ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

「多くの政治家が憲法から第九条を消し去ろうと躍起になっています。断じてそれを許してはなりません」

2015年05月08日 | 日本とわたし
冒頭の、体をブルブルと震わせている子どもを観て、字起こししようと決めました。
戦争で傷つき、ひとり残された子どもはみな、どの国の子も同じく、この子のように途方にくれた目をして、体を震わせているにちがいない。
もう本当に、こんな愚かなことをしでかすような国になってはいけない。

ネルソン氏の遺志を、心で受け、全身で感じてください。

九条を抱きしめて
元米軍海兵隊員が語る戦争と平和

【NNNドキュメント’15】


http://www.dailymotion.com/video/x2p1r37_9条を抱きしめて-元米海兵隊員が語る戦争と平和_news?utm_source=notification&utm_medium=direct&utm_campaign=subscriptiondigestusers


ナレーション:藤田千代美



アレン・ネルソン氏:
教官が私たちに聞きます。
「お前たちの仕事はなんだ!?」
私たちは答えます。
「殺しだ!」

「そんな声で聞こえるか!」
さらに声を張り上げ、
「殺しだ!」と答えます。

アメリカや日本など、多くの政府は、兵士が平和を守っていると主張します。
しかし訓練では、平和のことなど一切教わりません。
日々、殺し方を仕込まれるだけです。



2000年7月20日
嘉手納基地を囲む人間の鎖


ナレーション:
周囲17.4キロメートル。
極東最大の基地を手と手で包囲する。
国を超え、世代を超え、平和への思いがひとつにつながります。

アレン・ネルソン氏:
人を殺すということは、自分自信の精神や魂の、最も大切な部分をなくすことです。
私にはもう、この大切な部分はありません。
人を殺さなければどんなに良かったでしょう。



石川県加賀市にあるお寺、光闡坊。


この下に、ひとりの元アメリカ海兵隊員が眠っています。



ナレーション:
アレン・ネルソンさん、1947年、アメリカニューヨークのブルックリンで生まれました。
ベトナム戦争の最前線で戦った、元海兵隊員です。


過酷な戦場を生き延びたネルソンさんは、真の戦争とは、平和とは何かを、語り続けました。

ネルソン氏:
みなさんは高校生です。
もう子どもとは言えないわけです。
まもなく大人になっていく年代にあるわけです。
教育の中で、本当の戦争とは何かを知ってもらうのは、大事なことです。
本当の戦争とは、あなた方が観ている戦争映画と違うものだからです。

ナレーション:
ネルソンさんは、1996年から日本での講演活動を始めます。
北は北海道から南は沖縄まで、その数は13年間で述べ1200回を超え、多い時は一年の半分以上を日本で過ごすこともありました。
中でも最も力を入れたのが、学校での講演です。

ネルソン氏:
平和な世界を築くのは、私たち一人一人の力です。
次の世代を生きる子どもたちのために、暴力や力に頼らない道が必ずあることを伝えたい。

ナレーション:
ネルソンさんのベトナム戦争での体験や、帰還後の苦しみは、日本の漫画にも描かれています。


『私、アレン・ネルソンは、1947年、ニューヨークのブルックリンで生まれた。
母はいわゆる未婚の母で、実の父が誰なのか、私は知らない。
母と3人の姉妹とともに、薄汚れたアパートを転々とし、その日食べる食事にも困る、そんなみじめな生活だった。
子どもの頃は、喧嘩に明け暮れる毎日。
この街では強くなければ生きていけなかった。
高校も中退し、仕事を転々とする日々。
貧しい黒人の私は、将来に何の夢も希望も持つことができなかった。


そんな私の運命を変えたのは、18才になっていたある日のことだった。

「なあ君、ちょっとそこの事務所で、ドーナッツでも食べながらしゃべっていかないか?」
「ドーナッツ?」

「ここは…」
「ようこそ海兵隊へ」
「海兵隊?!」

彼は、海兵隊採用事務所の職員で、私に「海兵隊にならないか」と勧めてきたのだ。

「見たところ体も丈夫そうだし強そうだな。君なら勇敢な海兵隊員になれるぞ」
「見たまえ、海兵隊員になれば、こんな立派な制服を着ることもできるし、おいしい食事もたらふく味わえて、しかも金と名誉も手に入る」


