ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

今の日本の行政が主体となって取り組むべきと考えていること→「子どもを厳しく『飼いならす』必要がある」

2015年11月04日 | 日本とわたし
政権批判ができないっていうのは、いったいどこまでイカれてしまったのでしょうか。
No.9と書かれただけの小さなタグ(9.5センチ×6センチ)が示威行為に相当するだなんてことが、まかり通ってしまうような社会に成り下がったのでしょうか。
官邸の教育改革国民会議での、一人一人が取り組む人間性教育の具体策(委員発言の概要)に、こんなものがあって愕然としました。
http://www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/1bunkakai/dai4/1-4siryou1.html

1.子どもへの方策







2.大人や行政が主体となって家庭、学校、地域で取り組むべきこと






わたしが一番おぞましいと思ったのは、行政からの伝達としてのこの項です。

子どもを厳しく「飼いならす」必要があることを、国民にアピールして覚悟してもらう。
「ここで時代が変わった」「変わらないと日本が滅びる」というようなことをアナウンスし、ショック療法を行う
・家庭教育について対話できる土壌をつくるため、企業やテレビと協力して、古来の諺などを呼びかける。
・子育てにおいて必要な事項を決めた育児憲章を作る。
家庭教育手帳の年度毎の更新、配布

このような、一軒一軒の家庭に、一人一人の市民に、じわじわと入り込んでくる飼いならしの罠に、絶対にはまらないようにしなければなりません。
この兆候は本当に危険です。
こういうことの積み重ねが、もう後には戻れない地獄につながってしまうのです。
わたしたちの身の回りに、コソコソと姿を現し始めた罠を見つけ、それを数の力で公に晒し、罠の効力をゼロにする。
そうやってひとつひとつに目を配り、行動していくことが、わたしたちにはできるし、それが一番の力の見せ所だと思います。
大変ではありますが、無理難題ということではありません。
がんばりましょう!

そして、国民の「知る権利」を守ることを放棄したばかりか、
『まるで戦時中のように、政権や政策への批判を極端に恐れているかのような』、いやらしい空気を日夜作り続けている、
『歴史修正に加担し、違憲の法案さえ検証を怠り、戦争へひた走ろうとする政権の暴走に目をつむる』腰抜けのメディアを叱咤しましょう。
そして、
『ほかの誰のものでもない自らの言葉で、絶えず論を興し、そうして、民主主義を体現する存在として、新聞はありたい』と語る神奈川新聞のように、
今この時において、政権への冷静な批判を報じ続けている数社の地方紙を、心から応援し、その気持ちをガンガン伝えましょう。


赤川次郎が安倍政権におもねる大新聞とSEALDsバッシングの「週刊新潮」に「ジャーナリズムの恥」と徹底批判
【LITERA】2015.11.03
http://lite-ra.com/i/2015/11/post-1645-entry.html

安保法制の問題が象徴的だったように、いまや新聞メディアは、
政権の言いなりとなった読売新聞や日本経済新聞
「両論併記」病を罹患した朝日新聞(詳しくは過去記事)、
ジャーナリズムを放棄したネトウヨ機関紙・産経新聞といった具合に、
国民の「知る権利」さえ守ろうとしていない

こうした新聞メディアの体たらくに、作家からも嘆きの声が上がっている。

〈戦時下を生きた人々から「今はあのころとそっくり」との声が上がる中、私たちは戦時中の新聞、雑誌などのメディアがどんな報道をしていたか、見直すべきだ〉

こう述べたのは、ミステリー界の大御所作家である赤川次郎氏。
赤川氏は既報の通り、「あまりにも状況がひどすぎるので、黙っていられなくなった」(集英社「すばる」8月号)といい、これまでも度々、安倍政権批判を行ってきた作家のひとり。
今回は、東京新聞「新聞を読む」のコーナーに、『「痛み」に寄り添う報道を』(10月25日付)という原稿を寄稿、
東京新聞の紙面を取り上げながら、最近の報道の歪さを明かしている。

まず、赤川氏が〈最近最も印象的〉だったとして紹介したのは、
「そうだ難民しよう!」というコピーがついた、シリア難民を中傷したヘイトイラストの一件だ。

この、卑しい差別心に満ち満ちたイラストは、はすみとしこという漫画家が、Facebookに投稿し、拡散されたことで批判を浴びた
東京新聞は、名物企画「こちら特捜部」で、「「人種差別」世界が非難」と題し、10月10日に大々的に報じたが、
赤川氏は、この問題を、強い言葉で論難する。

〈戦火に追われて故郷を捨て、命がけで逃れなければならなかった人々の「痛み」を、この漫画家は全く分かっていないのだろう。
しかも、他人の写真をそのままなぞってイラストを描くとは、漫画家としての矜持すら持ち合わせていないのか〉


