、いくつもありますが、
今日はたった一つ、是非とも、多くの国民の方々に伝えていただきたい事を中心に、お話をしたいと思います。

最初に、結論を申し上げます。

よくこの間に、政府が、原発ゼロ社会30年代、という事も述べて、いろんな意見を、批判もあるようですが、
いずれにしても、原発ゼロ社会を目指す、というビジョンを出したわけです。

で、この原発ゼロ社会、というものについての論調がですね、
今回、閣議決定がされなかった事がどうか、という次元の話はさておいてですね、
私が一番気になるのは、原発ゼロ社会は、みなさん選ぶんですか?という論調が、今非常に広がっています。
特に、原発を推進する、という立場の方々から、
「原発ゼロ社会などを選んだら、この国の経済はおかしくなりますよ」
「電力料金は2倍になるし、雇用も減るし、海外に企業が行ってしまいますよ」みたいな事をおっしゃいます。
この議論が正しいかどうか?という事をも、ま、あるんですけれども、


それ以前に、私が一番申し上げたいのは、
今この時点に於いて、原発ゼロ社会というのは、政策的な選択の問題ではありません。
つまり、ゼロ社会を選ぶんですか?選ばないんですか?という、選択問題ではありません。
これは、不可避の現実だ、という事
を申し上げています。

つまり、立場が推進であろうが反対であろうが、なんであろうが関係なくやってくる、
もう避けることができない現実
になっているんだ、という事を、一人でも多くの国民の方に、理解していただきたいと思います。

先ほど申し上げたように、私は、原子力の世界を歩んだ人間です。
特に、感情的に、原子力をつぶしたいと思っている人間でもありません。

ただですね、専門家として、今現実のこの状況を見た時に、
もう原発は、推進反対に関係なく、必ず止めざるを得なくなっている状況になっている、という事を、まず、直視するべき
だと思います。

よく、原発脱原発の議論に対して、「そういう非現実的な話はおかしい」という方がいらっしゃいますが、
いったい誰が非現実的であるか?という事も、少し考えてみる必要がある
と思います。

今、全ての国民、そして政治家、官僚、財界の方が、直視しなければいけない現実を見ていないのは、
むしろ、もしかしたら、財界の方や行政の方
ではないのかという印象が、私の中にはあります。

その事を申し上げたうえで今から、短い時間ですので、ポイントを申し上げたいと思います。

「原発の未来をめぐる7つの誤解」と、あえてつけさせていただきました。

第一の誤解。
この話は、今要点を申し上げましたが、ここに書いてあるのは、誤解の認識です。
私の認識ではありませんが、よくこういう言葉を聞きます。

「福島の経験に学び、原発を、世界でも最高の安全を実現しよう」と。
そうすれば、原発は再稼働をし、今後も使っていける、というような論調ですね。

もしくは、こういう言葉もよく聞きます。

「最近の原発は、最高の安全対策が行われているんですよ」と。
「福島で原発事故を起こしたけれども、あれはまあ、車に例えて言えば、T型フォードのような古いタイプですよ」と。
「今の世界の原発、日本の原発最新鋭のものは、フェラーリのように、最先端の技術が使われていますよ」
ということが、よく言わます

この事をもって、先ほど申し上げたように、
福島の経験に深く学んで、最高の原発をつくっていけば、「いやこれは使っていけるんだ」という論調があります。

ただ、ここでですね、深く見つめておくことがあります。

「そもそも、原発の安全性とは何か?」という事ですね。

というのは、よく総理も、海外などのいろいろな場で、国際的な会合の場で、
「世界でも、最高水準の安全性を実現する」というような事をおっしゃいます。
で、その考えは、全く私も賛成です。

ただですね、ここで言う安全性の意味を、すこーし誤解されているように思います。
原発の安全性というのは、技術的な安全性だけではないんですね。

つまり、
津波対策はしっかりやりました。
さらには、電源喪失についても、ちゃんとバックアップをやりましたということをもって、
「原発の安全性は、極めて高いレベルになりました」ということは、実は、一面にしか過ぎない
わけです。

本当の原発の安全性というのは、人的・組織的・制度的・文化的安全性の事です。

これは、是非、皆さんのような報道の立場に立たれる方に、是非、世の中の常識として広めていただきたい、と思うんです。

というのはですね、世界の原子力施設の事故というのは、私も専門ドクター論文を書くなかで、これは随分学びました。
世界の原子力の事故の大半は、その原因は、ほとんどがヒューマンエラーなんですね。
一番最初の人身事故と言われる、アイダホホールズのS1事故も含めて、人間のヒューマンエラーです。

