ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

戦争で一番傷つけられるのは、国でも役人でも上官でもない。それは市井の市民と元市民の歩兵たち!

2014年07月04日 | 日本とわたし
http://www.dailymotion.com/video/xnsvdk_よみがえる戦場の記憶-沖縄戦-600本のフィルム_news

上記の青文字をクリックしてください。
そして、Daily Motionのビデオ『よみがえる戦場の記憶 沖縄戦 600本のフィルム』を観てください。
どうしても時間の無い方は、文字起こししましたので、以下の文章を読んでください。

家族との別れをしたところで、文字の強調をするところにまで気力がありません。
みなさんひとりひとりの心の中で、感じ、受け取り、考えてもらえたらと思いながら、作業をしました。


よみがえる戦場の記憶 沖縄戦 600本のフィルム

透き通る青い海。
珊瑚礁に囲まれた、沖縄の島々です。
今から65年前、この海に、黒い鉄のかたまりが押し寄せてきました。

沖縄戦(1945年〈昭和20年〉)です。
太平洋戦争末期の1945年、沖縄は、日米両軍が激しく戦う戦場となりました。
戦闘はおよそ3ヵ月間、犠牲者は20万人におよびます。


過酷な戦場を記録した映像。
これまで埋もれていた、600本の沖縄戦フィルムが、アメリカで新たに見つかりました。

すでに息絶えた日本兵を、いつまでも銃撃するアメリカ兵。
炎から、乳飲み子を庇うため、全身に大やけどを負った女性。
戦場で行われた結婚式。
新郎新婦は、アメリカ軍の捕虜になった日本人でした。

こうしたフィルムは、どんな状況で撮影されたのか。
私たちは、沖縄各地で上映会を行い、そこに映っている人を探しました。

アメリカ軍の捕虜になった老夫婦。
二人を知っているという人が現れました。

女性:
スパイしているって。
そして、山に連れていかれて、殺されたんですよ、日本兵に。

ーー殺されたんですか?

女性:
そうですよ、二人とも。
山に連れて行かれて。


敗戦直後の沖縄を撮ったフィルムもありました。
戦争で親を失った、孤児たちの映像です。
自分が映っている、という人がいました。

女性:
頭、怪我してるっていうことね。
はい、自分じゃないかなーって思ってるんですけど。

年令も名前も覚えていなかった、と言います。

女性:
自分の本当の名前とね、(親が)どこの人だったということね、それだけ知りたいです。


撮影された沖縄の人々は、戦場で何を思い、そして、戦後どんな人生を辿ったのか。
新たに見つかった600本のフィルムからよみがえる、戦場の記憶です。


よみがえる戦場の記憶
~発見 600本の沖縄戦フィルム~
語り)山根基世


アメリカ国立公文書館です。(アメリカ メリーランド州)
4年前、沖縄県は、ここの保管庫に収蔵されている映像を調査しました。
その結果、これまで全く知られていなかった、沖縄戦のフィルムがあることがわかりました。
沖縄上陸の始まった、1945年3月から、半年に渡って撮影された映像です。
フィルムは、沖縄戦に参加したアメリカ陸軍や、海兵隊のカメラマンによって撮られたものです。
総数は600本、およそ80時間のフィルムです。
そのほとんどは、65年前に撮影、現像されたままの状態で、残されていました。

職員の男性:
これは、海兵隊が、沖縄で撮影したフィルムです。

NHKは、すべての映像を入手し、2年間かけて中身を分析しました。


■戦争に巻き込まれた住民

撮影日 1945年4月2日
これは、アメリカ軍が、沖縄本島に上陸した翌日、4月2日に撮影された映像です。
アメリカ軍に捕らえられた、住民の姿が映っています。
アメリカ兵から、食べ物を渡されています。
この人たちは、戦場で何を見、その後、どんな人生を歩んだのでしょうか。

フィルムの見出しには、撮影日時と部隊名、タイトルが記されています。
(例・第1海兵師団 上陸日+1日 沖縄の住民)

この、わずかな情報を手がかりに、撮影された場所を特定し、そこに映っている人を探すことにしました。
アメリカ軍が、沖縄本島に最初に上陸した場所のひとつ、読谷村(よみたんそん)です。
この村の戦争体験者に呼びかけ、上陸直後に撮影されたというフィルムを、観てもらいました。

当時、6万人以上のアメリカ兵が、一気に上陸してきました。
日本軍はほとんどおらず、住民はまたたく間に、アメリカ兵に包囲されました。
会場から、映っている人に心当たりがある、という声が上がりました。

会場の女性:
(知り合いの)お姉さん、これはトミお姉さん。

ーートミ姉さんはどちらの方ですか?

女性:
(読谷村)伊良皆(いらみな)集落。
あのおばあちゃんの娘。

この、カメラを睨みつける女性が、今も読谷村に暮らしているというのです。


読谷村 伊良皆

女性:
こんにちは。

記者:
こんにちは。NHKの豊田といいます。

伊波(いは)トミさん、92才です。

伊波さん:
はい、伊波トミです。よろしくお願いします。

記者:
今日はちょっと、観てもらいたいフィルムがあるので。


さっそく、伊波さんに、映像を観てもらいました。

伊波さん:
あれあれ、私だよ、私。
カメラをにらんでいるでしょ。
あははは、あ~可笑しい。


映像を観た瞬間、自分だとわかった伊波さん。
当時27才。
夫は出征していて、伊波さんひとりが、4才と6才の子どもを抱え、戦場を逃げ惑いました。

伊波さん:
もう死ぬつもりだから、怖くはなかった。
いつ死んでも、最後と思って。
子どもたちと一緒だったら良いと思ってさ。
もう残したら大変さ、子どもを。
そう思った。
生きると思わなかった……うん。