「もちろん、黒人の君でも、周りの人から尊敬される立派なアメリカ人になれるぞ」

当時のアメリカでは、黒人差別が根強く残っていた。
南北戦争後、奴隷制度は廃止されたものの、その後も学校やレストラン、ホテルなどの施設やバスの座席も、白人と黒人で明確に分けられていた。

「俺も求めていたものはこれだ!ましな服とましな食事、母さんにも楽をさせてやれる!
そして、黒人というだけで得られなかった自信が持てるんだ!」』


ナレーション:
ネルソンさんは、1965年、18才で海兵隊に入隊します。



おまえらは男になるんだ!
ここサウスキャロライナのパリス島に来て、最強の精鋭部隊、アメリカ海兵隊の一員として、第一歩を踏み出す!


命令されたら何も考えるな!
何の疑問も抱かず、ただちに実行しろ!
わかったか!


ナレーション:
深夜0時過ぎ、海兵隊に志願した若者が、バスで到着します。


アメリカ南部、サウスキャロライナのパリス島にある、海兵隊新兵の訓練施設です。
この瞬間から、彼らを取り巻く環境は一変します。


私語さえ許されない厳しい規律のもとでの生活の始まりです。

夜明けと共に始まる訓練。
13週間の間、一人前の海兵隊員になるための、過酷なトレーニングが繰り返されます。





ネルソン氏:
教官が私たちに聞きます。
「お前たちの仕事はなんだ!?」
私たちは答えます。
「殺しだ!」

「そんな声で聞こえるか!」
さらに声を張り上げ、
「殺しだ!」と答えます。
「まだ聞こえない!」
だから皆、ありったけの声で「殺しだ!」と叫ぶのです。
そしてライオンのように唸るのです。

口をきくな!
お前たちはしゃべったり考える必要はない。





これから質問するわけですけれども、向こうの的はまあ、真ん中を狙えと、これはすぐ想像がつくわけですけれども、
こっちの的(人型の図)は、どこを狙えと教わったと思いますか?

そこで皆さんにお聞きします。
人間を撃つ時は、まず頭を狙えと、こう教わるだろうと思われる方は手を上げてください。
ちょっと数えてみます。
15人。

足ー1人。

心臓ー11人。

では、これからいよいよ、本当の戦争とは何かという本題に入っていくわけです。

本当の戦争では、相手を狙い撃って、撃ち損じることは許されません。
もし撃ち損じたら、逆にこちらがやられることを意味するからです。

頭と答えられた方、もう一度手を上げていただけますか?
残念ながら、皆さんは殺られてしまいます。
軍隊では、頭を狙えとは絶対に教えないわけです。
頭は体全体でいうと、一番小さいところ、ということになるわけで、撃ち損じになるんですね。

心臓と答えられた方、お願いします。
映画の見過ぎです。

軍隊では、男性のあそこ、急所を狙えと教えるわけです。
そうすると、あの辺り(心臓と急所の間、腹の真ん中)に当たるわけです。


戦争に参加する兵隊たちが一番恐れるのは、この種の負傷なんです。
即死できないわけです。
泣き喚きながら、なかなか死ねないわけであります。



ナレーション:
沖縄での訓練を経て、ネルソンさんは1966年、ベトナム戦争の最前線に派遣されます。
当時のベトナムは、南ベトナムを支援するアメリカ軍と北ベトナムが、ジャングルで激しいゲリラ戦を繰り広げていました。


「状況はどうなっている?」
「敵はどのくらいだ?」

(あれは、別の部隊の味方…)

大きな爆撃音。

その時、私は反射的に、兵士が倒れた場所に向かって走り出していた。
誰かが倒れたらすぐ駆け寄って助けるという訓練を、繰り返し受けていたからだ。

「おい、大丈夫か?」

顔が潰れた屍体を見て叫ぶネルソン氏。
「うるさいだろ馬鹿野郎!死にたいのか!」

「殺された…仲間のアメリカ兵が殺された…くそぉ、ベトコンどもめ、殺してやる。
自分がこんな目に遭う前に殺してやる!みんな殺してやる!殺される前に皆殺しにしてやる!」