このヒューマンエラーというのは、人間のミスだという事で、すぐに、まぁ
「だったら、人災の訓練、スタッフの訓練をちゃんとやろう」みたいな話になる面もあるんですが、
実は、ヒューマンエラーと言われるものは、その背後に、もっと広い問題が横たわっています。
これを私は、人的組織的制度的文化的要因と呼んでいます。

で、一つの分かりやすい例を申し上げると、分かりやすいというには、少し辛い例なんですが、
JOCの臨界事故があったわけです。
これはもう、皆さんご存じのように、東海村で臨界事故が起こった。
この施設で事故が起こった時、わたしは、東京で仕事をしてたんですけど、
ある会合にあったんですが、この事故の情報が届いた。
「東海村のウラン転換工場で、臨界事故が起こった」
聞いた瞬間に、私はこう申し上げたんです。
これはもう、忘れもしないですけれども、そこにいらした会合のメンバーに
「これは誤報です」と。

私は、実は、ウラン転換工場と同じタイプの工場で、働いていましたので、その工場の設計についても、よく分かっております。
したがって、周りの方に申し上げたのは、
「これは誤報です。
あの手の施設はもう……たとえば、作業員が、右に回すべきバブルを左に回したとか、その程度の事で事故が起こらないように、
臨界事故など絶対に起こらないように、そういう設計がなされているんです。
だから……臨界事故というのは誤報です」と申し上げた。

ところが……事実はご存じのように、実は、臨界事故が起こっていた訳です。

それをよく調べてみると、これも私は驚いたんですが、
ウラン溶液は、本来、タンクからタンクへ、パイプで送液しなければならないものをですね、
作業を急いだ作業員が、何故かバケツで汲みあげて、注ぎ込んだ
訳です。
その瞬間に、チェレンコフが見えた、といいますから、紫色の光が見えた。
これが見えた方は、本当にお気の毒ですが、数時間で死亡します。
その死に方も、人間の死に方としては一番辛い、全身の細胞が崩壊するような形で、亡くなっていく
わけです。

で、この悲劇については、論じる場面ではありませんが、
何が問題か?と言えばですね、この作業員は、確かにエラーをしたわけです。
でも、この事が、先ほどの人的組織的制度的文化歴問題に、必ず繋がります。

単に、「この作業員がミスをしてしまった、残念だな」では終わらない。
そもそも、この作業員に対する教育訓練は、どうなっていたのか?
さらには、監督責任者はどこにいたのか?という、人的組織的な問題になります。
さらには、何故作業員が、これほど急がなければならないほど、そういう、雇用制度の問題は無かったのか?
制度面ですね。
職場の安全文化はどうだったのか?
こういう問題があるわけです。

したがって、皆さんに、是非お願いしたいのは、この福島の事故もですね、どうも世の中、この1年半見ていると、
「安全か安全でないか?」という事を論ずるときにですね、
実は、反対派の方も含めてですね、技術的な面のところで議論することが多いんです。

たとえば、「電源対策はちゃんとできているか?」
これはもう、重要ですよ、もちろん。
「津波対策は十分か?」
これも非常に重要ですが、本当はもうひとつ、非常に強い質問をしなければならないんです。

あれから1年半たって、あの福島の事故を起こした、
人為的組織的制度的文化的要因については、本当にきちっとこの解決策を取られたんですか?
ということですね。

これは、国会事故調査委員会が、福島の事故は人災だったという事を、ハッキリと指摘していますね。

この人災というのも、どこかの政治家が一人、何か間違った判断をした、という次元の話だけではないと思いますね。
むしろ、官僚機構、本来、こういう場面で動くべき官僚機構が、ちゃんと機能しなかった。
SPEEDIもそうですね。
それ以外にも、いろいろと問題がありますが、これを、誰か個人を攻めろ、という意味ではなく、
組織全体の持つ、「なぜ、安全が求められる場面で、その機能が果たせなかったのか?」という事に、メスを入れなければならない。
にもかかわらず、今なにが起こっているか?というと、

みなさん、1年半たって、原子力行政の改革って、何が行われたんでしょうか?
それ以前に、そもそも、「組織のここに問題があった」という事がですね、どれほど行われたのか?という事を、やはり論ずるべきだと思うんです。

たとえばですね、国会事故調査委員会が、「規制当局は、電気事業者の虜になっていた」ということを、かなり率直に指摘された訳です。
これは、私も、原子力ムラに長くいた人間として、あの……その通りだと思います。
あの……これは事実ですね。
そして、国民の多くも「もう、それはそうだろう」と思っているわけです。