アメリカ軍に追いつめられた伊波さん親子は、防空壕に身を潜めました。
捕虜になれば殺されると、教えられていた住民たち。
壕の中で、集団自決が始まりました。

伊波さん:
うちの伊良皆の人、親せきではなかった。
「首絞めて」と言われて、おじぃがみんなの首を締めて、
怖くて、私たち親子は逃げたよ。
壕に残った人は、おじぃが首を締めてよ……。


自決を迫るおじぃの手を逃れようと、伊波さんは、ふたりの子どもを抱え、壕から逃げ出しました。
撮影されたのは、その直後だったのです。

600本のフィルムの中に、これまで写真でしか記録が無かった、日本軍の秘密兵器の映像がありました。


■特攻基地の島

撮影日 1945年4月5日

これは、陸軍の特攻艇、マルレです。
マルレは、敵艦に接近し、250キロの爆薬を間近に落とすという、特攻兵器です。
そのマルレを、アメリカ軍が押収し、テスト走行しているところです。
よく見ると、船体に『ロ(カタカナのロ)86』と書かれています。
この番号から、配備されていた場所が、特定できました。

沖縄本島から西に40キロ、阿嘉(あか)島です。
沖縄戦の1年前、人口500人のこの離島に、特攻艇マルレの基地が造られました。
島に駐屯したのは、特攻艇の乗組員や、船の整備員からなる、およそ300人の部隊(海上挺進第二戦隊)でした。
彼ら日本軍兵士と、阿嘉島の住民の間には、戦後65年経っても忘れることのできない、ひとつの悲劇が起きていました。

この日、阿嘉島で、フィルムの上映会を行いました。
上映会では、マルレの映像だけでなく、発見されていた他の映像も、観てもらいました。
これは、アメリカ軍が、阿嘉島に上陸した時の映像です。
海岸に駐屯していた阿嘉島の特攻部隊は、出撃できず、山に退却しました。
住民たちも一緒に、山に逃げました。
この時、住民ふたりが逃げ遅れ、アメリカ軍に捕らえられました。
沖縄戦で、最初の捕虜でした。

その姿が映し出された時、会場で、声を上げた人がいました。

会場の女性:
(映像に写っている)後藤夫妻とは、親せきなんですよ。
スパイしてるって。
山に連れていかれて、殺されたんですよ、日本兵に。

ーー殺されたんですか?

女性:
そうですよ、二人とも。
山に連れて行かれて。

フィルムに写っていたのは、後藤松雄さんとたきえさんでした。
夫婦は、数日後、アメリカ軍から解放されました。
その後、日本軍に殺された、というのです。

殺された夫婦の親せきに、話を聞くことができました。
当時15才だった、垣花武一さんです。

後藤さん夫婦は、阿嘉島の特攻部隊に捕まると、住民の隠れていた山に連れてこられました。

垣花さん:
二人(後藤さん夫婦)が、着剣した兵隊、防衛隊に連れられて来てるいるんですよ。
あの、住民が避難している所に。
親せきに会わせに来ているんです。
で、自分たちも親せきですが、親せきだということを名乗ったら危ない、という意識があったもんだから、
誰ひとりとしてね、会話をしていないんですよ。
遠くからこう、眺めているだけで。
だって、親せきだと分かったら、民からも、それから兵隊の目が怖いんですよ。
「こいつらはスパイの親せきだ」という、そういうね、怖さがあったもんですから、
だから、最後のこう、連れられて行く時も、誰も見送りもしないんですよ。


翌日、山の中で、二人の変わり果てた姿が見つかりました。

垣花さん:
日本刀かなんかで、軍刀で切られたんでしょ。
首が無い。
もうひっくり返ってるんですよ、こうして仰向けで。
首が無い。
で、おじいちゃんには間違いないと、服装からして。
この土にね、血がついて、中に埋められてるんですよ。
首だけ。
それで、しばらくいって、おばあちゃんはじゃあ、どうなってるのかなと。
しばらくすると、おばあちゃんは刺し傷があったんですよね、胸に。


今年3月、阿嘉島へと向かう船に、かつて島に駐屯していた、元日本兵の姿がありました。
彼らは、アメリカ軍が阿嘉島に上陸した3月末に、毎年慰霊祭を行っています。
今も、島の住民は、戦争中の事件を忘れていません。
そんな中、垣花さんは、元日本兵を迎えました。

かつて、特攻部隊の陣地があった場所で行われた、慰霊祭。
島の人たちも数人、参列しています。
悲しい事件を乗り越えて、一緒に慰霊祭を行うようになるまでには、戦後の長い道程がありました。

沖縄が、日本に復帰した1972年(昭和47年)。
元日本兵が、この島で、初めての慰霊祭を行いました。
島の住民が、元兵士に会うのは、27年ぶりでした。
住民の間には、日本軍に対する反感がありました。
戦後初めて向き合った、島の人たちと元兵士。
部隊の最高責任者(元海上挺進第二戦隊 隊長)だった野田さんが、深々と頭を下げました。

儀同 保さん(元海上挺進第二戦隊):
そこの公民館でですね、の人たちが、みな集まってるもんですから、
一番先に、野田さんにですね、昔はいろいろご苦労かけて申し訳ありませんでしたと、わたしは詫びるつもりで来ましたと、いうふうに言って、涙を流したんですよ。

垣花 武一さん(阿嘉島 住民):
で、その時に、我々はちょっと時間をとって、隊長を呼び出して、直々に追求したわけ。
「あの年は何の理由で、殺したんですか隊長」……詰め寄ったら、
隊長いわく、
「私は殺せとは言っていない」と。
「その係の兵に、適当に始末せ、とは言った」と……ただそれだけ。
「ただ、大変に悪い事をしたと、十分反省してるんだ」と、いうことを言っておりましたね。

ーもしあの時その、野田さんがですね、ここに来てそうやって謝らなければ、今みたいにこう、交流なんてのは続いたんでしょうか。

垣花さん:
ないでしょうこれは。
ないですよ。


こんばんは。
慰霊祭、ご苦労さまでした。
どうもありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。
はい、かんぱーい!


