杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

「見直そう地のモノ・地のヒト・ふるさとの価値」その1

2009-07-10 16:27:18 | しずおか地酒研究会

 昨日(9日)は、ホテルセンチュリー静岡で開かれた財団法人静岡観光コンベンション協会賛助会員の集い2009にお招きをいただき、『吟醸王国しずおか』パイロット版09編と、青島孝さん(喜久醉)と松下明弘さん(稲作農家)と私のトークセッションをお楽しみただきました。

 昨年10月にアイセル21で開いた金両基先生と青島・松下両名のトークセッション「国境を越えた匠たち」を聴講し、とてもよかったと褒めてくださったコンベンション協会事務局の佐野さんが、「ぜひうちの協会でも」とオファーをくださり、さらに協会として大吟醸会員に入会しますという夢のようなお話。パイロット版の試写会はこれまでもいろいろなところで実施し、募金箱で浄財を集めてくださった団体や、関心を持って入会してくださった個人の方も数名おりましたが、このようにまとまった資金提供をしていただいた例は初めてで、本当にありがたかったです! 佐野さんならびに静岡観光コンベンション協会のみなさま、助っ人に来てくれたカメラマンの成岡正之さん、心より感謝申し上げます。

 

 

 内容は、吟醸王国しずおかパイロット版09編(20分)鑑賞Imgp1166後、青島・松下・鈴木の3人による座談会、そして試飲ブースを設けての懇親会という流れ。参加者は小嶋静岡市長はじめ、コンベンション協会の役員を務める静岡を代表する企業経営者、観光関連業者、飲食店組合等の代表の方々170名。私たち3人は、相手によって態度を切り替える器用さを持ち合わせない鈍感人間なので、トークでは会場の目もお構いなしに日常会話の延長みたいにダラダラとしゃべってしまいましたが、懇親会で顔を合わせた静岡鉄道の酒井社長、静岡新聞の松井社長、田宮模型の田宮社長から「おもしろかったよ」と慰労していただいたときは、ありゃぁ、こんなスゴイ方々に聞かれてたのかぁとにわかにビビってしまいました(苦笑)。

 

Imgp1170

 乾杯のあいさつで酒井社長が「今日のトークセッションは、協会の総会議事の内容がふっとんでしまうぐらい面白くて、夢中になって聞きましたよ。今はもう頭の中が酒のことしかない(笑)。公務で中座された小嶋市長は大損したと思います。公務なんかよりよっぽどタメになる話でした」と大変なリップサービスをしてくださったりして…。後で静鉄関係者に「社長が人前であんなに褒めることなんて滅多にありませんよ」と言われ、歯がゆい気持ちで一杯でした。

 

 映画も、トークセッションも、内容にはもちろん自信があってご披露したわけですが、素晴らしい業績を上げたでもなく、メディアで注目されるスターでもなく、政治や経済を語るわけでもない市井の3人が、ふだんやっている仕事のことを、普段着の言葉で語り合ったことを、静岡を代表するお歴々の方々が面白いと評価されたのは、ある意味興味深いことでした。立場上、さまざまな会議や講演会に参加され、肩書に応じた議論をする方々にしてみれば、実体験を本音でしゃべる現役世代の話が、手垢の付いていない新鮮なものに聞こえたのかもしれません。また酒をテーマにしながらも、青島・松下両名の話が、人の生き方やモノを育てることの価値といった普遍的な内容だっただけに、多くの皆さんの共感を得たのでしょう。

 

 自分が壇上にいた事情で、会場の写真は撮れませんでしたが、トークセッションの内容はICレコーダーでばっちり収録しましたので、2回に分けてご紹介します。

 

 

 

◆見直そう、地のモノ・地のヒト・ふるさとの価値~静岡の酒造りに見る地域力

 パネリスト> 

 青島孝(「喜久醉」青島酒造 蔵元杜氏)

 松下明弘(稲作農家)

 鈴木真弓(しずおか地酒研究会主宰)

 

(鈴木)今日のこのテーマを決めるにあたっては、酒造りも農業も、地元に根を張って、何があっても地元から動かずに生き抜いていかねばならない仕事であり、観光に携わる皆さま方も地元に腰を据え、地元の魅力をじっくり掘り起こし、外に発信する仕事をされておられるということで、業種は違えども相通じるものがあるのではと考えました。青島さんも松下さんも若い頃は地元にいるのが窮屈で、外に飛び出し、地球の裏側でさまざまな経験を積み、ふたたび地元に戻ってきたお2人です。自分と地元地域とのかかわりについて、過去を振り返りながらお話しいただけますか?