では、その虜となった原子力規制組織が、今、どう変わったか?という事を、見つめてみたいんですけれど、

おそらく行われたことは、原子力規制委員会がメンバーが新たに選任され、組織としての看板が変わっただけのことだろう、と思いますね。

その下にある、原子力規制庁については、スタッフの8割は、原子力安全保安院です。
それがそのまま、スライドしてきているわけです。
つまり、原子力保安院が虜になっていた、という文化的な問題があったとすればですね、
それが、そのスライドしてきた組織は、何を持って、この虜となっていたその構造が変わったのか?
というところに対するメスが、入っていない
んですね。

ただその時に、行政の側の説明は、たった一言で、「ノーリターンルールを導入した」と言っています。
つまり、
「元の経産省、保安院には戻れない。
そのルールで、みんな骨をうずめる形で、新しい規制庁の方へ行っていますので、
「みんなそこで、心を入れ替えて頑張るでしょう」
という事を言っているわけです。

これも100%信じることが、なかなか難しい面があるんですが、
この論理ですら、最後に法案が通る時に、たった一行入ってきてしまったわけです。
「5年間の猶予条項」ですね。
つまり、これから5年間は、元に戻れる。元の組織に戻れる、という条項が入ってきてしまっているわけです。

私はこれは、最後の最後まで反対したんですが、入ってきてしまいました。
これがなにを意味しているか?

みなさん、一つの組織を、魂込めて、みんな心を入れ替えて、作り上げなければいけない。
その文化を、ゼロからつくらなきゃいけない、その最初の5年間が、これは我々が、その立場で同じ思いになると思うんです。
誰といえども、本省で出世することを、みんな求めて、王道を歩むことを求めて、省庁に入ってきたわけですから、
そこから外れて、ノーリターンと言われることは辛い。
戻れるとなれば、常に、本省の方を意識しながら仕事をするのは、人の心のこだわりではないでしょうか。

そう考えるならば、こういう、行政の改革のように見えること
私は、「本当の改革なんだろうか?」という事を、言わざるを得ないんです。

そして、原子力行政、原子力産業、ま、産業の何が変わったのか?というのは、
今日は時間がありませんので、一応考えていただきたいと思います。

東京電力は、半分国有化されたような状態になっただけ、それ以外は、何も変わっていない訳です。
従って、今について申し上げました。


2番目の誤解
後は、本当に手短に申し上げたいと思いますが、
原子力規制の改革を行い、絶対に事故を起こさない、安全な原発を開発すれば、原発の利用を進めていくことができるという、この言葉がよく語られます。

先程の問いをもう一度、
「原発の安全性とは、一体何なんでしょうか?」

これは、原発の安全性とは、原子炉の安全性の事だけではない訳です。
原発の安全性とは、今日本で取っている政策である、核燃料全体の安全性の事ですね。

そして、核燃料サイクル全体の安全性というのは、再処理工場と、高速増殖炉の安全性の事だけでもないんですね。

これもよく、反対の方も、ちょっとここでストップしてしまう方もいらっしゃるんですけれど、
増殖炉が安全であることは大前提ですが、
仮に、再処理工場も原発も高速増殖炉も、絶対に事故を起こさないものができたとしても、全く問題は解決していません。

なぜなら、核燃料サイクルを実践するための、最大の課題というのは、高レベル廃棄物と使用済み燃料の最終処分だからです。

そして、これはもう昔から、トイレ無きマンションという批判が、投げかけられてきたわけです。

で、実は、私自身の経歴は、1971年に原子力工学を選び、そして原子力の専門を選ぶ時に、テーマとして選んだのは、
周りの優秀な友人たちはみな、高速増殖炉とか再処理工場、再処理施設、さらには核融合を選んでたんですが、
わたしは少し違った視点から、高レベル廃棄物の最終処分の問題を選びました。

その理由は、あの~、今となっては懐かしい自分の姿ですが、原子力の未来に夢を抱いていた、一人の若い研究者として、
原子力を実現するために、一番大きなネックになるのは、結局、このゴミが捨てられない、廃棄物の処分ができないんだ、という事を考えて、
この問題に取り組んで、ドクター論文の、高レベル廃棄物の最終処分、というものを研究したわけです。
そして、のちに、民間企業に出ても、政府の外郭団で、この研究を、現場での臨床実験もやりました。

いわゆる、堀野辺とか、そういう名前が上がるような場所ですね。
そして、アメリカの国立研究所に行って、世界でも最も有名な、高レベル廃棄物の処分研究、
処分プロジェクト、ユッカマウンテンプロジェクトにも、メンバーとして参加しました。