生き残りたけりゃ、もう何があっても考えたり感じたりするな。
敵のベトナム人に愛着を持つな。
奴らはグークスなのだから。

グークス…。

グークスとは、東洋人を差別する時に使う呼び名だ。
我々はベトナム人をそう呼び、人間として見ていなかった。
彼らは魂も持たず、名前も無い野蛮人なのだと。

それからの私は変わった。
強くあろうと、危険な任務にも進んで志願した。
そして、二度めに遭遇した戦闘で、私は初めて人を殺すことになる。

「いいか、あの村にベトコンが潜んでいる。少しの動きも見逃すな」

いた!
バーン!
やった!なんてあっけないんだ。こんな簡単に…。
でも俺はやった。俺は敵を殺したんだ!

そこには、黒い野良着を着た40代ぐらいの男が、赤茶色の水たまりとなった血の中に倒れていた。
30年以上経った今も、その男の苦しげに歪んだ口から覗いた茶色の歯を覚えている。


激しく嘔吐するネルソンさん。
「はははは、お前も吐いたか」
「すみません」
「気にするな、初めて人を殺した時は、誰もがそうなる。すぐに慣れるから心配するな」
「はあ…」

しかし、それは間違いだった。
わたしはその後も、優秀な兵士であることを証明し、自分が役に立つ存在であるためにベトコンを殺し続けたが、
そのたびに、あの名付けることのできない奇妙な感情にとらわれ、めまいのようなものを感じるのだった。

「いいか貴様ら、これから行く村は、ベトコンしかいない村だ。だから村ごとぶっ潰せ」
「 俺たちは海兵隊だ!俺たちは勇士だ!」
「俺たちは不死身だ!俺たちは歴史に残るんだ!ベトコン野郎を皆殺しにしろ!」

我々にとって戦争は、スポーツハンティングのようなものだった。
ひとたび戦闘が始まれば、兵士たちは感情のコントロールを失う。
村で激しい戦闘が始まれば、どれがベトコンで、どれが女性や子どもかなどと見分けている余裕はなく、動くもの、抵抗するものすべて撃ち殺した。

しかし、相手はグークスなのだ。
女や子どもだろうが、老人だろうが、みんな魂を持たないグークスなのだ。
放っておけば、私たちを殺しに襲ってくる、野蛮な小動物の群れなのだ。
だから、何度でも殺せた。

「殺せー!」
「皆殺しだー!」

こうして毎日のように、残虐非道な行為が、何のためらいもなく繰り返される。


それが戦場、それが戦争だった。


ネルソン氏:
13ヶ月間、ベトナムのジャングルで過ごしました。
私は多くのベトナム兵を殺害し、多くの人が死ぬのを見ました。
ジャングルで最初に学んだことは、本当の戦争は映画とは全く別のものだということです。
格好の良い英雄(主人公)など、存在のしようがありません。


ナレーション:
アメリカではどこの町にも、兵士を採用するセンターがあります。
貧しい若者たちにとって、兵士になることは、貧困から抜け出す方法のひとつです。
まるで求人広告のようにポスターが貼ってあります。


ネルソン氏:
見てください。
大学の奨学金として6万5千ドル。
登録した人には、1万2千ドルのボーナスがもらえる、と書いてあります。


この目を見てごらんよ。
これが平和を守る兵士だってさ。




ここベトナムの戦場では、危険な最前線に、黒人の兵士が多く送り込まれていた。
アメリカ国内だけでなく、ここ戦場でも、人種差別は当然のごとく行われていたのだ。

ベトナム人:
私たちは自由のために戦っています。
あなたたち黒人も、自分の国では自由すら無いではありませんか。
なぜあなたたちはわたしの国に来て、わたしたちを殺しているのですか?