 

 

 

(青島)私が育った時代は、大量生産・大量消費の中、地方の酒蔵が見過ごされていた時代で、小学校に上がって物心ついたころから、父から「ゆめゆめ造り酒屋を継ごうと思うな」と言われてきました。父も本当は他にやりたいことがあったようで、やむをえず家業を継ぎ、時代も時代で、このまま地方で酒造りを続けても意味がない、自分の代で華々しく辞めてやろうと思ったのでしょう。

 小さい頃から、朝早く24時間休みのない酒造りの厳しい現場を見ていましたから、早くこんな家は出たい出たいと思い続け、大学進学を機に東京へ出ました。東京へ出ると外へ外へと目が行き、バックパッカーで世界80か国ぐらい回りましたね。卒業したら世界を舞台に働く仕事をしようと、国際金融の道へ進みました。最初は国内の投資顧問会社に勤め、次いでニューヨークへ渡ってファンドマネーの仕事に就きました。

 

 

(鈴木)ハゲタカというドラマを観たとき、青島さんはこういう世界にいたのかと驚きましたっけ(笑)。

 

 

(青島)ヘッジファンドと聞くとハゲタカだの何だのと悪者イメージに思われますが、ちゃんと仕事している者もいまして(笑)、私はもちろん、ちゃんと仕事してました(笑)。

 実際、自分自身、生まれ育った土地から離れ、まったく文化習慣の違う世界に身を置いたとき、自分のアイデンティティとは何かを嫌が上でも考えさせられます。とくにニューヨークという街は自分の居場所を確保するのに大変なところでしたから、つねに暗中模索状態でした。

 あるとき、体を壊して1週間休んだんですが、自分がそれまでやっていたデスクに別の人間が入っていて、何の支障もなく仕事をこなしていた。グローバルスタンダードの世界とはそういうことなんですが、誰が担当しようと滞りなく物事が進む現実に、少しショックを受けました。

 デスクにしがみついて、一瞬一瞬の判断で8000億円ぐらいの資金を動かしていましたので、100200億が端数に見えてしまう。そんな金銭感覚にずっといると、日本人が本来大切にしていた、ひとつのものをじっくり育てることや、みんなのチームワークでモノを作るということの価値に改めて気づかされます。カネを稼ぐことはもちろん大切ですが、もっともっと大切なことがあるんじゃないかと。

 いろいろ思いめぐらしているうちに、実家で両親がやっている酒造りというものが、なにか愛おしいものに感じてきたわけです。

 

 

(鈴木)ニューヨークには何年滞在していたんですか?

 

(青島)つごう3年いましたが、パソコンとインターネットがあればどこでもやれる仕事でした。だからこそ、1つの場所で、そこでしかできない仕事を、しっかり地に足を付けてやることの価値が見えてきたと思います。

 

 

(鈴木)松下さんも、小さい頃は家業(農業)が嫌で嫌でたまらなかったそうですね?

 

(松下)昭和40年代、世の中は高度成長まっしぐら状態でしたが、地方の農家はさほど豊かではなく、じいちゃんばあちゃんおやじおふくろが必死で働いて、長男の自分も小さい頃から田んぼ仕事をやらされてました。小学校のときも、友達は休日にあちこち遊びに行くのに、自分は家の仕事に縛られ、児童虐待強制労働だ!と思うぐらい働かされた(苦笑)。農家を継ごうなんて気はさらさらなくて、高校進学の時は何の気なしに農業高校へ進んでしまいましたが、まじめに勉強するわけではなく、夜の活動に熱心でした(笑)。

 ただ、なんとなく10代の頃から、日本の社会の在りようにどこか矛盾を感じていて、22歳の時オーストラリアへ旅行したとき、町の雰囲気や人の営みにすごく余裕があって、それに引き替え日本という国は…とネガティブに考えるようになりました。

 23歳の時オートバイ事故をやって2か月入院したんです。同室にたまたま戦争体験者のおじいちゃんたちがいて、いろんな話を聞かせてくれた。昔の日本人はそんな覚悟で戦争に行ってきたのか・・・日本はおかしい国だと思っていたけど、実際、日本のことを自分は何も知らなかったんだと思い知られました。