日本でも、低レベル廃棄物は、六ヶ所村でも、処分施設はその設計、安全審査にも携わりました。

言わば、放射性廃棄物の専門家としての20年間を歩んだわけですが、あのー、この問題は、いまだに解決していません。


というのはですね、■3番目の誤解ですが、
こういう議論になると、推進される側の方は、これはかつての私もそうですが、
「高レベル廃棄物は、地層処分ができるだろう」と。
国の計画も、今は再処理工場で、使用済み燃料を、全部ガラス固化体へと、
ま、廃棄物をしっかりと固めて、それを、30年から50年貯蔵したうえで、これを地下深くに、今は300メートルより深いという事になりました。
私の頃は、1000メートルよりも深い、という数字だったんですが、いつのまにか、300メートルになっていますが、

「深い、安定な、地下水の移動の少ない岩盤中に、埋めればいいんだ」という事を言う訳です。
今の政策も、公式にはこうなっています。

ところがですね、私がずーーっと、研究者として格闘し続けたテーマは、
10万年の安全を、どのようにして証明するか?という事です。

この、10万年の安全というのは、これもみなさん、よく聞かれると思いますが、
使用済み燃料というのは、何を持って、10万年と言われるか?と言えば、

もともとは、ウラン鉱床を地下深くから掘り出してきて、それを燃やしてすごい放射能になる。
それを最後、地面の深くに埋めるとすれば、元のウラン鉱床と同じくらいの毒性にまで減衰すれば、これで安全と言えるのではないか?
比較的理解しやすい考え方ですが、この考えに基づくと、10万年かかります。
高(低?)レベル廃棄物の場合には、数万年です。

いずれにしても、現在の科学ではこれは証明できない、というのが、私の20年間の研究で、悩み続けたことです。

で、ところがですね、もうひとつのセプテンバー・イレブンと、私が呼んでいるんですが、
今年の9月11日に、皆さんもご存じのように、日本学術会議が提言書を出したわけです。

これは、正式な報告書を、原子力委員会に出したわけです。
で、日本でも最高の権威が、三つの事をおっしゃったわけです。

「日本において、地層処分を行う事は、適切ではない」とハッキリおっしゃったわけです。

その理由は、先ほど申し上げた、現在の科学では、10万年の安全は証明できないという、
これは、あの、原子力を推進するために、このテーマに取り組んできた一人の人間が、正直に申し上げれば、
「おっしゃるとおりです」
これはもう、正鵠を得た指摘、としか言わざるを得ないのです。

この事については、NHKがしばらく前に、クローズアップ現代で、非常に分かりやすく、この事を解説されていたと思いますが、
たとえば、今まで、地層処分ができるという論理は、地図を広げて、活断層がない地域を全部マッピングして、
活断層の無い地域がこれ位あるから、そこに埋めれば大丈夫だ、という論をしていたんですが、
実は、活断層が無いところでも地震が起こった、という事を、NHKは、あの番組で示しました。

そして、地下水の速度が非常に遅い、ということを論拠としていた地層処分ですが、
これも福島ですか、地下水がある、地震が起こった後にもう、毎分4リットル出て、1年半たっても地下水が止まらない、という状況まで紹介していましたが、
分かりやすく言えば、まだ、現代の科学で分からないことが沢山ある、という事を、分かりやすく説明されたと思うんですね。

その事を持って、学術会議第一の提言ですが、

第二の提言は、したがって、地層処分はするべきではないし、出来ない。
従って、数十年から、数百年です。
こちらの数字の方が、重いと思います。
そして、現実には、こちらの数字の方が、我々が直面する問題になると思いますが、
暫定保管をするべきだと、つまり、長期貯蔵をするべきだ、という事を指摘したわけです。
これも論理、必然的に、そのような話だろうと思います。

で、実は、世界の主要国の政策を、みなさんご覧になると、
アメリカもドイツもフランスもイギリスもカナダも、どこも、一応地層処分をやるという建前で、政策はつくられていますが、
よく読まれると、その手前のところに、長期貯蔵ができるような政策論になっています。
フランスの場合には、可逆的処分なんていう言葉を使っていますが、分かりやすく言えば、いつでも取り出せる。
貯蔵ですよね。
ですから、どの国も、処分ができなくなるという事を想定しつつ、公式には認めず、
ただし、いざ、もう処分ができずに、長期貯蔵が永遠と続く場合にも、数百年位はできるような体制に入っているのが現実
です。