俺はなぜ…。


この日以来、私は、戦争とは何なのかを考えるようになった。
そしてそれから間もなくして、ついに私は戦争への考えを変える、決定的な体験をする。
それは、部隊がある村の近くで、敵の奇襲攻撃に遭った時のことだった。

「ちくしょー、待ち伏せ攻撃だ!各自身を隠せる場所を探せー!」

私はとっさに農家の裏庭にある防空壕に飛び込んだ。
「だ、誰だ!」
そこにいたのは少女だった。
苦しみに呻いている。
まだ16、7才の少女が、重症でも負っているのか、とても苦しそうにしている。
股の間から血が滴り落ちている。
そして彼女は私の目の前で赤ん坊を産み落とし、抱き上げたネルソン氏から取り返すと、自分の服で赤ん坊の体を拭き、へその緒を歯で噛み切った。

5分、それとも10分はそこに居ただろうか。
私はその光景を、ただ呆然と見つめていた。
私が壕を出ると、戦闘はすでに終わっていた。

燃えさかる村の家々を前に立つネルソン氏。
「俺は幻でも見ていたのか。
いや、幻でも夢でもない。俺は確かにこの手で、柔らかい赤ん坊を抱いた。
母さん、俺もあんなふうにして生まれてきたんだな。母さんもあの壕の中の女性のように、苦しんで俺に命を与えてくれたんだ。
変わらない、何も変わらない。ベトナム人もアメリカ人も、同じ人間なんだ。
魂を持たないグークスなんかじゃない。
彼らにだって名前があり、家族があり、かけがえのない人生がある。
そんな人たちを、俺はたくさん殺したんだ。
俺は、俺はいったい、どうしたらいいんだ」

それは、人間であることを忘れていた私が、もう一度人間であることを思い出した瞬間だった。


ネルソン氏:
ベトナムで学んだことは、戦争と暴力は、決して平和も幸福ももたらさない、ということです。
18才で戦争に行くため家を出た時とは、私はまるで別人になっていました。
ベトナムでの暴力と殺人が、私を永遠に変えてしまったのです。

「ネルソン、死ね!」
「うわあー、ベトコンめ、殺れるもんなら殺ってみろ!」
け、また寝ぼけちまったか…。
ここはもうベトナムじゃあないんだよな。

ベトナムから戻った私は23才で、ホームレスになっていた。
原因は、ベトナム帰還後、毎晩見るようになった悪夢だった。
金色の炎に包まれて燃え上がるベトナムの村、断末魔の叫び、割れた頭から飛び出す脳みそ、ちぎれた腕、子どもたちの恐怖に満ちた顔、顔、顔、


そして、死んでも死んでも生き返って私を追うベトコン兵。

私は悲鳴を上げ、脂汗を浮かべて、ケダモノのように狭い家を歩き回る。
神経が異常に過敏になってイライラしやすく、家族を怒鳴りつけることも何度もあった。
別人のようになってしまった私に、母や姉たちは怯え、「もう一緒に住むのは耐えられない」と言った。
だから私は家を出た。

ホームレスとしてみじめな毎日を過ごしていたそんなある日、私は昔馴染みに声をかけられた。
彼女の名前はダイアン・ウィルソン。
彼女は、私が中退した高校のクラスメイトだった。
小学校の教師をやっている彼女は、ベトナムに行っていたネルソンに、「私の生徒たちに、ベトナムでの体験を話してもらえないか?」と尋ねた。

同級生からの講演の依頼…。
今思えば彼女は、あきらかにお金に困っている私の様子を見て、直接お金を恵む代わりに、講演という仕事を頼んでくれたのかもしれない。

「1965年、私は海兵隊に入り、翌年にベトナムに行きました。
ベトナムはとても蒸し暑い所で、広いジャングルの中には、見たこともないような虫がたくさんいます。
そのジャングルの中で、アメリカの兵隊とベトナムの兵隊が戦い、たくさんの人が怪我をして、たくさんの人が死にました」