元日本兵たちは、この38年間、島の小学校への寄付などを続けてきました。
その中で、住民の反感も、徐々に和らいでいったといいます。
今では、戦争中の頃を分かち合える間柄になりました。


自分の身内でも殺されているし、それを単純に考えた場合は、あいつをやっつけてやれと思うかもしれないけど、
でも、6ヵ月も一緒に、飢餓の戦いをやってきた、いわば戦友なんですよ。
そのへんがね、戦争を知らない人は、理解できない部分がある。
今日でもこう、何年ぶりかに会うと、自分の身内が帰ってきたみたいな、非常に私も今、興奮しています。
でも反面、軍に対して私は厳しいわけ。
軍隊に対しては。
でも、個々の兵隊というのは、個人というのは別個だもんね。
自分も含めて、同じ歯車だった、末端の。


謝罪から始まった、兵士と住民の交流。
今年で、38年になります。


アメリカの国立公文書館に残されていた、600本の沖縄戦フィルム。
フィルムには、ひとつの明確な目的がありました。

当時、戦場カメラマンたちが撮影した映像は、アメリカ国内で、ニュース映画として上映されました。
映像は、戦意高揚や、アメリカ人のモラルの高さを示す宣伝、プロパガンダに使われていたのです。

沖縄戦で、戦場カメラマンをしていた人が、アメリカのワシントン州にいることがわかりました。
グラント・ウルフキル(元海兵隊 カメラマン)さんです。
当時は23才でした。
ウルフキルさんは、海兵隊所属のカメラマンとして、上陸当初から撮影に当たりました。
ウルフキルさんも、プロパガンダの目的をふまえて、撮影に当たっていた、と言います。

ウルフキルさん:
戦闘を最優先に記録しました。
遺体は撮影しませんでした。
重症の兵士も撮影しませんでした。
軽傷であれば、撮ることもありました。
遺体は、撮影すべきでないと考えていました。
民間人が苦しんでいるところも、撮りませんでした。

ところが、600本の中に一本だけ、プロパガンダという目的に、そぐわないフィルムが見つかりました。
海兵隊の撮影したフィルムです。
無造作に並べられた、日本兵の亡骸。
日本兵の遺体を、足で蹴るアメリカ兵。
すでに息絶えている日本兵に、なおも弾を打ち込む兵士。

なぜこの一本だけ、プロパガンダにそぐわない映像なのでしょうか。
沖縄戦フィルムの調査を行ってきた、琉球大学の(非常勤講師)山内榮さんです。
沖縄戦資料の専門家です。
山内さんは、
「残虐な場面や、戦争犯罪にあたる行為は、現像・編集の段階で取り除かれるものだ」と言います。

山内さん:
屍体を執拗にこうやって撃つというのは、本来ね、残さないフィルムですね。
やっぱりマズいわけですから、公になったら、こういう戦いをしたっていうのは……。
一応、国際法遵守というふうな形で来てますからね、アメリカ側は。
誤って残った……そういう可能性はあるわね。
だから、あるべきはずの、本来こういうふうなシーンっていうのは、戦場ではあるべき話なんですよね。

このフィルムには、さまざまな場所で撮影された映像が、バラバラにつなげられていました。
中には、硫黄島で撮影された映像もありました。
山内さんは、本来、捨てるつもりでつないだ映像が、誤って残されたのではないか、と考えています。

山内さん:
どっかに弾いた、その弾き逃れでしょうね。

ーそれは、検閲みたいなことをしてたってことですかー

山内さん:
うんうん。
撮っても出せないものがあると、(という)ことだよね。
だから、あったことを無かったってったらウソになるけれども、あったことを切り取るのもウソだよね、本来は。


その一方、まさに、アメリカのプロパガンダとして撮られた映像も、見つかりました。


■戦場の結婚式

撮影日 1945年4月30日

これは、激しい戦闘の続く、4月30日に撮影された、戦場での結婚式です。
鳥居の前で、アメリカ人の牧師が、式を執り行っています。
新郎新婦は日本人です。
結婚式だというのに、表情は固く強張り、笑顔がありません。
周りはアメリカ兵ばかり、カメラを持った人が何人もいます。

この不思議な映像は、いかなる目的で撮影されたのか。
結婚式に参列したアメリカ兵が見つかりました。
日本文学の研究者として知られる、ドナルド・キーンさんです。
沖縄戦当時、日本語将校として、日本兵捕虜への尋問を担当していました。

ドナルド・キーンさん:
二人の顔を覚えていますよ。
私はどこにいるかは分からないけれど……。

結婚式は、異様な雰囲気だったといいます。

ドナルドさん:
二人は、状況が飲み込めていないようでした。
幸せそうでも、不幸そうでもなかった。
ただ、困惑していました。

アメリカの国立公文書館で、同じ結婚式の写真を見つけました。
写真には、説明文が付いていました。
二人は、この結婚式が行われる数日前に、一緒に捕虜となっていました。
新郎は、日本軍の木村直治中尉、新婦は、同じ部隊の看護婦、新川しず子さんでした。

ドナルドさん:
夫婦の家には、盗聴機が仕掛けられていた、と聞いています。
中尉が重要な情報を、新婦に語るのではないかと考えたのです。
結婚式は、アメリカ軍が仕組んだものです。
二人が望んだものではありません。
一緒にいましたが、結婚は考えてなかったと思います。
何とアメリカ軍は寛容なんだ、良い人たちなんだと思わせ、
軍事機密を聞き出そうと考えたのです。