さらに、赤川氏が憤慨するのは、この差別イラストの問題が、〈国内メディアではほとんど報道されなかった〉ことだ。
しかも、朝日新聞は、赤川氏がこの原稿を寄稿した前日の24日、難民差別イラストを、「差別か風刺か」とタイトルに記してピックアップ。
了見を疑うタイトルだが、こうした問題の本質を、赤川氏はこのように突いている。

〈今、日本のジャーナリズムは、世界が日本をどう見ているか、という視点に立つことを忘れている(あるいは逃げている)。
安倍首相が国連で演説したことは伝えても、「聴衆が少なかった」(10月20日29面)ことには触れない。
ジャーナリズムの役割を放棄している、と言われても仕方ない〉


また、赤川氏は、東京新聞10月19日の第一面を紹介。
それは、安保法制成立から1カ月という節目に、SEALDsが渋谷駅前で行った集会の写真と、
米海軍のロナルド・レーガンに乗船した、安倍首相の写真を並べたものだった。

〈ネットでは、戦闘機に乗り込んだ(安倍首相の)ご満悦の姿が見られた。
「戦争ごっこ」の好きな子供、という図だが、現実に傷つき死んでいく兵士の痛みには、関心がなさそうだ〉


赤川氏はつづけて、9月29日夕刊で取り上げられた、SEALDsの中心メンバーである奥田愛基氏への、殺害予告問題を取り上げる。
赤川氏は、この問題を、
〈これこそ、安保法に賛成反対を超えて、卑屈な言論への脅迫として、あらゆるメディアが非難すべき出来事だ〉というが、
こちらも、〈ほとんどのメディアは沈黙したまま〉
そして、本サイトでも既報の、「週刊新潮」(新潮社)が記事にした奥田氏の父親バッシングを、〈脅迫を煽っているに近い〉と批判する。
その上で、赤川氏は、「週刊新潮」にこう訴えかけるのだ。

〈「週刊新潮」に言いたい。
攻撃しても、自分は安全でいられる相手だけを攻撃するのは、ジャーナリズムの恥である。
たまには自分を危うくする覚悟で、記事を書いてみてはどうだ〉


赤川氏が危惧するのは、冒頭にも引いたように、現在の報道が、まるで戦時中のように、政権や政策への批判を、極端に恐れているかのような空気に包まれていることである。
歴史修正に加担し、違憲の法案さえ検証を怠り、戦争へひた走ろうとする政権の暴走に目をつむる
言論統制の下、大本営発表を流しつづけた戦争責任を、メディアは忘れてしまったのか──そう誹りを受けてもおかしくはない状態だ。

だが、そんな大メディアが魂を売った状況でも、東京新聞をはじめとして、ブロック紙や地方紙は踏ん張っている。
たとえば神奈川新聞は、安倍首相が、集団的自衛権の行使容認を、閣議決定した2週間後から、「時代の正体」と題して連載を開始。
安倍政権の背後にある、日本会議にスポットを当てて、メンバーにインタビューを試みるなど、さまざまな角度から、政権の問題点と戦後70年を掘り下げた

しかし、この連載には、大きな反響が寄せられる一方、「記事が偏っている」という批判も受けてきた。
そうした意見に、神奈川新聞の論説委員である石橋学氏は、10月16日付の紙面で、
〈私たちはいま、権力の暴走を目の前で見せつけられるという、歴史的瞬間のただ中にある〉と書きつつ、こう返答している。

〈民主主義の要諦は、多様性にある。
一人一人、望むままの生き方が保障されるには、それぞれが違っていてよい、違っているからこそよいという価値観が、保たれていなければならない。
それにはまず、自らが、多様なうちの一人でいることだ。
 
だから、空気など読まない。
忖度しない。
おもねらない。
孤立を恐れず、むしろ誇る。
偏っているという批判に、「ええ、偏っていますが、何か」と答える。
そして、私が偏っていることが、結果的に、あなたが誰かを、偏っていると批判する権利を、守ることになるんですよ、と言い添える。
 
ほかの誰のものでもない自らの言葉で、絶えず論を興し、そうして、民主主義を体現する存在として、新聞はありたい〉


批判を恐れる大メディアに、読んで聞かせてやりたい言葉だが、彼らがこうしたプライドを失ったいま、市民ができることはただひとつだ。
赤川氏のエッセイ集『三毛猫ホームズの遠眼鏡』(岩波書店)から、最後に、こんな言葉を紹介しておきたい。

〈政権への冷静な批判を、今のジャーナリズムに期待できない以上、私たち一人一人が、「戦争をしない」という意志を強く持つしかない〉
(水井多賀子)