私は評論家のように、きれいごとばかりを語り続けた。
自分が戦場で何をしてきたかなど、話す気にもなれなかった。

「ということで、ベトナムの話はこれでおしまいです」
と締めくくるネルソン氏に、子どもたちからの質問が投げかけられた。

「ベトナムの子どもたちは、学校に行っていますか?」
「ベトナムの家はどんな家なの?」
そして…、
「ミスター・ネルソン、あなたは人を殺しましたか?」


ナレーション:
ベトナムでの体験を子どもたちに話してほしい。
小学校での講演を終えたネルソンさんに、ひとりの少女が問いかけます。

「ミスター・ネルソン、あなたは人を殺しましたか?」


俺は、俺は人を殺した。
それも数え切れないほどのたくさんの人を。
子どもたちに嘘はつけない。
正直に本当のことを。
いや、だめだ、もしここで殺したと言ったら、子どもたちにとって、俺はもはやミスター・ネルソンではなくなる。
ただの残虐な殺人者となり、子どもたちは俺を恐れ、軽蔑するにちがいない。
しかし、本当にそれでいいのか。
俺は学校で、本当の戦争のことを誰からも教わらなかった。
戦争で活躍した英雄の話は聞かされても、戦争の悲惨な現実は教えてもらわなかった。
だから俺もヒーローになれると信じて、ベトナムへ行った。
だからこそ、子どもたちには真実を知らせるべきじゃないのか?

どのくらい沈黙が続いただろう。
あっという間だったような気もするし、5分6分も続いたような気もする。
しかし、気がつくと、私はつぶやくように答えていた。

「殺した」

俺はここに来るべきではなかった。
みんな俺を恐れ、憎しみに満ちた目で見ているだろう。

うなだれて立つネルソン氏の手を、小さな手が握りしめた。
「かわいそうなミスター・ネルソン…」
教室の子どもたちがネルソン氏に寄り集まり泣き出した。

こんな俺のために、子どもたちは泣いてくれた…こんな俺のために!



ナレーション:
ベトナム戦争で亡くなったアメリカ兵は5万8千人。
ネルソンさんのように帰還できた兵士の多くも、PTSD、心的外傷後ストレス障害という後遺症に苦しめられました。

「あなたの友人の名前も刻まれていますか?」



ネルソンさんが治療の末、立ち直るまで実に18年の歳月を要しました。
回復のきっかけは、戦場での殺人という、自らの罪を認めることでした。

ネルソン氏:
アメリカ人は、ベトナム戦争が大きな過ちだったと思っています。
しかし、悲しいことに、戦争そのものが間違いとは思っていません。
私はここを訪れる人が、戦争自体間違いであることに気づいてほしい。
戦争は決して平和をもたらさない。
すべての戦争が悪いことなのです。
ベトナム戦争だけのことではありません。


1995年沖縄 
少女暴行事件に抗議する県民大会


ナレーション:
ネルソンさんが日本での講演活動をスタートさせるきっかけは、1995年、沖縄で起きた海兵隊員による少女暴行事件でした。
当時、このニュースを聞いた彼は、沖縄にまだ広大な米軍基地があることさえ知りませんでした。

沖縄県宜野湾市の普天間基地。
住宅が密集する市街地の真ん中にあり、世界一危険な基地と呼ばれています。


上空を飛び交う輸送機や戦闘機の爆音。


過去に、ヘリコプターの墜落事故も起きています。
2012年には、オスプレイと呼ばれる新たな軍用機が配備。
基地の機能はさらに強化されています。


ベトナム戦争が続く1972年、沖縄は日本に返還されましたが、今なお広大な基地が置かれ続け、沖縄本島の18%を占めています。
湾岸戦争やアフガニスタン、イラク戦争でも、沖縄の基地は米軍の重要拠点として活用されました。
さらに、普天間基地を返還する代わりに、同じ沖縄県の北部、名護市の辺野古沖合に、新たな海上ヘリ基地を建設する計画も進んでいます。




沖縄は、常に基地と隣り合わせの生活を強いられてきました。


ダグラス・ラミス(元津田塾大学教授・政治学者)さん、彼も元海兵隊員です。


津田塾大学で教鞭をとった後、沖縄に移り、政治学者・平和運動家として活動しています。
ネルソンさんとは、沖縄での講演活動を通して知り合いました。


佐喜眞美術館にて(2006年10月)