木村中尉は、京都出身者を中心に編成された、独立歩兵第十一大隊の中隊長でした。
中国で6年戦った後、1944年に、沖縄に転身しています。

京都に、木村中尉と同じ部隊に居た人が、今も暮らしていました。
前川清一さんです。
前川さんは戦場で、結婚式の写真を目にしていました。

アメリカが発行した『琉球週報』(1945年5月6日号)。
日本人に向けたプロパガンダのために作られた新聞です。
そこに、結婚式の写真と記事が、掲載されていました。
アメリカ軍はこの新聞を、敵地の日本兵にまき、投降を促していました。

前川さん:
わたしらが首里へ下がって、首里城の下におったっちゅう時に、飛行機からパーッとまきましたからね。
それで、わたしらの上官が「あ、これは木村中尉や」っちゅうことをすぐに言われて、もう背格好すぐ分かりますからね。
上に立つ将校がね、そんなんするのは、まあその当時やったらこんなんもっての他やっちゅうようなもんですけどね。
もう国賊扱いですわね。


木村中尉の部隊は、隊長がいなくなった後、過酷な運命を辿ります。
最前線で次々と、切り込み作戦に投入されました。
爆薬を背負い、敵の戦車に体当たりする、捨て身の攻撃でした。


前川さん:
ランドセルみたいに縄でこうして雷管を付けたんですけどね、10キロの爆弾背負てみな……。
まあ、10キロ追いねると重たいですけどね……まあ……。

ーーそれはあれですよねもう、自分も亡くなっちゃうんですよね。

前川さん:
そうですそうです、自分も一緒ですよ。
もうどんどん使われて、あっちゃ行けこっちゃ行け、◯◯◯に行けばっかりやったですよね。
あーもう……大方(?)亡くなってますよ、はい。
むっちゃくちゃです……。

当初1200人いた部隊のうち、沖縄戦から生還したのは、およそ40人でした。
戦後生き残った人々は、戦友会を作りました。
いつも話題に上るのは、結婚した木村中尉のことでした。


前川さん:
あの、所が分かってたからね、いつも往復はがき出すけど、返事も何も着たことない。
いっぺんも顔出してない。
で、終戦なって戦争負けてんやから、もうええやないか、来いっちゅうようなことを書いて出しても、来なかったです。
やっぱり自分は、そやって、戦争中に逃げたちゅうので、やっぱり、気に留めてはったんかねえ、と思うけどね、わかりません。
そんなねえ、受けのいい中隊長やったんです、あの人は。


戦友会の名簿から、木村さんの消息が分かりました。
14年前に、亡くなっていました。
家族によれば、結婚式をしたいきさつは、亡くなるまで一切、語ることはなかったといいます。

妻しず子さん、旧姓、新川しず子さんの事情も辿りました。

木村中尉の部隊が駐屯していた、沖縄本島の西原町。
しず子さんはもともと、地域の役場に勤めていました。
戦争が始まると、若い女性たちは、従軍看護婦となりました。
しず子さんも、そうした女性のひとり、当時17才でした。

新川さん:
とっても頭もいいしね、あの、素直な子であったんですよ。
でしゃばりじゃなくて。

しず子さんの親せきにあたる、新川きよさんです。
木村中尉としず子さんは、戦争前から顔見知りだったといいます。

新川さん:
防空壕で知り合ったかもわからないし……。
ただもう、この方は偉い方だから、馬に乗ってね、役所になんか情報を聞きにいらしたんじゃないかね。
ただ顔見知りだったはずだけど、そんな関係は無かったと思いますよ。


結婚式の写真は、地元の人たちも見ていました。
心良く思わない人も、多く居ました。
戦後、しず子さんが里帰りしたのは、ほんの数回。
夫の直治さんは、一度も姿を見せることはありませんでした。

親せきの男性:
タブーにしていたんですよ。
戦争の終らない前に、ああいったこと(結婚式)をやっていますのでね、そのことです。

新川さん:
しず子さんもまた、戦争の話はしたくないって、全然してないから。
とっても悩んで、しゃべりたくなかったんじゃないですかね。
だからもう、戦争の話はしたくないって。


【米国立公文書館】
戦後、固く口を閉ざした二人。
当時、どんな思いで結婚式を挙げたのか。
その心の内を伺える資料が、残されていました。
アメリカ軍の尋問調書です。
その中で、二人がくり返し、訴えていることがありました。

「戦場に取り残された住民の犠牲を、最小限にしてほしい」という訴えでした。

日本軍は、民間人の疎開に協力もしなかった。
住民に全く注意を払わず、負傷しても手当てもしない。
日本軍は、戦闘だけを考え、住民を無視している。

アメリカ軍は、住民を救うために、あらゆる努力をすべきで、そのためであれば、自分たちも、プロパガンダに協力してもよい。

戦場の住民を救いたいという、二人の思いを、アメリカ軍は利用したのです。


戦後、夫婦は、東京の近郊の町に移り住みました。
生涯、仲の良い夫婦でした。
しかし、夫婦の間で、結婚式の話をすることはありませんでした。
妻のしず子さんは、沖縄出身であることさえ、隠していました。

戦場の結婚式。
それは、夫婦にとって、誰にも語ることのできない、辛い記憶でした。


アメリカ軍は、戦争直後の沖縄も、撮影していました。

■親を亡くした子どもたち

撮影日 1945年8月5日

これは、アメリカ軍が作った孤児院を、撮影した映像です。
沖縄戦が終った8月に、撮影されました。
元気よく遊び回る子どもたち。
しかし、端々には、衰弱した子どもたちの姿も、映り込んでいます。

