杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

碧巌録提唱拾い読み

2020-04-27 14:22:39 | 仏教

 2020年4月がまもなく終わろうとしていますが、今月は予定していた仕事や集会や旅行がほとんどキャンセルになり、行動範囲もせいぜい清水~藤枝まで。こんなにお出かけしない月は、ライターになって初めてかもしれません。

 最近、親しくお話をさせていただくようになった東壽院(清水区但沼)のご住職に「動いていないと死ぬ回遊魚みたいな自分にはストレス半端ない」と愚痴をこぼしたところ、瞑想の時間を持ちなさいと勧められ、自宅では落ち着いて瞑想できないと愚痴ったら、これを読みなさいと勧めていただいたのが、西片擔雪大老師著『碧巌録提唱』でした。

『碧巌録』は、お茶席の掛軸でよく見かける「日日是好日」「喫茶去」等々、有名な禅語の元となる公案(禅問答)を収めた禅宗の定番中の定番テキスト。中国・宋の時代(1125年)に圜悟克勤によって編集されたものです。この内容を、臨済宗妙心寺派第31代管長の西片擔雪大老師(1922~2006)が神戸の徳光院で10年間講義された内容を全3巻に収めたもので、非売品ながら、ネット古書店で運良く入手することができました。

 500ページ強×3巻セットの膨大な文字量で、宅配便の配達員さんから受け取ったときは「なんじゃこの重さ!」とビビってしまいましたが、奥付をみると、出版元は岡本㈱(日本一の靴下メーカー)の岡本哲治氏とあり、白隠研究でお馴染み芳澤勝弘先生が監修され、沼津の㈱耕文社の長澤一成氏(白隠禅師生家のご子孫)が印刷製本されたと。ご縁のある方々が関わっていたとわかって、この本に出会えた縁を、よけいにありがたく思いました。東壽院ご住職には心より感謝申し上げます。

 西片大老師は、京セラ創業者の稲盛和夫氏が師事したことでも知られ、稲盛氏は大老師のもとで得度(=在家僧侶になる)されています。氏の『生き方』等の著作を読むと、なるほど禅の教えが根底にある、と感じます。

 稲盛和夫氏のことは、この本にちょくちょく登場しています。碧巌録第五則『雪峰粟粒』の解説にはこうあります。

 ある社長さんが「社長の第一の心がけは虚心になることだ」と話しておられた。何らの先入観もなしに、虚心坦懐に物事を見る、そのことによって間違いの無い判断がてきる。(略)昨日、知り合いの方から手紙が来て、その中に日経新聞の切り抜きが入っておりました。私のよう知ってる京セラの稲森社長の記事が出ておったので、それを送ってくれた。その方は「この京セラの社長さんの写真を見て、自分は非常に感激した。何の気取るところも無く淡々としてらっしゃる。素晴らしいお顔に自分は感心した」と。

 日本は政治は三流だけれども、経済は一流と言われております。(略)経済界には実にいい顔してらっしゃる方が多い。経済界の人たちは、毎日毎日が命がけの真剣勝負だ。だから、ああいう立派なお顔になるのではないかと思うのであります。

 

 また碧巌録第十四則『雲門一代時教』の解説。

  技術革新の先頭を走っているような京セラの社長さんがおっしゃったそうです。近頃メガトレンドとやかましく言うけれども、これに乗り遅れまいと焦ることはない。時代の変化は急激ではない。だから、自分の本業に専念していれば時流に乗るチャンスは必ずやって来るのだと。私なんかが時代の変化はそんなに急じゃないよと申し上げると「坊主は頭が古い。今の世の中見てみい。この流れはどうじゃ」と反撃を食らうのが落ちでありますけれども、京セラの社長さんがおっしゃると先見の明がある。技術がいかほど進んでも、それを使うのは人間であります。しかしその人間は千年の昔も今も、ちっとも変わっていないのだ。

 