 入院中に海外青年協力隊の記事を読んで、アフリカで農業指導する仕事があると知り、「このまま藤枝でグダグダするより、未知の国・未知の世界に行って自分を試してみたい」と思い、退院後、両親に黙って試験を受けました。アフリカに行くとバレたとき、母親はそんな危ないところへは行かないでくれと反対しましたが、父親は「行くなら覚悟していけ、途中で帰ってくるな」と送り出してくれました。顔は似てないけど高倉健みたいな寡黙で筋を通す親父だったんです(笑)。

 私が行ったエチオピアの村は、電気も水も、農薬も肥料もない、完全な自給自足の村でした。エチオピア農水省の農場があり、いろいろな作物を育てる指導をしに行ったのですが、教えたことは1割ぐらい。日本流の農薬や肥料の使い方、資材の組み立て方なんてまったく役に立たないからです。彼らは農薬がなくてもちゃんと作物を作りますからね。

 現地の人々にしてみれば「こいつ何しに来たんだ」と思ったでしょう。現地語がわからないとコミュニケーションもとれないので、とりあえずは猛勉強して、半年後には飲み屋のおねえちゃんを口説くぐらいの日常会話は出来るようになりました(笑)。

 

 

(鈴木)派遣先に他に日本人はいたんですか?

 

 

(松下)自分がいた村の人々は、日本人はおろか東洋人を観るのも初めてで、最初に自分を見ると「コーリアか、チャイナか」「タイかマレーシアか」と指さします。で、ジャパニーズだと言うと、態度が変わる。彼らが知っている日本といえば、ソニーやトヨタやパナソニックで、やたら経済発展した豊かな国と思われていたようです。

 あるとき、現地のイスラム教信者に「お前の神は誰だ?」「日本が豊かなのは日頃どんな教えを守っているせいだ?」と聞かれ、一応自分は仏教徒だと答えると「ブッダはお前に何を教えてくれたんだ」と聞き返す。…答えようがありませんよね(苦笑)。中には日本のことにやたら詳しい日本オタクみたいな奴がいて、家康や秀吉のことを聞かれたときは何とか答えられましたが、宗教の話になるとお手上げです。日本の日の丸を背負っていったのに、恥ずかしくていたたまれませんでした。

 

(鈴木)松下さんは、よく、エチオピアに行っても教えたのは1割ぐらいで、残り9割は向こうで教わってきたと言いますよね。

 

(松下)農業をやっている上で一番教えられたのは、生きることは食べることの原点です。人間は土から離れては生きていけない生き物です。とくに日本の衣食住を考えた場合、家は木材だし、障子や畳も植物が原料だし、着物もそう、食べるものもそう。海の生物にしたって、森の灌漑がきちんと機能してこそ生きられる。人間は本当に土に根が生えるものに生かされているんです。

 エチオピアの生活は決して豊かではありませんし、1か月の収入は3000円ぐらい。国内ではしょっちゅう内戦をやっていたので、予算がなくなると、農業支援に充てられていた予算まで軍事費にとられてしまう。自分が任された農場ではお手伝いを雇っていたのですが、彼らに払う賃金も出ないという。なんとか交渉して契約賃金の半分を確保し、残り半分は自分のポケットマネーで払ったぐらいでした。そんな環境の中でも人間が生きる原点みたいなものをとことん教えられました。

 

 青島孝くんはニューヨークという地球上でもっとも尖がっていた場所にいて、自分は地球上でもっとも凹んでいた場所にいたわけです。孝くんはそこで「自分の居場所やアイデンティティを探していた」と言いましたが、自分の居場所は、やっぱり故郷の藤枝だなと思いました。

 うちを含めた志太平野というのは、もともと江戸時代、大井川の河原だったところを開墾し、平地にして田んぼを1枚1枚つくり、大井川の土手を築いて川の流れをせき止め、また開墾して田んぼをつくった。ものずごい年月をかけて田んぼを作ってくれた先祖たちのおかげで、こうして農業ができるわけです。

 エチオピアを経験したことで、今、自分がこんなに恵まれた環境で農業ができることが、つくづく幸せだと実感しています。バトンリレーみたいなものですね。先祖から引き継いだバトンを親が400メートル一周回って自分に渡し、自分も今ちょうど200メートルぐらいは走ったかな。息子が今度高校受験ですが、彼にバトンが渡せたらと思います。

(つづく)