コザ第四小学校。
孤児院には、小学校も併設されていました。

孤児院は、戦後、コザと呼ばれた、現在の沖縄市にありました。
かつて孤児院があった場所を訪ねると、古い民家がありました。

久場良行さんです。
家は、久場さんの祖父が建てたものでした。
戦後、久場さんの家族が疎開先から戻ると、自宅は接収され、孤児院となっていました。
家の周りにはテントが張られ、運動場も作られていました。

久場さん:
ああ、これはそうかもしれんね。

ーーこれ、どこですかね。

久場さん:
ここがちょっと見えますかね、こっちがね。


フィルムには、久場さんの家の中で撮影されたものもありました。

久場さん:
こちらの方がまたあの、仏壇でね。

ーーこれ、写ってたとこですよね、フィルムに。

久場さん:
そうですね、仏壇の方ですね。

ーー具体的に、どんな様子だったんでしょうかね。

久場さん:
こういったですね、床の上で、もうほんと寝転んで、ご飯食べる時もやっぱり、片隅に行って、小さい子は食べたりしてですね、
もうほんと、みんながみんなだからね、もう可哀相で、大変だったんですよねほんと、当時は、思いますね。


フィルムに写っている子どもたちや先生は、今どうしているのか。
その消息を辿りました。

取材を進めると、意外な事実がわかりました。
孤児たちの世話をしていた先生は、ひめゆり学徒隊の、生き残りの人たちだったのです。

木村つるさん、津波古ヒサさん。
沖縄戦で、学徒動員された女学生。
戦場の野戦病院などで看護に当たり、多くの仲間が犠牲となりました。

生き残った彼女たちは、アメリカ軍の捕虜になると、孤児院で、子どもたちの面倒をみることになったといいます。

木村つるさん、津波古ヒサさん

フィルムには、孤児院で一緒に働いた、仲間の姿がありました。
映像では、元気な姿を見せている子どもたち。
しかし、カメラの無い所では、様子が違ったといいます。

津波古さん:
もう夜になったら、おかあちゃんよー、おとうちゃんよーって言って、もうほんとに小さいあれですからね、可哀相でしたよ。
だもんで夜になるのが怖くて、早く寝かせないとって。
とにかく昼はうんと暴れて、疲れさせようと思って、一緒に運動場を走ったりなんかしたんですけどね。
それでも夜、夕方になってご飯食べた後になると、窓からこんなにして「おっかあー」とかなんとか言ってね、やると可哀相になってもう……、
子どもたちがワアワア泣くのを見ると、なんか自分も泣きたくなるような、思いでしたねえ。


6月、コザ孤児院の、慰霊祭が行われました。
沖縄市の呼び掛けで、かつて孤児院にいた人など、60人が集まりました。
この人たちの中に、映像に写っている人はいないか。
かつて、コザ孤児院にいた人たちに集まってもらい、映像を観てもらいました。

65年ぶりに観る、コザ孤児院の姿です。
コザ孤児院には、当時、800人の子どもたちがいました。
戦場で衰弱し、栄養失調で亡くなる子どもが、後を絶ちませんでした。


長堂トヨさん:
妹がいないんですよ。
で誰かが「病院連れて行かれたよ」ということで、で、病院行ったら、野戦病院とは名ばかり、テントがあったんですけど、
うちの妹は、テント外にベッドが置かれて、その上に寝かされているんです。
見たらもう、うじがいっぱい付いているもんですから、その日に亡くなったんですけどね。
もうあんまりいい思い出、なんにも無いんですよ、孤児院で。ただもう……。


映像に写っているのは、孤児院にいた時の自分だ、という人が現れました。


女性:
頭、怪我してるっていうことね。
はい、自分じゃないかねーって思ってるんですけど。
頭、ぜーんぶ怪我してあのー、なんていうかね、包帯されてるのは覚えてるんですよ。

ーー焼けたんですか?

女性:
怪我です。弾で怪我じゃないかね。

ーーいくつなんですそれ?

女性:
だからあんまり年もね、もう覚えてない、4才ぐらい、か……。
一番あの、気になるのはもう、自分の本当の名前とね、親がどこの人だったということね、それだけ知りたいです。
だってほんとにもう、辛い思いばっかり……。

大城よし子さんです。
孤児院に運ばれた時、名前も年令も覚えていませんでした。
よし子という名前をつけてくれた孤児院、その場所を訪ねました。


ーー大城さん、どこを見て思い出しました?

大城さん:
なんかこっちの入り口ね、入り口見てから、ああここだったのかなって。
もうこうして、つかまえて上がった覚えがあるんですけど。
なんかあの、子どもたちいっぱいもう……赤ちゃんもいっぱいいてね、もう食べ物無いから、うんこ食べてね。


よし子さんは、コザ孤児院で数ヶ月暮らした後、子どものいない夫婦に、もらわれていきました。

久場さん:
その当時はあの、子どもさんがいない夫婦なんかはやっぱり、こっちからね、

大城さん:
最後までね、見れるだったらいいんですけど、見れなくて、もうあの家この家、5、6軒ぐらいに回されたんですよ。
もう、なんにも分からないまま、はいはいしていえ、もうあんたのおかあさん、あっちだからあっち行きなさいって言われたらまた、本気にして、行って、
もうほんとにもう、生きて良かったって思ったこと無いです。
 

よし子さんを最後に引き取ったのは、地域でも有数の農家でした。
しかし、仕事に明け暮れ、小学校にさえ通わせてもらえませんでした。

大城さん:
むこうに行ったらもう、朝は毎日5時に起きて、ブタがいっぱいいるからね、動物。
芋を炊いたり、ブタの餌を作ってあげたり、もうずうっとこんな仕事でしたよ。
もう遊んだこと無いですよ、むこうに行っても。
ただね、いつもわたしが怒るのは、学校だけはね、小学校1、2年までは、行かして欲しかったんですよ。


よし子さんの育ての親は、2年前に亡くなりました。
自分は本当は誰なのかを、知りたい……。
これまで抑えてきた思いが、こみ上げるようになりました。


糸満市
フィルムに自分の姿が写っていたのをきっかけに、よし子さんは、自分の過去を辿り始めました。
この日、よし子さんは、家族と一緒に、ひめゆり平和祈念資料館を訪れました。
孤児院の先生だった人に会うためです。

元コザ孤児院先生
津波古ヒサさん

孤児院で先生をしていた津波古さんは、仲間と一緒に、よし子さんに名前を付けたことを、今も覚えていました。

可愛くてあれだったのよ。みんなから可愛がられてたのよ。
だから一番にね、名前つけて、みんなで決めてね。

ーーやっぱり名前は覚えてなかったんですか、本人は?