ネルソン氏:
1996年に、友人に案内されて再び沖縄に来たんですが、非常にショックを受けました。
基地は今も存在し、機能しているのです。
私には衝撃でした。

ラミス氏:
米軍基地はアメリカという帝国の単なる手段ではなく、基地そのものがアメリカ帝国なのです。
米軍基地は植民地です。
アメリカの占領する縄張りなのです。


ナレーション:
ネルソンさんが、日本での活動に力を入れた最大の理由は、憲法九条との出会いでした。


日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


ネルソン氏:
1996年に来日した時、ある人が、日本国憲法の英文冊子をくれました。
ホテルで九条を読んだ時、立ち上がるほどのショックを受けました。
信じられませんでした。
キング牧師の有名な演説「私には夢がある」のような、力強い衝撃を与えられました。


アレンさんに憲法九条を紹介した、大畑豊氏:
アレンさんにまだ、九条のことを言ってなかったなと思って、あの時は、ホテルで寝る前に、
これ、日本の憲法だけど読んでみて、っていうふうに渡して、
そしたらもう、翌朝、起きてすぐに、「大畑さん、これはすごい」って。
「神から与えられたものじゃないかって思うぐらいびっくりした」っていうようなことを言っていて、
ただ僕は知ってもらえばいい、ぐらいに思ってたんですけども、評価がとても高かったのには驚きました。
特に憲法九条っていうのは、どんな武器よりも強いものなんだっていうことをアレンさんに言われて、改めてああそうだったのか、というふうに感じたぐらいでしたね。



佐喜眞美術館にて(2006年10月)

ネルソン氏:
平和憲法は、日本人が考え出したものではないとか、アメリカ人に与えられたものだと言う人がいます。
しかし、誰にもらったかは問題ではありません。
平和憲法は、私たちが進むべき未来を示しています。
たとえ宇宙人がくれたものだとしても、これは全人類にとって大切なものです。
問題は今、当初の平和の理念が置き去りにされようとしていることなのです。


ラミス氏:
私たちは平和憲法のもと、平和な日本で暮らしています。
日本は、世界一の平和国家と言われています。
でも同時に、沖縄には米軍基地がある。
これは幻想ですね。

ネルソン氏:
確かにそこは大きな問題です。
日本人は、間接的に、戦争に関与してきました。
しかし、九条のおかげで、直接的に戦争には関わっていません。
言い換えると、第二次世界大戦後、日本は新たな戦没者慰霊碑を建ててはいない。
そこが私には、素晴らしいと思えるのです。



ナレーション:
京都にある同志社中学も、ネルソンさんと深いつながりがあります。
平和、人権教育の一環として、1999年から毎年講演を行いました。


元同志社中学教諭・山口良子さん:
同志社中学校へ来られた時には、必ずこの中(礼拝堂)で、中学三年生を対象に講演していました。

同志社中学校礼拝堂での講演 2007年11月


ネルソン氏:
村の真ん中に死体の山をつくるんですけれども、三つ死体の山をつくります。
死んだ男の人たちの山、死んだ女の人たちの山、全部殺されてですね、殺された子どもたちの山、この三つの山を⚪︎⚪︎の中央につくります。

山口氏:
実際に戦場に行った、しかも日本の人じゃなくて、アメリカ人が戦場に行って、そういう経験を話されるっていうのは、全く初めてのことだったし、
それからアレン自身が高校をドロップアウトして、自分の居場所がないっていう、そういう辛い思いから軍隊に入っていくっていう、そういうこともあったりしたので、
ほとんどの生徒がもちろん感動しましたし、アレンさんの講演が終わった後、駆け寄っていって飛びついて、ハグしてもらうっていう、
そういうことが必ず毎年あったので、子どもたちの心に届くお話だし、アレンさんの存在だったんじゃないかなと思います。
やはり、与えられた命、生かされている命を、毎日大切にして、精一杯生きていってほしいっていうことを、生徒たちに感じ取ってほしい、伝えたいと思ってはったと思います。


ラミス氏:
今の状況に危機感を感じながら、でもまだ希望があると、彼は思ってた。
ただ、だんだんと憲法九条の支持が減ってきて、彼にとって(それは)非常に悲しいことでした。
非常に悲しんでた。
自分の愛している日本はもう、消えていきそうだと、いう感じでしたね。