 碧巌録第三十九則『雲門花楽欄』の解説。

 京セラの会長さんが「自分は時に応じて、無理なく狂気の世界に入ることが出来る。狂気になれぬ人は創造は出来ない、物事を創り出すことはできない」とおっしゃっておった。気配りも非常に細やかで親切で、まことに申し分のないお人柄であるのに、時によっては狂気の世界に入るという。常識の世界というものは、他人との間柄に常に気配りをしておる。そういうことはもちろん大切であるけれども、そこに留まっておったのでは物事を創り出すことはできない。時間も否定し、人との義理も否定し、昼夜も否定し、一切に関知せぬというような人、これがつまり狂気の世界でありましょう。その狂気の世界を持っているかどうかが、大きな仕事が出来るかどうかの境目であるという。言葉を換えて言うなら成り切った世界でありましょう。本当に一つのことに成り切ったならば、すべてものものが消えてしまう。ただそのものそれに成り切ってしまうのであります。

 

 西片大老師はこのように、難解な碧巌録を現代人の言動を例に解説されるので、非常にわかりやすい。私自身、書く仕事をしていて、難しいことをわかりやすく伝える力が最も尊いと思っているので、碧巌録の教えはもちろんのこと、大老師の"伝える力”にも大いに感銘を受けました。

 

 私が心に残ったのは、碧巌録第七則『慧超問仏』の解説です。ここで西片大老師が引用されたのは、山本玄峰老師の「法に心切 人に親切 己に辛切」という言葉でした。玄峰老師はご存知のとおり、白隠禅師の再来といわれた名僧で、昭和天皇の終戦の詔「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」を鈴木貫太郎首相に助言されたことでも知られます。
 戦前、旭川刑務所へ講演に行かれた玄峰老師は、二千人の囚人を前に合掌し、「すまんこっちゃ、すまんこっちゃ。お釈迦さまのありがたい教えがあるのに、われわれ坊さんがさぼってるもんやから、あんたたちがこの寒い北海道でこのような苦労をしてござる。すまんこっちゃ」と涙を流され、「一人ひとりのお腹の中に、立派な仏さまがちゃんといらっしゃるのだから、その一人ひとりの仏さまをこれからは大切にしてください、お願いしますよ」とおっしゃった。最初は耳を貸さずに無駄話をしていた囚人たちはシーンとなり、講演が終わるとみんな泣きながら合掌し見送ったそうです。
 碧巌録では慧超という僧侶が師匠の法眼文益禅師に「如何なるか是れ仏」と質問し、法眼禅師は「汝は是れ慧超(おまえは慧超)」と答えます。相手の痛みを自分の痛みと受け取り、相手の悲しみを自分の悲しみと受け取り、相手の喜びを自分の喜びと受け取る。真に無心になれば、そういう仏心丸出しのはたらきが出てくる。そういうおまえが仏なんだよ、ということでしょうか。玄峰老師は二千人の囚人の肚の中に飛び込んで、玄峰は囚人に、囚人は玄峰になってお互い泣き合ったのだと西片大老師はおっしゃいました。これこそ自他一如であると。

 長い間、個人で仕事をしてきた自分は "自己実現” を座右の銘に、「自分自身を貫かねば」「自分は自分、他人は他人」と割り切って、ややもすると己の思い込みだけで行動しがちでした。しかし、今の状況下ではこの3つのシンセツが沁みてきます。

 9年前の4月、福島県いわき市に取材に行って、原発事故の風評被害に苦しむ被災者の声を聞いたときは「他人は他人」だなんて考えに猛省させられたのですが、今回はほんの身近で、感染の脅威にさらされている、感染源として差別を受けている、仕事を失いかけている人がたくさんいます。実生活で距離を取らざるを得なくなった人同士、気持ちの上では自他一如でありたいし、私自身フリーランスという立場で、この先、従来通り仕事ができる確証はありませんが、書くという本業を通してシンセツを実践できればと願っています。

 『碧巌録提唱』はトータル1600ページに及ぶ大著ですので、この先、しっかり読みこなし、折に触れてご紹介していきたいと思います。

 



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