津波古さん:
なにか、よし子は言ってたんじゃないかな、と思うのよ。
よし子かなにかは、あの、よっちゃんとかなにか、地域の名前がコザだからね、

大城さん:
ほんと、あの時の苦しみはもう、もうわたし自分ひとり思い出して、ベッドの上で泣いて……。

津波古さん:
でも、ここまでね、たくさんの方の、子どもさんもお孫さんもいるってことはね、すばらしい。
わたし、それで安心ですよ。
ひとりでも多くの人が、こういうふうにあの、あれしたってことはね、成功したってことですよ。

大城さん:
一番もう、思い出して泣いてばかりいたけど、今日でもうホッとしたので。
自分の名前とね、どこの人?ということ、これだけ分かったらね、もう何も言うことは無いと思うんですけど。


孤児院にいた自分の過去を知る人と、初めて出会いました。
よし子さんは今も、戦場で失った家族の記憶を、探し続けています。

新たに見つかった、600本の沖縄戦フィルム。
そこに映し出された人々は、戦争の苦い記憶と重荷を背負いながら、戦後を生き抜いていました。

沖縄戦から65年。
それぞれの心の中で、悲しみは続いています。

↑以上、文字起こしおわり

↓以下は、このビデオの紹介者からの言葉。

65年前、住民を巻き込んだ、激しい地上戦が戦われた沖縄。
その戦場を記録した、600本の新たなフィルムが見つかった。
沖縄県公文書館の調査で、多くのフィルムが、米国立公文書館に眠っている事がわかったのだ。
1980年代に、沖縄1フィート運動の会や、沖縄県公文書館などが収集した、350本のフィルムは、沖縄を記録した映像の一部に過ぎなかったのだ。
3年前から、沖縄戦を記録した、全てのフィルムの収集が続けられてきた。

新たな映像の中には、これまでなかった、日本軍の秘密兵器の映像や、“戦争孤児”の学校、そして多くの沖縄の住民たちの姿が記録されていた。
沖縄戦資料の研究を続けてきた、琉球大学の山内栄さんは、フィルムは、アメリカ軍が、記録や宣伝の為に撮影していたと言う。
しかし、戦後65年たった今、映像は、人々が封印してきた戦場の記憶を、よみがえらせようとしている。

その瞬間に、何が起きていたのか?
フィルムに写っている人を探す為に、沖縄各地で上映会を行った。
多くのフィルムが見つかった事は、沖縄で、大きな波紋を広げた。
誰にも語れなかった、家族の“集団自決”。
名乗り出せなかった、“戦争孤児”としての過去。
そして、戦場での悲劇を乗り越えようとする人々。
フィルムは、戦場の記憶を呼び起こすとともに、戦後の生きざまをも浮かび上がらせた。
沖縄戦を記録した、未公開の600本のフィルムをたどり、写された一人一人の沖縄戦と、戦後の人生を見つめる。

600本のフィルムは、そのまま、アメリカの公文書館に眠っている。
2年間かけてDVD化された映像が、沖縄県公文書館に、2010年贈られた。
県公文書館に行けば、見られることになる。

■沖縄戦の映像 県公文書館へ 捕虜や孤児 鮮明80時間 NHK 米で2年かけ収集
(沖縄タイムス 2010/8/17)
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-08-17_9327/

■沖縄県公文書館
http://www.archives.pref.okinawa.jp/
http://www.archives.pref.okinawa.jp/films/

別れ日

2014年07月04日 | 家族とわたし
7月4日午前1時20分、ショーティが死んだ。

遅くまで働いていた次男とまなつちゃんの帰りを待っていたような、家族全員に見送られて逝きたかったというような、そういうタイミングで。
15年と8ヶ月の生涯だった。

6月14日の夜、水煮アサリの小さな身を食べてから、嘔吐と下痢をくり返し、その後一切食べなくなった。
それまでに、すでに、食がかなり細っていたけれども、水だけは飲んでいたので、ちゃんと排尿もできていた。
けれども、その土曜日以降、水さえ飲まなくなったので、もちろん尿も出ず、だから獣医に診てもらいに行った。
糖尿病に加え腎不全が、もうどうしようもないくらいに悪化していて、尿毒症を併発していた。
医者は開口一番、「安楽死させましょうか?」と聞いてきたけれど、我々にはそんな覚悟はできておらず、
さらにはショーティ自身が、自分の好きにさせてくれ、と言っているような気がしたので、そのまま家に連れ帰った。

その日から今日までの、ショーティとの時間。

夏だったという幸運。
いつもよりも余計に入っていた仕事や用事が、すべて終っていたという幸運。
だからわたしは、思う存分、多分それはショーティにとってはかなり迷惑だったかもしれないけれども、
彼女との時間を過ごすことができた。

ここは、わたしの寝室の机の上。
わたしの目を盗んではこっそり入り、カーテンを頭で押しのけて、窓の外を眺めていたお気に入りスポット。
もう入り放題、見放題。出血大サービス。


毎日、天気の良い日は、暑くなる前と夕方に、彼女と外で過ごした。
普通に歩くこともままならないほどに弱った足で、なぜかスルスルと段差の高い階段を降り、まずはここで一休み。


わたしがせっせと、地面の中から掘り出した古い煉瓦を、適当に並べている間、いつだって現場監督をしてくれたショーティ。


また撮ってんのかいな……おんなじようなもんばっかやのに……(ショーティの独り言)。


日に日に、どこかが弱っていく。
日に日に、どこかが壊れていく。
日に日に、その日が近づいていることを感じる。

そんな小さな命を眺めながら、けれどもそのことに圧倒されてしまわないように、動揺しないように、なんとか日常を保ち続ける。


ここが、後半10日間のお気に入り場所。さて彼女はどこでしょか?


