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おはようございます!中小企業診断士のあお先生こと青木公司です。
本日は宮崎吾郎氏との思い出についてです。
宮崎吾郎氏の父親は「宮崎駿」
その名前、実績は紹介するまでもないと思います。
高校時代、たまたま、じゃんけんで負けて、図書委員なるマニアックな委員を申し付けられた僕はそこで、宮崎吾郎氏と出会いました。
確か宮崎先輩は確か、登山部に入っていたと思います。そして図書委員会の委員でもありました。
僕が暇なとき、図書館に行くと、よく先輩もいて、勝手に史書室のまでもぐりこんで、いろんな話を聞きました。
最初はかの有名な宮崎駿の息子さんとは知りませんでした。
今は映画、アニメには特別な造詣を持つ僕ですが、当時は特別アニメファンでなかったので、まだ、風の谷のナウシカ発表前の宮崎駿という名前を知りませんでした。
(もちろん、ルパン三世カリオストロの城、未来少年コナンは知っていたので、それらの監督といわれれば、わかったと思います)
宮崎先輩も父親の話をすることはまったくありませんでした。
また宮崎先輩は漫画研究会などにも属しておらず、当時、特にアニメの話などもしてなかったと思います。
ただ、当時、斬新な仮面ライダーやウルトラマンの二頭身の挿絵みたいなのをふざけて描いたりしていて(今、そういうキャラクターをよく見るが、当時は全く見たことがないオリジナリティーの高いものだった)、それが、ものすごくすばらしいと思いました。
今、考えれば、宮崎駿の息子といわれれば納得の実力だったと思います。
宮崎先輩は、当時から独自の世界を持った人で、思慮深く、でもちょっぴりシニカルな面白さも持った人でした。
高校生らしい軽い人でなく、ぐっと信念を持った人だったと思います。
その点は父親の血筋、薫陶もあったのかもしれません。
僕が覚えている宮崎先輩らしいエピソードにこんなものがあります。
宮崎先輩が大学入試で共通一次試験を受けたとき、横浜国大はおろか、一ツ橋大学もねらえる高得点を取っていたにもかかわらず、200点近く、低い点でも受かる信州大学を選んだのです。
僕は本当に度肝ををぬかれ、先輩に質問しました。
「なぜ、そんな高得点をとって、超一流大学を狙えるのに、偏差値的に大きく落ちるところにいくんですか。もったいないじゃいですか。」
そうすると宮崎先輩は、穏やかに笑みを浮かべてこういいました。
「信州大学には俺のやりたい学科、教わりたい先生がいるんだよ。」と。
当時の僕は、他の周りの高校生と同じで、偏差値、一流大学に行き、一流の仕事につくのが一流の生き方だと思っていたので衝撃を受けました。
「大学は偏差値でいくのではなく、学びたい学問、先生で選ぶものなのか。」と
今、考えると当時から確固とした座標軸を宮崎先輩はもっていたのだと思います。
当時、「お父さんのお仕事を継がないのですか」と聞いたことがあります。
当時は宮崎五郎先輩は「アニメの仕事をすることは全く考えてないよ」と言っていました。
卒業した宮崎吾郎先輩とお会いしたことはありません。
宮崎先輩は、その後、信州大学で建築関係の知識を学び、自然との共生を目指す建設コンサルタントとして活躍。
そして、同じコンセプトのジブリ美術館の立ち上げにかかわり、ジブリ美術館の館長を勤めた後、衝撃のアニメ映画デビューを「ゲド戦記」で果たし、2作目の「コクリコ坂」も出しました。
今後に期待の声も多々ある中、「親の七光り」とか心無い中傷も受けているようです。
しかし宮崎先輩は高校時代から確固とした座標軸を持ち、それに基づいて行動してきた男です。
宮崎先輩が偉大な父の後を結局追いかけることになったのも秘めたる座標軸に沿ったものであるに違いないと確信しています。
これからも宮崎先輩は、偉大すぎる父宮崎駿とは別個のポジションをアニメ界で構築していくと思います。
僕はこれからも応援しています。
