引き続き茶文化の話です。20日の小堀宗実さんのお話に続いて、22日は県広報誌の知事対談取材で、経済学者・角山榮先生から含蓄のあるお話をたっぷりうかがいました。
角山先生はイギリス近代経済史が専門の元和歌山大学学長。イギリスの伝統的な生活文化に触れるうちに、お茶や時計といった身近なモノに関心を持ち、その歴史をひも解いて、生活史や社会史に通じた経済史研究に新たな分野を開拓された方です。
・・・なんて知ったかぶってますが、先生の存在を知ったのは22日が初めて。御年89歳でステッキを付きながら対談会場に現れた先生は、川勝知事の弾丸トークを受け止められるのか、傍から見てちょっと心配だったのですが、フタを開けてみるとビックリ! さすが現在も堺市教育委員会の顧問を務める現役、知事とは先を争ってドークバトルし始めます。進行役のテレビ静岡・田中宏枝アナウンサーが口をはさむ余地はほとんどありませんでした…。
対談記事に構成しにくいパターンだなぁと頭を書きながらも、必死にノートを取るうちに、話の内容が面白く、好きな歴史や、小堀さんから聞いたばかりの茶の湯の話題がたくさん出てきて、胸の内で「へぇ~」「そ~なんだぁ」を連発しながら、リズムよくメモることができました。2人の知の匠から、たっぷり講義をしてもらった贅沢気分・・・。こういう原稿執筆はとてもはかどります。
未発表の原稿をここで晒すわけにはいかないので、角山先生の著書にも紹介済みのネタだけ紹介しますね。
イギリスでは紅茶は女性の飲み物と言われますが、その理由は男性がコーヒーを愛好しすぎるから。イギリスの男性は、朝も昼も家で奥さんと食事せず、朝食はコーヒーハウスに集うのが習慣でした。食事時に家を空けるご主人を、奥さんはなんとか家に呼び戻したい。そこで使ったのがお茶です。
昔は1日2食で、朝食は10時ぐらい、夕食は15~16時ぐらい。つまり断食の時間が長かった。そこで、断食(fast)を破る(break)する愛情たっぷりの豪華な朝食を奥さんが用意した。イングリッシュブレークファーストと言われる所以です。お茶は、女性が男性を家に呼び戻すためのものだったんです。
イギリスにはお茶よりも先に、オスマントルコからコーヒーが入ってきました。首都イスタンブールにはたくさんのコーヒーハウスがあり、イスラムの国なので男性だけが出入りしていた。そこにヴェニスやジェノバの商人がやってきて、コーヒーの愉しみ方を会得したのです。当時のヨーロッパ人はモーツァルトやベートーベンが『トルコ行進曲』を作ったように、中東のエキゾチックな文化に憧れをもっていた。そしてヴェニスやジェノバなど地中海周辺都市の文化に憧れていたのがイギリスでした。
トルコのコーヒー文化はあっという間にヨーロッパに広まり、コーヒーハウスに集まるため、男性が家庭から消えてしまい、怒った女性たちが「コーヒーか私か、どっちを取るの!?」と責め立てたほどです。女性たちはコーヒーに対抗するものとして、トルコよりもさらに東から入ってきたお茶に目を付けた、というわけです。
ヨーロッパでは文明は東方からもたらされるとされ、アジア全体が憧憬の地でした。たとえば陶磁器。肉料理を食べるヨーロッパ人は、フォークやナイフを使っても傷が付かない中国の陶磁器をチャイナといって珍重した。肉料理に使う臭み除けの香辛料も、インドや東南アジアからもたらされた。アジアには木綿も絹もお茶もある。ヨーロッパの商人は取引したくても、ヨーロッパ産で売れるものがなく、アメリカ大陸から略奪してきた金や銀を交換材料にした。そんな彼らが憧れるアジアのもっとも東にある国が日本であり、日本の茶の湯だったのです。
初めて茶の湯の世界を見たイエズス会の宣教師たちは、なぜ一杯の茶を飲むのに隅っこにある小さくて狭い入口から入り、煮えたぎった湯と変な形の細々とした道具を使うのか、しかもその器はイエズス会の年間活動予算より高価だと聞いて大変不思議がる。日本人というのは正月から節分、雛祭り、節句と1年を通してしょっちゅう宴会をやっている。肉食の国の民族からしたら、四季折々で酒や肴を味わい、締めくくりに茶をいただくという宴会スタイルが物珍しかったと思います。17世紀初めに来日して約30年滞在し、『日本教会史』を著した宣教師ロドリゲスが詳しく考察しています。
応仁の乱以降、戦乱の時代になって、四六時中宴会を愉しむゆとりがなくなってからも、堺の町は比較的平和だったため、宴会の最後の茶事だけが、宴会のエッセンスを伝え残すものとして伝承されました。
堺で確立された茶の湯の文化とは、人間関係を構築する文化です。つまり、茶室のにじり口が狭いのは、武器(刀)を持っては入れないという意味で、茶室は完全に安全な空間として設計されました。湯のみを、全員の前で回し飲みするのは、茶に毒が入っていない証拠です。宴会のもてなしの論理やエッセンスが凝縮されている茶室という空間に、彼は大いに感動しました。
ヨーロッパ人は、何かあれば教会で神と対話することで収拾しようとしますが、アジアは神の代わりに近所づきあいや人間関係を大事にした。これは儒教の教えも影響していたと思われますが、ロドリゲスは「自分たちとは哲学が違う」と実感したようです。
ロドリゲスの記録には、日本人の行儀作法が驚嘆や憧れをもって事細かく紹介されています。ガラクタに見える茶道具に一千両をつぎ込むこの国の人は、ヨーロッパ人がアメリカ新大陸から持ち込むしかない金や銀も持っている。まさに黄金の国ジパングを見る思いだったでしょう。その日本の文明を吸収しようと、多くの外国船が日本にやってきた。窓口になったのが堺です。
その堺市では現在、千利休が残した茶の伝統文化を町のアイデンティティにしようと、小学校で茶の湯を体験させています。子どものときに教わると、一生身に付くでしょう。実際、親御さんからは「行儀が良くなった」と反響があり、市の教育委員会でも利休の哲学を全国に広げようと、文部科学省に提案しているところです。
茶は、文化としての茶と、商品としての茶の2つのとらえ方があると思います。これだけ資本主義社会が進展した中でも、なぜか日本では茶が「商品」になっていない。イギリスでは食堂に入っても茶はタダでは出てきませんが、日本ではタダで出てくるでしょう。角山先生は1963年にイギリスに留学され、帰国してから東京で店に入り、注文もしないのに茶が出てきたとき、改めて考えさせられたそうです。資本主義でもマルクス主義でも、すべての物品は「商品」になるのに、日本における茶とは何だろう、商品じゃなければ「文化」なのかと。
日本の食堂の店員が「いらっしゃいませ」と言ってお辞儀をして出すお茶に、利休の茶の哲学をなす「一期一会」「和敬清寂」が生きていると感じます。だからこの一杯の茶は「商品」ではなく、「茶の文化」「もてなしの文化」であるというほかない。これこそ西洋では見られない日本文化、アジア的価値の原点であり、大切にしていきたいと思います。(談)