後ろから。


白い紫陽花を見るたびに、強烈に、彼女のことを思い出すと思う。


彼女を守ってくれてありがとう。


彼女のすぐ横では、桃とつゆ草と茗荷が、夏の日射しに歓喜の声を上げている。


亡くなる2日前。


それまでは、とても過ごしやすい、サラサラと乾いた風が心地良い、東海岸特有の夏日が続いた。
彼女は、あちこちヨタヨタと歩き回っては座り、また歩いては座りして、けれどもだんだんと、ぐったりと寝ていることが多くなった。
けれど、ピアノの生徒が来た時などは、3階の元次男部屋のクローゼットまで、よいしょよいしょと上っていったりもした。
食べ物はたったの1回成功しただけで、あとはもう、与える側の人間にとっての気休め程度にしか、口に入れなくなった。
吐き気があるので、水を飲みたくても、その吐き気に邪魔をされて、飲み辛そうだった。
なので我々は、暇さえあったら、吐き気止めのマッサージをした。
撫でて撫でて撫でて、もうこれは、彼女がもしあと3年長生きしたら、いやもっとかもしれんぐらいに撫でた。

ネットで調べると、無限に出てくる、治療や餌の数々。
けれども散々考えて、ぐるぐると堂々巡りしながら出した結論は、このまま我々の手あてと声かけだけで、最後までいこう、
注射や投薬、そして強制的に食べさせるなど、そういう彼女が嫌だと明らかにわかっていることはしないでおこう……そういうものだった。

ヘタレのわたしは、ちゃんと眠れない夜が続くと、彼女のあとを水を持って追いながら、朦朧とした頭の中で、いつまでこれが続くかな、自分の体が保つかな、などと考えた。
何度も何度も、もうあかん、さいなら、と言ってるような眼差しを向け、ぐったりと横たわっている彼女を撫でながら、
「ありがとう、もう頑張らんでええよ、うちの仔になってくれてありがとう」とくり返し言って、
ふと、このままスウッと、痛みも苦しみも無いまま逝ってくれたらわたしも楽になれる、などと一瞬思った自分を、恥じたり責めたりした。
失いたくない。
まだまだ、せめてあと数年、一緒に暮らしたかった。
彼女は、わたしにとっても旦那にとっても、生まれて初めての、長年に渡り世話をし、一緒に暮らした小さな動物だった。
けれども、わたしたちの知識の未熟さと、経験の無さが、彼女を糖尿病にし、腎不全を併発させ、そして尿毒症にまで至らせてしまった。
このことをいくら悔いても、どうしようもないと分かっている。
だから撫でるたび、ごめんな、かんにんな、と謝るしかなかった。

亡くなる前日は、激しい雷と稲光、週間予報通りだった。
とても暑く、とても蒸した。
ショーティの体力が消耗しないよう、うちとしては珍しく、エアコンを午前中からつけた。

それまでほとんど首を持ち上げなかった彼女が、急にしっかりとした様子で、稲光で光る外の様子を眺め始めた。


ずっとずっと、長い間、見続けている。


そして町では、雷が去った後、とても大きな虹が出た。

その晩は、落ち着きが無く、部屋の中を動きたがった。
雷と稲妻のエネルギーが、彼女の気持ちを昂らせたのかもしれない。
けれどももう、後ろ足が立てない状態になっていた。
前足だけで、ズルズルと、上半身を引きずってでもどこかに行こうとする。
とりあえず抱き上げて、近くの気に入りそうな所に降ろしてあげるしか、わたしには術が無かった。
その夜はだから、いつもにも増して眠れず、これでもう3週間近く、まともな睡眠を取れずにいるなあ、いつまでこの自分が保つかと、ふと思った。
そしてその思いの中にまた、彼女の死を待ち望んでいる自分がいるような気がして、気持ちが塞がった。

明け方、うたた寝をしてしまい、気がつくと彼女は、わたしの寝室の机の下で横たわっていた。
抱き上げると、弱々しいけれども、ゴロゴロと喉を鳴らして喜んでくれた。
ナーンと、久しぶりに、彼女らしい声が聞けた。
気がつくと、彼女の首回りがベトベトに濡れていた。
きっと、自分で水を飲もうとして、失敗したのだろう。
水は、どこに居ても行っても飲めるよう、だからそれで時々、人間の足がそれらを蹴飛ばしてしまい水浸し!という事態が、部屋のあちこちで発生した。
軽く拭いて、それからはずっと、お気に入りのクッションの上に寝たまま、昨日の晩がウソだったかのように、彼女はひたすら眠り続けた。
昨日の木曜日はたまたま、生徒がひとりだけ、という日だった。
だからもう、他のことは何もせず、ただただショーティと一緒に過ごそうと決めていた。
飲めなくなった、食べられなくなった彼女を見続けていると、自分の食欲も失せた。
けれども、だからといって、飲まず食わずの上に寝不足、などというようなことを続けていたら、いつかきっとダウンしてしまう。
だから、ちょっとだけ待っててね、と声をかけ、急いで台所に行き、適当にあるものを口に入れ、また彼女の所に戻っていった。