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本日は宮崎吾郎氏との思い出についてです。
宮崎吾郎氏の父親は「宮崎駿」
その名前、実績は紹介するまでもないと思います。
高校時代、たまたま、じゃんけんで負けて、図書委員なるマニアックな委員を申し付けられた僕はそこで、宮崎吾郎氏と出会いました。
確か宮崎先輩は確か、登山部に入っていたと思います。そして図書委員会の委員でもありました。
僕が暇なとき、図書館に行くと、よく先輩もいて、勝手に史書室のまでもぐりこんで、いろんな話を聞きました。
最初はかの有名な宮崎駿の息子さんとは知りませんでした。
今は映画、アニメには特別な造詣を持つ僕ですが、当時は特別アニメファンでなかったので、まだ、風の谷のナウシカ発表前の宮崎駿という名前を知りませんでした。
(もちろん、ルパン三世カリオストロの城、未来少年コナンは知っていたので、それらの監督といわれれば、わかったと思います)
宮崎先輩も父親の話をすることはまったくありませんでした。
また宮崎先輩は漫画研究会などにも属しておらず、当時、特にアニメの話などもしてなかったと思います。
ただ、当時、斬新な仮面ライダーやウルトラマンの二頭身の挿絵みたいなのをふざけて描いたりしていて(今、そういうキャラクターをよく見るが、当時は全く見たことがないオリジナリティーの高いものだった)、それが、ものすごくすばらしいと思いました。
今、考えれば、宮崎駿の息子といわれれば納得の実力だったと思います。
宮崎先輩は、当時から独自の世界を持った人で、思慮深く、でもちょっぴりシニカルな面白さも持った人でした。
高校生らしい軽い人でなく、ぐっと信念を持った人だったと思います。
その点は父親の血筋、薫陶もあったのかもしれません。
僕が覚えている宮崎先輩らしいエピソードにこんなものがあります。
宮崎先輩が大学入試で共通一次試験を受けたとき、横浜国大はおろか、一ツ橋大学もねらえる高得点を取っていたにもかかわらず、200点近く、低い点でも受かる信州大学を選んだのです。
僕は本当に度肝ををぬかれ、先輩に質問しました。
「なぜ、そんな高得点をとって、超一流大学を狙えるのに、偏差値的に大きく落ちるところにいくんですか。もったいないじゃいですか。」
そうすると宮崎先輩は、穏やかに笑みを浮かべてこういいました。
「信州大学には俺のやりたい学科、教わりたい先生がいるんだよ。」と。
当時の僕は、他の周りの高校生と同じで、偏差値、一流大学に行き、一流の仕事につくのが一流の生き方だと思っていたので衝撃を受けました。
「大学は偏差値でいくのではなく、学びたい学問、先生で選ぶものなのか。」と
今、考えると当時から確固とした座標軸を宮崎先輩はもっていたのだと思います。
当時、「お父さんのお仕事を継がないのですか」と聞いたことがあります。
当時は宮崎五郎先輩は「アニメの仕事をすることは全く考えてないよ」と言っていました。
卒業した宮崎吾郎先輩とお会いしたことはありません。
宮崎先輩は、その後、信州大学で建築関係の知識を学び、自然との共生を目指す建設コンサルタントとして活躍。
そして、同じコンセプトのジブリ美術館の立ち上げにかかわり、ジブリ美術館の館長を勤めた後、衝撃のアニメ映画デビューを「ゲド戦記」で果たし、2作目の「コクリコ坂」も出しました。
今後に期待の声も多々ある中、「親の七光り」とか心無い中傷も受けているようです。
しかし宮崎先輩は高校時代から確固とした座標軸を持ち、それに基づいて行動してきた男です。
宮崎先輩が偉大な父の後を結局追いかけることになったのも秘めたる座標軸に沿ったものであるに違いないと確信しています。
これからも宮崎先輩は、偉大すぎる父宮崎駿とは別個のポジションをアニメ界で構築していくと思います。
僕はこれからも応援しています。
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