ただし、日本は、学術会議がそれを、堂々と明確に指摘されたというところが、ある意味では一つ、世界から注目される部分かと思います。


で、3番目の提言が従って、長期貯蔵をせざるをえなくなるとすれば、捨て場所の無いゴミがどんどん出るわけですから、総量規制をするべきだ。
これも、もう常識の範疇だと思います。

捨て場所が見つからないのであれば、とにかく、ゴミをどんどん出すわけにはいかない。
従って、いま1万7000トン存在するといわれる使用済み燃料を、仮にですけど、2万トンとか、仮に仮に3万トン、
で、もう打ち止めにする、という事をやらざるを得ないわけです。

そうすると、当然のことですが、総量規制を行わざるを得ないという事は、
「原発に依存して、電力を供給していく」。要するに、原発を稼働させるという事は、この一点からの理由で、限界がやってくるという事です。

従って、最初に申し上げた、
原発に依存しない社会、もしくは原発ゼロ社会というものは、政策的な選択の問題では、もはや無くなっています。
これは、『不可避の現実』と言わざるを得ない
です。

で、一言付け加えれば、
廃棄物の方策の問題をまっとうに考えずに、工場を操業しているのは、原子力産業だけではないでしょうか。


後はもう、ほとんど一言だけで申し上げますが、今申し上げたのは、もう一度言葉で申し上げれば、
「選択するか否か?」だというのは、選択の問題ではない。
これは、「依存できない社会がやってくる」ということ
ですね。

で、もう一つだけ付け加えておくと、■5番目の誤解というのは、
ここまで議論しても尚、

「いや、でも、例の消滅処理とかというのがあるそうじゃないですか」
「高レベル廃棄物は、原子炉の中で燃やすことができるそうじゃないですか」
「なくなるまで燃やしてしまえばいい」
「もしくは、宇宙処分というのがあるそうじゃないですか」

これも、私も、20年研究し続けました。
「宇宙処分」はまず、あの瞬間に、宇宙処分は無理だ、というのが世界の常識になりました。
チャレンジャーの爆発です
ね。

それから、「消滅処理」というのは、原子炉の中で燃やし続けるという事で、わりと素人の方は簡単に、「それができるそうじゃないですか」とおっしゃいますが、
大きく二つの問題があります。
ひとつは、エネルギーバランスがそれでとれるんですか?
それから、コストはどれくらいかかるんですか?

という問題。
これは、相当重い問題だと思いますが、それ以上に重い問題は、

消滅処理は……、これもちょっと長い時間がとれませんので、一言で申し上げれば、

原理的に重元素、重くて半減期の長いものを、中性子をぶつけて、これを、軽くて半減期の短い元素に変える、という概念なんですが、
じつは、核物理学で研究をすると、この中性子を当てて壊れた後にですね、実は、軽くて長半減期の放射性物質が、出てきてしまいます。
これは、テクネチウムと呼ばれる元素ですが、これが実は、一番悩ましいです。

つまり、これ以上壊しようがない、だけれども、極めて長半減期のものになるという……、
ですから、あんまりこういう事をイージーに、原発を進める事の根拠として語ることには、私は慎重です。

そして、「未来の世代が、どうせ解決してくれるよ」というのも、言葉の使い方の問題だと思いますが、
現実に、学術会議が、真摯な姿勢で提言されているのは、
「未来の世代の、科学の発達や技術の発達に、期待せざるを得ない」という事を、謙虚におっしゃっているわけです。
しかしこれを、あまりイージーに逆手にとって、「未来の世代が解決してくれるよ」という事で原発を進めるというのは、わたしは姿勢として、「似て非なる姿勢」だろうと。

これはもう明らかに、世代間倫理の問題になります。

地層処分をやって、埋めて、もし地表に汚染が戻って来るとしても、100年以上先だと思います。
ここにいらっしゃる方は、私も含めて、我々の世代の方が、被害を被ることはないだろうと思いますが、
だからこそこの問題は、非常に成熟した国民の判断が求められる。

原発そのものは、現在の国民にも被害が及びますけれども、
廃棄物の処分は、我々がほんの少し無責任になれば、やれてしまう政策的な課題だという事が、私はむしろ、非常に怖いと思います。

国民一人一人の意識の成熟が、実は今求められている。

だからこそ、国民の意識の成熟という事は、これは、私自身も問われていると思いますが、
メディアの方々もまた、国民がまっとうに考えるべきテーマを、深く問うていただきたい。
これは、数百年を超えて、ま、10万年とまでは言わないですけれども、
未来の世代に、非常に難しい問題を先送りする政策なんだ」という事。
その事を申し上げて、まずは、私からの問題提起とさせていただきます。

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