昨日も蒸し暑い日になった。
夕方はまた、雷と稲光、そして大雨が降った。
けれどももうショーティは、そんなこともおかまいなしに、ただただ同じクッションの上で寝ていた。
夜から息が浅く速くなった。
水も一切、飲もうともしなくなった。
また遅くなったので、旦那は「もし容態が変わったら起こして欲しい」と言って、2階の寝室に行った。
息は更に速くなった。
長男に、今夜が山かもしれない、とメールをした。
別れの時がいよいよ近づいてきたことを、身を以て教えてくれる彼女に、これまで通り背骨マッサージやアンプク(お腹を『の』の字に撫でてやることを我が家ではこう名付けた)をした。
ありがとう、ごめんね、楽しかった。一つ覚えのように、彼女の名前を呼んではそう言った。
夜中、次男とまなつちゃんが、仕事から戻ってきた。
次男の声を聞いた途端に、息がさらに浅く、速くなった。
待ってたのかなあ……と思った。
いつだって、ちょっと乱暴に抱き上げられたり、小さな意地悪をされて、ムスッとしてたけど、やっぱ次男のことも愛してたんだよね、ショーティ。

でも、ほんとうにいよいよだ。
次男が、「水とか最期に飲ませてやりたい」と言って、ティッシュに水を染ませて口元に運んだ。
口が開いた。
びっくりした。
え?飲めるの?飲みたいの?
次男が台所に飛び込み、今度は無塩バターを指に塗り、それを彼女の唇に塗りつけた。
「バターが大好きやったから、こいつ」……そう言いながら。

ひと舐めふた舐めしたかと思ったその時、ものすごい形相で吐こうとし出した。。
それはもう、ほんとうに、体全体を硬直させ、のけぞらせ、そのまま憤死してしまうのかと思うほどの激しい反応だった。
とても長い時間のように思えたけれど、結局それはほんの数回のことで、だから時間にすると1分も経たなかったと思う。
けれども、辛い光景だった。
その後すぐに、下顎呼吸に移り、ああこれはもう終わりだと思ったので、旦那を起こした。
10回くらいの、体中の空気を絞り出すような息をして、そして彼女は永遠の眠りについた。

7月4日、JULY 4th、アメリカの独立記念日の午前1時20分だった。

いつだって、玄関のドアを開けると、お迎え猫ショーティがいた。
旦那とビデオやテレビドラマを観ていると、あたしの椅子は?と、我々の間に置くよう催促した。
爪が伸びてくると、チャッチャッチャッと音を立てながら、部屋の中を歩いていた。
若い頃は跳躍力がすごくて、とんでもない高さのカウンターなどにひとっ飛びした。
お客が苦手で、来るとすぐに、そういう高くて手の届かないような所に逃げた。
だからそこに、猫ベッドを置いたりした。
日本からこちらに移る際には、JRの快速電車の中で大鳴きし、それが人間の赤ちゃんがグズッたような声色だったので、乗客の皆がキョロキョロ周りを見回していた。
声がとてもユニークだったので、聞いた人は皆、びっくりするか笑うかした。
生徒や生徒の家族にも人気があった。
年をとってからは、物怖じしなくなり、逆になにかを訴えるように、鳴きながら近づいていったりした。
どうして欲しいかを、実にはっきりと、分かりやすく伝えることができる仔だった。
おしゃべりだった。
言いたいことの意味が、はっきりとわかる鳴き声だった。
3.11以降、爆裂に増えたパソコン作業の間は決まって、右横に置いた丸いスツールの上で、同じように丸くなって寝ていた。
たまに気がつくと、ジィーッと見つめられていて、あ、ごめんごめんと、申し訳程度に撫でた。

去年のクリスマス前、もうすでに苦しくなっていたのに、そのことに気づかず、パソコンに気を取られながら片手間に撫でているわたしに腹を立て、ガブリと噛み付いた。
その痛みさえ懐かしい。
あの時、あんなに怒らなければよかった。あんなに責めるべきではなかった。
わたしには、そんな資格などなかったのだから。


うちに来てくれてありがとう。
家族として、一緒に暮らしてくれてありがとう。
たくさんの楽しさ、可笑しさ、温かさをありがとう。

泣けて泣けて、胸の真ん中にポッカリと穴が空いたような、スウスウとした寂しさを感じながら、
彼女のなきがらをベッドに戻し、やり方はめちゃくちゃだけども、お線香とロウソクをたて、般若心経を唱えた。


バイバイショーティ。


彼女のために、どこにでも寝転がれるように、部屋のあちこちに用意した仮ベッド。見たらすぐに泣けてくる。



少しだけ寝て起きると、目がちゃんと開けられないほどにまぶたが腫れて、とんでもない顔になっていた。
旦那が朝から、近所のイタリアンのパン屋さんで、ケーキをいっぱい買ってきてくれていた。
ショーティの命の成就祝い。


さて、彼女のなきがらをどうしよう……。
庭に埋めるのは多分違法だけれども、前庭の、彼女がいつも座っていた紫陽花の後ろに、彼女のお墓を作ることにした。
さて、彼女の棺はどうしよう……。
段ボール箱もいいけれども、なにかもう少し頑丈なものはないものか……。
あ、そうだ、前に、畑のためにと歩美ちゃんがもらってきてくれていた、ワイン箱があった。

まるで、ショーティのために用意されたと思えるほどにピッタリ!


いや、ちょっと窮屈やねんけど……(ショーティ談)。


穴掘りする男たち。


ふたを釘で打ち付けて、いよいよ埋葬。


さよならショーティ。


ここに花を植えよう。



今日は独立記念日。
美しい花火が、各地で盛大に上げられる。
ショーティはきっと、そんな日を命日にしようと、目論んでいたのかもしれない。