ナレーション:
ネルソンさんは2009年、枯葉剤が原因とみられる血液のガンで亡くなります。
61才でした。


戦争に苦しめられた彼は、最後も戦争が原因で命を落とします。

石川県にある光闡坊。
何度も講演で訪れたこのお寺に、ネルソンさんは眠っています。


今年3月には、七回忌法要が営まれ、彼の活動を支援した人々が参列しました。


住職の佐野明弘さん。


ネルソンさんが、日本での心の師と慕っていました。


佐野住職:
彼は、たくさんの人を殺したこと、自分も死ぬほど苦しんだこと、そういう彼にして初めて、本当のこの九条の重みというものを知ってるんではないかなと。
むしろ私たちは、それを知らないんだ、日本の私たちは、私も含めて。
それぐらい深い、彼の願いが、この九条というものを、非常に希望をもったという、
九条によって平和になるという希望、というよりも、九条そのものが存在することに希望を持てたんですね。


ナレーション:
本尊の裏手、ネルソンさんが独りになりたい時、好んで座っていたところです。


佐野住職:
この下になります。
ちょうど、ご本尊の足の下です。


一番心が安らいだ場所の地下に、遺骨が埋葬されています。



佐野住職:
九条というものも、そういう正義から生まれてきたというよりも、たくさんの悲しみを通して生まれてきたもので、
そこにもう二度と、こんなことは繰り返したくない、こんなことはもう二度と嫌だということで、
そこに願い、それが誓いとなって、九条というものはそういう内容を持っていると思うんですね。
平和への道は無いんだと、平和こそが道なんだと、常々おっしゃっていた。
やはり真理を突いていますね。



ナレーション:
ネルソンさんが亡くなった後も、彼の遺志を継ぐ活動は続いています。

沖縄キリスト教学院大学


アレン・ネルソン基金沖縄の会・代表宣野座映子さん:
アレン・ネルソン奨学金という名前を、アレンがごめんなさいと言ってくれたが故に、ベトナムの人たちは、ほんとに心から受け入れてくれて…、


ネルソンさんの闘病生活を支えるために、全国から集まった募金。
今は、彼が戦ったベトナムで、貧しい子どもたちへの奨学金として活用されています。




身を以て、暴力と戦争の恐ろしさを訴え、憲法九条の大切さを呼びかけたネルソンさん。
彼は、命が尽きるまで、心を込めて私たちに語り続けました。

ネルソン氏:
1996年に来日した時、ある人が日本国憲法の冊子をくれました。
第九条を読んだ時、自分の目を疑いました。
あまりに力強く、あまりに素晴らしかったからです。
日本国憲法第九条は、いかなる核兵器よりも強力であり、



いかなる国のいかなる軍隊よりも強力なのです。

日本各地で多くの学校を訪れますが、子どもたちの顔に、とても素晴らしく美しくかけがえのないものが私には見えます。
子どもたちの表情から、戦争を知らないことがわかるのです。



それこそが第九条の持つ力です。

日本のみなさんは、憲法に九条があることの幸せに、気づくべきだと思います。



ほとんどの国の子どもたちが、戦争を知っています。
アメリカの私の子どもたちは、戦争を知っています。
イギリス、イタリア、フランス、オーストラリア、中国、韓国の子どもたち、みんな戦争を知っています。
しかし、ここ日本では、戦争を知りません。
憲法第九条が、戦争の悲惨さ、恐怖や苦しみから、みなさんを救ってきたからです。


ご存知のように、多くの政治家が、憲法から第九条を消し去ろうと躍起になっています。
断じてそれを許してはなりません。

みなさんと、みなさんの子どもたちは、これまで憲法第九条に守られてきました。
今度はみなさんが、第九条を守るために立ち上がり、声を上げなくてはなりません。

第九条は、日本人にのみ大切なのではありません。
地球に住むすべての人間にとって、大切なものなのです。
アメリカにも九条があって欲しい。
地球上のすべての国に、九条があって欲しい。
世界平和はアメリカから始まるのではありません。
国連から始まるのでもありません。
ヨーロッパから始まるのでもありません。
世界平和はここから、この部屋から、わたしたち一人一人から始まるのです。



アレンの愛した歌、ダウン・バイ・ザ・リバーサイド。
暴力も憎しみも、河のほとりに置いておこう
戦争はもうごめんだ